佐高少年の灰色景色


 布団

 今日も今日とて、猫が日向ぼっこをしている。うちの塀の上で。
 すっかり暖かくなったため、猫はとっくに春仕様だ。短い灰色の毛をぺったりと寝かせ、尻尾まで丸めてすやすやと寝入っている。
 こいつはここで一日を過ごし、夕方に家の前を通る飼い主と一緒に帰っていくのだが……。
 良く考えたら、家で待ってればいいんじゃないか。
 最近やっとそのことに気付いて、俺は玄関の門から猫を見ていた。日曜の昼飯をコンビニで調達してきた帰りのことだった。
 俺の無言の訴えを聞いたのだろうか。猫がさも鬱陶しそうに尻尾を振って目を開けた。紫色の瞳孔が縦に細くすぼまる。
 にらみ合うこと、しばし。
 俺はしばらく迷いに迷って、猫へと声をかけた。
「……お前、自分の家で待てばいいだろう」
 猫相手に何を、と自分でも思う。
 でも、コイツはただの猫じゃない。
 ヤツは紫色の瞳を半眼にして俺を見上げてきた。
「あのマンション、昼間はうるさいんだよ」
 高く澄んだ少年の声。
 独り言で終わればいいと思っていた俺の期待を裏切って、猫は鼻で笑うような音を立てた。
 そうか。やっぱりお前は喋るのか。
 分かっていたとはいえ、胡散臭すぎる事実を突きつけられて、俺は黙り込む。
 更に数十秒が経過した。
「……そうか」
 それだけ言うのに結構勇気を使ったんだ。これでも。
 猫はもうそれに答えるような真似はせず、塀の上でくるりと丸まって目を閉じていた。



 猫の言葉が気になったわけじゃないが、そのあと従姉の住むマンションの前を通ることになった。
 ヤツの発言が気になったんじゃなくて、タバコが切れたからだ。
 中学のときに田舎からこっちへ出てきて以来、ごくたまにだが、タバコを吸う習慣がついた。一服ついて、最初の空気を吸い込んだときだけ、空気が美味いと思える。こっちの空気はあまりに不味過ぎた。
 おかげで身長が予定よりも伸びなかった気はするが……気のせいということにする。祖母の西洋人の血が入っているおかげで、日本男児の平均はクリアしているのだから。
 そんなわけで、タバコを買いにマンションの前を通った。
 でも、うるさいものなど何もなく、辺りは静かな午後の平穏に満たされていた。
 マンションを見ても、特別どうということはない。ベランダに洗濯物が干してあったり、観葉植物が並べてあるぐらいで、特別騒音は……ああ、小さな子供が騒いでいるか。
 この程度であのふてぶてしい猫が逃げ出すとも思えなかったが、仕方ない。そのまま通り過ぎた。
 マンションをもう少し行った先にある自販機で、マイルドセブンを買う。色々試したがこれが一番好みだ。
 早速一本を口の端に咥え、ぶらぶらとした足取りで家へ向かった。
 途中、マンションの前を通る。
 口の端から、まだ長いタバコがポロリと落ちた。

「アッ、い、イタ! 痛いってば、ヤ、ヤメテェェェエエエ!!」

 とんでもない絶叫が耳に飛び込んできたからだ。
 ぎょっとして辺りを見回すも、人がのた打ち回っている様子はない。
 前方から走ってくる子供たちはキャーキャーうるさいが、こういう類のものではなかった。後ろを歩いてくる柴犬を連れた老人も、のほほんと歩きながら犬相手に声をかけている。いたって平和な住宅地の光景だ。
 しかし、声はどんどんエスカレートしていき、もはやどこぞの地下室で拷問を受けているような、哀れみを帯びたものになっていた。相当痛そうだ。
 そうして見渡すこと数十秒。やっとのことで、さっきから続くパンパンという音に気付いた。
 見上げる。
 同じようなベランダが並ぶマンションの一角で、おばちゃんが布団をシバいていた。いや、叩いていた。
 ピンク色の布団叩きを振り回し、埃を叩き出している。ここからでも埃が光に透けてキラキラと輝いて見えるので、相当な量の埃を溜め込んでいたらしい。
 おばちゃんは力の限り布団を叩く。叩く。それはもう容赦なく。
 その度に布団は大声でわめき散らすのだが、おばちゃんには布団の懇願など聞こえもしない。ひたすらに叩く。
「ちょ、お待ちを、あああッ、お許しを〜〜! お代官様〜!!」
 お前は時代劇のヤラレ役か。



 即行で見なかった振りをして、俺は足早に通り過ぎた。
 声が聞こえなくなってから、新しいタバコを取り出す。
 白煙を胸いっぱいに吸い込んで、溜息と一緒に吐き出した。煙で目の前が薄っすらと曇る。すぐに風に乗って散り散りになった。
 ……あえて何も言う必要はないだろう。
 あれで結構、幸せそうだったからだ。



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