猫と彼女と僕


 その時、僕は昼寝の最中だった。
 お姉様方の楽しい『愛』を貪った後の休息は、結構好きな時間だ。
 正直、思いっきり油断していた。
 しまったと思った時にはもう遅い。呼び出された。



「…………どちら様?」
 無意識に作り上げられた、女の子らしいか細い声。
 「それこっちの台詞」と応えようとして、手加減を知らない香の焚きっぷりに、思いっきり咽る。うわ最悪これヨモギだ。
 辺りには香の煙が充満してて、真っ白だ。目が痛い。喉が痛い。鼻の粘膜が痛い。
 だいたいさあ、悪魔を呼び出すのに、なんで魔除けの植物を使うんだよ。儀式ではこっちの力を弱めるハーブを焚くけど、ヨモギって。東洋魔術の中でも相当マイナーだ。確か、大陸の端の小さな小島辺りで使われるはず。じゃあ、ここは日本?
「げほっ。けほっ。ちょっと、危ないよお姉さん。そこのヨモギ、燃えすぎ。火事になるって」
 普通ならここで偉ぶって威嚇するものなんだけど、ヨモギに咽ちゃって地が出ちゃった。ああもう。こうなったら、このまま素でいくしかない。
 僕の声を聞いて、女の子はちょっと安心したみたいだ。胸を張って応えた。
「大丈夫。ちゃんとお皿に乗せてあるから」
 その皿から溢れてるってば。特大のお灸みたいになってるよ。
 彼女は革張りの本を持って立ってた。学生っぽい服を着て、髪を茶色に染めてる。とりあえずポイントメイクしかしてないみたいだけど、眉毛が細い。細すぎる。
 絶対、悪魔召喚とかするタイプの人じゃない。むしろ、「悪魔? 何それキモーイ」とか言ってくるタイプ。日本名産のジョシコーセーってヤツだ。おんなじ名産なら、ジョローさんの方が百倍良かったなぁ。
 いいかげん分ったと思うけど、僕は悪魔だ。まだまだ新参者だけどね。
 くらくらする頭を押さえて、溜息をついた。足元に書かれた魔法陣を一瞥して、がっくりと頭を落とす。
 コレ、間違ってるし。
 僕とお姉さんの足元には一つずつ、白いチョークで円が描かれている。僕の方は呼び出し用の魔方陣で、お姉さんが術者を守るための魔方陣。それぞれ幾何学模様にお飾りの模様と文字が入れられているんだけど……。
 この文字、基本はラテン語で描かれてるのに、所々英語が混じってる。あのさ、いっそ日本語で描いちゃいなよ。あ、彼女、魔術を理解して描いたわけじゃないんだ。本に書いてあったのを写しただけなんだ。
 祭壇らしいものに供えられた物品も違うしなあ。ほんとに字、読めてるの?
「えーっと、お名前は?」
 お姉さんは困ったみたいに頬をポリポリ。手順を思い出しながら頑張ってるらしい。
 こんな気軽に名前を問われたの、初めてだ。
 悪魔を召喚する際、気を付けることは山ほどある。魔方陣を間違えないこと、供物は正確に用意すること、呪文を間違えないことなどなど。それから悪魔の口車に乗せられないこと、これが一番大事。
 大抵の悪魔は、嘘かホントか分からないことを言って時間を稼ぐ。そうやて術者の精神力を削るんだ。あと、自分の名前をめちゃくちゃ早口で言ったり、人間には聞き取れない音で言ったり、嘘をついたり。名前を名乗らないと悪魔は人間に付け入ることができないし、こっちに名乗らせない限り人間も悪魔を使役できない。だから、僕らは名前を知られてたとしても、名乗りをあげなくちゃならないってわけ。
 ちなみにここで大事なのは、悪魔に術者の名前を悟られないこと。
 ここだけじゃなくて使役している間ずっとなんだけど、悪魔が術者の名前を知ると、人間に対して、より付け入りやすくなる。名は魂を拘束する数少ないものだから。こっちでは言霊っていうらしいね。
 名前さえ知れれば、力で劣る人間をどうこうするなんて容易いこと。地獄の住人にだってできてしまう。
 と、思ってるそばから。
「あたしは西藤玲奈。よろしくー」
 あーあ。やっちゃった。
 まさか本名と思えないけどさ。いくら偽名でもこっちが名乗る前に名乗るかなあ、普通。
 この子、ど素人以前に、まったく魔術をかじってないね。さすがジョシコーセー。
 こんなんじゃ配下においても、僕をろくに使えないよ。
 とりあえず安心して偽名を名乗ることにする。
「ルネだよ」
「……あれ?」
 目をしばたたかせるお姉さん。
 うん。たぶん君の呼び出そうとした奴とは違うだろうね。
「ランドリオじゃなくて? ルネ?」
「ルネ。ちなみにそれは友達の名前」
 本名じゃないけどね、と心の中で付け加える。僕はルネだと言ったけど、本名がルネだって言ったわけじゃない。お姉さんがそう思い込んだだけのこと。悪魔は嘘をつかない。
 お姉さんはあっさり魔法陣から出て、本を確認する。あー……もういいや。気にするの止めよう。
「そっかー、それで見た目の記述と合わないんだ。呪文間違えたかなぁ」
 そりゃ、黒髪長髪美青年のランドリオだと思って灰色髪の少年が出てきたら、思わず「どちら様?」とも言いたくなるね。
 僕は一見、十二歳くらいの子供だ。
 というか、もしランドリオを呼び出すんだったら呪文どころじゃなく間違ってることになるんだけど。
 僕は呆れかえって祭壇を指差した。
「ランドリオだったら、黒猫の死体、カラスの翼、それから砂金を少し用意しなきゃ。ナニあの代用品」
 レナは小首をかしげて祭壇を見た。
「ミーナと羽根と携帯電話」
 ミーナっていうのが祭壇の上で丸まってる猫だろうな。種類はロシアンブルー。青みのある毛並みはつやつやで、どう見たって灰色だ。
 飼い猫を捧げるとは、とか思っちゃだめ。その猫、今こっちに顔を向けてにゃあとか鳴いたもん。黒猫いなかったんなら、せめて殺しとこうよ。
 ミーナは目を覚まして、隣にある羽根を見付けた。興味深そうに瞳が細くなる。
 ……この羽根もねー……。
「ねえレナ。カラスっていうのは黒いんだよ。あれは絶対灰色だよ。白状しなよ、ハトのでしょ。ねえ、ハトってクルッポーって鳴くんだよ?」
「ポッポーでしょ。だって庭にカラスの羽根、落ちてなかったんだもん」
 レナはふて腐れて頬を膨らませた。や、それ以前に羽根じゃないよ。翼だよ。別名・手羽先。
「それからさあ……」
 僕は呟いて、祭壇の端にちょこんと乗った手の平サイズの四角い物体を見やる。なんだか言葉に詰まるんだけど。あれで呼び出された僕って一体?
「ああ、知らない? 携帯の中にはほんのちょこっとだけど、金が使われてるんだって。捨てられた携帯から金を作るっていう番組があって、それで見たの。あの携帯電、源切れちゃって使えないし」
 そんな消費に基づいたリサイクル精神、いらない。
 大体、僕を呼び出すのに必要な物が何一つとして揃ってないじゃん。どうしてできちゃったの、この人。
 この衝撃的な召喚に、僕の悪魔としての尊厳は見事崩れ去った。



「ねえルネくん。あたし、お願いがあるんだけど」
 やっと言い出したか。
 人が悪魔を呼び出す理由のほとんどが、自分の願いを叶えるためだ。ごく稀に使い魔としてご所望される時もあるけど、大抵が四、五分で終わるちゃちなものばかり。
 この子の年頃からいって、彼氏が欲しいとかブランド物が欲しいとか、険悪なところでせいぜい嫌な奴をシバいてってところかな。
「この屋敷から、生きて出たいの」
 レナは真面目な顔をして、あっさりと言い放った。
 ……待った。
 生きて?
「えーっと。ここはどこ? 日本?」
「うん。うちの近所のお化け屋敷」
 言われて見回せば、なるほど。床は腐って穴が空いてるし、窓ガラスは全滅、カーテンはぼろぼろ。アンティーク調の家具は埃が厚く覆ってる。近づいて吟味すると、なかなかの高級品みたいだ。息を吹きかけるとある程度――くしゃみを連発するぐらい――は舞い上がったけど、下の方はもったりと積もったままだった。
 うん、どう見たって女子高生が住んでるような一般家庭じゃないね。
 レナはうんざりと肩を落として、哀れっぽく話しだした。
「ミーナを探して入っちゃったのが運の尽き。門からは出られないし、わけわかんないのはいっぱい出るし、茅とははぐれちゃうし、最悪。あ、茅っていうのはあたしの友達」
「わけわかんないのって?」
 レナはうぇっとうめき声をあげると、眉間にぎゅっとしわを寄せて身を引いた。自分で自分をがっちりと抱きしめる。
「マジ、わけわかんない。白かったり黒かったり、もやもやしてたりはっきりしてたり。一度なんか明らかに骨だった。でも茅には見えないし」
 ああ、そういう意味。
 レナは最初にここがお化け屋敷だって言った。きっと、そういう場所なんだろう。
 それにしても、そのはぐれた子っていうのは相当鈍くできてるらしい。レナだって別にそんな敏感な方じゃないのに、ここでは悪魔召喚までできちゃったってのにさ。
 僕は辺りをさっと見渡した。
 いるいる。部屋の隅、床の穴の中、カーテンの裏、窓の向こう。形を取れないくらいかすかなものだけど、さわりさわりとざわめいている。僕の匂いを嗅ぎ取って、集まって来たに違いない。
「年期はいってるねー。これはちょっと危ないかな」
「明治に作られた異人館だって。で、とにかく逃げて逃げて、気づいたらこの部屋。床の絵とか祭壇とかいろいろ用意してあって、なんかすっごい怪しくてさー」
 本棚に本を戻しながら、迷惑千万の声色でレナは愚痴をこぼした。
「ふうん。君が一人で揃えたわけじゃなくて、初めから揃ってたのか」
「そ。でもちょっと怪し過ぎたから、本漁って何か調べたわけ。そしたら出るわ出るわ、悪魔だの召喚だの魔王だの。ったく、酔狂な変態がいるもんね」
「魔王?」
 僕は祭壇に近づいて、祭壇の向こうの床にごちゃごちゃと置かれた品々を覗いた。
「げ」
 見なかったことにする。恐らく彼女には何が何だか分からなかっただろうな。変色してたし、縮んでたし、原型留めてなかったし、埃積もってるし。百年くらい経ってるから臭いも無い。うん、快適。
「そうそう魔王。なんか失敗したっぽいよ?」
「ふーん」
 まあ、魔王召喚なんて人間にはちょっと無理。あれって悪魔でも相当高等なのが、呼び出し受けた時だけ使えるやつだし。それを人間が応用したって、ねぇ。
「そのせいかこの部屋だけは安全なんだよねー。何にも出てこないし。それで、本の中でも比較的簡単にできそうなの選んで、魔方陣をちょこっと書き換えてみたんだけど――
「失敗して僕が来た、と」
「そ」
「なんか……うん、よく分かった」
 いくら古くてもこれだけの供物があれば、その他が間違ってても呼び出されるよ。うん。
 僕は話題を変えようと、あえて明るく話しかけた。
「にしてもすごいね。普通、こんな場所で悪魔召喚しようなんて思えないよ。今までこういうの、信じてなかったんでしょ?」
 最近の人間は本気で信じてないから、こんな屋敷でお化けなんて見た日には精神病院確定なのに。アグレッシブな現代人もいたものだ。
 レナはけろっとした顔で、おばさんみたいに手を振った。
「逆よ逆。ほら、お化けがいるんだから悪魔もいるかなって。なんとなく、お化けより悪魔の方が話通じそうじゃない? 手間かけたうえに、物まであげてるんだから、ちょっとぐらい言うこと聞いてくれそうでしょ?」
「……そうだね」
 こういう時に神や天使に祈らないあたり、現代人だ。ただ無闇に祈るより、儀式したり供物捧げたりする方がよっぽど現実的だしね。命の危機なら神も悪魔もないもんね。
 合理主義って怖いなぁと思いながら、ふとまだ呼び出されただけだってことに気づいた。呼び出すのに儀式や供物が必要なわけで、その後命令を聞くにはさらに上等なものを交渉しなくては。相場は魂や寿命だけど。
「でもさあ、呼び出したけど、僕が願いをきくとは限らないよ?」
「あ、それあたしも思った」
 あっさり同意された。そうじゃなくてさあ。
 僕はちょっとイラっとしながら要約する。
「あのねえ。この場合、僕に取引を申し込めってことなの」
「取引って魂でしょ。なんで助けてもらうために死ななきゃならないわけ?」
 レナはずけずけと言い返してきた。正論だけど、開き直らないでってば。
「死ぬ覚悟もなしに呼び出さないでよ。……まあ、別に君みたいな四流五流の魂貰ってもしょうがないけど。魂を貰うのは、人間が持ってるうちで最高に価値あるものだから貰うだけ。じゃあ、代わりに何くれる?」
「うーんとねー……」
 レナが考え込むと、大仰な祭壇の上からミーナが飛び降りた。猫に特有の足音の無いしなやかな歩き方で僕の足元へやってきて、全身と尻尾でまとわりついた。なでろとばかりに甘く鳴く。
 レナがピンと人差し指を立てた。
「ハーゲンダッツのトリプルサンデーでどう?」
 僕はあえて彼女を無視してミーナを抱え上げると、耳の後ろを撫でながら小さな声で呟く。
「僕、『愛』が欲しいな」
「? なんか言った?」
「ううん。別に」
 にっこりと笑いかける。そう。無邪気な子供のように。
 知り合いは皆、僕にとって『愛』はとても必要なものだと言う。『愛』が足りない、『愛』をもっと摂取せよと。だけどいくら他人を『愛して』みせても、僕は何も得ない。そして彼らは口をそろえてそれは違うと言う。じゃあ教えてと僕が言うと、一様にして黙り込む。皆、真実を言うのは嫌なんだ。
 僕だっていい加減答えは分かっているけれど、認めて誰かに乞うのは嫌だった。
 本来、悪魔に『愛』は要らない。『愛』など無い。
 出来損ないの悪魔。笑うなら笑えばいい。悪魔と区分されるのは、それ以外に置き場所がないからだ。僕は悪魔ですらない。
「仕方がないなあ、モスバーガーのチキンも付けよう。あ、シェイクもいいな。照り焼きバーガーも」
 絶対、自分が食べたいに違いない。レナは指折り数えて笑った。
「とりあえず後払いということで、考えておくよ」
 僕はぽんとミーナを降ろして、口の端でちょっと笑った。
 レナはにっこりと笑い返して、
「じゃあ、まずは茅探しにしゅっぱーつ!」
と、勢いよく扉を開けた。



 で、二秒で閉めた。
 残像が見えるくらい早く僕を振り返る。
「い、いい、今何かめ、目の前にいいいた?」
「もういないよ」
 ごく普通の日本人女性だった。結い上げた髪が軽く乱れる様は結構妖艶で、血の気のない肌はキメが細かくて綺麗だった。
 まあ、足が無いくらい大した欠点じゃない。白装束が血に濡れてるのもセクシーだ。惜しむらくは、天井からぶら下がって白目を剥いていたことかな。美人が台無し。
「面白いね、日本の幽霊って。ほんとに三角の頭巾付けてるんだ」
 文化を感じた。
 レナは扉から後ずさって逃げる。足が笑えるくらい震えてて、面白い。
「やっぱ出るの止める! 茅には悪いけど、あたし、見捨てる!!」
「そんな力いっぱい断言しても、人間性が下がるだけだよ」
「悪魔に言われたくない!」
 それこそ本当に力いっぱいの否定。
 ふうん。分かってるんじゃないか、悪魔と一緒にいるってこと。
 よっぽど危険なんじゃないのかな。
 腹の中で笑ってる僕に気付かず、レナは手でドアを示して、先に行くように指示した。
「とにかくルネが先歩いてよ。あたし後から行く」
「別にいいけど……背後に気をつけてね」
 後半、声色を変えてみる。
 レナは弾かれたみたいにドアに飛びつくと、ウインクしながら僕に笑いかけてくる。
「やっぱ、子供に前は歩かせられないよね!」
 こっちに向かってぐっと親指を立ててきた。口元、引き攣ってるけどね。
 それにしても、子供って。まあ、実際僕の見た目は子供なんだけど。しかもかなり若いんだけど。それでも五百年以上生きてるのにさ。
 あーあ。早く大きくなりたいなぁ。
 レナは僕の手をしっかりと握り締めて、真っ暗な廊下を進もうとした。手の平が汗ばんでて、気持ち悪いよ。
「レナ、レナ」
 僕は高い位置に備え付けられてる燭台を切って落とし、息を吹きかけて蜘蛛の巣を払った。くっ付いてる古い蝋燭は、どうやったって火が付きそうにない。
 僕は蝋燭の心を指先でひねってぽっと火を灯した。
 これは蝋燭に火をつけたんじゃなくて、蝋燭のあたりに火を点けたってことになる。無意味だけどレナには違和感がないと思うよ。
「はい」
「……ありがと」
 レナは燭台を掲げて辺りを照らした。思った通りあちこちの床に穴が空いてるし、壁も剥がれてきていた。明かりに照らされて鼠の目が光る。
 蝋燭の届く範囲は意外と狭い。半円を描いて光が闇を切り取り、そしてその向こうに影がうごめいている。
 レナには見えない闇のかなたで、白いものが行き交っていた。
「なんでこんなに多いのかな……」
 自然と声を潜めてしまう。すると右手奥の扉が開いて、真っ白な骸骨が出てきた。
 ぽかんとしてる僕らに気づかず、背を向けて去っていく。
 と、逆の扉から布を被った何かが出てきて、僕らを無視して通り過ぎた。お化けのデフォルトではあるけど、被った布が花柄だった。色々台無しだよ。
 まあ、幽霊の方にも敏感なのと鈍いのがいるからね。こっち側が見えない奴は結構多いんだ。生きてた頃には幽霊が見えず、死んでからは人間が見えない。皆が鈍ければ幸せなのに。
 レナが恐る恐る、骸骨が出てきた扉を開けた。でもやっぱり足が震えてる。ふふふ、頑張ってる頑張ってる。
「ちーがやちゃーん?」
 震える声を呼びかけても、返事はなし。肩を竦めて入っていくと、そこはベッドルームだった。天蓋のついたベッドが二つ。どちらもこの上なくぼろぼろで、埃が積もっている。
 誰も居ないと思いこんで出て行こうとした時、泣き声が聞こえた。
「茅? そこにいるの?」
「待って。僕が行ってくるから、蝋燭の火を消さないように」
 僕が明かりの輪を抜けると、するりとミーナがついてきた。
 二つ目の天蓋の向こう、壁と窓の間に、誰かがいる。
「こんばんわ。ちょっといいかな?」
 できるだけフランクに声をかけると、くるりと人影がこちらを向いた。
 げっそりとこけた顔に、落ち窪んだ目が見開かれている。油気のない髪はぼさぼさで、いわゆる亜麻色というやつだ。真っ白な顔に高い鼻。うっすらと浮いたそばかすがご愛嬌。年は僕とほとんど変わらなく見えるけど、過ごした時間は五分の一くらいかな。
 明らかに西洋人。レナがここは異人館だったと言っていたから、きっと当時の家主の一人だろう。
「君はさっきの部屋にいたかな? あ、さっきのっていうのは、ここを出て奥に行った部屋のことで」
 奥という単語を言った途端、白人少女はひっと喉を詰まらせたようにうめいた。
「ああ、ごめん。そんなのはどうでもいいんだ。ねぇ、人を見なかった? ええっと、そこの生きてる子の友達で、たぶん生きた女の子」
 『たぶん』がどこにかかってるのか、僕にも分からない。チガヤって変な名前だよね。苗字かな?
「日本人だと思う。知らない?」
 少女は実体が有ればカタカタと音が出るんじゃないかってくらい震えて、一言搾り出した。

「静かにして」

「え?」
 息を重ね合わせたような音だ。僕は彼女に近づいて、もっとはっきり聞こうとした。
 「静かにして」「黙って」「お願い」
 彼女は途切れ途切れに言葉を吐き出して、いっそう震えた。
 自縛霊は心残りに捕らわれて、心を食われてしまうことがある。そういった霊は外からの接触を一切受けなくなって、思いだけを告げ続ける。それは時を経るごとに外部との差を広げていき、いつかその差は崩壊する。悪霊になる。
 少女の声は切羽詰ったものへと変化していく。
「どうかお願い。静かにして。でないと――
 突然、目の前でふっとかき消えた。
 にゃあ。
 甘ったるい声でミーナが鳴いた。するりと足元をすり抜ける。
「ルネ? どうしたの」
「ん。いなくなっちゃった」
 振り返るとミーナを抱えたレナが光の向こう側にいた。なんだかとってもまぶしく感じる。
「そっか。なんか分かった?」
「ううん。次、行こうよ」



 ……この屋敷って、意外と広いんじゃない?
 始めはのんきに構えていた僕だったけど、最初の部屋から五十メートルくらい廊下を進んだところで、初歩的なところに気付いた。
 レナの言うことを信じると、屋敷の見た目からしてこんなに広いはずがない。というか、真っ直ぐ一本道はありえないらしい。
 あれ以降扉もなくて、ぼろぼろの床と壁ばかりが続いていた。さっきから五、六回同じような破れ方をした、同じような絵を見かけた。ああ、もう一回前方に。
 うん。ごめんレナ、馬鹿にして。出られないはずだよ。
「レナ。ちょっと戻ろうか」
 前の方が無限ループされてるのは分かっているけれど、帰り道もループしてたらどうしよう。ちょっとだけ怖い想像が頭の中を駆け抜けた。
 レナも気付いてたみたいで、無言でくるりと後ろを向いた瞬間。
「ああ!! 茅!」
「あ、玲奈だ。どこ行ってたの、こんな遅くなって」
 突如現れたレナと同じ制服姿の女の子。明るい髪が結構痛んでる。
 振り返るまで何の気配も音もしなかったのに。いや、この場所自体が今までの廊下と全く違う。すぐそばに十字路があるし。
 チガヤと言われた女の子は、至って平静に話しかけてきた。
「ミーナはいた? ってか、その子誰?」
「この子はルネ君。えーっと、さっき呼んだの。携帯で」
 うん。レナは嘘は言ってない。嘘は。
 レナの説明をあっさり信じたチガヤは、感心して僕を見る。
「へぇ。さしずめレナを助けに来た近所のヒーローってとこ? かっこいいぞ、ボク。てか、いい色だね、そのブリーチ」
 好奇心旺盛な二つの目を向けられて、正直ちょっとだけ身を引いた。
 代わりに何も言わず、抱いてたミーナを差し出してみる。
「あれ? キミ、ミーナ抱いても平気なの? いいなー。あたしが抱くと、コイツ、めちゃめちゃ暴れて引掻いてくるんだ。頭撫でるのは平気なんだけどねー。ちくしょう、愛いヤツめ!」
 そう言ってミーナをぐりぐりと撫でた。ミーナはシャーッとか言ってる。
 僕は居心地悪くそれを見ていた。
 チガヤの臆面のない喋り方も、はきはきとした悪意のない表情も、動きも、ちょっとだけ苦手。あちこちに向かって跳ねた赤茶の髪でさえ、なんだか係わりづらい。
「ねえ、茅。えーっと、一人でいる間、平気だった?」
 レナが言葉を選んで話しかけた。迂闊なことは言わない方がいいのは確かだ。人には感覚のテリトリーがあるから。
 チガヤは当たり前だとばかりに瞬きをして、女の人特有のキツイ言い回しをする。
「もちろん。だから言ってるでしょ? お化けなんていないって」
 そう言った彼女の後ろを、真っ白いもやが横切っていった。
「そ、そうだよねー。思い過ごしだよね」
 レナが苦しそうに相槌を打ってる。頷いておくのがいい気がした。
「じゃあミーナも見つかったし、帰る? 遅くなったからウチの兄さん姉さんが怒り狂うわ。もう高校生なのにさぁ」
 チガヤが明るく肩をすくませる。僕を見て、にっと笑った。
「でもまあここにもっとちっちゃい子がいるし、なんてことないね。よっ、不良の助!」
 ぺしりとおでこを叩かれた。
 何だかこの人が現れた時から、完全にペースが変わった。なんていうか、人間にしては強力な感じ。不思議なものなんてこの世にないって本気で信じてるし、そういう世界にいる人なんだ。
 こういう人を見ていると、なんでか気分が沈む。苦手だ。
 レナは首を傾げて、チガヤへと話しかけた。
「茅、どうやって帰ろう? こっち行きたいけど行けないよ?」
「何言ってんの。当然じゃない」
 つい、とチガヤが向こう側を指差した。
「そっち、壁だもん」
 振り返るとそこには、埃で毛羽立った壁がそびえていた。
「ちなみに入り口はあっち。さ、帰るよ」
「……うん。行こう、ルネ」
 レナに手を引かれてチガヤの後を追う。
 何も言えなかった。
 さっきのは無限ループだった。夢幻じゃない。
 馬鹿な。
 僕らがまやかしに引っかかることはほとんどない。
 悪魔は幽霊と違って、初めから幻想だ。人々の概念が固まってできたもの。だけど、幽霊は人の残り。だから、例え人間や幽霊が騙されようとも、悪魔は騙せない。
 いいや、もし僕に幻影を見せれるほどの何かがいるとしたら。
 カチャカチャと金属の音がして、僕らは足を止めた。さすがにチガヤも聞こえたらしく、不思議そうに前を見つめている。
 前方はT字路。息を潜めて見ていると、あろうことか、西洋風の甲冑が通り過ぎていった。背筋をピンと伸ばした規則正しい歩き方が、いかにも本物っぽい。
「ち、茅……」
「あれ? ここって人、住んでるんだ。うっわやっばー! 不法侵入しちゃったよ」
 いきなりテンションの上がったチガヤに、僕は呆れた声をかける。
「チガヤはこんなとこに人が住んでると思う?」
 ある意味その通りなんだけど、と思いながら聞いてみた。こういうタイプの人間がどういう反応をするか、正直興味がある。
「うーん、どこか奥の方に使ってる部屋があるんでしょ。でも相当な変人だろうね。甲冑のコスプレなんて、かなりヤバげ。見つからないうちに帰ろうよ」
「……そうだね」
 彼女には窓の外を通ってく人魂や、壁に映ってる人型とは言えない影なんて目に入らないんだろうな。床にある顔の形をした染みなんて、可愛そうに、思いっきり踏み潰されてる。後ろから僕の半分くらいしかないお爺さんが歩いてきてるのや、レナの髪を引っ張った紙みたいな手や、窓の外から落ちてきた不審な若者や、天井を歩いているもんぺ姿の子供達も皆、見えてないんだ。
 僕だって実体を消せば、レナにも気付かれない幻想だし。
 なんか、ちょっと……。
「お静かになさい」
 いきなり、耳元で老人の声が響いた。
 慌てて振り返った先には、誰もいない。嘘だ。僕になら見えるはず。これも幻なのか?
 いぶかしんだ時、突然耳の奥で何十何百という声が反響した。
 「ここは溢れてしまった」「溢れた」「我々が」「ざわめきが」「増えて」
 まずい、どんどん大きくなってくる。増える。
 「ざわめく」「アレを」「そう、我々で」「留める」「黙れ」「出られぬ」「人は」
 頭の中で鐘を鳴らされ続けるみたいだ。耳鳴りまでしてきた。
 「だから」「溢れて」「起こした」「お前が」「アレを」「なぜ来た」「静かに」
 痛い痛い痛い痛い。頭が、耳が、割れる。
 「死」「うるさい」「お前の」「生きし人は」「我らが」「何故」「もう遅い」
 うるさいうるさいうるさいうるさい――!!

「マリアンヌは死んだ」
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