……ついてない。
 狭い教室は七月の熱線を受け、じわじわと温度を上げつつあった。首の後ろがじりじりする。
 俺はシャーペンの後ろで首をかくと、そのままプリントに突っ伏した。
 解答用紙には『出席番号二番、安藤宏人』と書けただけ。あとは真っ白だ。
(夏風邪はバカがひくんだぞう、相沢君)
 心の中で前の席に座るはずだったクラスメイトへぐちって、目を閉じる。このまま惰眠をむさぼってしまおう。白紙の解答用紙を睨み続けるより、その方がよっぽど有意義だ。
 相沢君は出席番号だけでなく、成績もクラス一の秀才で、いつも読みやすい字で俺に解答を教えてくれていた。その答えを書き写すだけで点数がもらえるのだから、テストなんてチョロいものだった。――相沢君が元気に登校してくれるうちは。
 今日、その席は空だ。
「どうした、安藤。気分でも悪いのか?」
「あ、いえ……」
 突然見回りの教師に話しかけられて、俺は焦って顔を上げた。さっと解答用紙を質問用紙の下に入れる。見られたくなかった。
「その、ちょっと調子悪くって……」
「そうか。保健室に行きたければ言いなさい」
「はい」
 教師が立ち去る。その背には、いつものとおりA4ほどの白い紙が貼ってあった。そこには整った文字で、『安藤、テストの方も不調そうだな』と書いてある。くそ。
 俺は何気ないそぶりを装って教室中を見回した。みんな必死にテストと向き合っている。その背中にも白い紙が貼ってあった。窓から入る風で、ひらりひらりとひるがえっている。
 俺がそれらを指摘することは、もうない。
      ◆
 俺が初めてこの張り紙を見つけたのは、小学生の頃だった。学年中で背中に紙を貼り付ける遊びがはやったときだったから、三年生のはずだ。
 ノートの端に適当な言葉を書き付けて、こっそりと友達の背後に回る。そうっと、素早く手を伸ばして、触れるか触れないかのところで手を放す。この瞬間がいいようもなくドキドキして、思わず息まで止めてしまう。
 できれば相手に触らないで、ぽとんと落とすようにしてセロハンテープの力で付けるのが理想だ。けど、そうすると接着力が弱くて、ぽろりと落ちてしまうこともあった。肩を叩く振りをして、さりげなく擦り付けるのもいい。だけど、相手に気付かれたらアウトだ。
 よし、気付かずに貼れた、と思えば、自分も背後を取られていて。
 悔しくて楽しくて、バカ騒ぎしながら次はどんな手段で隙を突いてやろうかと、虎視眈々と狙ってた。
 そんなある日、俺は紙を貼り付けようとした友達の背中に、先客が陣取っているのに気づいた。
 真っ白で折り目ひとつない、大きなA4用紙。それが、友達の小さな背中を我が物顔で占領してた。
 書いてあったのはたった一言。
『今日のおやつ、なにかなぁ』、だった。
(おかしい、さっき見たときはなかったのに)
 俺が首をかしげたとき、その文字が黒板消しで消したみたいにさっと消えた。
 不思議に思う間もなく、まるで見えない鉛筆が落書きしているみたいにつるつると新しい文字が書かれていく。つたなくて汚い、友達本人の字で、
『やっぱりチョコがいいな』
 と書かれたのだ。
 俺は焦った。
(なんだこれ)
(この紙、おかしい!)
 とっさに逃げだそうとした当時の俺は、ぐっと思い直して紙を見すえた。
(このままボクが逃げたら、けんとくんの背中にこの紙がくっついたままだ。こんな物がついてるなんて知ったら、きっとびっくりする。取ってあげよう……怖いけど)
 俺は子供なりの正義感から、そっと手を伸ばした。
 そのとき、友達がくるりと振り向いた。同時に文字がぱっと変わる。
「『あ〜! ひろちゃん、また付けたな!』」
 言葉と文字がピッタリ同じだった。
 硬直する俺を見て、友達は背中をまさぐる。それから不思議そうに首をかしげた。
 もう一度、文字が変わる。
「『なんだ、なんもついてないじゃん。びっくりさせんなよー』」
 俺はポカンと口を開けたまま、しばらく友達の背中にひるがえる紙を見つめた。
 それから、大切なことを理解した。
(この張り紙、考えたことが書かれちゃうんだ!)と。
 俺は友達の背中をおそるおそる指さした。
「け、けんとくん……背中にへんな紙がついてるよ」
「『へん? どこに?』」
「どこって……」
 俺はその紙を取ろうとした。けど手は紙をするりとすり抜けて、友達の背中に触れる。
 目を白黒させる俺を、友達は怪訝そうに見て、きっぱりと言い切った。
「『やっぱりないじゃんか。ひろちゃんのうそつき!』」
 この後、俺は三ヶ月間このネタでいじめられた。他人の心が読めたせいで、大人にも気味悪がられたことが、今でも心に残っている。
      ◆
 終了の鐘が鳴り、解答用紙が回収された後も、俺は机にぐったりと寄りかかっていた。
「終わった……。本気で終わった、俺の成績」
 いつもなら前の席の秀才君の背中を見るだけで八十点代は堅かった。それがこのざまだ。高校三年なだけに、受験に直に響いてしまうのが痛かった。
「やっぱ自分でも勉強しないとなぁ。受験でもいい席が取れるとは限らないし」
 はぁ、とため息をつく俺の背中を、ぽんぽん、と叩く手があった。
 顔を上げる。クラスメイトの上谷だ。
 彼女は腰まで届く長い黒髪を耳にかけながら、無表情で問いかけてきた。
「結果、どうだった?」
「とてもじゃないけど第一志望は無理。地元の私大がせいぜいだよ」
「そう。じゃあね」
 もう一度ぽん、と背中へ手をつき、上谷は去っていった。その背中には流麗な文字で何か書いてあったけれど、俺はあえて読まなかった。
 その様子を見ていたツレの三好が、ヒュウと口笛を吹く。古めかしいはやしたて方だ。
「えらい冷たいな。傷心の彼氏に」
「いいんだよ。もう別れたんだから」
 億劫にこたえると、三好が目を丸くした。
「マジで?」
「まじで」
      ◆
 上谷が特別な存在になったのは、新学期が始まって二週間ぐらい経った頃だった。それまでは物静かなクラスメイトというくらいの認識しかなかった彼女が、本当はあんな性格だなんて、思いもしなかった。
 きっかけは朝の満員電車でのこと。
 始発駅から座っていられる俺は、毎朝上谷と同じ車両に乗っていた。彼女は三つ後の駅から乗ってくるから、当然おしくらまんじゅう状態でずっと立っていることになる。
 その日は、偶然上谷が俺の前に立っていた。とはいえ、仲良くしゃべるような間柄でもなかったから、俺は俯いてケータイの画面を見ながら、うとうとしてた。
 上谷は参考書を片手にすました顔でつり革を握っていたんだが、突然、背後に立つスーツ姿のサラリーマンの手を捻りあげた。
「この人、痴漢です!」
 お決まりの一言を叫ぶ、上谷。
 周りの人々の視線が一斉に彼女へ集まった。その背中にある紙にザザッと文字が走る。
『痴漢!?』とOLが思えば、
『女子高生すげぇ。昼ドラみてぇ』とリクルートスーツの大学生が笑う。
『痴漢発見なう』と携帯に書き込む高校生。
 そして五十代の真面目そうなおっさんの背中には、『うはw こいつ人生オワタwww』とあった。
 一方、容疑者の男は、驚いたまま口をぱくぱくさせていた。厳つい顔をした大柄な男だ。太い首とずんぐりした体型から、柔道でもやってたんだろう。短く刈りこんだ髪の下にある額は真っ赤で、脂汗が浮かんでた。
 その背中にある紙が目に入り、俺はちょうど飲んでいたスポーツドリンクを危うく噴き出しかけた。
 そこには丸っこい文字でこうあったんだ。
『ちょっ、ちょちょちょちょっと待って! アタシ・・・が女の子に興味あるわけないデショ!』と。
 そうかー……。
 そっち系の人が女の子に痴漢なんかするわけないよなぁ……。
 俺がしみじみと頷いているうちに、哀れな容疑者は手を掴まれたままオロオロして「あ、あああの……」と呟いていた。
 上谷は目をつり上げて、掴んだ手を揺さぶった。
「この人がわたしのお尻を触ったんです! 最っ低!」
 そのとき、俺の視界の端に、さりげなく場を離れようとするオジサンの背中が目に入った。
その背中にはこうあった。
『ラッキー。今のうちに逃げよう』
 それを見た瞬間、俺は授業中に教師へ手を挙げるみたいに、上谷へ手を挙げていた。
「その人じゃないですよ」と、よそ行きの声を出す。それから逃げて行く茶色い背広をすっと指さして、「俺、見てましたから。あの人が手ぇ出してたの」
 もちろん大嘘だ。
 だけど俺の一言で容疑者の男が我に返ったらしい。
「そそ、そうよっ、じゃない、そうですよっ。アタ……ぼ、僕は痴漢なんてしてません!」
 男はしどろもどろで手を振り払った。
 そうこうしているうちに電車は次の駅に着き、本物の痴漢男は走って逃げていってしまった。
「あーあ、逃げちゃった……」
 残念無念と呟くと、上から声が降ってきた。
「出席番号二番、安藤宏人」
 上谷だった。ぶっきらぼうな話し方だ。
「見てなかったでしょ、君。なんでわかったの?」
 尋問するように見下ろされ、俺はへらりと笑い返した。
「うん、ばれたか。でも本当にあの人がやったから。逃げたのはその証拠だよ」
「だから、なんでわかったのって訊いてるの」
「人間観察力ってヤツかな。よくいるんだよ、ああいうの」
「ふーん」
 全然信じてなさそうに、冷たく見下ろされた。上谷は本を持ったまま腕を組み、俺を頭のてっぺんからつま先までじろじろと、極めて冷たーく観察する。ああそうか、俺の言葉をそのまま態度で返してきたのか、彼女。
 それがわかった瞬間、俺はぷっと笑ってしまった。
「なによ」
「いや、別に」
 不機嫌そうに言われて、俺はとっさに取り繕い方がわからなかった。だから自分でも思いがけないことを口走ってしまったんだ。
「えーっと、ところで上谷ってさ、詩とか書くの好きなわけ?」
「なっ、なんで知ってるのよ!」
 上谷の顔つきが変わった。すぐに自分の失言に気付き、耳まで真っ赤になる。おお、けっこう可愛いところもあるんじゃん。
「俺の席からだと、授業中になんか書いてるのが見えるわけ」
「君、どんだけ目がいいの?」
 上谷の質問もごもっともだった。上谷は俺の斜め二つ前の席にいる。授業中は長い髪で手元を覆い隠すようにして何事か必死で書いているから、そう簡単にのぞき込めないんだが、あいにくと俺は違う。その黒くて長ーい黒髪の上にぴたっと貼られた白いA4用紙に、綺麗な文字でつるつると詩が流れていくんだから。授業中にポップスの歌詞を流すヤツはよくいるんだけど、それとはちょっと毛色が違ってて、暇なときに眺めては心を慰めたりしてたんだ。
「上谷の字、綺麗でさ」
 俺はなにかを書く仕草をしながら、上谷の顔を見上げた。
「今度見せてよ。俺、そういうの好きなんだ」
「……っ。好きにすればっ」
 ぱっと、上谷が顔をそらした。その横顔は照れてるようにも見えたけど、その三倍ぐらいは怒ってるみたいに見えた。
 そんなわけで、俺たちの恋は古式ゆかしく、ノートの交換から始まったのでした。
 脆くも四ヶ月で崩れましたが。
      ◆
 テスト疲れのせいかぼーっと記憶を辿っていると、三好がとん、と肩を叩いた。
「おい、安藤」
「ん?」
「お前、背中になんか紙が付いてるぞ?」
 それは、今まで誰にでも思ってきた言葉だ。そして、誰にも言えなかった言葉でもある。
 慌てて振り向いたときには、三好がその紙を取っていて、俺に差し出していた。
 小さなノートの切れ端には、流麗な文字でこうあった。
『話があります。屋上に来てください』
「上谷の筆跡だ」
 次の瞬間、俺は教室を飛び出していた。
      ◆
 晴れた空に照らされて、屋上はじんじんと熱を持っていた。空気が澄んでいるのか、今日は遠くの山脈がはっきりと見える。
「ねっちゅー症になるよ」
「……気付かないと思ってた」
 上谷は屋上の貯水タンクがつくる日陰に座りこみ、ノートになにかを書き付けていた。壁を背にしているため、心の中はのぞけない。
 俺は荒い息を整えて、上谷の横にしゃがみ込んだ。あのノートの切れ端を差し出す。
「危うく、家に着くまで笑い物になるところだったよ」
 俺はうざったくなってきた前髪をかき上げた。
「話ってなに?」
「東京の大学に行くの」
 間髪入れずこたえられ、俺は次の言葉と一緒に息を飲み込んだ。初耳だった。
 上谷はパタンとノートを閉じると、こちらを見上げてうっすらと笑う。それから立ち上がり、青空を見上げながら屋上の手すりまで歩いていった。
 彼女の長い黒髪を風がさらい、それに合わせて髪の上に貼り付いた紙がひるがえる。
『引き止めてよ。宏人クン』
 俺は目を見開いて上谷の背中を見つめた。
 上谷は手すりを掴み、景色を見て言った。
「さすがに公立は無理だけど、私立でもいいよって、親がね。説得するの大変だったけど」
『君と離れたくないよ』
「もちろんバイトして学費の足しにしないといけないんだけどね。そこは仕方ないかなって」
『もっと一緒にいたいの……!』
 俺は上谷の言葉と背中の文字の違いに、頭がくらくらした。口と心の文字が一致しないのは、口から出した言葉が本心じゃないからだ。だから上谷の憎まれ口は、嘘に近い。
 それがわかってしまったから、俺はなにも言えなかった。
 はじめに思い浮かんだのは、「どうして今更?」という一言だった。俺たちの関係はとっくに終わってる。ある日いきなり「別れて」って言われて、理由も教えてもらえなかったんだぞ。なのになんでいきなりそんな、すがるようなことを言い出すんだ。あれだけあっさり振られたんだ。いくら脳天気な俺でも、三日は食が細くなったっていうのに。
 前髪をかき上げて、頭をガシガシとかく。
「どうして今、俺に言うわけ?」
「このテストの結果で、推薦が決まるから」
 上谷はまっすぐ前を向いたまま、さらりと言いのけた。
『好きだから』
『そばに、いたいよ』
 甘い言葉が背中を飾る。わからない。彼女がなにを考えているのかがわからない。
 俺はあの日、去っていく彼女の背中の文字を読まなかったことを、本気で悔やんだ。こんなことを思うなら、どうしてあの時、俺を振ったんだ。
 俺はどう返したらいいのかわからなくて、いっそ目をつぶろうかと思った。
 偽りの彼女だけ信じようとした。
 そのとき。
『でも、夢のためには東京じゃなきゃだめ』
 ――夢。
 その一言で目が覚めるような気がした。
「上谷」
 俺は腹を決めて、はっきりした声を出した。
「俺、今でも上谷の言葉、好きだよ」
 それは俺にとって、告白以上の意味があった。上谷の背中を飾る言葉はいつも『きれい』だった。何気ない日常の景色を水彩絵の具でさっと色づけするように、心を豊かにしてくれる。ぼーっと眺めていた青空を、上谷が『雲、透き通ってる』と思っただけで、俺の世界まで輝きだしてくるくらいに。
 俺は上谷の背中の『夢』という字を見つめたまま、よく通る声を出した。
「作詞家、目指してるんだろ。そのために東京に行くんだろ」
「なんで知って……っ」
 上谷はなかば振り返ってうろたえたが、俺の目を見るとおとなしく視線を前へ戻した。彼女は俯いて、
「……うん。そう」
 小さく頷くと、その背中が雄弁になった。
『東京で音楽出版社に所属して、ツテをたくさん作らないと。夢のためだったら、どんなに辛いことでも我慢してみせる』
『でも』
『宏人クンと別れるのは、嫌だよ』
 俺は無意識に歯を食いしばった。目をつむっても上谷の言葉が瞼の裏に焼き付いてる。
 俺だって上谷のことが好きだ。できればずっと一緒にいたかった。それが叶わなくても、背中を見つめていられればいいと思ってた。それは手ひどく振られた今でも変わらない。
 でも、これだけは言わないといけなかった。
「俺はついて行けない。俺は――東京みたいに人の多いところは、向いてないから」
「そんなこと」
「あるんだよ。本当に」
 重く言い切る。上谷の横顔をじっと見て。
 俺は人の心の中を読むことができる。親しい人も、通りすがりの他人も等しく同じに。それも知りたくもない心の奥深くまで。
 だから人混みになればなるほど消耗する。東京なんて人の多い場所に行ったら、数日で寝込んでしまうかもしれない。
 そんな自分が、俺は本当に嫌だった。なんで人の心なんか読めるんだろう。知らなければ幸せなことを、これまでもたくさん知ってきた。ちょっとした失言で気味悪がられたり、間の悪い思いをしたことも何度もある。
 そういう失敗を繰り返すうちに、気付かないふりを演じることを憶えた。そしてそれは本当に、苦痛だった。
 いつか田舎で自給自足しながらのんびり暮らすのが夢な俺にとって、上谷に付き合って東京へ行くことは不可能に近かった。
 だから俺は今、自分の立ち位置を決めた。俺はここ・・から動かない。動けないからこそ、上谷を全力で応援しよう、と。
「上谷の頭の中にある言葉が好きだ。上谷が作詞家になって、もっとたくさんの人に言葉が届いたら、俺も嬉しい。だから――だから、行けよ、東京」
『嫌』
 上谷の背中に、書き殴られた大きな文字が浮かんだ。いつもの達筆な文字とは違う、乱れた筆跡が彼女の心を浮かび上がらせる。
『離れたくない離れたくない離れたくない』
『もっと一緒にいたい。ずっと、ずっと!』
『嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよ!!』
 俺は両手を伸ばす。
 その紙ごと、上谷の背中を抱きしめた。
「ごめんな。俺、全然気付かなかった。見えてたのにな……見てなかったんだ」
「……っ、なに言って……?」
 上谷は身体をこわばらせたけど、嫌がるそぶりは見せなかった。
「俺を振ったの、期末試験の二週間前だったよな。その頃から上谷が詩を書かなくなったの、知ってたんだ、俺」
 失恋の痛手から、俺は上谷の背中を見なくなった。そこにある言葉の魅力より、胸の痛みのほうが辛かったから。だからすっかり見落としてたんだ。彼女が真剣に、その人生をかけてまで勉強してたんだってこと。
「試験のために俺と別れて、勉強して。必死になって夢を叶えようとしてたのに。俺は腐って勉強もしないで、このざまだ」
 苦笑いが泣き顔みたいになった。
「偉いよ、上谷は。どうして俺なんかに惚れたんだってくらい、立派だよ」
「――君が初めてだったの」
 ぽつりと、上谷が呟いた。
「わたしの詩、認めてくれたの。両親も友達も、ろくに目を通さないで『そんな夢危ない』って、『いつか忘れられるから、今は普通に進学しなさい』って。だれも――言葉だけでわたしを見てくれなかった」
「それは上谷のことを心配してるんじゃ……」
「そう。だから辛いの。正しい言葉って、すごく痛いんだよね。なにも言い返せないし……」
 上谷の声に力がこもった。
「そんなときに、君に出会った」
「俺は……、そんな大層なヤツじゃないよ」
 俺は思わず逃げ腰になる。
 それを上谷は苦笑でこたえた。
「知ってる。付き合ってみて、君の性格はよくわかったから」
「そっか……」
 俺は上谷を抱きしめる腕をゆるゆるとほどきかけた。上谷にとって、俺の存在は夢を支える柱だったらしかった。同時に、夢へ繋がるステップの一つでもあったわけなんだけど。だからこそ今、彼女は俺という踏み台をひらりと飛び越えようとしている。自分の思いと激しく戦いながら。
 本当はたぶん、上谷は俺に振られたかったんだ。憎まれ口を叩いて、俺に嫌われて、自分の思いを踏みにじってもらいたかったんだろう。
 だけど俺には上谷の心が読める。読めてしまったからこそ、それを踏みにじるような言葉は言えなかった。上谷の夢を尊重して、俺への思慕を丁重にお断りすること。それしかもう考えられない。
 でも――それはきっと俺の甘さだ。心が読めるせいで、いつも先回りして甘い顔をする癖が俺にはある。それは上谷にも、三好にも、教師にも、まんべんなく振りまいてきた俺の性質に近いものだった。
 ――だめだ。
 ――ここでいつまでも俺という居場所に溺れさせちゃいけない。
 突発的に、そう思った。
「上谷、俺――」
 ほどこうとした手に、華奢な指がはう。手に手を重ねられた。
「だけどね」
 上谷はまっすぐ前を向いたまま、苦笑混じりに微笑んだ。
「一度好きになったものは、そんな簡単に捨てられないんだね。君と別れて本当によくわかった。自分がどれだけワガママなのか」
 上谷が俺の手をぐっと掴んで、はっきりと宣言した。
「わたし、夢も君も諦めない」
 俺はその手を振り払えなかった。ぎゅっと掴まれた手のひらが熱い。
 その手を俺は掴みかえした。
「……俺は上谷を尊敬する」
「宏人クン?」
「普通、どっちか――いや、俺だったら両方諦めるだろうからさ。夢中になれるものを二つも持ってるなんて、正直、羨ましいよ」
 上谷が顔をあげて、斜め後ろにある俺の顔を振り返って見上げた。顎の線がきれいだ。
「君が夢中になるのに、わたしじゃ不足?」
「そうじゃないけど」
「……じゃあ」
「うん」
 俺は小さく息を吸い込んだ。
「もう一度、いいかな?」
 上谷が俺の腕の中でくるりと振り返った。なにも言わず、俺の胸へひしっと抱きついてくる。
 ――今、なに思ってるのかな。
 それが読めないことを残念に思いつつ、俺は彼女の細いあごを掴んで顔を上げさせた。
 そうして初めて思った。
 上谷って、こんなきれいな顔してたんだなって。
      ◆
 それから俺たちは真面目に勉強にうちこんだ。一学期の期末で大ゴケした俺は、二学期でなんとか持ち直した。もちろん、カンニングなしで。
 上谷は安定した好成績を維持し、無事、東京の大学に合格した。地元の私大にギリギリで滑り込んだ俺とは大違いだ。
 春になって、一通の手紙が届いた。丁寧な文字で綴られた上谷の言葉に、俺は何度見てもにんまりしてしまう。この跳ね方、払い方。どこをとっても完璧に俺好みだ。今時無理を言って手紙を送ってもらっただけの価値はある。上谷にはすっかり『文字フェチ』扱いされているけど、まあいいや。
 俺は今、その手紙の返事を書いている。

『拝啓   上谷へ
  お元気ですか。
  自分の字はあんまり好きじゃないけど、
  頑張って丁寧に書くよ。
  メールでも書いたけど、最近は真面目に
  勉強してる。
  実力もつけないと、大学じゃ通用しない
  しさ。

  それから、実は俺さ。
  いっそのこと、筆跡鑑定士になろうかな
  って、思い始めてるんだ――』



END
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