盗み聞き


「気にしないで。いつかすると思ってたから」
 本当に平気そうに、彼女は笑っている。
 久しぶりにかかってきた友人からの電話。
 俺は相手の名前を知るや、そそくさと逃げだした。
「ねぇ、マリ」
 マリ……俺と妻の大学からの知り合いの、女。
 そして先月、出張先で偶然会って、酔いの勢いで抱いた女。
 浮気……なのだろうか。


 バスルームを出て、濡れた頭を拭きながら妻のあの言葉を聞いた。
 違うかもしれない。
 罪悪感がそう感じ取っただけで、何の意味もない、たわいない一言だったかもしれないけれど。
 俺には分かる。
 妻は全て、知っていた。
 知っていてこの一ヶ月、知らぬ振りを通していたのだ。
 決して表に出さず、触れないようにして。
 彼女の心境を思うと、自分のしたことがことさら悔やまれる。
 俺は軽率で、浅はかな男だ。
 それを彼女は責めもせず、事を荒げることもしない。
 なんて、彼女は。
 俺は心の底から妻をいとおしいと感じた。


 部屋に入るともう話は終わっていた。
「ごめん」
 俺はただ謝った。言い訳なんて出来ないから。
「……聞いてたの」
 妻は少し驚いて、なにも言わずにじっと俺を見つめた。
 この期に及んでも、問い詰めないのか。
 なんだか泣きそうになって、黙ったままでいる。
「ねぇ、私のこと、大切?」
「ああ。愛してる」
 彼女は「そう……」と頷いた。
 表情が一ミリも動かなくて、人形のようだ。その顔が不意にほころんだ。
「次はないわよ」
「次なんてないよ」
 今の俺の精一杯で答えてみせた。
 彼女は妖艶に微笑むと、頬にキスしてきた。




「気にしないで。いつかすると思ってたから」
 私は最後の一言を少し大きめの声で言ってやった。薄い扉を挟んで硬直しているはずの、夫のために。そして受話器の向うで息を飲んでいるマリへ。
 マリからの電話はなんてことのない、ただの世間話に過ぎなかった。
 夫と会ったことも、一緒に飲んだことも、その後のことも、なにも。
 でも、ごめんね。知ってたの。
 身に覚えのない痣や、香水の香り。そして、マリが大学時代から彼を愛してること。
 彼の出張先がマリの住んでいる町だと聞いた時に、直感した。


「ごめん」
 開口一番、夫が謝る。とても申し訳なさそうに告げてきて、思わず噴出しそうになる。
 でも私の顔はちょっと驚いてみせただけ。
「……聞いてたの」
 私がなにも言わないでいると、夫は叱られた子供みたいに俯いて黙っていた。この人のこういうところが、可愛いと思う。
「ねえ、私のこと、大切?」
「ああ、愛してる」
 夫の誠実な言葉。
 そう。この人はとても、誠実な人。
「次はないわよ」
 からかいがちに言ったのに、彼はひどく真面目な表情のまま。
「次なんてないよ」
 夫はきっぱりと言いきった。うん、いい響き。
 彼の言葉に満足した私は、頬にキスしてあげた。



 プツリ。
 誰も居ないリビングルームで、電話の通話が切れた。
 ツー ツー ツー ツー



 ごめんなさいね、マリ。
 夫は渡せないわ。


END
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