四章 ドルチェブルグの秘密 「『本日のケーキ五種盛り』をご注文のお客さまぁ」 昼時のルーメンにアルマのよく通る声が響いた。今日は給仕係を任されているので、目が回るようないそがしさだ。 「こちらは『黄色フルーツの盛り合わせ』と『春の野べに遊ぶウサギケーキ』ですぅ」 「店長、ご注文入りました。『そのときマリーは見た 〜やわらかイチジクのコンポート添え〜』、二つです!」 「はいよ。じゃあこれもってって、『ことトキ』と『ののの』よ」 「はい! 『言葉なんか要らない 〜トキメキのあの時〜』をご注文のお客さまぁ」 フリーダのケーキは見た目と名前の突飛さもあって、初めてのお客は混乱するのだが、どれも一口食べれば納得の味で、リピーターがとても多い。 一方、リアが作るフルーツの盛り合わせは最近のデブテロの影響か注文が増えていて、特に年配の男性に人気だった。 アルマが『ののの』こと『恋の花の蜜の味』を運んでいると、ちらりと視界の端に巨大な人物が目に入った。 甘い香りの漂う昼時のルーメンの喫茶コーナーには、ケーキ以上に甘い二人がいた。 「はいエルク、あーん」 小さなフォークのパイナップルをエルクの分厚くなった唇がぱくりとくわえた。 「おいしいよ、ティア。でもなんで僕だけフルーツポンチのシロップ抜きなんだい?」 「退院したからって油断しちゃダメだからよ。これからは私も料理を覚えて、あなたの体調をしっかり管理しますからね」 と、なにやら奥様じみた貫禄がでたティアナが微笑んでエルクの口元をぬぐう。 今日はエルクの退院日だった。病院を出たその足でルーメンへ来たという二人を、店長であるリアは温かく迎えてくれたのだが……。 「……すっかり夫婦ね」 「あたし、ティアナさんの愛には負けたわ」 「あのイケメンエルクがこれだもんなぁ」 「初めはもっとひどかったんでしょ? すごいわ、私なら耐えられない」 店子たちの感想は様々である。 ティアナとエルクが揉めたあの日から二ヶ月が過ぎ、結婚式まで残り三ヶ月となっていた。 あれからアルマのスランプはすっかりおさまり、料理の腕前も上がった。最近では兄のことはティアナに任せ、お菓子作りに専念している。 失敗しても以前とは違ってあっけらかんと師匠と笑い合い、行き詰まったときはヴィルに相談するなど、自分なりの乗り越え方を覚えた。 そのおかげかケーキの腕前も上達の兆しをみせ、今週からは店先にアルマの焼き菓子を置かせてもらえるようになり、ケーキを買った人にオマケとして無料提供しはじめることになった。まだまだ未熟さを感じることも多いが、有意義に時間が流れている。 ただ、一向に進まないウエディングケーキの件をのぞいて。 アルマは次のケーキを運びながら、ウエディングケーキの試作品の数々を思い出した。マジパンで作った人形やチョコレートの動物を乗せたもの。飴細工でつくった薔薇の花や、百合の花をブーケにして乗せたもの。カラフルなバタークリームでデコレーションしたものなど、どうにも野暮ったさが抜けなくて、師匠やリアに良い顔をされないのだ。センスを磨くために街中のケーキ屋を巡ったりしたのだが、なかなか思うようにいかない。 厨房のカウンターに戻ると、珍しく盛りつけ係をしているフリーダがいた。依頼品を作り終えたので、もう工房にこもっていなくてもよくなったのだ。 「エルクくんたち、仲良しねぇ」 「はっ、お幸せそうでなによりですこと」 フリーダの隣でリアがけっと息をはいた。 カウンター越しにリアの正面に座っていた警官のカールが、ケーキをつつきながら笑う。 「はは、お前みたいな凶暴女を貰う奴なんていねぇもんなー」 「リアは男っ気ないもんね。お姉ちゃん、ちょっと心配かも」 「なに言ってんの、あたしは引く手あまたよっ。ただ、あたしに見合うような男が寄ってこないだけでッ」 「お前が見合ってねぇだろ、その胸以外」 「なんですってぇ〜!」 オレンジを投げようとするリアを、フリーダのおっとりとした声が遮った。 「で、アルマちゃんのほうはこの前の彼とどうなってるの?」 「え。ヴィルのことですか?」 「そうよ、結構いい雰囲気だったと思うけど……」 「ああ、あのアルマの知り合いの。結構な顔立ちしてたわよね」 カールにオレンジを投げるのを諦めたリアが、その皮を剥きつつ話に参加した。 言われて思えば確かにヴィルは整った顔をしていたような気もするが、アルマにはいつも着ている黒い外套の印象しかなかった。 (そりゃ、まあ、ああいう格好が似合うって時点でかっこいいのかもしれないけど……) 「私はお兄ちゃんみたいな優しい性格の人がいいんです。顔が全部じゃないって、今回のことでしみじみ思いましたもん」 「確かにエルクは内面イケメンだもんねぇ。『ヘンゼルの骨』が効いてた頃は外見もすごかったけど」 この店の店子で惚れてなかった子はいなかったのよ、と言い、リアが笑った。それからカウンターの向かい側に座っているカールを見やり、 「あんたも見た目だけでも努力すれば?」 「外見ばっかりの女っつうのも困るんだよなぁ、ワガママばっかで」 カールがわざとらしく溜息をついた。 そこでフリーダがふとカウンターの端に置かれた日程表を見た。今度の木曜日に大きく花丸がついている。 「ねぇ、今度の試作品発表会にヴィルくんも呼んでみたら? きっとアルマちゃんの上達を喜んでくれると思うの」 「ええ? アイツがですかぁ?」 確かに最近は困ったときに意見を聞くなどしているが、あれ以来ヴィルがケーキに興味を持った様子はない。自分の新作薬膳レシピなら若干自慢げに披露してくれるのだが。 「まあ、言うだけ言ってもいいですけど……来ないと思うなぁ」 アルマが顔を上げたとき、隣でカンター越しにいがみ合っているリアとカールの白熱した議論が聞こえてきた。 「だーかーらぁ、あんたみたいなアホは彼女ができないのよっ」 「なにおぅ? お前だって嫁のもらい手がつかねぇじゃねぇか」 カールが自分のケーキにぶすりとフォークを突き刺し、リアをにらんだ。 リアはふふんと鼻を鳴らす。 「あたしは姉さんに先をゆずってるのよっ」 「嘘つけ、んなことしてたら一生行き遅れだろうが!」 と、カールが思わず正論を言ってしまった。 実際フリーダのケーキにかける熱意は異性に向けるべき情熱までも吸収しているらしく、まったく男っ気がない。リアほどではないが美人ではあるので、人気がないわけではないのだが。 (……恋人候補っていうより、信者なんだよね) ほぼ全員がフリーダのケーキの信奉者なのだった。フリーダは「いつか目が覚めるわ」とのんきに構えているのだが、その数は日に日に増えているらしい。 嫌な沈黙が流れる中、フリーダがおっとりと頬に手を当てた。 「そうなのよねぇ、かしこい男の人はみーんな避けてっちゃうのよねぇ」 「…………」 しみじみと頷くフリーダの一言に、カールが無言を継続した。のんきな姉へリアがじっとりとした視線を送る。 「姉さん、それ、すごい嫌味ってわかってる……?」 ルーメンの乙女たちに、春は遠い。 § § § 昼をすぎて三時近くなった頃、カラランと飴細工チャイムが鳴って、甘いバニラの香りが漂ってきた。 「こんにちは、ルーメンの皆様」 美しいプラチナブロンドをさらりと耳にかけつつ、クララが飴ガラスの向こうから顔をのぞかせた。 「今日は先日の依頼品のご報告に参りましたの。フリーダ様はいらっしゃって?」 「いらっしゃい、クララちゃん」 フリーダがエプロンで手を拭きながらカウンターから出た。 「わざわざ来てくれたのね。工房でお話ししたほうがいいかしら?」 「いいえ、ちょっとしたご報告ですもの」 「そう。あれからどう?」 「すばらしいですわ!」 クララは胸の前で手を合わせ、夢見るように続けた。 「さっくりとした歯ごたえはそのままに、以前にも増して香ばしい風味が加わって……まさに理想のお菓子でしたわ!」 「ご期待に添えてなによりよ。効果のほうはどう?」 「ええ、期待以上でしたわ。完成品を参考に工場で量産していますけれども、まったく質が落ちませんの」 そこで一度言葉を切り、クララはきっと表情を引き締めて眉をつり上げた。 「これでもう、アルマさんのお兄さんみたいな、悲しいテロなんて起こさせませんわっ。デブテロリストどもに目にもの見せてやりますのっ」 それからクララはケーキを三つ買って去っていった。 ケーキボックスを持ってしずしずと歩くクララの後ろ姿を眺め、アルマはふと不安になってフリーダに尋ねた。 「あの……依頼のお菓子って、この前私と一緒に作ってたクッキーですよね?」 「そう、『ヘンゼルの骨2』よ」 「ツ、2ぅ?」 「テロにあっても大丈夫なように、幻惑の能力を強化したの。アイヒマン社の工場で大量生産されて、今日にでも街に出回るわ」 アルマは工房での出来事を思い出す。一緒に完成した喜びですっかり忘れていたが、あのぽんぽん爆発した試作品のことだろう。あれがアイヒマン社から発売されるのか。 (……大丈夫、だよね? 師匠が作ったんだし……) 言いしれぬ不安を感じつつ、アルマは給仕に戻った。 § § § アルマは道慣れたクラッカーの通りを抜け、『反ヘンゼルの骨団』の隠れ家へ向かった。 無骨な木製のドアを叩き、しばらく待つ。 中からバタバタと大きな足音がいくつか聞こえるも、一向に扉は開かない。その代わりよく響く大声が聞こえてきた。 『――もう無理なんじゃないか? 諦めろよ、ヴィル』 『うるさい。あんたがいつもそうやって邪魔するから――』 『でももうアレに対処することはできない。お前の試算でも無理だっただろ』 『わかってる。でもこのまま放っておいたら、この国どころか他の国まで巻き込まれるんだぞ』 『だがもう無理だ。あれだけエリクシールを奪われて生きてるこの国の人間がおかしいんだよ』 『だからそれも、菓子から摂取する微量のエリクシールで生きながらえているだけで――』 アルマがもう一度扉を叩く。それでも声の主たちは気づかなかったようだ。業を煮やして自分から開けると、扉はすんなりと開いた。 「こんにちは、ヴィルはいる?」 扉から顔を覗かせると、ヴィルが驚いた顔で駆けよってきた。冷静ながらどこか焦った声で答えてくる。 「アルマ。どうしたんだ、いきなり」 「なにかあったの?」 「いや、なにも」 明らかに嘘の構えでヴィルは目をそらした。それから気を取りなおしたようにこちらを見る。 「君こそどうしたんだ、アルマ」 「また市場調査と敵情視察もかねて、一緒にカフェに行こうと思って。一人だと目立っちゃうから」 すっと片手を差しだすと、ヴィルは怯んだようにその手を見下ろした。 「なんでいつも俺なんだよ」 「前にも言ったでしょ。同じくらいの年の子が他にいないの。お向かいさんのトニー坊やは幼すぎるんだもの。偽装カップルなんて勤まらないでしょ」 「だが――」 ヴィルが答えるより速く、隠れ家の奥からよく通るテオの声が聞こえてきた。 「おーおー、ちょうどいいじゃないか、ヴィル。アルマちゃんとデートして、そのぼさぼさの頭を冷やしてこいよ」 ヴィルは慌てて振り返る。 「な、あんたこそ――チッ」 そこに影はなかったらしく、ヴィルは鋭く舌打ちし、アルマへ向き直った。 「わかった。君に付き合おう」 いつもの黒コートを羽織り、黒い帽子を目深に被る。そうして風を切って扉を出てきた彼は、アルマを置いて足早に進んでいった。 § § § 街で噂のカフェ・アウルムは、ふわふわのマシュマロで外観を組んだ可愛らしいお店だ。室内には観賞用の飴細工の花が花瓶に活けられ、マシュマロのソファにお客が埋もれて座っている。 スタイル抜群のウエイトレスがお盆に飲み物とケーキを二皿を乗せて、アルマたちの元へ現れた。 「コーヒーをご注文のお客さまぁ」 湯気の出ているカップをヴィルが受け取った。 「こちらはミルクティーとショートケーキ、桃のタルトでございますぅ」 アルマの前に、真っ白なクリームのショートケーキと、薄くスライスされた桃が扇のように積み重なった桃のタルトが置かれる。 アルマはごくりと生唾を飲みこんだ。 しかしヴィルはアルマの前に置かれた皿を見て、嫌そうに眉をしかめている。 「そんな砂糖の塊みたいなもの、よく食べられるな」 「仕方ないじゃない。このお店、テイクアウトがないんだもの。これも全部、センス磨きと市場調査のためよ」 アルマは苺の乗ったシンプルなショートケーキにフォークを突き刺した。ほろりと崩れるようにすくい取られたケーキは、絶妙の甘酸っぱさを演出したあと、口の中でふわりとはかなく消えていった。 (おいしい……) アルマは目を閉じてそのおいしさを堪能した。ショートケーキは基本的なケーキだけあって、その店の実力をそのまま現している。カフェ・アウルムのケーキは噂通り、ドルチェブルグでも十本の指に入るだろう。 次は桃のタルト。味がボケがちな桃という食材を、フレッシュなままタルトにしたカフェ・アウルムおすすめの逸品だ。ざっくりとしたタルトの歯触りと、上品なアーモンドクリームに、桃のほんのりとした甘さがおいしい。 (これは……敵ながら? 実力を認めざるをえないおいしさだわ) 一口一口を頭の中で分析しながら、一心不乱にケーキを食べていると、ヴィルが呆れたようにこちらを見てきた。彼はブラックコーヒーを一口飲んで、苦かったのか顔をしかめている。 「ミルク、入れたらどう?」 「そうする」 アルマの残ったフレッシュミルクを差し出すと、ヴィルは表面上渋々といった様子で受け取った。ミルクを足したコーヒーを一口飲んで、彼は顔を上げた。 「それで、今日は何の呼び出しなんだ? まさか一緒に茶をすするだけというわけじゃないだろう」 「今度の木曜日にルーメンで工房の試作品発表会があるの。ヴィルにも来てもらおうと思って」 ヴィルはあからさまに顔を歪めて呆れた。 「君というヤツは……。俺たちが砂糖を毛嫌いしているのを知ってて、そういうことを言うんだな」 「あ。……そういえば、そうね」 アルマは自分の赤毛をポリポリとかく。発表会では一口サイズのケーキを何種類も味見できるので、ヴィルにも食べてもらって感想を聞こうと思っていたのだ。 「君の記憶力の悪さはこちらが心配になるくらいだな。うっかり忘れて砂糖をざばざば使っていそうだ」 カチンとくる言い方をされ、アルマは手元のケーキへぶすりとフォークを突き刺した。 「そんな風に言わなくたっていいじゃない! 確かに私は記憶力が悪いけど……。自分のケーキにはできるだけ砂糖を使わないようにしてるんだからねっ」 「ならいいんだが……」 ヴィルはアルマの怒りなど意にも介さず、コーヒーをカチャリと受け皿へ戻した。つるりとしたホワイトチョコのテーブルに頬杖をつき、窓の外のプリンの大通りを見る。 「アルマ。君にだけ言っておく」 ヴィルが小さな声でささやいた。 「なに?」 「しばらく外に出ないようにしていろ」 「え? なんで?」 いっそう声を小さくして、ヴィルは素早く告げた。 「テオがテロをすると言ってきかないんだ」 「またデブテロを!?」 思わず大声になって、アルマは慌てて口を押さえた。テロだなんて、近くの席の人が聞いていたら大変だ。 「今度のは今までみたいに薬を使ったものじゃなくなるかもしれない。君を巻き込みたくないんだ」 「……爆弾を使うの?」 「かもしれない」 ヴィルの声が低く押さえ込まれたものになった。 「だから、もう君にこうして会うことができなくなるかもしれない」 「ど、どうして?」 「テロリストにそれを聞くのか?」 逆に問い返されてアルマは焦った。自分たちには良くしてくれていても、ヴィルたちはテロリストだ。今までのような薬を使った地味なテロならともかく、爆破物を使った大規模なテロを起こしたら、即日この国にはいられなくなってしまうだろう。 目を白黒させるばかりで何も言えないアルマを置いて、ヴィルは席を立った。伝票を片手に掴むと、それをひらりと振る。 「本当はもっと君の菓子を食べてみたかったんだがな。――実はけっこう好きなんだよ、甘いもの」 自嘲気味に微笑んで、ヴィルは去っていった。 後に残されたアルマはひとしきりぽかんとしてから、 「……言ってくれれば、手土産くらい用意したのに……」 と、なにか不思議と残念な気持ちで残りのケーキを口へ運んだのだった。 § § § 真っ白なクリームでおおわれたスポンジに、アルマのもつクリームの絞り袋の先端がそうっとふれる。金口から生クリームがきゅっと美しい流線を描いてしぼりだされた。 「……ほぅ」 と、ため息をつくのは周りをかこむルーメンの従業員たちだ。普段は接触のないルーメンのケーキ職人たちまでが、アルマのデコレーション技術を背伸びして見ている。 ルーメンは三ヶ月に一度、木曜の定休日を使って従業員だけの試作品発表会をおこなう。飴細工の草花がきらきらと輝く前庭で、立食パーティをするのだ。 アルマは無意識に息を止めて、すっすっとクリームをのせていく。与えられたスポンジとフルーツで即興のデコレーションをするこのデモンストレーションは、発表会の目玉だった。 震える手で絞り袋を何度も握りなおしながら、アルマは慎重にクリームをのせていった。色とりどりのフルーツを直感で配置して、上からつや出しのナパージュをぬり、華やかなデコレーションケーキに仕上げる。最後にそえた緑のセルフィーユが全体をひきしめた。 「――できました」 ため息混じりの一言で一同がわっと盛りあがる。 「かわいい!」 店子たちが手を叩いた。職人の一人がピュウッと口笛を鳴らす。 「上手になったなぁ、アルマちゃん。そのクリームの絞り方はフリーダさんの考案かい?」 「えっと、師匠のに少しアレンジをくわえました」 「いいね。次はチョコのデコールが見てみたいもんだ」 「私は飴細工がいいわ。アルマちゃんのケーキはみんな可愛らしいもの」 笑顔で集まる従業員たちにケーキを切り分けていく。熱した包丁がクリームをとろっととろけさせ、美しい断面がのぞいた。 「本当にすばらしかったよ、アルマ」 仲良く寄り添ってケーキを受け取りにきたその二人を見て、アルマの顔がほころんだ。 「お兄ちゃんとティアナさん、来てくれたんだ」 少しすっきりとしたエルクには大きめのケーキを、ティアナには苺のたくさんのった部分を渡す。今日は無礼講なのだ。 「僕がいない間にすごく腕が上がったんじゃないか? よく頑張ったね」 「このスポンジもアルマちゃんが焼いたの? とってもしっとりしていておいしいわ」 一口食べたティアナが驚いたように言った。 「うん、私が焼いたの。最近は失敗もすっかりなくなって、すごく調子がいいから、今日は師匠の代わりにってことになって」 そういって軽く視線でフリーダを探すと、彼女はリアと一緒に工房のほうからテーブルごとケーキを運んできていた。 「さあさ、新作ケーキのお披露目よ!」 リアが銀色のふたを取り外すと、色とりどりのケーキが並んでいた。わあっと歓声が上がり、女性の可愛い可愛いという声が重なる。 「これは……伝説のフリーダ様のモンブラン、『枯れ山のぐるぐる巻き』……!」 「チーズケーキ『真っ白しろの壁』……何か言いようのない迫力を感じますわ」 「この『真夏にうだるフラミンゴ』とは?」 「ピスタチオと苺のムースを重ねてみたものなんだけど、どうかしら?」 フリーダが説明したケーキには細くカールした苺チョコのデコールが乗っていて、これがフラミンゴをあらわしているのだが、前衛的すぎて理解されていないようだった。 「こっちの小さなケーキは?」 テーブルの端にちょこんと乗ったケーキをさして、店子のお姉さんが小首をかしげた。それだけネームプレートがないのだ。 「あ、それはわたしのです」 アルマが小さく手を上げた。 「名前が思いつかなかったんですけど……蒸したチーズケーキにとろとろのムースを合わせたものなんです」 アルマが手を出そうとするより早くフリーダがそれを手に取り、自慢げに披露した。 「アルマちゃんの力作ケーキよ。私は『とろりんとろりんふわふわりん』がいいって言ったんだけどね」 「略したら『りんりんりん』ですねっ」 ごくりとつばを飲み込む店子へ、フリーダが手品のようにアルマのケーキを切り渡す。 一口食べたその子は両手でほっぺをぎゅっと掴み、「とろふわですぅ〜」と身もだえた。 「良かったわね、アルマちゃん」 「そんな……このケーキができたのは新しいお砂糖のおかげですし……」 アルマは言葉を濁して俯いた。 かつてフリーダですら爆発を起こさせた砂糖はあれから改良され、『アイヒマンシュガー』として国中に流通している。非常に使いやすく好評で、今では町中のケーキ職人が使っているほどだ。そのせいで街の全体的なレベルまで上がってきているという。 砂糖を使うなというヴィルの助言にあらがうようで心苦しいが、アルマも遊びでお菓子作りをしているわけではない。少しでもルーメンの役に立とうと必死になって考案したのだ。 俯いたまま絞り袋をいじっていると、リアにフリーダのケーキの試食を渡された。 「これ、美味しいのよねぇ。アルマ、最近センス上がったんじゃない?」 「他のお店のケーキをたくさん調査したんです。ヴィルがそうしたほうがいいって言ってくれて」 こたえてフリーダの試作品をぱくりと食べる。口の中いっぱいに果物の香りが広がり、チョコレートの風味と一瞬合わさって消えていく。フリーダのケーキには甘さの中に独特の雰囲気のようなものがあって、それに浸りたくて次の一口へと続いていく……。そんな飽きない風味があった。 リアがこつんと肘でアルマをつついた。 「最近ヴィルヴィルってよく言うじゃない。彼の助けがあってこそ、今の成長があるってわけ? いいわねぇー青春しちゃって、このっ」 「ち、違いますってば。それにヴィルは……」 『もう会えないかもしれない』とは言えなかった。自然と消えた語尾を探してアルマは考え込む。 (……ヴィルたち、次のテロをするって言ってたけど、どうするつもりなのかな。危ないテロはしないでいてくれるといいけど、もし警官さんに捕まったら……) 胸の奥のわだかまりがむくりと大きくなるのを感じて、アルマは試食を無理やり口に含んだ。おいしさが口の中でぱっと広がり、不安を追いだす。 (あ、これはリンゴの酸味にレモンがたしてあるのかな?) などと職人見習いらしく味を分析していると、ふと庭先に人が入ってきているのを見つけた。 「お客様?」 ふらふらとした足取りの男は、ルーメンを目指すでもなく庭先に座り込んだ。 ひとりの店子が駆けよる。 「すみません、今日は休業日なので、関係者以外は……」 とん、と彼女が彼の肩を叩いた瞬間、男がぱたりと後ろへ倒れこんだ。 「え?」 「なんか、気分が……」 驚く間もなく、アルマの正面に立っていた店子が突然意識を失って倒れた。その隣の者もめまいを覚えてよろけ、職人のひとりが呻いた。 「苦しい……」 売り子たちも続々と胸を押さえて座りこむ。 「なにこれ、気持ち悪い……」 「変、眠い」 「エルク……」 眠りにおちるように気を失ったティアナを支え、エルクがおろおろとあたりを見回した。 「ど、どうしたっていうんだい? ティア、目を覚ましてくれ!」 「何が起こったの? 師匠! 師匠は大丈夫ですか?」 アルマがフリーダを振り返ると、彼女はまだ意識がはっきりした様子だった。 「一体どうなってるのかしら――」 こんなときでもおっとりと驚く彼女の声を遮って、リアの鋭い制止が響いた。 「何なの、あんたたち! 勝手に入ってこないで!」 皆が驚いてそちらを見れば、入り口の門を蹴破って入ってきたのは、ドルチェブルグ市警――カールを含む警官たちだった。 彼らは庭の飴細工を踏みしめて駆けより、一瞬でフリーダをとり囲んだ。 「フリーダ・クラッセン、貴様が『ヘンゼルの骨2』の開発者だな!?」 「はい、そうですけども」 のんきな声で答え、フリーダは瞬きした。 警部と思われる年のいった男が警察手帳を押しつけるように見せ、フリーダの手を掴んだ。 「大量傷害容疑で逮捕する!!」 「えええ?」 警部の手には手錠が握られていた。それをカチャリと鳴らし、フリーダの細い手首にはめようとした。 驚いて手を引くフリーダより、リアの罵声ほうが速かった。 「なんで姉さんが捕まらなきゃなんないのよ! それよりこの状況を見なさいってば、人が倒れてんのよッ!」 警部へ詰め寄ろうとするリアをおさえたのはカールだった。彼は厳しい顔でリアの肩を押し戻した。 「この惨事は国中で起こってるんだ。主に新しい『ヘンゼルの骨2』を食べた人に症状が顕著だから――」 「姉さんが開発したから逮捕するってわけ?」 「そうだ。アイヒマン社がフリーダさんを訴えたんでな」 リアとアルマが目を剥いた。 「なんですって?」 「それってつまり、師匠のせいにされたってことですか!?」 「信じられない、こっちこそ訴え返してやる!」といきり立つリアをおさえ、カールは早口で告げた。 「とにかくお前たちはこれ以上菓子を食べずにいろ、アイヒマン社の『ヘンゼルの骨2』はもってのほかだ!」 「そこまでわかってて、どうしてあっちを逮捕しないのよ――あれ?」 「リア!」 リアが急にバランスを崩してよろけた。カールは慌ててそれを支えようとしたが、彼女は片腕を持たれたまま飴細工の芝に倒れこんでいった。 「店長まで……なんで? ルーメンのみんなは『ヘンゼルの骨2』を使ってないのに……」 アルマの呟きは警部の「戻れカール!」という大声にかき消された。 フリーダを拘束したまま警部は続ける。 「アイヒマン社も取調べ中だが、まずはフリーダ・クラッセン、お前を確保する方が先だ。悪いな。――逮捕だ」 フリーダの手首にガチャリと手錠がかけられた。 「待ってください、師匠はなにもしてないです!」 ぽかんとしたまま連行されていく師匠を追いかけようとしたアルマは、リアを手放したカールによって道をふさがれた。 「悪いな、アルマちゃん。この状態じゃ現行犯も同じなんだ。わかってくれ」 「でも、師匠はただ普通にお菓子を作っただけで、なにも変な物は入れてないんです!」 言ってから、アルマの動きが止まった。 『ヘンゼルの骨2』とルーメンのケーキ。この二つの共通点はフリーダの設計だということだけだろうか。ならば国中で意識を失う人がでていることと矛盾する。 アルマは思わず呟いた。 「『アイヒマンシュガー』……」 その一言でさっと顔色を変えたカールが慌ててささやいた。 「それだけは言っちゃダメだ」 と、彼はちらりと自分の上司を盗み見る。聞かれていないことを確認し、続けた。 「とにかく、今はダメだ。いいか、アルマちゃん。大人には大人の事情ってもんがあるんだよ」 その事情が何かアルマにはすぐに分からなかった。けれど相手がこの国唯一にして最大の砂糖会社であることを思い出した。 (アイヒマン社は本当に、師匠に全部の責任を押しつけて、事件をうやむやにしてしまうつもりなんだ。警察もそれが分かっててやってるんだ) 憤りがこみ上げて、思わずカールをにらむと、彼は申し訳なさそうに小さく頷いた。 「それで、アルマちゃん。悪いが君も取り調べに参加してもら――」 その先は突然の爆発音で遮られた。 「な、爆弾テロか!?」 庭の中で爆発が起き、煙がもくもくと上がっていた。飴細工が溶けてねちねちになり、警官たちのズボンに張り付いている。 煙で前後が分からなくなったところを横から突然腕を捕まれ、アルマは狼狽した。 「だ、だれ――?」 叫びそうになる口を押さえこまれて見上げれば、黒い服のヴィルだった。 彼はアルマをつれてルーメンの庭を駆けぬけていく。その途中でエルクを連れたテオと合流し、四人はルーメンの門を飛び出した。 「待って、師匠が!」 アルマが振り返れば、煙の中に拘束されたままのフリーダが一瞬見えた。 「無理だ。今は諦めろ」 鋭く言われ、アルマは視線をヴィルへむけた。彼はまっすぐ前を向いたままルーメンの庭を抜け、小道を駆けていく。その横顔は決意に硬くひきしめられていた。 アルマはもう一度振り返り、遠くなったルーメンへむかって叫んだ。 「師匠、絶対に――必ず、助けますから!」 その声は黒砂糖のアパートメントに響き、数回反響して消えた。 § § § 『反ヘンゼルの骨団』の隠れ家には、新しくなったキッチンがあった。鉄で作られたコンロやシンク台があり、お菓子の類は一切ない。戸棚には本物のガラスで作られたフラスコやビーカー、蒸留器や謎の薬品や気味の悪い色をした液体が所狭しと並んでいる。キッチンというよりも実験室といった色合いが以前よりも濃くなっていた。 古ぼけたフラスコがならぶ食器棚の隣に腰かけて、アルマはヴィルからお茶を受け取った。隣の部屋から覗き込んでくる子供たちと目が合うが、彼らは慌てて引っ込むだけだった。ヴィルからキッチンには入るなときつく言いつけられているらしい。 薬膳茶だというそのお茶は強烈な匂いがして、一口すするのにものすごい勇気を要した。味は意外とまともだったのだが。 ヴィルはアルマとエルクが一息ついたのを確認してから、話を切り出した。 「君たちも見たと思うが、あれはエリクシールの不足による酩酊状態だ。おれの計算だと、君たちみたいに薬を被った者を除けば、今頃は国の八割の人間が意識不明になっているだろう」 「みんな眠ってるってこと? なんでそんなことが……。わたしたちのケーキのせいなの?」 「正確には砂糖のせいだ。もうずっとなんだが、この国の砂糖を生産しているアイヒマン社が意図的に君たちをエリクシールの欠乏状態にさせていてな。いつかはこうなるだろうと予測していたが……」 「やっぱり『アイヒマンシュガー』のせいなんだ。なのに、どうして師匠だけ捕まらなきゃならないっていうの?」 「アイヒマン社は罪を全部巨匠フリーダに丸投げして、時間を稼いでいるんだろう。それで何がしたいかは、わからないが」 「そんな……師匠はただ依頼されただけなのに!」 「『ヘンゼルの骨2』の威力は本当にすごいからな。エリクシールを抜ききってなお、垂れ流しにしているくらいだから。それだけ巨匠の腕前がすばらしいということだが……それが逆に徒になったんだろう」 ヴィルが文机の上に白い棒状のクッキーを転がした。白砂糖でまぶし固められたそれは以前の『ヘンゼルの骨』より一回り大きく、しっかりした骨のようにみえた。 エルクが小さな木の椅子をギシギシ軋ませ、ヴィルとテオを交互に見ながら問いかけた。 「聞いてもいいかな? その、〈えりくしーる〉っていったい何なんだい?」 「本精だ。気力と体力の両方に通じて、人間を人間たらしめる、誰もが生まれながらに持っている力だ」 教科書を読みあげるように答えたヴィルを見つめたままエルクが動かなくなったので、テオが横から助け船を出した。 「簡単に言えば、『元気』ってヤツだな。それが枯れると体調不良になったり、妙な妄執にかられたりする」 「へぇ……。それが僕ら、薬をかぶった者には溜まっている状態なんだね」 「以前より体は重く感じるだろうが、心は軽いはずだ。気力が充実しているだろうからな」 「うん、それは感じているよ。君らのおかげだったんだね」 と、エルクが福々しく笑う。 そこでアルマがお茶を置いて、ヴィルへ向き直った。 「ヴィルは前、この国の人はみんなエリクシールがないって言ってたけど、こうやって倒れちゃうことを言ってたの?」 「ああ。ここまであからさまにはできないと思っていたんだが……『アイヒマンシュガー』が出回り始めてから風向きが変わってな」 ヴィルは薬膳茶を平然と飲み、砂糖を足そうと手を伸ばしたテオの手をぺしりと叩いた。「輸入砂糖は高いんだから、そんなに使うな」と睨み付け、テオにちぇっと舌打ちさせる。 「じゃあこの国の砂糖を使おうぜ。おれたちはみんなお前の薬を被ってんだから、ちょっとぐらい飲んだところで問題ないだろうが」 「もう『アイヒマンシュガー』しか出回ってないんだ。薬を被っていても、あの砂糖の場合はどうなるか分からない。アルマは食べているか?」 「うん、ちょっと試食しただけだけど、平気だったよ」 「そうか……となると、アイヒマンシュガーと巨匠フリーダの技術が合わさった『ヘンゼルの骨2』が最悪の菓子ということになるんだろうな。エリクシールの流れでる量を見ても、あの菓子を食べたやつが最悪だ」 メモを取り出して淡々と事態を整理するヴィルのかたわらで、腕組みをして天井をあおいでいたテオが、小さな声で尋ねた。 「でさ、フリーダって女はそんなにすごい錬甘術師なのか?」 「ああ。あれは本物だ。アルマも筋はいいほうだが」 「そうか。ならもっと早く接触しておけばよかったなぁ……美人だし」 「ねえ、その本物ってなに?」 アルマは首をかしげた。本物の錬甘術士と偽物。どう違うのだろう。 「本物とは、この国の外でも製品が菓子に戻らない錬甘術士だ。普通は国の外に錬甘製品――お菓子で作られた物を持ち出すと、崩れたり腐ったりする。ところが、本物による作品だとまったく腐りもせず、いつまでも美しいままだと言われている」 「うそ、お菓子って外だと腐っちゃうの?」 「この国では知られていないことだがな。だから、この国は錬甘製品を輸出しないんだ」 アルマの脳裏に、兄の絵付けしたお皿が思い浮かんだ。見た目にも華やかで芳しい香りのするお皿たち。あれを輸出しない理由が、初めてわかった。 「そういうことだったんだ……」 半ば呆然と頷くアルマへ、ヴィルが問いかけてきた。 「それで、アルマに聞きたいんだが。君は巨匠フリーダから『ヘンゼルの骨2』の製造法について、何か聞いていないのか?」 「ううん、何にも。師匠は依頼品のことはあまり言わないから」 アルマは師匠とのやりとりを思い出す。内密に、と言われているといっていた。いつもはそれでもうっかり口を滑らせることが多いのだが、今回はなにもなかった。 「そうか……警官さえいなければこの砂糖の使い方を彼女に直接聞けたのにな……」 ヴィルは内ポケットから小袋を取り出し、中から白い粉――『アイヒマンシュガー』を掴んでサラサラと落とした。 「ケーキでも作るの?」 「いいや、爆発させるんだ」 「え?」 アルマは眉を上げてから、ついと自分を指さした。 「それならわたしができるけど」 テオが「なにぃ?」と腰を浮かせ、そのまま丸椅子を引きずってアルマの隣によってきた。 『アイヒマンシュガー』はちょっとした水分量の関係でポンッと軽い爆発を起こす。爆発には相性があるのか、師匠が使うと顕著で、アルマだと滅多に爆発しなかった。この爆発が起こるとどんなお菓子も無残な形になってしまうので、扱うには慎重に慎重を要するのだ。 テオはアルマをまじまじと見つめ、ヴィルが「だから筋がいいと言っただろう」と鼻を鳴らして呟くのを無視した。 「マジで出来るのか、お嬢ちゃん。この砂糖は本物の練甘術師――つまり、錬金術師の才能がないと爆発させられないんだぞ?」 「な、人を才能がないみたいに言わないでよっ」 語気を荒げたアルマへ、テオは平然と肩をすくめた。 「ほんとうに偽物ばっかりなんだよ、この国の練甘術師は。ほとんどがこの砂糖の力で練甘術をやっているだけなんだからな。本物の才能の持ち主は一握り……いや、ほとんどいない」 「砂糖の力で? そんな、嘘でしょ」 「本当さ。砂糖がなくなりゃ、この国も他の国と同じように廃墟になりはてるだけだ」 「なに、それ……」 問いかけとともにアルマの表情が固まった。 「廃墟? この国の外が?」 一瞬で冷えた部屋の空気を察して、テオがヴィルと目を合わせる。ヴィルはその目に「また余計なことを……」という呟きを含んで瞬きした。 テオが心底不思議そうに兄妹を見比べた。 「本当に知らないのか? お兄さんのほうも?」 「え、僕は――……いや、何のことだか」 「お兄ちゃん、知ってるの?」 アルマはエルクの袖をぎゅっと掴んだ。うっかり肉まで挟んでしまい、兄が呻く。 その様子にテオは呆れて肩をすくめ、その先をつるりと口にした。 「 アルマは息をのんだ。 実際、この国の雨量は少なく、国中に生える緑は皆飴細工で作られた花や木ばかりだ。美しく咲き続けるそれらを当然だと思っていたが、他の国ではそうでないらしい。 (確かに、フルーツは輸入品ばかりだったけど……) にわかに信じられず、アルマは兄を見上げた。 「本当なの、お兄ちゃんっ?」 鋭い口調で問われ、エルクがびくりとアルマを見下ろした。兄がこの国に来たとき十二歳。五歳だったアルマの記憶にはなくとも、彼は覚えているだろう。 エルクは分厚い唇をぱくぱくと動かして言いよどみ、小さな緑の目を泳がせた。 「えっと……僕が見たのはもう九年も前になるから……草ももう、生えてるかなって」 「とぼけないでっ。私たちはこの国の外からきたんでしょう? この国は難民の寄せ集めだって、ヴィルも言ってたんだから! 本当に外は荒野なのっ?」 アルマが立ち上がった拍子にカタンと椅子が倒れた。 「教えてよ、お兄ちゃんッ!」 エルクは鬼気迫る表情のアルマを凝視し、それから諦めたように息をついた。 「……本当だ。僕らも難民だったんだよ。生まれ故郷は戦争で疲弊して……飢えて乾いて死ぬだけの土地だった。だから僕らは国を出たんだ。たった二人でね。戦争で母さんも父さんも死んでしまったから」 「戦争で、なの?」 「そう。あまりいい話じゃないからね、僕も忘れたふりをしていたんだ。あの頃は毎日ひもじくて……。この国は平和で、食べ物にも困らなくて、みんな陽気に笑っていられる。それでいいじゃないかと思って、僕はお菓子を食べ続けてきたんだ」 そこでエルクは言葉を切り、一度表情を引き締めた。声がぐっと低くなる。 「本当はこんなのおかしいって思ってたんだけどね……。あの頃の飢えた記憶が、僕に狂ったようにお菓子を食べさせ続けたのかもしれない」 「お兄ちゃん……」 思い深げに黙った兄へ何も言えず、アルマも一緒に黙り込んだ。 § § § 「――そんなことより、今、問題なのは」 しばらく続いた沈黙を破り、ヴィルが戸棚から巻紙を取り出して机の上に広げた。ドルチェブルグの地図だ。その一点を指さし、彼は真剣に続ける。 「以前は垂れ流しになっていた各人のエリクシールが、最近、アイヒマン社に集中していくようになったことだ。調べてみたら案の定、禁術を使った痕跡があった」 「禁術?」 「禁止された錬金術の秘術だよ。魔術に近いものはだいたいが禁術だ。アイヒマン社は『アイヒマンシュガー』を利用して、この国のエリクシールを集め、もっと高度な禁術を行うつもりだとおれたちは思っている」 「なにそれ。わたしたちのお菓子を使って、みんなの力を奪って……何かとんでもないことに使ってるってこと?」 アルマは憤慨して両手を握りしめた。 「許せないっ。わたしたちは毎日一生懸命に心を込めてお菓子を作ってたのに。それをこんな風に利用するなんてッ!」 アルマは辺りを見回し、戸棚の中の色とりどりの薬剤に目をつけた。あの日ばしゃりとかけられた緑色の液体もそこに並んでいる。 それを指さし、アルマはヴィルへ問いかけた。 「あの薬でみんなを救えないの? 街のみんなにかけて回れば、エリクシールが出て行くのを防げるんでしょう?」 「無理だな。そんな大量生産が出来るものではないし……。それに、君のお兄さんの初期状態を覚えているか? 呼吸困難で突然死する人が出ないとも限らない」 「でも、倒れるよりは……」 反論の途中で口ごもる。巨デブになって苦しむのと、ずっと眠り続けること、どちらの方がいいのだろう。アルマには分からなかった。 それまで様子を窺っていたエルクが、恐る恐るといった調子で片手をあげた。 「ちょっといいかな。僕はそろそろルーメンへ戻りたいんだけど……。ティアたちが気になるんだ」 ギイと椅子を軋ませて立ち上がろうとする。 それをテオが見とがめた。 「止めとけ、警官どもが張ってる。おれたちの仲間と思われてつるし首になるのがオチだ」 「警官たちが回収してるなら、丘の上の総合病院にいるだろうな。でも、あそこはもういっぱいなんじゃないだろうか」 「私も師匠が気になる。このまま死刑なんてことになったら……どうしよう、お兄ちゃん」 アルマがエルクの服の裾を掴んだ。そうやって幼い頃から兄の後ろをついて回っていたことを思い出し、気恥ずかしくなって手を離す。 (しっかりしなくちゃ。もうお兄ちゃんには一番に心配する人がいるんだから……) その様子をヴィルが鋭い目つきで見ていた。何事かを思案するように組んでいた腕を外し、立ち上がる。 「――アルマ。君は師を救いたいと思うかい?」 「うん、思う。絶対助ける」 ほとんど無意識に答えてしまい、アルマは自分に驚いた。それからしっかりとヴィルを見る。 ヴィルは小さく頷いた。 「ならおれたちの敵は同じだ。同盟を組もう」 突然すっと手を差し出され、アルマは目をみはった。 「アイヒマン社には菓子のゴーレムがたくさんいて、おれたちだけでは手が出せない。あれを倒すには練甘術師の協力が必要だ。頼む」 「協力って――もしかして、このための『約束』だったってこと?」 『反ヘンゼルの骨団』のアジトを黙っていることと、いざとなったら協力すること。すっかり忘れていたが、この二つが料理を教えて貰うための条件だった。 「本当はもっと安全に協力してもらうつもりだったんだがな……仕方ない」 ためらいがちに下がった手を、アルマがぎゅっと掴んだ。 「わかった。協力する。料理だけ教えてもらって、あとは知らないなんて言えないもの」 「よし」 力強く握り返されて、アルマは一瞬どきりとした。 エルクが心配げに「大丈夫かい?」とうかがってくる。それにしっかりと頷き返し、アルマは微笑んだ。 「大丈夫。レシピ代くらいはしっかり返すから」 ポケットから三角巾を取り出し、頭に巻いて縛る。 「――それじゃあ、今からキッチンを借りるね」 椅子から立ち上がり、真新しくなったシンク台へむかう。 「ああ。なんならそこにある実験器材を使え。――それで、何を作るんだ?」 「わたしの『食べられないお菓子』よ」 足止め用の金平糖をシンクの上にじゃらりと広げる。トキトキに尖った先端がランプの明かりを映してきらりと光った。 「絶対、師匠の嫌疑を晴らしてみせる。そのためだったら何だってするの」 強い意志の宿った目でコンロ横の実験器具を見つめる。ガラスのフラスコや細いチューブが所狭しと並べられたそこは、まるで異世界のように見えた。 テオがおもしろげに瞳をきらめかせる。 「へぇ、だったらお嬢ちゃんにもおれの仕事を手伝ってもらおうかな」 「テオ」 ヴィルの牽制をひらりとよけて、テオは顎でアルマを示した。 「お前もそのつもりだったんだろ。どうせはじめっから本物の練甘術師と見抜いてたくせに」 「…………」 ヴィルは少しの間押し黙り、それからいつもの無表情でアルマへ向き直った。 「手伝えるか、アルマ」 「うん」 アルマは真剣に頷き、ヴィルに導かれて器材へと歩み寄った。 § § § 「これを溶かして……その間に……うん、そう。…………で、こうして……あれを……」 「待て、お嬢ちゃん。そこで一旦火を止めて、粗熱を取らないと――」 ボムッという低い爆発音がした。 「ぎゃー、火が、火が!」 「消火器、消火器!」 ぷしゅっと白い煙が一面に漂う。 額の汗をぬぐって、テオがアルマの三角巾を被った頭をピンと指で弾いた。 「あっぶねーな、火薬扱ってんだぞ、お前!」 「うう……ごめんなさい。つい、お菓子と同じ感覚で……」 あれから二時間、アルマとテオは一緒に爆弾と防犯お菓子の準備をすすめていた。テオの錬金術にアルマの練甘術をたした新型爆弾は、何度もの小爆発を起こしながら開発されていく。 そんな二人が騒がしく作業をしているのを背後に、ヴィルとエルクはじっと机の上の地図を見つめて考えこんでいた。 ヴィルが組んでいた腕をほどいて、地図の一点をとんとんと叩く。 「この、アイヒマン社の敷地内にある塔は何なのか、エルクさんはご存じですか?」 エルクがかがんで地図を見る。丸い影が地図上にのっそりと映った。 「そのシュークリーム塔なら、去年のコンテストで優勝した記念にフリーダさんが建てたって聞いているけれど」 テオがヴィルの後ろからひょいと顔を出す。 「あの不格好なシュークリームの塔か? あれなら『本物』だぞ」 「テオもそう思うか……なら、確定だな」 「となると、フリーダ女史だっけ? の件もほっとけないな。このまま死刑なんてことになったら、『上』が怒るだろうし」 「ああ。あれは確保レベルだ。アルマはまだわからないが……」 「結構、筋はいいぞ」 「そうか」 椅子に座ったヴィルが一息ついて、両手を顔の前で組みながら机に肘をのせた。 「そんなことより、問題はどうやってこの『集団眠り病』を治すか、だが。術式からアイヒマン社が原因という以外考えられない。直接乗り込んで術式の中心を破壊するしかないだろう」 ヴィルの断言に、ちょうど作業の区切りのついたアルマがふりかえって首をかしげた。 「術式の中心って?」 「街の壁とその塔の配置から計算するに、アイヒマン社の敷地内……この塔より少し北だ」 「ってことは、工場の中ってこと?」 「そうなるな。直接乗り込んで、叩き壊すんだ」 テオがヴィルの肩に手を置き、前屈みになって地図をのぞきこむ。 「言うのは簡単だけどな、あそこの警備はめっちゃくちゃ堅いぞ。お前も前に痛い目にあっただろ」 「……だな」とヴィルが小さく頷く。 アルマがエプロンで手を拭きながら三人へ問いかけた。 「警備って言っても、今はもうアイヒマン社の人も倒れてるんじゃない?」 「そうだろうか……」 「だとしたら術者は相当な鬼畜だぞ」 「クララちゃんとかも大丈夫かなぁ。変な場所で倒れてないといいけど」 ヴィルたちの呟きとは正反対な明るさでアルマは空中へ視線を滑らせた。あの絶世の美少女も、おとぎ話の眠り姫のように愛らしい寝顔で眠っているのだろうか。 エルクが何気なくアルマをふりかえった。 「クララ? どこかで聞いたような――」 「そう。社長の娘さん。すっごくかわいい女の子なの」 まるで天使みたいなのよ、とアルマがつけ加えるより早く、エルクがはっと表情をこわばらせた。 「そんなはずないよ、その子は僕と同い年のはずだ。しかもその子――」 エルクの声が一段と下がった。 「――死んでるんだよ、九年前に」 「え……」 静まりかえる空気の中、エルクは普段の微笑みを消して独り言のように呟いた。 「噂だと会社の砂糖竈に落ちて死んだそうだけど……もしかしたら妹さんなのかな?」 「同じ名前の? んなアホな」 鼻を鳴らすテオに対し、アルマはまじめにこたえる。 「そんな噂があるのに、普通に暮らしてるなんておかしくない? みんな、クララちゃんのことを知らないの?」 クララを迎えたリアもフリーダも、どちらも普通に接していた。店の客が不穏な空気をかもしだした記憶もない。ごく普通に街へ溶けこんでいた少女が異物のように感じられて、アルマは急に不安になった。 「みんな知ってたハズだけど……。古い噂だし、僕も思い出したのは病院に入ってからなんだ。暇だったせいか、色々と昔のことを思い出せたよ」 「薬でエリクシールが戻ったおかげだろうな」 頷きながら呟くヴィルへテオが顔を向けた。足を組み直しつつ片肘を机へのせる。 「やっぱりヴィルの説が正しかったか。この街の住人は都合の悪いことを忘れるように、エリクシールを抜かれてたってヤツ」 「やっぱり砂糖が悪かったんだ……――ってきゃー!?」 背後で突然吹きこぼれた小鍋へ振り返り、アルマは慌てて実験器具へ戻った。バーナーから小鍋を下ろし、慌てて水を足す。 その様子を目の端でとらえつつ、ヴィルとテオはちらりと目線を合わせた。 「……それにしても死者蘇生か。面倒くさいのに当たったな」 とテオが肩をすくめて呟く。 「そうと決まったわけじゃないが、怪しいな。死んだ娘が平気で暮らせる国……か」 「一見天国みたいなんだがなぁ」 腰掛けたまま背伸びをするテオとは対照的に、ヴィルはじっと地図を見つめていた。菓子の名前がついた通りの名を目で追う。 それからさっと顔を上げ、持ち前の鋭い目でエルクをとらえた。 「エルクさんは昔のことが思い出せるみたいですが、アイヒマン社について他にも知ってることはないですか?」 突然丁寧語になったヴィルを、エルクは若干驚いた様子で見た。 「ええと……簡単な噂だけど。あの会社が今みたいに安価で大量に売り出すようになったのは、娘さんが死んだ後からだそうだよ」 「へぇ、なるほどね。でもその前からこの街はあったんだろ? エリクシールの流出はいつからなんだろうか」 「わからない。この街には歴史がなさすぎる。おそらく強い暗示の術がかかっているんだろうが……」 「暗示か。かなり大規模だな」 「ああ」 ヴィルが地図を見下ろす。丸い街には術式に使われたのであろうと思われる尖塔が円状に配置されている。その中でひとつ浮いた場所に建っているフリーダのシュークリーム塔に視線を止め、ヴィルは低く呟いた。 「……巨匠フリーダ、か。どうやってでも救わないとな」 「本物だからなぁ。アルマちゃんも素質はあるし、いざとなったら連れて行くか?」 「かもしれない。そのときはこの街が終わるときだろう」 ぼそりぼそりと呟く二人の間を割って、アルマの甲高い声が通り抜けた。 「出来た――!」 その声が消える前に、ぼんっと低い爆発音が響いて、辺り一面に白い煙が立ちこめた。 § § § アイヒマン社の重そうなチョコレートの門の前にアルマたち四人はいた。 両脇に佇んでいるはずの門番は地面に倒れ込み、いっこうに目を覚ます様子はない。 そっとプレッツェルの門を押し開けて、内側へ滑り込む。 「アルマ、本当についてきてよかったのか? テロリストの仲間入りだぞ」 「わたしはアイヒマン社の悪事を暴いて、師匠を助けるの。何だってするって言ったでしょ!」 語気を荒げて意気込むアルマを、ヴィルはため息混じりに見下ろした。 「わかった。ならもう少し静かにしてろ」 しんと静まりかえった前庭には、静かにメロン色のソーダ水をふきあげる噴水と、砂糖菓子の花があるだけだった。人ひとりおらず、逆に不気味なくらいだ。 ヴィルが空中を鋭くにらんで、正面に立つ茶色いクッキーの煉瓦でできた建物を示した。「事務棟の裏に大きな砂糖工場がある。エリクシールの流れから見て、原因はそこで間違いないだろう」 テオが右手のドームづくりの搬入通路を指さす。 「じゃああそこから奥に向かって――」 言いかけて、テオが慌ててその場から飛び退いた。 アルマの鼻先に一瞬、甘い匂いがかすめる。 同時に、どんと低い音がしてテオのいた場所で衝撃が起こった。 「――きゃっ」 「うわっ」 アルマとエルクの悲鳴が重なった。 砕けた焼き菓子の甘い匂いがあたりを満たす。 テオが懐に手をさしのべつつ、アルマの背後へむかって叫んだ。 「早速お出ましか、警備員さんよォ!」 振り返ったアルマが見たのは、パウンドケーキを人型に組み立てたような、お菓子のゴーレムだった。人間の二倍の大きさがあり、肩の部分にころころと丸いドーナッツをいくつか乗せている。 ゴーレムは大きく振りかぶり、アルマめがけてドーナッツを投げつけてきた。 「きゃあっ!」 避けた勢いで転びかけたのを、横からさしだされたヴィルの腕に支えられる。 ヴィルは「大丈夫か」と訊ね、それからゴーレムの額を指さした。 「あそこの文字が見えるか? あれを一文字削れば、ゴーレムは動かなくなる」 「あんな高いところに文字が?」 と見れば、なにやらくねくねした文字が四つほど彫りこんであった。 「わかった、俺の爆弾で何とかする!」 テオが答え、ゴーレムの顔めがけてアルマと一緒につくった爆弾を投げつけた。ぼんっという音とともに粉砂糖の白煙が上がり、パウンドケーキが飛び散ってゴーレムの顔が丸く削れる。 「やりぃ!」 だがしかし、へこんだ顔の部分にも文字が書き込まれていた。 ゴーレムは一度ぶるりと震えると、両手でぽんぽんと顔をはたいて形を整えた。額の文字が浮き上がり、目と思われる穴が光る。 「やべぇ、怒らせちまった」 「ばか、なんで爆弾を連発しなかったんだ。頭をなくせばいいだろうが」 「ばかばか言うなっ。あれで倒せたと思ったんだっつーの!」 今度はテオが爆弾を連続して投げつける。ぼんぼんと音が響いて白煙が上がり、その顔をすっかりなくしてしまったのだが。 やはりゴーレムが体をぱんぱんと叩くと、再生してしまった。 「……嘘だろ、練甘術はんぱねぇ……」 「思ったよりやばいな。アルマ、君の粘着ゼリーで――」 ヴィルがアルマへふりかえったとき、彼女はそこにいなかった。辺りを見回せば、エルクがゴーレムの後ろへそうっと回りこんで、その足元へ何かを投げつけている。 エルクが放った粘着ゼリーがゴーレムの足を絡ませて、その場へ倒れこませた。 「今だよ、アルマ!」 「OK、お兄ちゃん!」 アルマが生クリームの絞り袋を片手に、倒れたゴーレムの上へ飛び乗った。額の文字の上で素早く生クリームを絞る。 ゴーレムの目が光を失った。 「やった、『削ってダメなら盛ればいいじゃない作戦』、大成功!」 「だね!」 両手をぱんっと合わせて喜びあう兄妹を、ヴィルとテオは唖然として見ていた。 そこへ、重い足音を響かせながら二匹目のゴーレムが現れた。その後ろにはずらりとゴーレムが連なっている。 アルマは素早くテオがくれた爆弾を投げつけ、ぼむっという音とともに煙幕を作った。 「逃げるわよ、三人とも!」 「お、おう」 テオが気後れ気味にアルマへ駆けよる。そして後ろをついてきたヴィルへそっとささやいた。 「アルマちゃん、元気くね?」 「おれたちよりもすごいかもしれないな……」 § § § 「ま、まってくれ、三人ともっ」 四人の最後尾をつとめるエルクが事務棟へ転がり込んだとき、先を行くアルマがエントランスで急停止した。その背にぶつかりそうになり、エルクは慌てて足を止めた。 「どうしたんだい?」という質問には、エントランスから二階へ繋がる階段にずらりと居並ぶジンジャークッキーマンたちが答えた。人ほどの大きさの彼らは手に手に飴細工の剣を携え、アルマたちへと構えている。その額には先ほどのゴーレムと同じ文字があった。 「多いな……」 と呟くヴィルを、アルマが突き飛ばした。同時にひゅっと空を切る音がして、彼がいた場所に剣がなぎ払われた。 「大丈夫っ?」 「――じゃない、避けろ、アルマ!」 アルマの後ろへジンジャークッキーマンが飛び降りてきていた。驚いてたたらを踏む彼女の目の前で、横から飛んできた小型爆弾が炸裂する。 「――きゃっ」 砕けたクッキーが降り注ぎ、アルマは慌てて後ろへさがった。 剣を振り回して追撃するクッキーマンへ、アルマの背後から太めの腕がぬっと伸びた。 その手に持った絵筆の先には、真っ黒なカシスジャムがのっている。 絵筆がクッキーマンの額にある文字を二本の線で消した。 するとクッキーマンはへなへなと倒れ込み、元のクッキーに戻ってしまった。 その筆の持ち主――エルクがにこりと笑って、自慢げに告げた。 「『盛れないのなら、塗りつぶせ大作戦』ってのはどうだい、アルマ」 「すごい、お兄ちゃ――きゃっ」 けれどその笑顔にこたえるより早く、次のジンジャークッキーマンが襲いかかってきた。鼻先をかすめる飴細工の剣に、アルマは目を白黒させながら後ろへ下がる。 そこへ部屋の奥から更なるジンジャークッキーマンたちが集まってきて、アルマたちを丸く取り囲んでしまった。 エルクはささっとクッキーマンの額に絵の具を塗りつけながら、苦々しく笑う。 「……絵筆一本じゃ、この数は無理みたいだね」 「うう、どうしよう、お兄ちゃん」 アルマがエルクの服の袖をつかんだとき、パッと兄が身を翻した。 そのまま腕をエルクに捕まれて、アルマは引きずりこまれるようにエントランスわきの小部屋へと逃げこんだ。 「な、なに!?」 「落ち着いて、アルマ。ちょっと冷静に考えよう。クッキーにも何か弱点があるはずだ。何か思い出せないかい?」 「でもあんな量、どうすれば……」 と、その小部屋に簡易キッチンがついているのを見つけたアルマは、だっと駆けよった。 「飴細工は熱に弱いけど……クッキーなら……」 ぼそりと呟く二人の元へ同じく駆け込んできたヴィルとテオが叫ぶ。 「んなとこ入るな、囲まれてるぞ!」 「早く来い、こっちだ!」 が、顔を出した二人はすぐにその首をひっこめた。アルマの向けたホースがものすごい勢いで大量の水を噴きだしたからだ。 「さあ、かかってらっしゃい、お菓子さん!」 彼女は勢いよく扉を開けて、エントランスに集うジンジャーマンへ水をふりかけた。手持ちのアイヒマンシュガーを溶かした砂糖水だ。通常の水では効かないだろうが、練甘術師の端くれのアルマが合成した砂糖水ならば話は別だろう。ジンジャーマンたちはすぐにふやけてしまい、ぐずぐずになって崩れ落ちた。 「さーあ、振りまくわよー!」 「あ、アルマ……待ってくれ」 逃げ惑うジンジャーマンへいっそ楽しげに砂糖水を撒くアルマとは対称的に、部屋の奥でエルクがヒーヒーとポンプを押していた。 一通り倒し終え、アルマとエルクは額の汗をぬぐって一息ついた。 「お疲れさま、あらかた終わったか」 エントランスの階段の上にヴィルがいた。 「あれ、二人とも、どこ行ってたの?」 「他の部屋を調べてたんだ。この棟の人間は全員倒れているみたいだった。テロの薬をかけて回ったから、しばらくすればエリクシールが溜まって目を覚ますだろうが……体型だけはどうしようもないな」 呼吸困難になる者がいないといいが、と肩をすくめるヴィルへ向かって、アルマが階段を上っていく。 「クララちゃんもいた?」 「いや。社長室だけ鍵がかかっていたんだが、そこにいるのかもしれないな……」 そっか、と頷く間もなく、廊下の奥からテオの悲鳴が響いた。 「ぎゃー! 助けろばかヴィル――!!」 「アルマ、あれ!」 エルクの指さす方向を見れば、廊下の最奥に何か白いぷよぷよとしたものに踏まれているテオがいた。一見白壁のようなそれは、肥大化したマシュマロのようだった。その周りには先程のジンジャークッキーマンを手ほどのサイズにしたゴーレムがたくさんいて、小さな剣でテオをつついている。 「痛え! いていていてぇ!」 「テオ!」 とっさにヴィルとエルクがテオへ駆け寄った。 「あ、ちょっと待ってて!」と、二人とは対照的に、アルマは階段を駆け下りていった。 それすら気づかない様子で、ヴィルとエルクはテオの両手を引っ張る。 「ぎゃー、ちぎれる!」 「なにやってんだ、ばかっ」 「お前に言われて社長室の鍵開けをやってたんだろうが! 開いた途端にコレが押し寄せてきたんだよッ!」 「ケンカは後でしてくれないかい、せーのっ」 ずるん、とテオがマシュマロの下からずり出てきたとき、アルマが先程の部屋から火のついた薪を持って帰ってきた。 「マシュマロには、火!」 熱く燃えた薪をずぷんとマシュマロへ差しこむ。するとマシュマロはぷくりとふくれはじめ、どんどんとふくらんで、しばらくしたところでパチンと弾け、どろりとした中身をばらまいた。 辺りにいたミニジンジャーマンはそれを被って見えなくなった。しばらくはマシュマロだった液体の下でうごめいていたが、やがて動きを止めた。 エルクにすがりつくような形でマシュマロ液を回避したテオが青ざめながら呟く。 「アルマちゃん、かっこいー……」 白壁のようだったマシュマロが溶けきると、開いた社長室の扉が見えてきた。すると、バニラの甘い匂いが漂ってきて、扉の向こうにぬいぐるみを抱えたまま真っ青になって立ち尽くすクララがいた。 「クララちゃん、無事だったんだ!」 思わず駆け寄ろうとするのを、エルクの大きな手が止めた。彼は青ざめて譫言のように呻く。 「あれがクララちゃん? そんなばかな……」 「やはり、知った顔か?」 ヴィルが小さくささやいた。 「ほんの数回見ただけだけど……間違いない、九年前に死んだ子だ!」 「なんなんですの、あなた方!」 エルクが断定した瞬間に、クララは子供の姿に似合わない大声を出した。 「勝手に押し入ってきたと思ったら、警備のクッキーちゃんたちをあんなにして! ああ、あなた方がテロリストだったのですわね! すぐに警察を呼びます、必ず捕まっていただきますわ!」 「警察が来られないことは了承済みだろう、クララとやら」 ヴィルが鋭い視線でクララを射貫いた。それにおびえたのか、少女はいっそうかたくなにぬいぐるみを抱きしめた。 「な、なぜですのっ、ま、まさかあなた方が――」 「違う。これだけ大規模にエリクシールを抜いたのだから、警察が機能しないことなどとっくに分かってるだろうと言ったんだ。今すぐ術式を解除して、エリクシールを住人たちに返してもらおうか」 「何のことだかさっぱりわかりませんわっ。お父様、お父様!」 クララが狂ったように父を呼ぶと、社長室の奥の椅子がゆっくりと動き、振り返った。そこに座っていたのは五十過ぎと思われる壮年の男性だった。彼はおっくうそうな動きで立ち上がり、ふらりとよろけながら娘へと近づいていった。彼もエリクシールをずいぶんと抜かれているようだ。 不調そうな父親の様子など意に介さず、クララは彼に駆けよってその腕をとった。 「お父様、このテロリストどもが、わたしが死んでいるなどという嘘を吹聴していますわ! きっとこの騒ぎに乗じて、わたしを殺すつもりなんですわ!」 突然の発言にアルマが「えっ!」と短く声をあげる。エルクも目を丸くして首を振ったが、クララには通じていないようだった。 社長が何事かを呟いて軽く腕を振ると、部屋から続く小部屋からまたもや大きなマシュマロのボールのようなものが出てきて、アルマたちを取り囲んだ。 「ち、違います、誤解です! テロリストかといえば――テロリストですけど、わたしたち、クララちゃんを殺そうだなんて思ってません!」 「嘘よ! わたしはこの耳ではっきり聞きましたのよ! わたしが死んだなんて嘘を!!」 「そっちこそ嘘つくんじゃねぇよこのクソガキが!」 テオは怒りにまかせてヴィルの薬瓶を奪い、父娘に向かって投げつけた。 「――きゃっ」 「クララ!」 社長が空中で払いのけるも、口の開いた瓶からは緑のどろりとした薬がこぼれ、二人へ降りかかる。社長がとっさにクララをかばい、一瞬で茶色のスーツがはち切れんばかりの姿になった。 一方、腕に薬を被ったクララは、ジュワッという音とともに煙が上がり――。 「!?」 「ばかな、腕が――」 「い、いやあああああああああああ!!」 ぼとん、と二の腕から先が、落ちた。 耳をつんざくような絶叫をあげ、クララが父親を払いのけた。長い悲鳴の後、荒い息をついてギロリとアルマたちを睨む。 「よくも――よくもやってくれたわね、小僧ども!」 別人のようなしゃがれ声で言うが早いか、クララは倒れこんだ巨大な社長のわき腹を蹴り飛ばし、舌打ちした。 「まったく使えない男! もう少しだというのに!」 そしてなりふり構わず走り出し、アルマを突き飛ばして扉の外へと駆けていった。 少女とは思えないほど素早い身動きに、その場の一同はひとりも対処できなかった。 「――い、いたぁ……」 床に転がったアルマが起き上がる。 「大丈夫かい、アルマ。怪我は?」 「ないけど……。クララちゃんは一体……?」 エルクに助けられて立ち上がったアルマは、間髪入れずヴィルに差し出された、もげた片腕に悲鳴を上げた。 「――ぎゃあっ」 「これを見ろ、アルマ」 と、その断面を見せつけられる。 「な、そんな腕なんてさわっ――――え。どういうことなのこれは!」 恐ろしさも忘れ、食い入るように腕の断面を見つめる。 肉と骨が見えるはずの断面には、バニラの香りがするスポンジ生地がみっしりと詰まっていたのだ。 「スポンジの腕ってことは――クララちゃんは――」 「そう、菓子人形……ゴーレムなのだ」 床に転がっていた社長がはじめて話しかけてきた。彼は大きくなったお腹を押さえ、むくりと上体をおこす。 「あれは本当の娘ではない。本当の娘は九年前、竈の中に落ちて死んだ。だが数年後、その竈の中から生まれてきたのがあの娘だった……」 愛していたのだがな、と社長は呟いて、寂しそうに壁にかかった絵を見た。両親と満面の笑みのクララが一緒に描かれた大きな絵だ。 「あれの言う通りエリクシールを集めれば、本当の娘が帰ってくるのでは、という期待が捨てられなかった。本当はとうに悪しきものだと気づいていたのに……」 「エリクシールを集めるだけじゃ死者蘇生はできないはずだが」 「あの竈には不思議な力がある。あの子も何の術もなしにある日突然、竈から生まれてきたのだ。だから、あの子の言うことを信じてしまった――いつか、本当の娘が蘇る、と」 「その結果が『アイヒマンシュガー』か」 テオに詰られると、社長はこくりと頷き、丸い体を小さくして床に手をついた。 「すまなかった。君たちテロリストが現実を突きつけてくれてもなお、夢を見続けていたかったのだ」 しんと辺りが静まりかえり、四人は困ったように互いに目配せした。 アルマが社長の前にしゃがみ込み、手を差し出した。 「顔を上げてください、おじさん。今はそれどころじゃありません。一刻も早くエリクシールを戻さないと、国中が大変なことになります。それに、わたしの師匠も」 「巨匠フリーダの弟子か……」 「その件は後で聞きますが」とヴィルが丁寧に前置きして、アルマと一緒に社長を助けおこした。 「その竈とは工場のものですね? 一体どんなものなんですか?」 「わたしが若い頃にこの地で見つけた竈だ。あの頃はまだこの国もなく、小さな森だった。わたしは難民で、外の地獄のような世界をさまよっていたんだ」 「それは何年前ですか」 社長はしばらく考え込み、遠い記憶を探るように答えた。 「三十五年ほど前だったか。それ以前のこの街の歴史は、すべて嘘だ」 「嘘!? そんな……」 「三十五年前に突然できた幻の国、ね。外の情報とぴったり一致するな」 絶句するアルマやエルクとは反対に、テオが腕を組んでにやりと笑った。 ヴィルは真剣に頷き、社長へ問いかける。 「エリクシールを奪われると記憶が曖昧になることはご存じですか?」 「ああ。わたしたちは難民の子供を集めてエリクシールを抜き取り、外での辛い記憶を忘れさせてきた。なにしろ、エリクシールを竈へ送ると、ほとんど無限に砂糖を生み出し続けるからな」 「無限に? 材料もなく?」と、アルマが素っ頓狂な声をあげた。 社長が重々しく頷く。 「ああ、本当だ」 「じゃあその竈が術式の中心だな。ならさ、今からちょっと行って、ぶっ壊しちまえばいいんじゃねぇ?」 テオのいかにも悪巧みを考えていそうな声に、社長の顔色が変わった。 「だめだ! あの竈の火が消えると――」 「すべての練甘製品がただの菓子に戻ってしまう、ですね?」 消え入った語尾をヴィルが拾った。 「…………その通りだ」 社長は何かを諦めたような表情で頷いた。 「街の外では、ここの製品は元のお菓子に戻ってしまう。それは竈の力が届かなくなるからだ。だから決して竈を壊してはならない!」 「こんな異常な夢の国をそのままにしておけと? それこそあってはならないことだと思いますが」 ヴィルにきつい語調でいさめられ、社長は二重顎になった顔をゆがませた。 「そんな、破滅だ。この国を滅亡させるつもりか! 君たちは――そうか、テロリストだったな。この国を滅ぼすつもりなんだろう!」 「逆ですよ。おれたちはこの国を救うために派遣された、錬金術師協会の者です」 社長が目を見開き、分厚い唇をぽかりと開いた。 「錬金術師……本物か?」 「本物なんて滅多にいませんよ。おれたちは科学技術学派に近いものですが」 生真面目に告げ、ヴィルは社長に背を向ける。テオが開きっぱなしの扉をこんこんと叩いた。 「行くぞ、ヴィル。こんなおっさんに構ってなんかいられねぇ。さっさと竈をぶち壊しにいくぞ」 「待ってくれ!」 叫んだ瞬間、社長は突然むせかえり、ゴホゴホと咳をした。 扉からでた四人は顔を見合わせる。エルクが気遣わしげに社長を振り返った。 「ごめん、僕はこの人を手当てしたい。数ヶ月前の自分を見ているみたいなんだ」 「わかった。お兄ちゃん、気をつけてね」 こくりと頷くアルマを、ヴィルが見下ろした。 「アルマもここにいたほうがいいんじゃないか?」 「ううん、行く。師匠を助けるって決めたんだもの。それに練甘術師見習いとして、この砂糖の件、逃げちゃいけないと思うの」 エルクと別れ、三人は裏手の工場へと急いだ。 § § § 甘い匂いが充満する工場の最奥にその竈はあった。大きさはフリーダの工房のものよりも一回り小さく、赤い煉瓦に白い漆喰の、古ぼけた竈だ。 上の蓋は常に開いていて、そこから液状になった砂糖がどろどろと出ている。竈の下には薪を入れる溝があるのだが、そこに燃料はなく、ただ赤い炎が燃えていた。溝の内側には幾何学的とも呪術的とも言える文様が描き殴られていて、底知れぬ気持ち悪さがある。 竈の前には片腕を亡くしたクララがいて、憤怒の形相でアルマたちを睨みつけていた。 彼女は何かにとりつかれたようなしゃがれ声で叫ぶ。 「もう許さないよ、小娘ども! わたしの竈まで壊しにくるだなんて!」 「クララちゃん……なの?」 その声の迫力に戸惑い、アルマはうろたえて後ずさった。 ヴィルがその背を軽く押さえ、守るように一歩前へ進み出る。 「あんた……何者だ?」 だがその問いは無視された。 「もう少しで出来るところなのに。邪魔しないでちょうだいな!」 クララは片腕で空をなぎ払う。 「行け、あたしの可愛いお菓子たち!」 すると、竈から続く長い砂糖液の中から、ざらりと砂糖でできたゴーレムが立ち上がった。門にいたものとよく似ているが、細かい砂糖の粒子でできており、時折ぱらぱらと粒がこぼれ落ちる。それがどんどんと砂糖液の中から生まれてくるのだ。 「何だよ、こいつらっ」 テオが爆弾を投げつけると、ゴーレムの胴体にぽっかりと穴が開いた。強度は門のものよりも弱いらしいと安堵する。のもつかの間、ざらりと砂糖が集まって、すぐに修復してしまった。 「アルマの生クリーム作戦のほうがいいと思うが……」 ヴィルがゴーレムを見上げ、そのまま口をつぐんだ。砂糖ゴーレムには額の文字がなかったのだ。 アルマが足止めに粘着ゼリーを投げつける。しかしゼリーは砂糖にまみれるだけで、ころんと転がって落ちてしまった。ぼろぼろの表面ではゼリーもつかないらしい。 そうこうするうちにゴーレムは寄り集まって一体化し、巨大化した。砂糖まみれの大きな手がずるりと伸びてきて、アルマの胴を掴んだ。 「ぎゃ――!」 そのままのっしのっしと竈へ向かわれ、アルマは焦る。クララが高笑いしながら、真っ赤に焼けた砂糖液をさらす竈の口を指さしたからだ。 「溶かされるー!」 ばたばたと暴れるアルマへ、クララが邪悪に笑う。 「こうなったのも縁だからねぇ。逃がしゃしないよ。見たところ、お前たちにはたっぷりエリクシールが詰まっているみたいだし」 「な、何をする気――」 「この竈の中でぐつぐつ煮込んであげるのさ。どろどろにとかしてエリクシールと一緒にすれば、『新しいあたし』のできあがりって寸法さね」 アルマの全身からざっと血の気が引いた。このまま竈にくべられたら、ただ死ぬのではなくクララの一部にされてしまうのだ。 (冗談じゃない、何とかしないと――) そのとき、ゴーレムの背中でぼんぼんと爆弾が弾けた。背から腹を突き破り、アルマにどっと砂糖が被さる。 「嬢ちゃんを放せ、この砂糖野郎!」 テオの声がするのと同時にアルマのとなりへ駆け寄ったヴィルが、ゴーレムへ緑の薬を振りかけた。 ざっと砂糖が溶け、アルマが床へ転がる。素早く腕を取られて立ちあがるも、もう反対の手をクララに取られ、少女とは思えない力で引っ張られた。 「い、痛い痛い!」 「くそっ! アルマ!」 クララは掴んだ腕に爪をたて、それから高笑して指先でアルマの肌をなでた。 「逃がしゃしないって言っただろう? おや、綺麗な緑の目をしているね。この娘の肌と瞳、そこの小僧の目鼻立ち。寄せ集めたらどんなに素敵になるだろう。ハハハハハ!!」 高笑いするうクララの瞳には、狂ったような暗い光が宿っている。そのくすんだ水色の瞳に吸い込まれそうに思え、アルマはあえて顔をそらした。 そのとき、二人の足元に丸い爆弾がころんと転がってきた。それはぷしゅっと煙を吐き出し、真っ白な煙幕を作る。それから突然パアンと大きな音を立てて弾けた。 驚いた拍子に手が離れ、アルマが駆けだす。 「――大丈夫かい、アルマ!」 戸口からエルクの大きな声がして、アルマははっと顔を上げた。 「お兄ちゃん!」 見れば、エルクが社長を連れて工場の戸口に立っていた。 「助けに来たよ、さあ、社長さん!」 「うむ」 社長が口の中で何事かを呟くと、周りにいたゴーレムたちがざっと音を立てて崩れ落ちた。辺り一面に白煙が立ちこめ、誰もが足を止める。 甘い香りがする白煙の向こうからクララがエルクを忌々しげに睨んだ。チッと舌打ちし、「お前はダメだね」と呟く。 「嫌味な金髪だ。あの忌々しいヘンゼルとグレーテルにそっくりな色。ああ、見るだけで怖気が走る」 「ヘンゼル? ハンス一世のこと?」 その名を出した途端、クララは顔をしかめてアルマを睨みつけた。 「あいつらは大嘘つきの裏切り者さ。飢えから救ってやったっていうのに、見返りをするどころか、あたしのことをこの竈に突き入れたんだからねぇ」 「この竈に? まさか……」 ヴィルがごくりと喉を鳴らした。 「――昔話の『森の魔女』、なのか?」 「ま、まさかぁ」 言いながらテオが青ざめる。 「この竈に取り憑いた悪霊が魔女を騙ってるだけだろう?」 社長が首を振りつつ答えた。 「違う。これは本物の『森の魔女』だ。何百年もの間ずっと竈に取り憑いていた」 クララがにやりと老獪な笑みを浮かべた。 「そうさ、あたしは魔女。愚かなグレーテルに殺された、錬金術師の端くれだった女だよ。この竈の中で元の体に戻る日をずうっと待っていたのさ!」 クララ――魔女が一歩進み出で、残った片手でパチンと指を鳴らした。すると砂糖が彼女の元へ集まりはじめ、その腕を再生した。 ヴィルがアルマを背に守るようにして立ちはだかった。 「大勢の犠牲を出してまで生き返ろうとするのか……本当に醜いな」 「本来の自分に戻って何が悪い。貴様ら錬金術師の本分じゃあないかね? 錬金術なら私も囓っていたからねぇ、もうずっと昔のことだけれど。 ヴィルは顔をしかめてコートの内ポケットから新しい薬瓶を取り出した。 「本来の自分に戻るのに、他人の本精と姿を使うなんて矛盾してる。死者ならば死者らしく地獄に落ちろ」 魔女は口元へ片手をあて、せせら笑う。 「なりたい自分になって何が悪い。求めた姿、それこそが本性だよ」 「違う、本性とは持って生まれたモノだ」 ヴィルは強い語調で言い切った。 魔女は鼻を鳴らして笑う。 「生まれつきの自分に満足しているモノが一体どこにいるって言うんだい? 誰もが理想の自分を求め、それこそが本来の自分だと、胸を張って言っているじゃぁないか」 「そうやって自分を見失った結果が『ヘンゼルの骨』だ。太って倒れるだけだったろう」 「そういうお前さんはどうなんだい?」 魔女が何かを見透かすように目をすがめてヴィルを見た。 「あたしにゃあわかるよ。お前さんも矮小な自分の本性が大嫌いみたいじゃあないか」 「それは……」 とっさに何も言えないでいるヴィルへ、魔女は更に追いうちをかけた。 「小僧にはわからないかもしれないがね、生まれたばかりの赤ん坊なんてね、ありゃあ確かにエリクシールの塊みたいなもんさ。だけど赤んぼに何ができる? ただ泣いて叫ぶだけだよ。お前さんは、その赤ん坊こそが本当の自分だって言っちゃっているのさ。まったく馬鹿者さね。自分のことをなぁんにもわかっちゃいない」 「…………」 ヴィルは唇をかみしめてじっと相手を睨んだ。 そんな彼をアルマは心配げに見上げていた。 にやにやと笑いながら魔女は言う。 「自分を偽るってのは悪い言い方だがね、よく言えば努力じゃないか。成長じゃないか。それが理想の自分になるってことじゃあないのかい」 魔女はさも正論だと言わんばかりに小鼻を鳴らし、胸を張った。細い首を軽くかしげ、愛らしい少女の姿にぞんざいな老女の態度を混ぜ込む。 「なにが努力だ、成長だ。お前のした努力と言えば、人から本性を奪うことじゃないか!」 「そうさ。長い長い雌伏の時だったよ! すべては自分に立ち返るため。万人が望むことさ!」 高らかに言い放たれ、ヴィルは数回口を開きかけては止め、ぐっと押し黙ってしまった。 魔女が勝ち誇ったように目元を細めた。 「だろう? お前さんもそう思うだろう?」 「――違う!」 叫んだのはアルマだった。 「理想の自分なんて、きっと一生なれない。だって理想って、どんどん変わっていくもの。一つ変わればもう一つ、もっともっとよくなっていきたいって思うもの」 「そうだよ、だからあんたもあたしと同じ意見だろう? 理想の自分になりたかろう?」 「違う、全然違う……」 震える拳を握りしめ、アルマはきっと相手を睨み付けた。 「だって、そうやって無理をして、苦しんで、悩みながら少しずつ変わり続けていくものこそが――――本当の自分なんだもの!」 きつく言い切ったとき、そっと背中に手を回された。振り返って見上げれば、エルクが優しくも力強く微笑んでいた。 「そうだよ、アルマ。僕もそう思う。きっと少しずつ変わりながら良くなっていくものなんだ、人間って」 「お前みたいな化け物にはわかんねーだろうがなっ」とテオが爆弾を片手に言う。 「……そうかもしれないな」 ヴィルはこくりと素直に頷き、アルマを横目で見た。その目にはいつものような冷たさがなかった。 魔女はまなじりをつり上げ、金切り声をあげた。 「もういい、愚かなガキどもめ。そのまま食われていれば、わたしの中で永遠に生きられたものを!」 「そんなの、死んだほうがずぅーっとマシだね」 テオがぺろりと舌を出し、爆弾を投げつけた。 だがそれは突如竈から噴出した大量の砂糖によって阻まれる。 「げぇっ」 「なんだ!?」 どろりとしたそれは通常の砂糖とは違い、ねばねばとして赤い色をしていた。すぐさま砂糖のレーンからあふれ出し、ゴーレムの残骸を飲み込んでむくむくと膨れあがる。その表面には時折この場にいないはずの国の住人の顔が映りこんでいた。 足元まで迫ったねばねばを避けて、五人が戸口間際の一カ所に集まる。試しにテオがねばねばを蹴ってみると、どろりとした液体が靴について離れなくなった。 クララは腰までねばねばに浸かりながら高笑いして叫んだ。 「あーははははは――! 全部、ぜぇんぶ『あたし』になってしまえ――!!」 彼女の声に合わせてねばねばが大きくたわみ、その反動でアルマを飲み込んだ。 とっさにヴィルが手を伸ばし、アルマの手を掴む。 「助け――」 「アルマ!」 しかしねばねばで手が滑り、掴んだはずの手はずるりと離れてしまう。 頭の上からつま先までどろどろに飲み込まれ、アルマは必死でもがいた。視界が真っ赤に染まっている。何も見えない、聞こえない。 はずだった。 ――助かりたい。 強く願うその声を、自分のものと思った。だがそれにしては低く、男のものに聞こえた。 ――お腹がすいたよ、お母さん。 幼い子供の声に驚いて目を開けるも、視界はただ赤いだけだった。慌てたことで息を吐き出し、ごぽりと泡が逃げていく。 ――いつになったら戦争は終わるんだ。 ――大丈夫、きっと助かるから。 ――お腹いっぱいご飯が食べたい。 ――空襲の心配がなくなって、毎日眠れますように。 ――水を。水をくれ。 いくつにも重なった声の中で、ひときわ大きく響くものがあった。 ――『その望み、かなえてあげよう。辛い過去は忘れておしまい』 それはクララから出ていた老婆の声と確かに一致していた。 ――『その代わりに、おまえたちのみずみずしい命をわけておくれ』 そう言われた瞬間、アルマの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。 § § § 焼き払われて廃墟になった村には、飢えた住人たちが水を求めて井戸に集まっていた。誰もがやせ細り、くすんだ肌をしている。瞳には常に飢えの気配があった。 幼いアルマは同じくやせ細った兄に手を引かれ、水を求めて井戸に並んでいた。しかし子供にはわずかな水しか与えられず、ほとんどが大人たちの手へと渡っていく。 「――村を……この国を出よう」 兄の乾いた瞳には強い覚悟があった。 手を引かれるままに村を出ても、外は荒野だ。かつては美しい草原が広がっていた場所にも、花畑にも、草木が一本としてない。そして遠くに見える町には未だに火の手が上がっている。――戦争が終わる気配はない。 共に村を出た大人たちとはぐれ、方角もわからぬまま二人は歩き続けた。 最初にアルマが動けなくなり、それを引きずるようにして歩き続けた兄も倒れた。 「お兄ちゃん、お腹が……すいたよ」 「僕もだよ、アルマ。でもきっと、このまま眠ればもうお腹がすくこともなくなるから……」 兄は優しくアルマの髪をなでた。 アルマは目を閉じ、うつろな頭で思う。 どうしてこんなことになったのだろう。お父さんとお母さんが生きていた頃は、毎日薄っぺらいパンケーキで細々と暮らしていたけれど、こんなにお腹がすくことはなかったのに。 (苦しいよ。喉が渇いたよ。お兄ちゃん……) アルマの脳裏にやつれ、痩せこけた兄の姿が浮かぶ。妹を優先させて、わずかなパンをくれた兄。水も少ししか飲まず、すべてアルマにくれた優しい兄。 (無理させてごめんね、お兄ちゃん) (神様、どうか。お兄ちゃんを助けてください) (お兄ちゃんをお腹いっぱいにさせてあげたいの……!) 二人が限界を迎えたとき、遠くにちかちかと光るものを見つけた。 近づけば甘い香りがして、お腹がぐうぐうと鳴る。見れば見るほど口の中によだれがあふれてくる。 そのお菓子でできた不思議な街が、幻の国ドルチェブルグだった。 § § § ねばねばの中でアルマは必死にもがいていた。このまま溺れてしまえばクララの一部になるのだろうか。そんな恐ろしい考えがよぎって、夢中で手を伸ばした。 ドボン、という音が近くでして、手をぐっと捕まれた。滑って何度も握り直されたそれは、兄のものよりも二回りほど小さい。 「アルマ!」 ヴィルの声がすぐ近くでして、アルマは驚いて目を開いた。彼は必死にアルマをかきだき、ねばねばの流れに抵抗する。その彼を支えているのがテオとエルクだった。 ヴィルが頭からねばねばに飲み込まれる。と同時に、アルマの頭の中に幼い少年の声が響いた。 ――よわむし。 すねたような声には、幼いながらもヴィルと同じ響きがあった。 そして、どこかで、聞いた覚えがあった。 頭の隅が瞬くのを感じながら、アルマは必死になにかを思い出す。忘れてはいけない、大切ななにかを。 ――みんなよわむしだ。ぼくは逃げない。絶対に逃げないからな! そのとき、アルマの脳裏に、故郷の廃墟がもう一度ひらめいた。焼きはらわれた村には、出て行こうとするたくさんの難民がいた。村を捨てようとする大人たちに、そしてその列に加わるアルマとエルクに向かって、幼い少年が叫んでいた。 ――ぼくは必ずこの街を戻す。元の平和な、いやそれ以上にすばらしい街にしてみせる。 黒髪に茶色の瞳をした少年は、幼いながらに今の面影を残していた。アルマと同い年の、幼なじみだ。 大切な、大好きな人だった。 どうして忘れてしまったのだろう。 ――この町だけじゃなく、この国を、すべての国を。 記憶の中の少年は叫ぶ。 ――世界全部を元の姿に直してみせる! 「――ヴィーっ!」 一瞬の映像が終わったとき、アルマはヴィルにひかれてねばねばから頭を出した。ぱっと息を吸うと、甘い香りが肺の中いっぱいに入ってくる。 ねばねばから首だけを出し、ヴィルが叫んだ。 「君はアルマだ! ちょっと忘れっぽくて、でもいつも一生懸命がんばっている、アルマだ! 絶対に忘れるな。どれだけエリクシールを抜かれても、絶対だ!」 「うん」 アルマは掴まれた手をぎゅっと握りかえした。 「思い出したよ、やっと。助けにきてくれてたんだね、ヴィー」 相手は泣きそうな顔で笑った。 「……そういう性分なんだよ」 そう言うと、ヴィルは懐から大人の握り拳ほどもある巨大なマカロンを取り出した。ラズベリーのピンクに白いクリームが挟まったそれは、アルマとテオが協力して作り上げた大爆弾だ。 ヴィルはどろどろの中で、もがくように大爆弾を竈へ投げつけた。 「やめろっ」 クララの姿をした魔女が短く叫ぶ。 マカロン型大爆弾は空中で大きく弧を描くと、割れ目から一度ぷしゅっと蒸気を噴き出して、真っ赤に焼けた砂糖をはき出し続ける竈の中に落ちた。 数秒の無音。 そして轟音。目を灼く光。竈の中から真っ白な粉砂糖の煙が吹き出し、煉瓦づくりの竈に無数のヒビが走る。真上の穴からは勢いよく爆風と砂糖が噴出し、辺りに砂糖と煉瓦の破片がばらまかれた。 「あたしの竈があ――!!」 魔女は髪を振り乱して叫ぶ。 竈が自重に耐えきれず、べこりとへこんだ瞬間。 中から大量の人間の声がした。 「俺はディルクだぞーーーーー!」 「私はエリーよー!」 「ぼくハインツ!」 「わたしは、わたしは、イザベラだっけ?」 「フロリアン、フロリアンだよ!」 それらの声は重なり合い、工場の中にぐわんぐわんと反響した。 やがて竈から光がこぼれはじめ、小さな光の塊となって空中を泳ぎはじめた。いくつもいくつも飛んでゆき、やがて工場の屋根を通り抜けて国中へ広がっていった。 「ど、どういうことだい、あたしのエリクシールが!」 「元の持ち主のところへ帰るだけだ。すぐに街中の人々が目覚めるだろう」 光のうち、ピンクがかったものが数個アルマのところへやってきて、すっとその胸に入り込んだ。すると胸が温かくなり、心がぱっと明るくなった。 「うわわわわっ」 とエルクが叫んだのでそちらを見れば、大量の光にまみれて人型の光の塊になっている。 その様子をテオとヴィルが驚いた様子で見ていた。 気づけば辺りを埋め尽くしていたどろどろはすっかり元の砂糖になり、足元に固まっていた。 「――やめろ、あたしの、あたしの体がぁ――!」 腰から下を光に包まれた魔女が、叫びながら身をよじる。 見れば、足元から順に体がお菓子に戻ってゆき、ぼろぼろと崩れ始めている。 「嫌だ、あたしは生き返るんだ、生き返る、生き――」 錯乱する魔女のもとに、淡い紫の光がふわりと降り立った。すると社長が目を見開き、ほうけたように呟いた。 「クララ? クララなのか?」 人の形をしたその光の中に、うっすらとクララの姿が見えた。彼女はアルマたちへにこっと笑いかけると、お菓子の自分の姿を抱きしめ、すっと消えた。 同時に、お菓子に戻りきった魔女がぼろりと砕けた。 合わせて竈にビシリとヒビが入り、めきめきと広がった。重い鉄製の火蓋が落ち、煙突から逆流してきたヒビによって竈が真っ二つに割れる。 その瞬間、ぐらりと工場の壁が揺らいだ。 「やばい、竈が壊れたから……」 四人がぱっと社長を振り返った。 「――街中のものが、お菓子に戻る!」 「そうだ」と社長は頷き、クララの残骸へむかって歩きだそうとした。 「私と一緒に終わろう、クララ」 それをテオが引き留める。 「なにバカなことしてんだ、早く逃げるぞ!」 「しかし、九年間かわいがってきた娘なのだ」 「その子はもういません。僕らと一緒に逃げましょう!」 エルクとテオが両脇から社長の腕を取り、引きずっていく。アルマとヴィルも逃げようとした、そのとき。 「アルマ、危ない!」 薄いパイ生地でできた天井がたわみ、べこりと大きく落ちくぼんだ。 その下にいたアルマは、とっさに顔を覆ったが―― 「大丈夫だ、アルマ。落ち着け」 ヴィルが覆い被さるようにして守ってくれていた。 「うん!」 お菓子に戻ったパイ生地は薄くて軽くてぺらぺらで、指先でつつくと穴が開いてしまうような代物だった。アルマたちはパイの下をくぐり抜け、崩壊していく工場から脱出した。 青空の下、ぐらぐらと揺らぐお菓子の家々に、五人は絶句した。 「……まずいな。どこに逃げても菓子が降ってくるぞ」 ヴィルの言葉にテオが答える。 「菓子で住宅なんか作るからだ。言わんこっちゃない」 「街の人は大丈夫かな……」 とアルマが呟くのと同時に、住人たちの叫び声があちこちから聞こえてきた。竈を壊したことで彼らも目覚めたようだ。しかしその叫びの多くが家が壊れそうになることよりも、とつぜん幻覚のとれた自身の肉体に対する悲鳴だった。 事務棟から出てきた丸々とした男たちに、社長が叫んだ。 「みんな逃げろ! 国中の建物がお菓子に戻る! はやく塔へ避難するんだ!」 すべての練甘製品がぐらつく中、フリーダが作った塔だけはぴたりとして動かなかった。 その塔を指さし、社長が叫ぶ。 「フリーダの作品は本物だ。ゴーレム使いの練甘術師として、私が保証しよう!」 「わかった。塔にいこう!」 頷くヴィルに連れられていたアルマが、微笑みながらぱんと手を叩いた。 「壊れない塔――やっぱり、師匠はすごいんだ!」 そのまま駆けだし、五人は塔へ向かった。 § § § 巨大なシュークリームを不規則に積み重ねられた塔は、見た目の不安定さとは対照的に、まるで根っこが生えたかのようにどっしりと建っていた。 一同はブッセのふわふわとした階段を上り、展望台へ出た。風が吹くと軋みそうな細いキャラメル細工の柵に手をかけ、街を見下ろす。 街の半分の家がすでに崩れきり、残りがぐらぐらと揺らめきながら建っている。ぺこりとつぶれたマドレーヌ瓦の屋根や、ぺちゃんこになった教会のババロアのドーム。プレッツェルの街路樹がぱたぱたと倒れていて、その下のチョコレート畳みの道路はすでに溶け始めていた。 遠くでルーメンの飴細工の庭が崩れているのを見つけ、アルマは不安になった。 「街の人たち、大丈夫かな」 「建物はやわらかくて軽いスポンジが多いから、滅多に怪我はしないと思うが……」 「広場へ逃げてください! あそこなら安全です!」 生真面目に叫ぶエルクの向こうで、テオが避難する住人たちへ向かって手を振った。 「早く逃げろ、体中ベッタベタになるぞー」 そう言う彼の口の周りにはべったりと生クリームがついていた。 「ちょ、食べてるー!」 「結構いけるぞ、これ」 テオの手には、いつ持ち出したのか、生クリームの漆喰が乗った事務棟の茶色いクッキーがあった。 その屈託のない態度に皆がくすりと笑ったとき、塔の下から大きな声が聞こえてきた。 「大丈夫かー、嬢ちゃんたちー!」 「あ、カールさん!」 すっかり丸くなってしまった住人たちの中、カールが二人の女性を連れて塔へ続く小道を駆けていた。 そのソバージュの女性とポニーテールの美女を見て、アルマは息をのんだ。 「師匠も! 店長も! 無事だったんだ!」 「あ、お前ら!」 とテオが叫んだので見れば、隠れ家にいた子供たちも塔へ向かって走ってきていた。 「ティア!」 エルクが柵から身を乗り出して叫ぶ。最後尾を駆けるティアナが手を振っていた。 その様子を横目で見てから、アルマはヴィルを見上げ、顔を見合わせた。 「……街、戻せるかな?」 「当然。このくらい、国の外に比べればなんてことないさ。おれたちならすぐだ」 ヴィルは余裕で頷き、にっと微笑んだ。 |
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