佐高少年の灰色景色


   満員電車

 俺は人混みが大嫌いだ。
 いや、どれだけ混雑してようが、駅の改札前とか縁日の出店通りみたいな、それぞれが好きなほうを向いてごそごそ動いてる状態ならまだ良い。
 こういうラッシュ時の地下鉄やら、エレベーターやら、プライベートもなにもかも無視して密閉空間に腸詰のごとくぎゅうぎゅう押し込まれた挙句、自分の息すら気にしなきゃならん状態で放置されるのが嫌だって言ってるんだ。
 今日は学校の音楽鑑賞会。学校が市内のどでかいホールを貸し切って、生徒にクラッシックだかジャズだかを延々聞かせる日だ。もちろんそんなかったるいモンに出たがる生徒はいないが、出席だけはきっちりとられるから、行くだけ行って爆眠するほうが賢い。俺もそんな一人だ。
 そんなわけで、俺は今、慣れない電車でオッサンとOLと遠距離通学の学生にぎしぎしギシギシ圧迫されている。前から後ろから右から左から。おしくらまんじゅうだってもうちょっと油断やら隙やらがあるもんだが、ここはそんな甘ったるい戦場ではない。
 百戦錬磨のオッサン達に、俺は完全に気圧されていた。相手は毎朝これに耐えてきた猛者だ。学校が近所で自転車どころか歩き通学の俺は、なすすべなく縮こまる。
 田舎にいた頃は町へ行くのにしょっちゅう電車に乗っていたが、こんなに混むことはなかったな。……単線だったが。
 望郷に思いをはせつつ、シャカシャカ音楽を聴いてる学生をちらっと見遣る。何を思われたのか、大げさに怯えられて音漏れが消えた。
 それを見て、きしし、と隣の総葉が笑う。
 こいつは俺のクラスメイト。中学からの腐れ縁だ。長身で俺よりも頭一つデカイため、満員の車内でもヤツ一人息がしやすそうだった。コイツの前では絶対禿げたくないと思う。
 一応俺の名誉のために言っておくが、総葉と待ち合わせをしてきたわけでは決してない。
 たまたま駅で会っただけだ。それも最初は俺が無視していたのを、コイツが大声で恥ずかしいあだ名を連呼するものだから、黙らせるために渋々連れ立っていくことになっただけで。
「コトリちゃん、目つき悪すぎー」
 楽しげに目を細めて、総葉がその不愉快なあだ名を口にした。
 俺の名前は佐高 小時。もともとどことなく女々しい名前で気に入らないのだが、コイツにこんな不名誉なあだ名を付けられる原因になったかと思うと、死んだばあさんを恨んでも恨みきれない。大体、孫に寿命の短そうな名前を付けんな。いくら爺さんが長時とかいう名前で早死にしたからって、これはないと思う。
 いっそう機嫌の悪くなった俺は、ふと視線をやった先を見て、一瞬、眉をしかめた。
 小柄な女子高生が人の間で潰されそうになりながら立っていた。俯いた顔は後ろを向いていて、どんな表情をしているのかは分からない。
 だがそれゆえに、俺からは彼女からでは見えないものが見えた。
 綺麗に折り目のついたプリーツスカートに添えられた、手。
 ゴツイ男の手がスカートの上からそうっと彼女を撫でている。
 おいおいおい。
 俺は呆れてその手の持ち主を見遣る。いい年して何やってんだ。抑えの効かない若造じゃあるまいし、と青春真っ盛りの高校生の身分で思う。
 周りだって気付いてるだろうに、無視か。顔背けてんのはわざとなのか。立ちながら寝た振りしてんのか。ほー。
 俺の中で何かイライラしたものが立ち昇ってくる。
 そもそも本人も黙ってされてんじゃねぇ。「痴漢」って叫べば良いだろう。その手掴んで吊るし上げにしてやれよ。というか振り向き様に一発――
 つらつらとそんなことを思っているうちに、痴漢の手がスカートの中へ潜り込んだ。
「ちょっと、オッサン」
 なにげなく投げられた言葉に、場の空気が凍る。
 冷めた目で相手を見下ろしていたのは総葉だった。口の軽いコイツは、何でも口を出さずにはいられないらしい。
 だが。
 俺は口より先に、手が出るタイプだ。
 ゴッと嫌な音がして、振り向いたオッサンの顎にエルボーが決まる。
 そのままオッサンとその後ろのオッサンが将棋倒しになりそうになるが、ぎりぎりでせき止めたようだ。
 総葉がぽかんと口を開けて「またやっちゃったの……」と呟いたが、無視。
 俺は顎をさえて態勢を立て直したオッサンと睨み合っていた。
「い、いきなり何をするんだね。私が何かしていたとでも言うのかね」
 さっそくごまかしか。
 バレたらバレたで保身に走る男にイラつく。『触りたかったんだから触った』とでも言えばまだ可愛げがあるだろうに。そんなことを言ったらもう三発はお見舞いするが。
 周りのヤツラもこの期に及んで無視か。てめえら見てただろ。関わりたくないわけか。ほー。そうですか。ほー。
 その上電車はいつまで経っても駅に着かない。俺のイライラは限界に達しようとしていた。
 うっかり手が出たせいで痴漢の現行犯が押さえられなくなった自分にもムカつく。狙うなら手だろ。ツラ狙ってどうすんだ。
 黙っている俺をどう思ったのか、オッサンが強気に出た。
「何だその目は。文句があるなら」
「ソイツの目つきが悪いのは仕様ですよ、田中さん」
 さらっと、製品の不備を告げるように総葉が口を挟んだ。
 名前を呼ばれてオッサンがぎょっと相手を見上げる。
 それすら受け流し、総葉は小動物のように怯えて小さくなっていた女子高生にへらりとゆるい笑顔を送った。
「おじょーさん可愛いね。これあげる」
 まるで携帯の番号を渡すような仕草で、人を掻き分けて総葉が手を差し出した。
 それを見て顔色を変えたのは、オッサン。
「私の免許証!?」
「それからオッサン、落し物。教えてあげようとしたらツレがぶつかっちゃってゴメンナサイ。多分悪気はないから許してね。偶然だから」
 「多分」と「偶然」を強調して、へらへら笑う総葉の手には、男物の革財布が握られていた。
 オッサンが呻くように引きつった声を絞り出す。
「ス、スリだ……!」
「やだなあオッサン、アンタが落としたんでしょ? その子に熱い視線を向けてて、気付かなかっただけで。ま、向けてたのは視線だけじゃないけど」
 そうして総葉がくすりと笑う。
「財布に免許証を入れるのは良くないですよ。別にしてたほうがいい」
 こういう時、総葉は輝く。真っ黒くテカテカと。
 総葉がオッサンに財布を押し付けた時、電車の扉が開いた。そのまま満面の笑顔で女子高生とおっさんを押し出し、ヤツは駅員に思いっきり手を振る。
 それから女子高生の耳元でそっとささやいた。
「あとは自分でできるね。頑張れ」
 楽しげな笑顔でさっと身を引くのと同時、扉が閉まった。ガラス窓の向こうで女子高生が目を丸くして、泣き出しそうな笑顔で何かを応える。
 電車は何事もなく動き出し、規則正しい振動が駅からの距離を伝えた。
 妙に緊張した雰囲気を漂わす車内で、総葉は一人リラックスして鼻歌を歌う。
 嫌な具合に嫌なヤツだが、この度胸は見習いたい。俺は周りから突き刺さる視線に耐え切れそうもなく、風船のように弾けて萎めたらと珍しく気弱なことを思う。
 次の駅に着くまでが、地獄のような時間だった。
「じゃ、行こっか」
 目的地に着き、総葉が後ろも見ずに電車を降りた。
 続こうとした俺だが、一瞬の油断で逆流してくるスーツの群れに押し返される。もみくちゃにされているうちに、発車を告げるベルが鳴った。やべぇ。
 慌てて人を掻き分けようとしたところで、ふと気付く。足が重い。
 自分の足を見下ろして絶句した。
 床から生えた手が、俺の脚をしっかりと掴んでいたのだ。
 プシューッと気の抜けた音がして、扉が閉まった。明らかに降りそこねて、背中に視線が突き刺さる感触がした。
 ……なるほど、何も言えなくなるのも頷ける。
 俺は心からの同情とともに、女子高生に同意した。
 痴漢は、犯罪だ。
 そうしみじみ感じつつ、俺は自由な片足でその手を踏み潰した。



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