人はずれの帰り道


 お使いの途中で、知らない道に入ったのがいけなかった。
 志保は立ち止まって後ろを振り返る。
 見たことのある家が並んでいて、ここが家の近くなのは分かる。でも、どうやって行けば家に帰れるのか、全く見当もつかなかった。
 もう一度最初から思い出してみる。
 小学校から帰ってきた志保に、お母さんが手紙を出すように頼んだ。ついさっきのことだ。ポストはすぐ近くだから、かばんを置いてそのまま出かけた。
 ポストの右側の入れ口に手紙を押し込んだとき、猫が壁の上を歩いているのを見つけた。
 可愛い猫だった。
 動物が大好きな志保は、猫につられて壁沿いを歩いていって……。
「ネコちゃんどこぉ?」
 素早い猫について行けるはずもなく、一人ぼっちで道に迷っている。
 おかしなことに、昼間なのに人の気配が全くしない。
 志保もこの場のぴんと張り詰めた空気を無意識に感じ取っていた。
「お腹、痛い」
 思わずその場でうずくまる。志保は留守番の最中や緊張したとき、きゅうとお腹が痛くなる。普通の腹痛と違って、その一瞬だけ我慢すれば治るのだけれど。
「大丈夫?」
 大きな手が背中に触った。
 男の人が心配そうに顔を覗き込む。優しく背中をさすられると、志保のお腹はとたんに良くなった。
「迷ったんだね。ここがどこか、分かるかい?」
 彼はゆっくりと話し掛けてきた。志保を混乱させないように、注意しているみたいだった。
「うん。あそこがマナちゃんのうちだから、すぐ近くなの。でも、どっちに行けばいいのか分からない」
 志保が目の前の家を指して言うと、彼は安心して胸をなでおろした。
「良かった。むやみに歩き回らなかったんだね、えらいよ」
 そう言うと志保の手を取って歩き出す。
猫道ねこみち は複雑だからね、人が歩くのは難しいんだ。犬道いぬみち だったらまだ、人道ひとみち と被っているんだけれど」
「ねこみち?」
 志保は彼に導かれるままに歩いていく。自分が来た方向とは逆の方へ。
「そう、猫だけが通れる道。普通、人には入ってこれないものなんだけど……。だめだよ、人以外のものを追い駆けちゃ。人道ひとみちから出るのは良くない。ほら、人道に外れるわけだから」
 そう言って彼はさっと辺りを見まわした。志保もつられて辺りを見たが、誰かがいるわけでもない。その代わり、生け垣の向こうにたくさんの光を見つけた。
 じっと息を潜めてこちらをうかがう、幾対もの瞳。
 思わず志保が手を強く握ると、彼は優しくささやいた。
「大丈夫。猫だよ。僕たちを警戒してるんだ。彼らは神経質だから、道を変えようか」
 彼はそう言うと、さっと横道にそれる。
 志保は転びそうになった。彼が足を踏み外したように見えて、慌てたからだ。
 そこに道があるなんて思いもしなかった。見えていたはずなのだけど。
「大丈夫かい? 僕も慣れるまでけっこう転んだよ。交差点では、足元じゃなくて、心に気をつけるんだ。気付くって言うだろう?」
「心?」
 意味が分からずに目をぱちぱちさせている志保に、彼は優しい笑顔を向けた。
「一つの道を歩いていると、他の道が見えなくなるんだよ。ほら、見てごらん」
 促されるままに後ろを振り向くと、真っ直ぐな道がずっと先まで続いている。でも、志保たちはこの道に曲がって入ったわけだから、すぐ近くに分かれ道があるはずだ。
 志保は目を凝らして、猫道ねこみち を探してみた。でも、道は真っ直ぐで枝分かれなんてしていない。
 でもここは住宅街で、荒野の一本道じゃない。絶対に脇道はたくさんあるはずだ。
「どの道も複雑に交差したり、重なったりしているけれど、道を歩く人には他の道は見えない。きっと、他にも道があるなんて考えないから、自分の道を歩いていける。自分たち以外のものに、無頓着になれるんだろうね」
 そう言う彼の声は少しだけ悲しげで、志保も気持ちが沈んでいく。
 そのとき、二人の目の前を人が通っていった。
「あっ……」
 志保が慌てて追い駆けようとするのを、彼は強く手を引いて止めた。
 なんで? と聞く前に、悲しそうに首を振る。
 道を横切るように志保の手を引き、歩いていく。
「だめだよ。ここは人道ひとみちじゃない」
「でも今、人が」
 引っ張られながら言った言葉は途中で消える。二人の右から歩いてきた人が、彼の体をすっと通り抜けて歩いていったからだ。
「彼らはもう、人じゃないんだよ。ここは霊の通る道。死人道しびとみちだ」
 志保の顔が強張る。
「ここは道の中でもたった一つの一本道で、一方通行の道。この道がどこに続いているのかは、僕にも分からない」
 彼に引っ張られている間に、三人が志保の体をすり抜けた。思わず目を閉じたけれど、なんの感覚も感じられなかった。
「この道を沿っていくのはタブーだよ。決して流れに乗ってはいけない。大丈夫。横切るだけだから」
 志保が泣きそうな顔をしているのを見て、彼は安心させるようにと表情を和らげた。
「家を探すなら鳥道とりみち がいいね。おいで、足元に気を付けて」
 言い終わる前に、彼の足がふわりと浮いた。そのまま引っ張り上げられるかたちで、志保は空高く舞い上がる。
 高さはちょうど屋根の上くらい。ちょっと怖いけど、下に引っ張られはしないから、落ちたりはしないのだろう。足下がスカスカした感覚。初めての体験だ。志保は知らないうちに彼にしがみ付いていた。
「どんな家かな。特徴は分かる?」
「え、えと……」
 志保は家を思い出そうとした。でも宙に浮いているというだけで落ち着かず、焦るだけでいっこうに出てこない。
 マンションではなくて、普通の家だったはずだ。でも。
 具体的には? 大きいか、小さいか。色は? 庭はあった?
「ちょ、ちょっと待って」
 うまく思い出せないでいる志保を見て、彼は表情を険しくした。
 真剣な目で地上を眺めていたと思うと、志保の手を導いていく。
「僕も昔、道に迷ったクチでね。同じように迷ってる人に見つけてもらうまで、結構さ迷っていたんだ。だから、帰れなくなってしまった」
 彼は前を見たまま空を歩いていく。こころなしか足取りが早い。志保はさっきまでの雰囲気が変わった彼に、少しだけ怖くなってきた。
「どうして……?」
 それでも、勇気を出して聞いてみる。
 彼は足早にある方向へ向かう。一直線に、目に見えない道を行く。
 このまま付いていって、本当にいいのだろうか。
 志保の頭に、初めてその疑問が浮かんだ。
―― もう、人じゃないから」
 志保は手を振りほどいた。
 その場でたたずんだまま、うつむく。
 彼は振り返って志保を見つめる。悲しげな笑顔。痛みを優しさで押さえ込んでいるような。
「長く人道ひとみち を外れていると、記憶がなくなって帰れなくなってしまうんだ。人道ひとみちに戻っても迷ったまま。またすぐに道をはずれてしまう。誰が決めたのか知らないけれど、そういう人達を道はずれ、もしくは外道って言う」
 別に人と変わらないんだけどね、と彼は付け足した。
「ただ、自分の名前が分からないのは不便かな」
 彼がそっと手を握り直した。
 志保はじっとうつむいたまま。涙が重力に吸われて、遠く足下へ消えていった。
「見てごらん」
 彼は初めて会ったときと同じように優しく背中に触れて、足下を示した。
「あっ」
「あれがマナちゃんの家。自分の家は、分かるかな」
 二人が立っていたのは初めて会った猫道ねこみちの真上。
 志保がすぐ近くと言った場所だ。
 少し離れた場所に黒い屋根の家を見つけて、志保は目が覚める気がした。
「あった、あったよ! 思い出した!」
 黒い屋根に灰色がかった壁。出窓にクマの人形が置いてある。上から眺めるのは初めてだけれど、間違いなく志保の家だ。
 どうして思い出せなかったのだろう。今なら隅々、お風呂場からタンスの中まで答えられるのに。
 駆け出した志保に今度は彼が引っ張られる形になった。志保はそんなことには構わず、一直線に空を駆け下りていく。
 家の前まで来ると、彼が志保に待ったをかけた。志保もおとなしくそれに従う。地面まであと数センチと言うところで、それ以上降りられなくなってしまったからだ。
 彼が慎重に地面を見つめ、とんっと飛び降りる。続いて志保の足が地面に触れた。
 志保が地面に降り立つと、急に辺りが騒がしくなった。
 人道ひとみち だけが持つ騒がしさ。人間の気配だ。
「あの時はタイミングが合わなくて鳥道とりみちに乗れなかったんだ。そうすればもっと手っ取り早かったのに。ごめんね」
「好きなように行けるんじゃないの?」
 驚いている志保に、彼は元通りに優しくて、少し困ったような笑顔を返した。
「それが出来たら完璧な外道なんだけど、残念ながら新米だから。今でもうっかりしてると道を踏み外しちゃうんだ。実は死人道しびとみちに入ったのも、偶然」
 舌を出して笑う彼。
 あの時、彼は自分の意思ではなく、足を滑らせて猫道ねこみちを出てしまったのだ。
 自分から死人道しびとみち に入るつもりはなかった、怖がらせてごめんね、と情けない顔で謝る。
「あの時は本当に焦ったよ。早くしないと君の記憶がなくなっちゃうからね。鳥道とりみち に出られたのは本当にツイてたなぁ……」
 独り言のようにのたまうと、志保の背中を軽く押した。
「さあ、そろそろ冒険は終わり。もう道を踏み外さないようにね」
 大人が子供を促すとき特有の声。やわらかいけれど、有無を言わせない。
「お兄ちゃんは……?」
「言ったよね。僕は人道ひとみち に入っても、人には戻れない。元居た場所を見つけるまでは」
 その場所を見つければ、彼も全てを思い出すのだろう。志保と同じように。
 心配そうに見上げてくる志保の頭を、彼が軽くなでた。
「大丈夫。君は君の道をお行き。でも、自分たち以外のものも、同じ世界に道を持つとこを忘れないで。他の道は見えないから、どうしてもないがしろにされてしまう」
 彼がとても意味のある、難しいことを言おうとしていると志保にも分かった。そして大人が子供を諭す時は、大切な時。区切りの時や別れの時だ。
 志保は彼に背を向けたまま、じっと俯いていた。黙ったまま、小さく頷く。
 彼が満面の笑みを浮かべた時、突風が吹いて彼がそのまま大きくよろめいた。
「……あれ?」
 志保が顔を上げると、目の前に立っていたはずの彼が居ない。
「またはずれちゃったの?」
 応える声はない。
 辺りを見まわしても、耳をそばだてても、彼の気配を感じ取ることすらできなかった。
 ふと足元を見下ろすと、たくさんの蟻が一筋の道を描いてどこかへ向かっている。
「今度は蟻道ありみちだったりして」
 そうやって何度も迷って、道を変えて。いつか人に戻る日まで、彼は歩き続けるのだろう。
 寄り道に迷い道、全部が彼の帰り道。
 志保は大きく息を吸い込むと、力いっぱい声を出した。
「ありがとー!」
 道が違っても、きっと声は届く。
 さあ帰ろう。帰り道でも、前に進むのは同じ。


END
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