佐高少年の灰色景色


 感覚

 上着のポケットに手を入れたら、鍵がなかった。
 嫌な予感を覚えながら、念のためズボンのポケットも探る。鞄もあさった。が、どこにもない。定位置に無い時点で想像はついていたが。
 鍵がないということは、家に入れないってことだ。
 いきなりどっと疲れた気分になる。親が帰ってくるのは今日も十時を過ぎるだろう。それまで喫茶店で粘るか、コンビニで週刊誌でも立ち読みでもするか。どっちにしろ、精神力と忍耐力が無駄に必要だ。俺は小さい頃から鍵っ子だったが、今まで一度だって鍵を失くしたことはなかった。ちょっとした自慢の一つだったのに。
 うんざりして、開かない扉を蹴ってみる。足が痛いだけだった。
「何やってんだか」
 自分に呟きかけた言葉を、先取りされた。
 俺はいいかげん慣れた振りをして、ブロック塀の上を振り仰ぐ。
 傾きかけた日差しの中、猫が俺を見下していた。
 ヤツは塀の上ですらりと背筋を伸ばして座っているのだが、その目つきがどう見ても見下ろすではなく見下すだ。
 むかつく。動物虐待は趣味じゃないが、首根っこを引っ掴んで振り回してやりたくなる。
 そこまでする気はなかったが、威嚇の意味も込めて素早く手を出すと、猫はひらりと反対側へ飛び降りた。結構な高さから落ちたはずなのに、着地音がしなかった。
 不思議に思って見ていると、門からひょっこり覗く顔が二つ。
 どことなく日本人離れした顔立ちの女の人と、その肩に乗った猫だった。
「あ、コトくんだ」
 その女の人が、ぱっと花が咲いたような笑顔で話しかけてきた。この呼び名には覚えがある。というか、この人自身に見覚えがある。
 近所に住む、いとこのお姉さん――玲奈さんだ。
 合点がいくのが遅かったのは、彼女の雰囲気がかなり変わっていたからだった。就職してから学生時代ほどのケバケバしさはなくなったものの、それでも華のある人だったのに、今はずいぶんと落ち着いた格好をしている。シックな、どこのものとも知れないブランドのスーツに、暗い栗色のロングヘアー。彼女の地毛なんて、何年ぶりに見ただろう。俺と同じクウォーターだが、玲奈さんの髪色は日本人でも十分にありえる色合いだ。実はかなり羨ましい。
 彼女が変わった一番の原因は、化粧がかなり控えめになっていることだった。高校時代の奇抜な化粧には親族揃ってハラハラしていたものだったが、これなら安心できる。俺は久々に会った孫がえらく大人びていた時の爺さんみたいな心持ちになった。爺さんになったことなどないが。
 俺の感慨など知らず、玲奈さんは人好きする笑顔で話しかけてきた。
「久しぶりだねぇ。最近顔見ないからどうかと思ってたけど……コトくんはコトくんだねぇ」
 何を意味不明な。
 こう呼ばれると妙にこそばゆいが、コトくんとは俺のことだ。佐高小時というちょっと女々しい名前に生まれついたせいで、時にはコトリなんて呼ばれるが、玲奈さんは普通に省略してくれている。
 いきなりの独り言で反応に困る俺など関係なく、玲奈さんは勝手にうんうん頷いている。相変わらずなのはそっちだ。
「そうそう、最近このコ、ここに入り浸ってるみたいだけど、迷惑かけてない?」
 肩に乗った猫をひょいと掴んで、俺に突きつける玲奈さん。猫の野郎が面と向かってガンを飛ばしてきて、俺は思わず目を逸らした。迷惑も何も、コイツはここでひたすら昼寝をかましてるだけなんだから、人畜無害もいいとこだ。
 首を振って応える俺を、玲奈さんは見ちゃいなかった。この人もまったくマイペースだ。
「あら」
 玲奈さんは壁に隠れた道路の先を見て、意外そうに眉を上げている。
 つられてそちらを覗き込むと、道の先に総葉がいた。ひょろりとでかい立ち居姿が、遠くからでも目立っている。
 ヤツは俺を見つけると、いかにもバカっぽい笑顔で足早にこっちへ向かってきた。
「おっまたせー、こっとりちゃんっ」
 てめぇなんぞ、待っちゃいねぇ。
 思わず言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。総葉がぶんぶんと振っているでかい手に、俺の鍵が握られていたからだ。握り拳の端からブサイクなひよこのキーホルダーが飛び出しているから、間違いない。
「お届けものでーす。悪いねー、持って帰っちゃって」
 やっぱり犯人はお前か。
 今までにも何度か、総葉が俺の持ち物をパクっていったことがある。善意で貸してやった消しゴムに始まり、傘や体操服、果ては空の弁当箱までが、奴の鞄に紛れていた。奴も俺もそこまで迂闊というわけでもないのに、どうしてこうも間違えるのか。いいかげん慣れつつある現象だが、どうも腑に落ちない。
 奴もまたそう思うのか、総葉はぽいと鍵を投げて渡し、首を大げさに捻った。
「でもなぁ、何で持ってっちゃったんだろ?」
 奴が言うには、何故かはわからないが触った覚えのない俺の鍵が、奴の上着のポケットに入っていたんだそうだ。気付いたのは家に着いてからで、面倒だから明日渡すかなと思っていたところ、夕方の天気予報が大雨だったため、渋々家を出たと言う。
「一瞬さあ、軒下で震えるコトリちゃんとか想像しちゃってー、って、マジありえないよな」
 自己ツッコミするくらいなら初めから言うな。気分が悪いわ。
 俺の荒んだ荒んだ心境などいざ知らず、総葉はバカっぽい笑顔で玲奈さんの方を向いた。
「でも親切はするもんだな! 偶然にも玲奈さんと会えちゃったし。玲奈さん、ちょっと見ないうちに一層綺麗になりましたねー」
「歴くん、久しぶりだね。ほんとにもう、いつもお上手なんだから」
 さらっと俺を無視して、さも旧知の仲ですと言わんばかりの会話を始める二人。待て、なんでお前らが知り合いなんだ。
 総葉の人脈の広さにぎょっとする俺だったが、それは一人じゃなかったようだ。玲奈さんの肩の上で、猫も怪訝そうな顔をしている。
「そっか、歴くん、コトくんと同い年なんだよね。お友達だったんだ、知らなかった」
「や、コイツとは単に中高とクラスが一緒でーって、あれ、姉貴から聞いてません?」
「うーん、最近茅、忙しいみたいでねぇ」
「ああ、日々死んでますね」
「ねー。社長って大変みたいね」
「さあ。あそこは特別なんじゃないですか」
 俺と猫を置いてけぼりにして、二人の会話はどんどん不明な方向へ進んでいく。状況が分からない俺へ、玲奈さんがやんわりと補足してくれた。
「コトくん、茅のこと覚えてない? 総葉茅っていって、私の同級生で歴くんのお姉さんなんだけど……」
 そう言われれば、この街に来る前だったか来てすぐだったかに、一度玲奈さんの友達と顔を合わせたことがあった。が、いまいちピンとこない。
 総葉には姉が二人いる。しかもどちらもかなり年が離れていて、玲奈さんの同級といわれてもどっちのことだか分からない。一人は確か、ものすごい印象的な美人だったはずだが。
「次姉だよ、次姉」
 横から総葉が助け舟を出す。ああ、あのうるさい――もとい、総葉似の方の。確か今は、S.S.社の二代目社長だったか。
 総葉の下の姉貴は見た目よりも全体の印象が残るタイプだ。今だってなんとなくは分かるものの、詳しい目鼻立ちはすっかり思い出せない。とにかく、奴の兄弟の仲で一番総葉に近い性格だったことは覚えている。
「いけない、そろそろ戻るわね。じゃあコトくん、またこのコのこと、よろしくね」
 俺が知ったかぶった顔をしているうちに、玲奈さんは猫を連れて帰っていった。
 名残惜しげにいつまでもぶんぶんと手を振っていた総葉が、玲奈さんの影が見えなくなった途端、ふっと意味深な笑い方をした。
「玲奈さん、綺麗になったなぁ。ありゃ、男できたな」
 いきなりどこのおっさんだ、お前は。
 白い目を向ける俺を無視して、総葉は一人で盛り上がっている。
「ああ玲奈さん綺麗だなー、目の保養だなー、うちの長姉には負けるけど」
 コイツ、何気に身内自慢を混ぜやがった。奴のこういうところはどうかと思うが、事実なんだからしょうがない。
 総葉の上の姉貴は上品な美人で、人の顔に興味のない俺でも一度見ただけで忘れられないつくりをしている。とっくに結婚していると聞いて納得し、二人の子持ちだと聞いて耳を疑ったものだ。
 確かにお前の上の姉貴は美人だと同意してやると、総葉はうんうんと頷く。
「だよなーだよなー! ……でもなぁ」
 しかし、急に奇妙な半笑いを浮かべ、ヤツは遠くへ視線を投げかけた。

「ウチじゃ三兄の方が、更に上をいく美人なんだよ」

 ……怖いことを言うな。
 総葉の固まったような半笑いに寒気を覚えて、俺は普段から低いテンションが更に下がるのを感じた。総葉の三番目の兄貴には会ったことがないが、とりあえず、男としては見ないほうがいい気がした。
 そこへ、黄昏時の薄暗い中、家の前を横切る人物がいた。
 上品であでやかな着物が、ぱっと目に飛び込む。
 彼女はゆっくりとした足取りで俺たちの前を通り過ぎ、そのまま道なりに進んで去っていった。
 意図したわけでもなく、二人揃って無言になって、彼女の後姿を目で追った。
 その人物が完全に見えなくなると、総葉がぽかんとした顔のまま、わなわなと口を開いた。
「え、今のナニ! 誰!? スッゲー美人!!」
 ヤツはそのまま追いかけていきそうなくらい上がり切ったテンションで俺に詰め寄ると、大声でギャーギャー騒ぎ出した。
「すっげ、すっげー着物! あんな美人見たことないし! 芸能人かあれ!?」
 この興奮はそう簡単に収まりそうもない。
 だが、俺は奴を冷めた視線で見るばかり。
 なぜなら、さっき家の前を通り過ぎたのは、どう見ても百歳を越えたシワシワの婆さんだったからだ。

 とりあえず、これからは奴の言うことを鵜呑みにしないようにする。



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