佐高少年の灰色景色 春眠 アルミ製の門を片手で閉めて、俺は足早に歩き出した。 始業日から遅刻は避けたい。自分のクラスを確認するための時間が要るし、始業式の最中に顔を出すのも恥ずかしい。元クラスメイトのあいつに、あとでいじられるのが目に見えている。 焦りが歩き方に出ていたんだろう。猫を踏みそうになった。 コイツは三軒先のマンションに住む、いとこのお姉さんの猫だ。品種は忘れたが、灰色の細いヤツ。どうやらうちのブロック塀がお気に入りらしく、しょっちゅう来ては寝転んでいる。 避けたと思ったが、尻尾を踏んでいたらしい。ギシャーと怒りの声をあげて睨んでくる相手に、内心びびる。襲い掛かってこないだろうな。 とりあえず猫に謝っておいて、小走りで離れる。ついて来るかと思ったが、猫は不服げにこっちを見ているだけだった。 通学路の途中には、桜の綺麗な屋敷がある。 大きな古い家で、戦前からあるらしい。立派な門構えの向こうに、見事な桜の木がたわわに花をつけていた。とめどなく降ってくる花びらが、季節外れの雪のようだ。 俺は思わず足を止めて、花を見上げる。 ここの桜はいつ見ても本当に綺麗だ。普通の桜よりも白みの強い花びらで、道路から見ると霞が煙っているように見える。 じっと見ていたのがバレたんだろう。木の下で花びらを竹箒で履いていた初老のご婦人と目が合った。上品な藤色の小袖に薄桃色の帯締めをしている。彼女は箒を履く手を止め、微笑んで会釈した。 俺もその場で目礼を返す。いつものやりとりだったりする。 目を上げると、すぐ目の前を大きな黒い蝶がふさふさと飛んでいった。手のひらほどの羽を上下させてゆったりと飛んでいく。 うちわで扇がれたように、頬を小さな風が撫でた気がした。 思った通り遅刻して、風紀のおっさんに渋々校門を通してもらった。 ぎりぎり間に合うと思ったんだが、着いた時には俺の予測と軽く十五分ほどズレていた。遅刻常習やその他諸々で、俺はおっさんに目を付けられているから、今年はあまりしたくなかったんだが。 「始業式は第一グラウンドだぞ、急げよー」 ここはいっそ、始業式が終わってから紛れ込むかと考えていたら、おっさんに釘を打たれた。引っこ抜いて、ぽいっと忘れることにする。 暢気に桜並木の下を通り、掲示板へ向かった。やっぱりあの屋敷の桜の方がいいなと思いながら。 予想に反して、掲示板の前には先客がいた。俺の元クラスメイトの、総葉だ。 赤茶に脱色した髪をガサガサと掻きながら、ヤツは呪文のように名簿を呟いていた。視線が物凄い速さで上下している。この距離にいても気付かないということは、かなり本気モードらしい。 やっと俺に気付いた総葉が、ぱっとへらへら笑いを浮かべてくる。 「あれ、コトリちゃん? おっそいねー!」 知り合いのほぼ全員が苗字で呼んでくる中で、このバカだけは紛らわしいあだ名で呼ぶ。俺がそう呼ばれるのを嫌がっているのを知っていて、このバカはからかっているんだ。 俺の名前は佐高小時。コトキであって、コトリじゃない。ついでに言えば、ショウジでもない。いっそそっちだったらと思うくらいだが、残念ながらこんな間の抜けた名前だ。 お前こそなに始業式サボってんだと非難がましい視線を送ると、総葉は掲示の一部を示し、あっさりと話題を変えた。 「コトリちゃんは一組の十二番。二号館の三階だよ。あ、ちなみに俺も同じクラスですので。今年もよろしくー」 へらへら笑う総葉のバカ。 俺は自分の名前を見つけ、その下の名前に気づくと、憂鬱な気分になる。また同じクラスの上、総葉と出席番号が一つ違い。また授業中にアホな話をされては、先生にどやされるに違いない。俺が風紀のおっさんに目を付けられている最大の理由も、このバカとつるんでいるからだ。 「また里見も清水も瀬尾も瀬川も芹沢も別クラなんだぜ? 確率ありえねーよな」 三年前にこの学校の中等部へ転入して以来、コイツとは無駄に席が近くなる。席替えがあっても前後ろだったり、一つまたいで隣だったり。そもそも、コイツと初めて合った時も、家庭の事情で休んでたコイツの席を俺が拝借していて、それを知らずに出てきたコイツと鉢合わせた。というか、喧嘩した。 何かの因縁かと思えるような縁から、俺たちはなんとなくつるむようになった。最も、コイツは顔が広いから、俺はそのうちの一人なんだろうけどな。 本当は、このテのタイプと関わりあう気はなかったんだが。 面倒くさいホームルームが終わって、やっと帰れることになった。 いつもなら真っ先に背中をどついてくる総葉がいない。なにやら用事で職員室へ行ったという。あいつの顔の広さは学生だけに留まっていない。 納得して、さっさと帰ることにする。 鞄を抱えたとき、廊下を黒い影が横切った気がした。 扉から顔を覗かせる。誰もいない廊下を、一匹のオオグロアゲハが飛び去っていくところだった。校舎の中に紛れ込んでしまったのだろう。蝶は悠々と羽をひらめかせ、右へ左へ揺れながら、誘うように離れていく。 追いかけようと踏み出したとき、押し留めるように手を引かれた。 振り返る。 黒に、鮮やかな水色のライン。 セーラー服を着た女子がすぐ脇に立っていた。おかっぱより少し長めに切りそろえられた黒髪。白く無表情な顔。その中で一際、水色の襟のラインとリボンが目に焼きついた。 彼女は一瞬、首を振った。 「コトリちゃん?」 あだ名を呼ばれて目を開く。 我に返る感覚から、眠っていたらしい。 顔を上げると、総葉が呆れた顔をして俺を見下ろしている。 「春眠、夕暮れも覚えずってかぁ? 何時間寝てんの」 ホームルームが終わったのが十時過ぎ。つまり、今、何時だ。 反応を返せないでいる俺に、総葉は大げさに溜息をついて机へ手をつく。 「俺に感謝しなよ。帰ろうとしたら下駄箱に靴があったからさ、わざわざ戻ったんだぜ。一号館じゃなくて良かったなぁ。あそこ、土足じゃん」 そういえば最近、立て直したんだったな。 俺は釈然としないものを感じながら、席を立って鞄を持つ。総葉を視線で促し、自分も帰ろうとしたとき。 窓の外を大きなアオスジアゲハがゆったりと横切った。 吸い込まれるような青に、記憶の中のラインが重なる。 ……そういえば。 うちの学校は、ブレザーのはず。 「なにしてんの?」 軽い調子で問いかけてくる相手に、俺はただ、首を振ってみせた。 |