唐突に目を覚ました。
 それで今まで眠ってた、もしくは気絶してたってことが分かった。
「レナ? チガヤ?」
 二人ともすぐ脇にいた。僕と同じように気絶していて、背を丸めて眠ってる。
 ここは初めにレナが僕を呼び出した場所。魔方陣が描かれているし、本棚もある。祭壇があって、その向こうには。
「レナ、起きてよ。ほら」
 隣で寝てるレナの肩を掴んで揺さぶった。起きそうにない。
 と、その手に触れた。
 冷たい。
 この部屋を出てからずっとレナと手を繋いできた。緊張してたのか、手は温くて汗ばんでて、早く放してくれるといいなって思ってた。
「やだなぁレナ。すごい冷え性だ」
 手を掴んで、硬く握る。力が入ってないから、なんだかぐにゃぐにゃしてる。
 ねえ。人は寝てる時、手は暖かいものなんだよ。
「レナ、レナってば。……ねえ。ねえ!」
 息は。呼吸は。脈は。
 嘘だ。だって、さっきまで。
 手当たり次第に彼女に触れる僕へ、あざ笑うような声がかけられる。
「そのぐらいにしておいたらどうだ。見苦しい」
 地を這う獣のような、擦れた男の声だった。
 ああ、そうか。
 唐突に理解した。
 呆然とした意識の中、ただ目だけを見開いて、そいつを見つめた。
「いつから『そこ』にいた」
 自分の声がここまで低く押し殺されているのを、初めて聞いた。
「ミーナは。ミーナの魂は?」
「とうに」
 暗い部屋の中を、雲間の月が照らし出した。
 祭壇の上で低い体勢を保っている。四肢を落とし、いつでも飛び掛れるぎりぎりの体勢。張り詰められた筋肉のために、薄っすらと青みを帯びた銀灰色の毛筋が立ち上がっている。透明感のある青い瞳が、獰猛な内側を余さず呈していた。
 それは小さな、腕の中に納まるくらいの猫だった。
 甘えたような鳴き声が可愛くて、何度も抱き上げて柔らかな感触を楽しんだ。
 昔の話。レナが手を離さずにいてくれた時までの。
「どうしてマリアンヌを殺したの」
 それから目を離さず、抑揚のない声色で問いかけた。
 マリアンヌは死んだ。殺された。肉体も、魂も。
 可哀相な西洋人の少女。目の前で煙のように掻き消えた。その向こうから現れ、僕の足を撫でていったのは、他でもないこの猫だ。
 猫の口が薄く開く。漏れたのは傲慢な声と小さな牙。
「お前に余の在り処を知らせようとした。余はその時、目覚めてなお夢と現を行き来していた。お前に知れれば抵抗はできぬ」
「夢幻回廊は、お前が?」
 声が一段下がった。違う。冷えた。
「そうだ。お前をここから出すわけにはいかぬ。次なる余の器よ、余は魔の身を纏いてこそ、真の力を取り戻そうぞ」
 かつての王は苛立ちに渋面を浮かばせた。ぎしりと奥歯が鳴り響く。
「そう。余は覇者だった。総ての闇の上に立ち、総ての黒を率いた。余の下なら天とて打ち落とすことができる。だが、ほんの百を越えるばかりの昔、余はあろうことか人間によって召喚された。それも、不完全な召喚よ。余の体と魂は引き裂かれ、魂は魔方陣の中に取り残された。地に残された体は言わずともよかろう。人間は余の魂を封じるため、館に二重三重の封印を施した。余の魂の力を封じ、動きを封じ、意識を封じ、またそれを破った際に外へ出ぬよう、館そのものに出入り不能の強力な結界を張った。だがそれも人の業。百の時を経て少しずつ綻んでいった。そしてこの館は一度入れば二度と出ることは叶わぬ、魂の牢獄と成り果てたのよ。新たなる住人達のざわめきは余を揺さぶり、覚醒へと導いていった。そして時は訪れた。この小さな器が余の元へ舞い込んだのだ。肉体を持って!」
 長い長い語りは絶頂でもって締めくくられた。
 けれど、そんな話は半分しか聞いていなかった。レナ頬を撫でていたから。
 僕は彼女の手を放して、立ち上がる。猫へと視線を合わせた。
「お前は僕を、お前の器だと言った」
 自分の声が落ち着いていることを自覚した。奇妙な浮遊感。意識と体が乖離している。
 鋭い猫の瞳が楽しげに揺らめく。
「そうだ。その娘が余の惑わしに乗り儀式を行った。なに、余は大した事はしておらぬ。娘は自分の意思で行ったと思っておろうよ」
「なぜ、僕なんだ?」
 魔王の瞳が細く絞られた。全身を見定めるように睨め回し、舌なめずりをする。不快な音だった。
「この館で余は学んだ」
 ひらりと祭壇から飛び降り、柱の影と同化する。
「この世には二つの力がある。正の力と負の力だ。余は負の力で結界に抗ったが、結界は正の力で余に抗った。相殺するが定めだ。しかしお前は違う。二つの力が決して合わさることは無く、相殺もしない。もし、余がお前の肉体を得れば、余は更に正の力も得よう。お前にはその器がある。生憎、今は空のようだがな」
 二つの力。
 ああ、そういう言い方をするか。僕にとっては食料だけれど。
 普通の悪魔は負の感情だけで生きていける。でも、僕は人間の醜い感情と、甘く温い感情の二つを動力源とする。それはどちらも人間が発するエネルギーで、違いなんて微々たるもの。
 もともと僕らは概念なんだ。
 人間のイメージが作り上げた夢。そのうち、人間が倫理的に見て良いものを天使とし、悪いものを悪魔と呼んだ。天使は『善』、悪魔は『偽善』。『愛』と『情欲』。『勇気』と『無謀』。『正義』と『独裁』。『希望』と『妄想』。どちらも、元をたどれば同じものだ。
 それでも、人間が単純なうちはそれでよかった。
 やがて社会が成長し、人間の概念が増えていくと、僕らの存在もどんどん増えていった。今では『資本主義』を基にした悪魔や、『ニヒリズム』から生まれた悪魔なんてのもいる。僕の後輩だけどさ。
 けれど困ったことに、そういった新興の概念は善悪の判別が付かなかった。それはこれから決まっていくんだろう。
 それでも僕らは勢力の関係上、天使か悪魔に分かれなきゃならない。
 たくさんの論争があった。気が遠くなるほどの衝突を繰り返した後、天使達は少しでも悪の因子をもつ存在を、自分たちの枠組みから全て排除することにした。だから僕ら新参者は、全部悪魔ということになった。
 中でも僕は、人間の『憎悪』と『愛』を原動力にする、面倒くさい存在だ。
 どちらかが欠けてはならない。どちらも大事。だって、僕は。
「のう、ルネサンスの悪魔」
 『人間』そのものを概念として生まれた。これほど善悪を付け辛い存在なんて、他にない。存在そのものが混沌と言っても良いくらいだ。……カオスの悪魔は他にいるんだけどさ。
 僕にとって『愛』と総括される人間の感情は、害にはならない。でも、他の古い悪魔は違う。プラスのエネルギーが自身を打ち消して、弱ってしまうんだ。
 だから魔王は僕を狙った。
 全てを食らい、貪欲に成長する『人間』という概念を得るために。
「…………ッ」
 突然、僕の中で激情が生まれた。
 ぎりぎりと全身が痛む。激しい怒りが内側から体を破壊する。溜め込んだ憎悪が溢れそうだ。あとからあとから、無限に生まれ続ける。
 あんなもののために、僕は彼女達を死なせたのか? あの忌まわしい、『愛』なんてものが!
 憎悪は出て行かなかった。体中を駆け巡って、暴れまわっているのは分かる。練り上げられた憎悪は原型すら留めぬ力の塊になる。それが何か、もう分からない。
 それでも、僕は見た目上冷静に、それへ声をかける。
「最後に、一つ聞く」
 彼女の元から立ち上がり、一歩前へ踏み出す。
 激情と裏腹に、声も動きもどこまでも冷たく押し込められていた。
「なぜ彼女達を殺した?」
 低く、反動を溜め込むように。
「……ああ。腹が減っていた」
 投げやりな声。
 獣が影から飛び出した。



 見えない壁で弾き返したが、敵は素早く柔軟に攻撃の方向を変えた。
 右から左、頭上、もう一度左。疾駆する銀塊は、鋭い爪に負の力を込めて叩き込む。
 こちらも打ち落とすべく力を放つが、ニ瞬三瞬追いつかない。
 ニ度、三度のうちはいい。やがて回が重なるに連れ、疲労がぎしりと肩にのしかかってくる。足元を這い上がってくる。息があがる。体の中が、空になる。
 元々僕は自分を構成する力のうち、一方しか摂取できていない。何をどうやっても、愛だけは手に入れることができなかった。どれだけ誰を愛してみせても、それは所詮、本物じゃない。
 そして僕自身、そんなものは要らないと思ってた。
 半身が無かろうと生きていける。むしろ、悪魔としては正統だ。そんな言葉を言い訳にして、捜し求めもしなかった。
 誰からも得られないことこそが答えだった気がして、怖かった。
 今となっては、その怠惰が悔やまれる。
 完全に力が、経験が足りなかった。
 これが新参者の限界かと悟ったとき、様子を覗っていた猫が突然、吼えた。
 破壊された床の穴からいっそう闇が立ち上り、猫の体を漆黒に染め上げる。
 猫の体は完全に闇に溶け、形さえ留まらずに影の中で蠢いた。
 影に潜み、影から襲う。
 月明かりが猫の身を捕らえる時には、眼前に牙が迫っていた。
 避けようとして、足が何か柔らかいものに引っかかる。
 レナだ。月明かりに照らされ、いっそう蒼白に見える。

 ああ、レナ。

 右腕を噛みつかれた。だが、掴まえた。
 柔らかな胴体を掴みかけた時、右腕に激痛を感じた。焼けるような痛み。先程の激情と同類の、身を滅ぼす憎しみの業火。煮詰められた負の魂。
 体を侵食し、作り変えられる痛み。魂を注がれることがこれほどの苦痛を伴うとは。
 やがて痛みは腕だけでなく、全身へ行き渡っていく。
 べっとりとした闇が顔を這い、頭皮を覆う。皮膚から口内から、内へと向かって染み込んでいく。
 魂が汚される。闇に染まる。
 僕が、終わる。
 激痛で目も眩む中、思いつくのは本当につまらない、大切なことだった。
 ミーナもこんな風に苦しかった? 辛かった?
 チガヤは?

 ……レナは?

 カシャンと、体の奥でガラスが割れる音がした。
 体の中で暴れ続ける憎悪の成れの果てが、その瞬間、名前を得た。
 黒に覆われたはずの視界が白く染まった。
 闇の皮膚に穴が空き、細かく千切れて光に混ざる。光に溶け、ゆっくりと色を落ち着かせていく。眩いばかりの純白が銀から薄墨へ、灰へと変化した。
 それは、僕の内側から生まれた力だった。
 与えられて得たものでも、奪ったものでもない。ただ自然にそう思った。それだけのことで。
 あれだけ捜し求めたのに。
 脱力感に襲われて、思わずその場にへたり込んだ。
 もう、どこも痛くない。
 魔王は消えてしまった。僕の中へ入ろうとして、そのまま溶けてしまった。
 そもそも僕の中で憎悪を保つことなんか、できないんだ。
 だって、僕は『人間』の概念なんだから。



 ふっと光が掻き消えてみると、光っていたのは自分だけじゃなかった。
 いろとりどりの輝きが辺りを埋め尽くさんばかりに集まっている。
 小さいものも大きなものも、白いものも黒いものもいた。赤も青も黄色も。もっと複雑な色のものや、ニ色以上が合わさっているものもいた。
 薄っすらとした桃色の光が目の前をふわふわと飛んでいく。
 ふと、自分と同じ灰色の小さな光が足元にまとわりついていたことに気付いた。くるりと膝の辺りを旋回し、しなやかな動きで主の元へと向かう。
 それに先導されるように、真っ白な光が後を追った。それにつられる様に萌黄色の大きな光が付いていく。
 さわさわと、魂のささやきが聞こえる。
「もう、逝けるはずだよ。魔王は消えてしまった。結界のエネルギー源はもういない」
 この屋敷の結界は魔王の負の力を正に返還して、互いにぶつけ合うことで魔王の力をそぐというものだった。結界が弱まったのは即ち、魔王が弱ったということ。
 人間ってやっぱり怖い。力は無いけど、なんか凄い。
 感心してただただ光を見ていると、背後から声をかけられた。
「ルネ」
 振り向くとレナが頬を赤くして辺りを見まわしていた。キラキラと瞳が光を反射している。
「すごい!」
「うん。すごいね」
 僕は自然と彼女へ微笑み返した。
 光はやがて竜巻となって、空高く上っていった。その中心にいた僕達はたぶん、今までのことを差し引いても、幸運の方が強い。
 でも、このうちどれくらいが地獄ウチ に来るのかな、とか考えちゃうのは、職業病だと思う。ああ、民族病か。
 気付いたらレナが隣にいたから、空を見たまま手を握った。ほんのりと温かい。
 レナは不思議そうに僕を見て、もっと不思議そうに首を傾げた。
「ルネ。もしかして、あたしが寝てる間に」
 ん、と彼女の方を見下ろした。見下ろした?
「背、伸びた?」
 僕は自分の手足を見た。うわ、ほんとに着てた服が小さくなってる。袖も裾も丈が五センチくらい足りてない。ウエストが辛くないのがせめてもの救いだけど、恥ずかしい。慌てて直した。この服も、現実に存在しているものじゃないからね。
 もう一度レナを見て、やっぱり彼女よりちょっとだけ高いのを確認した。嬉しい。
「そうかな? そうかも!」
「やっぱり。うん、中学生くらいに見えるよ」
 く。まだだいぶ幼いのか。
 そんなやりとりをしていたから、僕達は魂の行方を見送ることができなかった。
「玲奈、大変! ミーナが!」
 チガヤの悲痛な声がした時は、まだレナは何の事だか分かってなかった。彼女の表情が劇的に変化したのは、チガヤの手の中でぐったりと横たわる灰色の猫を見た時だ。
「ミーナ! どうしたの!? 傷だらけじゃない!」
 驚きの表情でチガヤにすがる。ミーナを受けとって、必死に声をかけた。いくら呼んでも反応がないのを見て取り、彼女はふっと黙り込んで腕の中を見つめた。
 ゆっくりと顔を上げ、僕の方へ向ける。
 焦点の合っているか分からない目が説明を求めてる。少しだけ開いた口元に言葉が乗り損ねた。
 この瞬間を自分がこんなに恐れていたなんて、気付いてなかった。
「僕のせいだ。僕が、ミーナを殺した」
 カタカタと歯が震えた。
 この小さな体を痛めつけ、傷つけたのは、僕だ。
「なに言ってんの? あんたじゃないことぐらい、あたしにも分かるわよ」
 チガヤが僕らの間に割り込んで、きっと僕を睨みつけた。強い視線。ただ現実だけを見据えている。
「さっきの甲冑でしょ? あたしは気絶してたから詳細は分からないけど、まず第一に家主があたし達が忍び込んでるのを見つけた。泥棒と勘違いしたあいつは、とりあえずあたし達二人は昏倒させたけど、あんたとミーナが残った。次にミーナを酷い目に合わせて、その後あんたから事情を聞いて、怖くなって逃げた。違う?」
 チガヤは探偵ばりの名推理で、全く違う仮説を立てた。
 力なく首を振る。
「僕のせいだ」
「だからあんたが責任を感じるのはぁ〜」
 なお食い下がるチガヤを押し留めたのは、静かなレナの声だった。
「茅、ちょっと席、外してくれる?」
 俯いたまま、声にだけ色をつける。無理やり感情を乗せたそれは薄っぺらで、痛ましかった。
 チガヤは小さく息をついて目を閉じ、吹っ切るように目を開いて立ち上がった。
「……分かった。外で待ってる」
 チガヤがいなくなると、レナが僕のそばでため息をついたのが聞こえた。
「もし、これが」
 レナは一旦言葉を止めて、もう一度息を継ぎ足した。
「ルネを呼び出した報酬なのだとしたら」
「違う。そうじゃない!」
 瞬間的に叫んだ。
 レナにそう思われることは、耐えられないほどの苦痛だった。その痛みから逃れるためだけに、言葉を紡いだ。必死に言葉を継ごうとすればするほど、頭の中が真っ白になっていく。
 僕は今までのことを最初から最後まで全て隠さずに語った。ミーナのこと、マリアンヌのこと、魔王のこと、そして僕自身のこと。全部が複雑に絡んでいて、こっちを話せばあっちが破綻し、その度に補って、とんでもなく時間がかかった。その間ずっと、レナはミーナを膝に乗せて、黙って撫でていた。
 全てを語り終えた時、僕はやっぱりミーナを殺したのは僕だと思った。魔王を攻撃する時、憎悪に駆られた僕はミーナの体のことなんて、何にも考えちゃいなかった。もしも僕がミーナを傷つけなければ、あの灰色の光はこの体に戻ることができたのに。
 だから、レナがいとおしそうにミーナを撫でた時も、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「ミーナは、あたしを許してくれないね」
 言葉の意味が取れなくて、ただ彼女を見つめる。
 それからレナが語ったことは、僕がレナに呼び出される前の話だった。
「あたしは三日前、すごく――調子のいいことを言えば――機嫌が悪かった。両親は猫が嫌いで、ミーナが何かするとすぐあたしを叱ったし、あたしが悪いといつでもミーナを捨てると脅しかけてた。あたしはそんな脅しなんて全く信じてなかったんだけど、試験の前でイライラしてて、部屋の片付けもしなかったし、帰宅時間も守らなかった。そしたらミーナのキャットフードやお皿、トイレや砂まで捨てられてるじゃない。そのうえ説教は交代で立て続け。一言謝れば許すって言われてたんだけど、あたし、意地になって謝らなくて。とりあえずミーナを緊急避難させたの。この家に」
 レナは鼻をすすると目元を拭った。
「門の前でミーナを放したのはあたし。何にも知らないミーナは、新しいおもちゃを見つけたみたいに喜んで中に入っていった。それっきり一日経っても、二日経っても戻ってこなかった。ミーナは夜になると必ず帰ってきたのに。今思えば、あれがミーナを見た最後だったんだね」
 うつむいた顔から、ぽたりと雫が零れ落ちた。ミーナの毛を滑り、吸いこまれて消えた。
「あたし、最後にミーナを捨てちゃった!」
 声は号泣の色を得ていた。それでも叫びだった。
「違う」
「違わない! ミーナはあたしを憎んでる!」
 レナはミーナに覆い被さって、声を殺して泣いた。何度も「憎んでる」と呟きながら。
 僕は最初にはっきりと伝えていた。
 レナ達の魂を体へ導いたのはミーナだった。間違えようもないくらいミーナだった。
 けれど僕は、そのことを聞いた時にレナがうつむいたのも知っていた。
 うつむいたその下で、唇を噛み締めていたのを。だから、彼女は全部分かってる。
 分かった上で、自分が許せないんだ。
 体を丸めて泣く彼女は、一回り小さくなったみたいだった。
 脱色して艶のない髪に手を添えた。逆の手で背中を引き寄せる。
「愛してるよ」
 「違う」と、擦れた声が拒絶した。
「ミーナは君を愛してる。愛してるよ」
 否定の声が途切れて、ただの嗚咽に変わるまで、長く続く呪文のように唱え続けた。
 唱えながら気付いた。この呪文は僕自身にも降りかかるだろう。
 きっと僕は逃げられない。でも、それでいい。
 まるで、祝福のような呪いだ。



「遅すぎ。お腹空いて死ぬ。今すぐあたしを焼肉屋さんに連れてきなさい!」
 門を開けたら即チガヤ。もう深夜近いっていうのに、どこの焼肉屋へ行くつもり?
「こんな時間じゃ居酒屋ぐらいしか……んー、焼き鳥?」
「こらちょっと少年! さりげなく危険な方へ勧めない!」
 チガヤがまた僕の頭を叩いた。叩いてからまじまじと僕の顔を見る。
「あんた、こんな老けてたっけ?」
 失礼な。老けるなんて年じゃない。まだまだ悪魔でも若輩なのに。
「うちの末弟と同じくらいだったよ、ね? あれ? あたしの目の錯覚!?」
 現実的思考回路って便利だ。
 僕はあえて訂正せずに、ふふんと鼻で笑った。
「明るい所ならもっとかっこいいよ?」
 天使のような悪魔の微笑みを向けてみせると、チガヤも鼻で笑い返してきた。ちっ。
「ま、もう何年かしたらもう一回評価したげる。でもまあ、今のところはまだまだガキね。色気づいて髪まで染めて! お母さんはこんな子に育てた覚えがあったら怖い!」
「僕だってキミが母親だったら夜も眠れないよ!」
 と、本気で言い返す僕の傍らから忍び笑いが漏れてくる。
「あ、レナ笑ったね? こっちは冗談じゃないのに」
「あら、あたしは冗談丸出しよ? やあねぇ、ジョークの通じない子は! 頭固っ」
 チガヤが僕の頭をぺしぺし叩く。痛い。
 助けを求めるようにレナを見ると、ひたすら笑ってる。
「おかしー。ルネ、本気にしてるーっ」
 げ。笑われてるのは僕だけ? ショックだ。
 ふてくされる僕を尻目に、チガヤは腕時計を確認して、パンパンと手を叩いた。
「さて、ルネ坊やもからかったし、あたしは帰るね。バイバイ玲奈。また明日!」
「またね茅。またメールする」
「あいよ。じゃあルネ坊も、今度はウチで探検しましょ。あそこよりはずっと広くて安全よ!」
 一体どんな家に住んでるのか知らないけど、チガヤの家ならきっと反りが合わないに決まってる。チガヤ一人だって大変なのに。
「できれば二度とごめんだよ」
「るっさい! 頭皮ひん剥くわよコラ!」
 海外で女の子がしたら目をむかれるようなジェスチャーをして、チガヤは去っていった。
 チガヤがいなくなった途端、辺りがしんと静まり返る。もう夜も遅い。静かで当たり前なのに。
 ほんと、最後まで騒々しい子だったなぁ。
「……さてと」
 レナが家の前で立ち止まり、改めて僕を見つめた。なんだか居心地が悪くて、思わず目をそらした。
「結局ルネ、代償決めてないでしょ。早く決めた方がいいよ。魂以外で」
 レナの笑みがにっとからかいじみたものになる。
「それともやっぱり、『愛』がいい?」
 うっわ、聞こえてたんだ!
 たぶん僕の顔は真っ赤になった。血が逆流することがあるんだと、初めて知ったよ。
 僕は動悸を抑えて、できるだけ白々しくないように答えた。
「実は、決めてあるよ」
 これは嘘じゃない。動揺してるように見えても嘘じゃない。さっきから決めてたんだ。
 レナの耳もとに顔を寄せてささやいた。
 レナは瞬きを二回して、また首を傾げた。
「あたしの?」
「そう。だから、僕は――ミーナの代わりになる」
 レナの不思議そうな顔が止まって、それから最高の笑顔になった。



 その日、西藤家に新しい猫がやってきた。
 その雄猫の名はルネ。ミーナと同じ灰色で、ミーナよりはだいぶ愛想が悪い。
 けれど飼い主は彼に変わらぬ愛情を注いだ。
 彼が猫でいるうちは。


END
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