旧友


 あいつに会うのは数年ぶりになる。
 高速を降りてからしばらく山道を飛ばして、やっとその町、いや村に着く。
 山沿いに立つ家々は形も大きさも不揃いで、古き良き日本の田舎そのままだった。不恰好な垣根や鬼瓦なんて、最近じゃめったに見られない。几帳面に区画された高層建築ばかり見ている俺にとっては、けっこう新鮮だ。
 整備不足の一本道を慎重に進む。車道だが、冗談みたいに細い。ちょっとでも気を抜いたらミラーを擦りそうだ。もし俺がこの区画を再編纂(へんさん)することになったら、両脇の家に下手な見栄をやめてブロック塀を取り壊すよう勧めよう。明るく開かれたご町内、そんな標語を掲げてやる。
 町なのか村なのか怪しい地点を抜けると、辺りはいよいよ田舎味を帯びてきた。どこの家の所有か分からない段々畑が延々続く。葉を茂らせた低木は時期じゃないのか、花もなければ実もつけていなかった。
 前に来たのも丁度今の時期だったのか、怖いぐらい変わっていない。ここには時間が流れているのか? そんな下らない疑問が浮かぶ。
 少し進むと、唐突に道が終わった。
 俺が道路と定義しているのはアスファルトで舗装されたものだけだから、便宜上終わると言ったが、実際は砂利道が続いている。草に占領されていて、獣道とも言い辛い一品だ。こんな所を愛車で通れば、石やら枯れ木やらが飛び交うに違いない。下手をすれば腹を擦るかも。
 俺は道路脇に車を止め、うんざりしながらエンジンを切った。
 既に後悔し始めている自分を叱咤し、ドアを開ける。濃厚な草の匂いと、湿気った空気が入り込んできた。不快指数は80ってところかな。
 車から出て、来た道を振り返った。なだらかな坂とのどかな畑。遠くにぽつりぽつりと、低い家の屋根が見える。
 陸の孤島。
 失礼ながら、そんな言葉が浮かぶ。
 この土地は都心から程近いにもかかわらず、妙に山が多いせいか、未だに開発の憂き目から逃れている。地図を虫が食うように進んだスプロール現象の賜物だ。
 風変わりな、いや風流韻事な友人は、いち早く都会の喧騒に嫌気がさして、二十代の終わりにはこの地へ隠居を決め込んだ。祖母のものだったという古い家に一人で住んでいる。
 木漏れ日のトンネルを抜けると、昔ながらの日本家屋が鎮座していた。小ぶりで、簡素な作りをしている。うらぶれた祠を思わせる家だ。
 家の周りはくるりと森を切り取ってあり、木の代わりに膝まである雑草が茂っていた。頼りない小道が小草原を二分割している。この道を行ったところで草を掻き分けることに代わりはなさそうだけど……引っ付き虫とかつかないかな。
 家には門も垣根もなく、庭と空き地の境もない。遠巻きにくるりと円を描く木立だけが境界線と呼べる唯一のものだった。
 横開きの玄関は半開きで、無用心極まりない。そりゃあ、こんな奥地に家があるなんて盗っ人でも思わないだろうが、かといって隣人が知らないわけでもなし。まあ、いざとなったら犯人を探すのは楽だろうが……。
 戸口に手を添え中を覗う。薄暗い。玄関の向こうには虚ろな廊下が真っ直ぐに続いている。昼間だというのに奥には全く日が差さしていない。古い建物独特の辛気臭さがあった。
 家主の名を呼ぼうとして、今更何と呼ぼうか戸惑った。
 なんとなくガキの頃の呼び名は避けて、無難な方を選ぶ。
「コっトさーん」
 このあだ名は俺が付けたんじゃなく、あいつの親戚の子が付けた。
 朴念仁のくせに妙に人が良い所のある友人は、一時期、家庭の事情で十にも満たない女の子を預かっていた。常識人な俺はえらく気を揉ませられたが、あいつはまったくどこ吹く風。他にも国籍不詳の居候やその娘まで上がり込んで、あの頃はここが奇人変人の巣窟だった。
 それも今は昔の話。
 ひとしきり呼んで返り事がないとみると、俺は玄関を出て縁側へまわった。
 こういう時は大抵、縁側で居眠りしてるに決まってる。
 家の横手には三畳ばかりの小さな畑があって、育ちすぎた大根や葉ばかりの人参がいくらか生えていた。相変わらず中途半端な手のいれようだ。もう少し土に手をかければ、それなりの物ができるだろうに。
 大根の上をひらひらと飛んでいくモンシロチョウ。気まぐれな飛び方で畑を越えて、手近な花に羽根を休めた。ひょろっとした白い花は、風で折れそうなくらいしなった後、反動をつけて身を戻した。勢いに煽られて蝶が飛び立つ。
「……どうした、連絡もなしに」
 愛想のない涼しげな声が、風に乗って届いた。
 この家の主・佐高小時は、藍染めの着流しで縁側にあぐらをかいていた。
 相変わらず色素の薄い男だ。確か祖母が西洋人だと言っていたから、クウォーターのはず。なのに着物。飴色の髪を風になびかせて、あぐらをかきながら湯飲みをすすっている。これがミスマッチなのか、逆にハイセンスなのか……永遠の命題だと思う。
 旧友はこんな山奥で、年に数札の本を書いて暮らしている。
 市場で名前を聞かないから売れているかは知らないが、こんな生活を何年も続けているのだから、それなりなんだろう。数冊読ませてもらったが、別にこれといった感想はない。一つ言うなら、誰が書いたか知ってるくせに、女が書いたかと思うような文章だったくらいか。
 友は再会を喜ぶ仕草など微塵も見せず、さらりと言葉を重ねた。
「身内に不幸でもあったのか」
 開口一番、この言い草である。
 学生時代はみんなが『石像か佐高か』と言うくらい、無口に無表情、無愛想と三拍子揃っていた友人だったが、年月を経るに連れ、人付き合いというものが分かってきたらしい。最近では自分から話し掛けてきたり、受け答えにイエス・ノー以外が付随するようになった。もっとも、前の方が要らない問題を起こさなくて良かったような気がするが。
 細かい事に拘っても仕方ないと、俺は肩を竦めて縁側に腰を掛けた。
「別にこれといって何もないさ。久々の休暇だと思ったら、急に何をしたらいいのか分からなくなってな」
「こんな辺鄙な所に来るぐらいなら、嫁に愛想でも売っていれば良いだろう」
「それならお気遣いなく。日頃からきっちりやらせて頂いておりますゆえ。それに今日は平日だろ? 奥様も子供も仕事なんだよ」
 片眉を僅かに上げて、友人が俺を見た。
「……なんだ。お前の子供、帰ってきたのか」
「色々あったけどな。なんだかんだでまあ、良かったな」
 考えるより前に、苦笑で言葉を濁していた。
まったく。核心を突きすぎなのだ、この男は。
 仕事の疲れなど感じたことのない俺が、不意に息抜きがしたくなったのは、突然帰ってきた放蕩息子の件が少なからず絡んでいる。正確には、愚息が山ほど抱えてきた諸問題が、だが。
 そんな俺の内心などお見通しなのか、はたまた全く思いやっていないのか。友は湯飲みを口元へ寄せ、ふっと湯気を吹いた。
「あの育て方じゃあグレるだろうとは思っていたが……戻ってきたのか。偉いな」
「お前な、肩入れすんのはそっちなのか」
「普通、父親を撃ち殺して逃走してたら、出て来れんだろう」
「殺されてないし撃たれてないから! ただちょっとこめかみに銃口突きつけられただけだから!」
 母親譲りで妙に神経の細い所のある息子は、十五の時に何を思ったか、『家出するから、この偽造カードに○億振り込め』と請求してきた。俺と、それから自分のこめかみに銃口を当てながら。
 あの時はある意味感心したものだが、いっそ他人に誘拐されていた方が精神的には楽だった……。一体いつ育て方を間違ったのか。護身のために射的とかを習わせていたせいだろうか。あと他にも色々あったかもしれない。
 悶々と悩み始めた俺を一顧だにせず、友人はしみじみと茶を飲み干した。
「なんにせよ、元気でやっているなら何よりだ」
「まあ、一応元気では――ああ、そうだ。馬鹿息子の奴、知らない内にお前の姪御ちゃんたちと仲良くなってたぞ」
「姪御?」
「違った、イトコ子の。あの子もヴィセの所で世話になってるんだろう? 息子もこの間まで一緒に住んでたみたいで――」
 ゴトッと鈍い音がして、友人の手から湯呑みが落ちた。
「お前と親戚になるのは断るとあれほど……!」
「いやそういう意味じゃないけどな」
 悲愴げな呟きを思わずぶった切る。意外と俗な発想もするんだな、お前。
「お前のことだから、また先手を打って養子の申し入れにでも来たのかと」
「そこまで過保護じゃないですよ」
「昔はしょっちゅう『娘になれ』って強要してただろう」
「あれは息子が一人っ子なのが可哀想だったから、ついつい可愛い子を見ると兄弟にしてあげたくなっちゃってただけで――」
「お蔭で愛息子に嫌われてりゃ、世話ないな」
「……反省はしてるぞ、一応」
 六人兄弟の末っ子として育った俺は、一人っ子の息子を見るに忍びなかった。サッカーチームが出来るほどとは言わないが、三人以上、できれば自分と同じ数だけの兄弟を作ってやりたいと思っていたのだ。
 それを嫁が、腹を痛めた子供同士が遺産問題で争うのは絶対に嫌だと言い切った。『兄弟を作るなら他の女とやれ。その時点で私は離婚する』と。なまじ金があるだけに反論できなかった。
 若い頃は、そんな嫁への不満が愚痴となって出た。それも、他所の子を見るたびに『あんな娘が欲しかった』だの、『あんな息子も欲しかった』だのと、妙に遠回りでチクチクした言い方で。自分の小ささを思い知る話だ。
 それが、幼かった息子には『お前じゃなくてあの子が良かった』と聞こえていたと知ったのは、ついこの前のことだった。冗談めかして告げられた本音に、二の句が継げなかった。
 そんなことがあった次の休みに、ふと旧友の顔が見たくなった。それだけのことだ。
 軽く自分を笑ってから、俺は靴を脱ぎ、縁側に上がりこんだ。
 友が不思議そうに見上げてくる。
「なんだ、今日は上がっていくのか」
「いつも上がってるだろ? 喉が乾いたんだけど」
 いつもと言いながら、そういえば以前は縁側で立ち話をして、すぐに帰るのが常套だったと思い出す。
「お前はコーヒーだったな」
 友人は立ち上がり、座敷の奥へ消えた。
 俺は勝手に縁側から上がり、隅に重ねてある座布団を一つ取って置いた。もう一つは適当に放っておく。畳の床なんて懐かしい。生家にあった奥座敷を思い出す。
 にゃあ、とけだるい声がして、この家のもう一人の住人が顔を出した。
 灰色で不思議な紫色の目をした猫だ。種類はたしかロシアンブルー。
 友人はこの種の猫をずっと飼っている。高校の頃からだから、かれこれ二十年以上になるか。この猫はまだ若いから、二代目か三代目なんだろう。
「お邪魔してるよ、おチビさん」
 頭を撫でてやると、猫は条件反射で目を閉じた。一度撫でられただけで満足したらしく、するりと手の内を抜けると障子の向こうへ消えていった。
 誰も居なくなると、部屋の奥が一段と暗くなったように思えた。
 静かだった。
 人のいない寺のようだと思いながら、畳に寝転ぶ。
 縁側の向こうではまだモンシロチョウが飛び回っている。外の世界は明るくて、この上なくのどかだ。緑が黄色みを帯びるほどの陽射し。

 そのままどれくらい眠ったか。
 目が覚めたときには夕方近くなっていた。
 傍らに置かれた有田焼の湯飲みには、冷めたブラックコーヒー。
 その下には『買い物に出かける』とだけしたためられた薄紙が敷かれている。
「相変わらず字だけはうまいな」
 小さく呟いて起き上がった。
 縁側に脱ぎっぱなしの靴を履いて、腰まで届く雑草を掻き分ける。
 ちょうど車に戻った時、遠くに買い物袋を提げた友人が見えた。
 片手を挙げて、笑う。
「また来るわ」
 友は静かに頷いた。


END
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