第三章 見習いの悩み事

 工房のオーブンは古い竈式で、きび砂糖の煉瓦にチョコレートの扉がついている。中には真っ赤に焼けた炭と丸型に入ったスフレが六つ。ふわふわの表面は熱気にゆらめいて、今にもパチンとはじけてしまいそうだ。
(よし、あとはこのまま無事に冷えてくれれば完璧なんだけど……。どうかこのままふんわりしていますように!)
 アルマは祈るように一度ミトンを合わせてから、そうっと天板を取り出した。焼き色のついたスフレの表面がふわりふわりとおどり、そして。
 しゅん、としぼんでしまった。
「あー……」
 メレンゲの割合に失敗したのか、それとも竈の温度が高すぎたのか。竈の中ではあんなにおいしそうに見えたスフレが、急速に表面をしわしわにしてへこんでいく。
 がっくりと肩を落としたアルマの隣で、フリーダが鼻歌交じりにオーブンへクッキーを入れた。それから三秒ほどして、
「きゃー! 卵ぬるの忘れちゃったぁ」
 と慌てて取り出し、ひとりで「セーフセーフ」と呟きながら卵液を塗っている。
 そのせわしげな後ろ姿を見つつ、アルマは自分の失敗の原因をたずねてみようとして、ためらった。おっとりとした師匠だからこそ、下手なタイミングで話しかけるととんでもない失敗につながってしまうのだ。話しかける際には細心の注意が必要だった。
 アルマのもの言いたげな視線を感じてか、フリーダが振り返った。それからついと視線を落とす。
「どうしたの? 手、熱くない?」
「え?」
 言われて天板を持ったままだったことを思い出す。ミトン越しとはいえ天板から熱気がじんじんと伝わってきていた。
「あちち! ちょ、置き、待ってください!」
 天板とミトンを投げ置くようにして、アルマは流水に手をさらした。
「あらあら火傷しちゃった? ちょっと待ってね、今氷さんを出すからねー」
「大丈夫です、これぐらいなんてことありませんからっ」
 頭を振りつつ、自分の腕についたいくつもの火傷の跡が気になった。勲章のようなものよと師匠は言ってくれるのだが、アルマには失敗の痕跡としか思えない。
「アルマちゃんが大丈夫ならいいけれど……」
 師匠の視線が何気なくスフレをとらえた。
「あらあら、スフレちゃんがしおしおね、次はメレンゲを『つるんでパリッ』とさせるといいわよ」
「『つるんでパリッ』……ツヤが出て、まわりがごわつくぐらいの固さですね」
 うんうんと頷いてフリーダが微笑む。
「そうなの。泡立てが『とろんでぺよん』だと、こうなっちゃうのよ」
 『とろんでぺよん』――また新しい言葉だ。脳に重要単語として書き記し、アルマは両の拳を握りしめた。
「わかりました、次、頑張ります!」
「アルマちゃんはよくわかってくれて助かるわ。お店の職人くんたちには、こういう細かいことって本当に伝わらなくって……」
 はあ、と深刻なため息をついて、フリーダは作業に戻った。
 やがて夕方になり、ルーメンの店子たちが工房へ集まりはじめた。今日の試作品披露をかねた夕食配りが始まるのだ。
 アルマと同じ白いブラウスに赤いスカートをはいた店子たちが、テーブルに並んだケーキをきゃいきゃいと楽しそうに選んでいく。
「やばい、フリーダさんのレアチーズケーキがある! 昨日食べたばっかりなのに!」
「このチョコレートケーキ、なんですかぁ?」
 フリーダは微笑んでこたえた。
「三種類のチョコレートムースよ。オレンジチョコとピスタチオチョコ、それからチーズチョコにしてみたの」
「チーズ……どうなんですか、それ」
「うん、まあ、試作品で十分かなってところね。お店にはリアが並ばせなさそう」
「このキウイのモンブラン、もらいます!」
「あーっ、それ私が狙ってたのにぃー」
 フリーダ作の大きなホールケーキたちが、バサバサとさばけていく。と、
「ねぇ、今日はアルマちゃんのもある?」
 突然話を振られて、アルマは戸惑った。
「あ、はい……。でも今日はちょっと調子が……」
 見た目にもわかる失敗作を隠すようにして後ずさる。
 毎日繰り返されるこの時間がアルマは苦手だった。師匠のケーキは失敗作でも十分おいしくて、店子たちに大人気なのだが、アルマのケーキに手をだす者は少ない。あからさまに自信作を無視されて傷つかないほど、アルマは鈍感ではなかった。リアは店子の舌が肥えすぎているからだと言っていたが、アルマにはなんの慰めにもならない。
 ただ兄だけが、どんなに不格好で不味いケーキでも気にせずに食べてくれていたのだ。
 店子たちが去ったあとにアルマはフリーダとリアの目を誤魔化して、ゴミ箱へ近づいた。選ばれなかったケーキを捨てるためだ。そのすべてがアルマの作品だった。
 ……やっぱりもったいない、よね。
 失敗作とはいえ丹精込めて作ったケーキだ。失敗の原因も追及しなければならないのに、捨てるなどもってのほかだった。
 だがしかし、今日一日で作ったケーキは六種類七ホール。そのうち捌けたのはたった二ホールだった。残りの五ホールは味見をしたら捨てなければならない。
 以前は多くとも三ホール程度しか残らなかった。それを自宅へ持って帰って兄と一緒に食べていた。今は兄もいないのに、残るケーキは増える一方だった。
 理由はわかっている。最近のアルマは基本的で地味なケーキばかり作っていて、店子たちに飽きられているのだ。しかもすべて成功とも失敗ともつかない微妙なラインの作品ばかりだった。
「やっぱりわたし……下手になってる」
 料理の腕が上がるのに反比例して、ケーキの腕前は下がる一方だった。
 『砂糖を使うな』
 ヴィルの言葉が頭の中でリフレインして集中力を乱していた。お菓子作りの基礎ともいえる砂糖を封じられて、この先どうやってお菓子を作っていけばよいのだろう。
 今日のところは普通に砂糖を使ったのだが、それを聞いたら少年はまたあの冷たい瞳でため息をつくのだろうか。
 アルマが残った失敗作を持ち帰り用の箱に入れようとしているのを鋭く見とがめて、リアが指先でテーブルを叩いた。
「捨てていいのよ、アルマ。姉さんだって昔はすごい量の失敗作を捨ててたのよ。今だって山ほど失敗してるでしょう」
「でも」
「いいの。あんたはまだ小さいんだから、失敗して当然なの。どんどん次にいきなさい」
「はい……」
 小さく頷いて俯く。次に行けと言われても、一体何をしたら良いのかわからなかった。どんどん失敗作を量産するべきなのだろうか?
 アルマが工房に来てからスランプになったのは一度や二度ではない。なのに、以前はどうやって乗り越えていたのかが思い出せなかった。ただ必死につくり続けて乗り越えてきたはずだが、それは今の自分とは別人だったような気がする。
 それに、今回は事情が違うのだ。ただ物理的にケーキ作りが下手になったのではなく、心から折れている。新しいレシピに挑戦もせず、基礎的なケーキばかり作り続けているのも、そのせいなのだろう。
(そう、わたしは逃げてるんだ)
 脳裏に構想のまま進まないウエディングケーキがよぎった。一から考え直そう考え直そうと思いつつ、今日までだらだらと日にちがすぎてしまった。結婚式までもう半年を切っているのに。このままでは出来るものも出来なくなってしまうだろう。
 アルマは頭を振って雑念を振り払い、ケーキをゴミ箱に放り込んだ。
 べっこりと潰れたスフレを見るのが、辛かった。

   §  §  §

 病院へ夕食を届けるのはアルマの日課だ。
 とはいえ、工房から戻って即行で作るのでは時間がたりない。仕方なくヴィルに頼みこんで、スープやシチューなど、温め直しのきくレシピを教えてもらい、パンなどはヴィルにつくってもらったものを子供たちに届けてもらうことになった。ドルチェブルグでは手に入りにくい食材も、ヴィルが仕入れてくれているので、とても助かっている。
 病室へ向かう途中、手洗い場で花の水替えをしているティアナを見つけた。
「あ、ティアナさん」
 呼びかけは届かなかったようだ。彼女は深刻そうな顔で鏡をじっと見つめ、胸元を握りしめていた。
 エルクがテロにあって以来、ティアナの表情は冴えない。思い詰めた表情で兄から目をそらし、辛そうに微笑む彼女を見るたび、アルマは胸をしめつけられていた。
(きっと、お兄ちゃんが太っちゃったせいだよね……)
 かつては職人街随一の美形と騒がれたエルクがあんなことになってしまい、きっとティアナは傷ついているのだ。アルマだって自慢の兄の変貌を受け入れるのにかなりの時間がかかった。婚約者ならばいっそう戸惑うこともあるのだろう。
 傷心の彼女をなぐさめる言葉も思いつかず、アルマは足早にその場をあとにした。
 病室に着くと、エルクはベッドの上で身を起こしてこちらへ手を振っていた。
「やあアルマ。今日のスープは何かな?」
 心なしか小さくなった顔を微笑ませて、エルクがランチボックスを受けとる。病院の食事療法もなかなかのものらしく、むくむくしかった兄の身体も一回り小柄になっていた。
「芽キャベツのポトフよ。温かいうちに召しあがれ」
「ありがとう。最近は口が慣れてきたのか、料理もおいしく食べられるようになったよ。……というより、病院のドーナッツに飽きてきたんだろうけどね」
 笑いながらランチボックスを開くエルクに、アルマは笑顔で中身を説明する。
「これはポテトサラダ。こっちが鶏肉のトマトソースがけで、こっちが魚の塩焼きよ」
 兄が喜んでくれるのでつい鶏肉料理ばかり作ってしまう。最近はいろいろとアレンジがきくようになり、ヴィルのレシピを改良してより美味しくすることができるようになった。ヴィルのダイエット料理は本格的すぎて味まで考慮されていないらしく、兄には不評だったのだ。
 エルクが嬉しそうに鶏肉をフォークで突き刺したとき、アルマはふとさっき見たティアナがまだ戻らないことに気づいた。
「ねえお兄ちゃん。ティアナさんのことなんだけど……最近、調子でも悪いの?」
「そんなことは言っていなかったけど」
 もごもごと口を動かしながら呟くと、兄はふむ、とせわしげに動かしていたフォークを止めた。
「確かにここのところ元気がないね。おそらく僕のことがショックだったんだと思うけど……。……ずっと、騙されていたことになるからね」
 悲しげに微笑むエルクに、アルマは一瞬なにも言えなかった。
「……でも、『ヘンゼルの骨』なんてみんな使ってるじゃない。騙すとか騙さないとか、そんなのないよ。きっとティアナさんだって使――」
「いいんだ。僕が悪いんだから」
 とっさにアルマは叫んだ。
「違う、お兄ちゃんは悪くない。全部、全部わたしのケーキのせいだもん!」
 鋭い声が病室に響き、隣のベッドのおじさんがアルマの顔色をうかがってきた。
 エルクはフォークを置き、真剣な表情でアルマを見すえた。声音だけは以前と同様にどこまでも優しい。
「アルマ。僕はアルマのお菓子が大好きだ。でも好きでいることと、好きなだけ食べてしまうことは別だよ。一口でやめられなかった僕が悪いんだ」
「でも……わたしがお兄ちゃんを……失敗作の処分先にしてたから……」
 ゴミ箱の中でぐしゃぐしゃになったスフレを思い出す。もったいないなどと言わず、もっと早くああして捨ててしまうべきだったのだ。一つ一つ丁寧に心を込めて作ったとか、丹精込めて作り上げたとか、作り手の熱意など関係ない。失敗作は失敗作だ。
 それでも、あのスフレを思うと胸が痛い。
 アルマは目に浮かんだ涙を無理やりこらえた。
 自分の腕がもっとあれば、あんな大量のゴミを生み出さなくても済んだのに。
 兄をゴミ箱扱いしなくてもよかったのに。
 こんな悲劇は起こらなかったのに。
 両手で顔を押さえるアルマの背を、兄の丸っこい大きな手がぽんぽんと優しく叩いた。
「僕はね、アルマ。太ってもまったくかまわないと思ってケーキを食べてきたんだ。君のケーキが好きだったからね。寿命が縮むくらいどうってことないって思ってた。……だから、やっぱり僕が悪いんだ。こんなふうにみんなに迷惑をかけるかもしれないなんて、思いもしなかったんだから。本当にバカだよ」
 ぐすぐすと鼻を鳴らすアルマの両肩を優しくつかんで、エルクは自分と向かい合わせた。
「……――アルマ、約束してくれないか」
 いつにない真剣さで緑の瞳がアルマを見ていた。
「もしも僕とティアがこのまま婚約を破棄しても、絶対に自分を責めないって。そう約束してくれないか」
「! お兄ちゃんッ」
 ぱっと顔を上げる。一瞬でこぼれていた涙も引っ込んでしまった。
 エルクはそれを見て曖昧に微笑んだ。
「いいんだ。いつかはこうなるかもしれないって思ってたから。ずっとこの体型のことを伝える勇気がなかったけど……今となっては、あのテロはいい機会だったって思う」
「だめ、婚約破棄なんて絶対にダメ!」
 アルマが叫んだ瞬間、戸口からカシャンと陶器の割れる音がした。慌てて振り向けば、蒼白な顔色をしたティアナが呆然と立ちつくしていた。
「ティア……」
 エルクは唇を振るわせているティアナへ、優しい緑の視線を投げかけた。
「聞いてたんだね。この際だから僕のほうから言うよ」
 どこまでも優しく、エルクは告げた。
「――この婚約を考え直して欲しい」
「エルク……ッ」
 ティアナは小さく息をのみ、うるんだ青い瞳をエルクへ受けた。が、すぐに何も言えずに俯いてしまう。胸元を握り込む手だけが震えていた。
 エルクはティアナへそっと手を差し出した。
「ずっと騙してきたこと、許してくれるって君は言ったね。嬉しかった。すべてが救われるような気がしたよ。……でもね、その一方で気づいてもいたんだ」
 ティアナへ向けた手が空をつかむ。
「……――君が僕を直視しないって」
 誰もがぎょっとして兄を見るほど、その声は低く暗かった。
「結婚は……人生の大切な岐路だから。このまま君の未来まで無理を強いることはできない。罪を許してもらえただけで僕は充分だ。だから、ね?」
 ティアナは口元を押さえ、今にも泣き出しそうな目でエルクへ何事かを訴えていた。それは「やめて」かもしれないし、「それ以上言わないで」かもしれない。
 そんな彼女へエルクは優しくも力強くうなずいた。
「今ならまだ大丈夫。……いいんだよ」
 その瞬間、ティアナは何も答えなかった。ひたすらエルクを直視せず、俯いたまま後ずさる。
「……ごめんなさい。ごめんなさいっ!」
 ティアナはおろおろと謝り、泣きながら逃げるようにして去っていった。
「まっ――お兄ちゃん!」
 とっさに追いかけようとしたアルマの腕を兄がつかむ。その力強さに驚きながら振り返れば、兄の悲しげな瞳と目が合った。
「悪いね、アルマ。その花瓶を片付けておいてくれるかい?」
 穏やかな口調とは裏腹に、その表情は寂しげだった。
 アルマはあわてて花瓶のかけらに近づいて集めはじめた。兄が絵付けした最高の花瓶だっただけあって、床には割れた破片が散らばって一つのモザイク画のようになっていた。
 しゃがんで一つの花を手に取れば、まだ生き生きとしている。綺麗に手入れされた花々には、愛情が込められているように見えた。

   §  §  §

 病院からの帰り道。
 アルマはぼんやりと今日の出来事を思い返しながら、暗くなった公園のベンチに座っていた。頭を巡るのは失敗作のこと、師匠のこと、兄のこと、ティアナのこと。そして自分のスランプのこと。
「あーもう、どうすればいいのよっ!」
 一日の疲れで重くなった腕を振り上げ、アルマはひとりで癇癪を起こした。誰もいないからこそ発散できる何かが、夜の公園にはある。
「あのままお兄ちゃんたちが婚約を破棄しちゃったら、わたしのケーキが二人の人生をめちゃくちゃにしちゃったってことになっちゃう。なのに、なのに……」
 震える両手で頭を抱える。
「こんなにスランプなのに…………――それでもケーキが作りたいって思っちゃう!」
 がっと頭をかきむしる。
 少年に止められても、兄とティアナの絆が終わってしまおうとも、それでもお菓子を作っていたいという甘くも激しい欲求がアルマの中にあった。師匠のように艶やかな作品ではなくとも、誰かに『おいしい』と一言いってもらえるだけでこの欲求はたちまち消えてしまうだろう。なのに、それがかなわない我が身が辛かった。
 しばらく頭を抱えていると、ふいに甘いバニラの香りが漂ってきて、上品な少女の声が降ってきた。
「どうかなさいましたか? あら、あなたはフリーダ様のお弟子さんの」
「あ……。えっと、クララちゃん?」
 優雅な声に頭を冷やされ顔を上げれば、ドルチェブルグ唯一の砂糖会社の令嬢にして絶世の美少女、クララがボディーガードをひき連れてベンチのかたわらに立っていた。
 薄暗い公園の中で、彼女のプラチナブロンドと白い服は、そこだけ光が差しているかのように目立っていた。
「こんばんは。ご機嫌いかがかしら……と訊くのは無粋ですわね。何かお悩みでも?」
 大きなアイスブルーの瞳をきらめかせてクララが小首をかしげた。
「えっと、ちょっと色々あって……。公園でぼーっとしたいなって」
 ぼーっとというよりぎゃーっとしていたことを思い出し、アルマは顔を赤くした。さっきの叫びを聞かれていたなら、悩みはほとんど相談したも同じだ。
「クララちゃんはどうしたの? こんな時間に」
「お父様と喧嘩をいたしまして、飛び出してきてしまったのです」
「そうなの。わたしも似たような状況かも……はぁ」
 魂ごと抜けていきそうなため息をついて、アルマは肩を落とした。ティアナが去ったあと、早々に花瓶を片付けて帰ってきてしまったのだ。もの言いたげな兄の視線を思い出し、もう一度盛大にため息をつく。
 その様子を気遣わしげに見つめ、クララが隣に腰かけた。
「よろしければお話をおうかがいしますわ。明日の練甘術師になるお方がお悩みになっているなんて、我が社としても放っておけませんもの」
 小さな白い拳をとんと胸に当て、目をきらきらさせてアルマを見上げてくる。かわいらしいだけでなく、大会社の令嬢としてしっかりもしているようだ。
 子供に愚痴を言うのもどうかと思いつつ、アルマはぶどうジュースを噴きあげる公園の噴水を見ながら呟いた。
「あのね、ちょっとスランプで……その、失敗ばっかりなの」
「失敗は成功のお母様ですわ。若者はどんどん失敗せよと、お父様もおっしゃってらしたもの」
「それがね……。実は、今料理も習ってるんだけど、そっちのほうが才能あるかもしれなくてね。複雑なの」
 お菓子の失敗率が百発百中なのに対して、料理はほとんど失敗がなかった。最近は兄もおいしいと言ってくれるようになり、いっそう腕に磨きがかかっているのだが。
(肝心のお菓子がダメな練甘術師なんて……)
 内心で三度目のため息をついていたため、アルマはクララの表情が変わっていたのに気づかなかった。
「……今、料理とおっしゃいまして?」
 強ばった声に見下ろせば、かたわらに愛らしくも硬直した少女の顔があった。
「知ってる? 甘くない食べ物を作ることなんだけど」
「……ええ。あんなまずいもの、わたくし大っ嫌いですわ」
 吐き捨てるように言われ、アルマは目を見開いた。
「アルマさんは料理なんてものを作ってらっしゃるの? 本当に?」
「え、あ、うん。お兄ちゃんのダイエットのためだけ、だけど」
 あわててとりつくろうも、本当はアルマも料理をおいしく堪能していた。鬼気迫る少女の物言いに恐れをなして嘘をついてしまったのだが。
 クララは厳しい顔で眉をよせ、吐き捨てるように言った。
「あんなもの、練習する必要なんてまったくありませんわ。甘くもなければ美しくもないし、理解できない味ばかり。料理なんてする時間があるならばパウンドケーキでも作ったほうが、まだ有意義というものではありませんの」
「そう、かな……」
 クララの迫力に気圧されつつ、アルマは思った。
 最近は料理の味の違いもわかるようになったし、いい塩梅というものもわかってきた。なによりヴィルが定期的に送ってくるレシピを参考に、自分流のアレンジを加えることもできるようになっているのだ。
(それが全部、無駄なのかな……)
 自分でも気づいていなかった自負心をぽっきりと折られ、アルマは一回り肩を小さくした。

   §  §  §

 うららかな午後の日差しが差しこむルーメンの庭には、飴細工の花や木がきらきらと輝いている。
 その遙か遠くにはシュークリームを積み重ねて作った塔があった。昨年フリーダが練甘術師コンテストで優勝した際に記念としてつくったもので、彼女にはめずらしい非食用のケーキ塔だ。
 その塔をガラスケースに寄りかかりながら眺めやり、アルマはくたりと倒れこんだ。
「もうダメです無理です終わってるんです〜」
 朝から昼までがむしゃらにケーキを作り続けて、失敗しなかったのはプリンだけだった。焦りでクリームの泡立てすら失敗したところで、師匠に「ルーメンの店番でもして気分転換してらっしゃい」と言われたのだ。
 この世の終わりのような声で泣き、今にも飴製のガラスケースから崩れ落ちそうになっているアルマの背を、リアがぽん、と叩いた。
「シャキッとしなさいな。ふぬけた顔してると、ミスは増えるものよ。どんなときでも背筋を伸ばしてなさい」
「ううう、店長……」
 よろよろと起き上がったとき、店のチャイムがカランと鳴った。
「こんにちは、アルマちゃん」
「――ティアナさんのお母さん!」
 よそ行きの格好でルーメンに足を踏み入れたのは、ティアナの母カルラだった。娘とよく似た華奢なつくりの奥様で、どこか上品な雰囲気がある。
「このベイクドチーズケーキを贈答用に包んでもらえるかしら」
 にこにことケースを指さすカルラは、年より五つは若く見えた。
「は、はい。あの……」
 アルマは一瞬言いよどんだものの、意を決して口を開いた。
「ティアナさんって、最近、どうしてます?」
 ティアナが兄ともめたあの日以来、彼女は病院へ来なくなってしまった。アルマとしても気にしていたところだったのだ。
「あの子ねぇ……」
 カルラは頬に片手を添えて、悩み深げに首をかしげた。
「ここのところふさぎ込んでいて、お休みの日もずっと家にいるのよ。一時はエルクくんのところへ毎日通ってたのにねぇ。あんまり食欲もないらしいから、ついでにあの子の大好きなルーメンのプラチナロールでも買っていってあげようと思ってるのよ」
 奥様特有の饒舌さで言い、カルラは笑顔で、「あ、それとこっちのブラウニーのプチパフェもくださいな」と続けた。
 指示されるままにケーキを取っていたアルマは、そこでやっと口を挟んだ。
「あの、ティアナさん、そんなに落ち込んで……いえ、そんなに食欲ないんですか?」
「全然ないのよ。元から貧相な子なのにねぇ、やつれちゃって、見れたものじゃないわ。もう少ししたら結婚式もあるっていうのに」
「え、あ、はい、そうですね……」
 どうやらティアナは婚約破棄の話をしていないようだ。かといって妹の身分で横から告げるのも気が引けて、アルマは笑顔のまま黙った。
 結婚式まで半年を切っている。なのに両親に何も言っていないということは、ティアナはきっと婚約破棄の決心をまだしていないに違いない。
(まだ間に合うかも。一度会ってみよう)
 自分に何が出来るかもわからないまま、アルマは決心した。
 会いに行くなら早いほうがいい。アルマはカルラが帰ると工房へ戻るむねを告げ、急ぎ足でルーメンをあとにした。
(手土産を作ろうっと。できれば今日中にでも――)
 そこまで思って、はたと足が止まった。
 今の自分に、一体どんなものが出来るだろう。不格好なケーキを手見上げにして、ひきつった顔のティアナとご対面――など、絶対に嫌だ。
 工房の前で困っていると、ふ、と兄の描きかけの絵が脳裏に浮かんだ。あの日作った初歩的なシガレットクッキーなら、きっと失敗することもないだろう。
 そう思って工房の扉を開けた瞬間、中から爆発的なポーンという高い音が聞こえて、アルマは目をむいた。
 竈からわき出る黒い煙と、長い金髪を煤けさせたフリーダが目に入る。
「あは、失敗しちゃった」
「師匠、大丈夫ですか? 最近すっごい失敗してますけど……、何作ってるんですか?」
「依頼主がご内密にって言ってるから教えられないんだけど、クッキーではあるのよ」
「爆発するクッキーですか……」
「ちょっとした水素爆発よ」
 よくあることでしょ、と次の仕込みを開始するフリーダにつられて、アルマも半笑いで自分の作業を開始した。
 ――が、やはりスランプがすさまじく、簡単なはずのシガレットクッキーですらベタベタしたものにしかならなかった。
 あまりに初歩的すぎて師匠に意見を聞くのもはばかられ、アルマは呆然と自分の手を見つめた。
(これは……本格的にまずい)
「いっそ誰かに意見が聞けないかな……」
 兄や師匠はもちろんダメだし、友達にも『仮にも練甘術師なのに』とバカにされるレベルだ。
(誰か、誰かいないかな、的確な批判をくれる鋭い人が――)
 その名を思いつき、アルマは慌てて倉庫へ駆け、大きな蜂蜜の瓶を抱えて作業へ戻った。

   §  §  §

 見覚えのある風景をなんとか辿って、アルマはそのクラッカーの小道を見つけた。
 階段をおりてめずらしい木製の扉へ近づき、こんこん、と軽くノックする。しばらくの沈黙の後、その扉は開いた。
 突然の来訪者を見るなり、ヴィルは目を見開いて軽く舌打ちした。
「何の用だアルマ。もうここには来ないほうが良いと、言っていなかったかな」
「これ! 食べてみて!」
 勢いよくヴィルの胸元へ紙袋を押しつけ、アルマは目を輝かせた。
「甘みは蜂蜜だけで作ってみたの。そこそこの出来だと思うんだけど……お願い!」
「君という娘は……。そうやってお兄さんにも食べさせてきたのか?」
「う、それは……」
 返す言葉もなく俯くアルマを、ヴィルはため息をついて眺め、仕方ないというように室内へ招き入れた。
 とりあえず座れと促され、アルマはリビングのソファーに座る。時間が早いせいか、子供たちは一人もいなかった。
「あのね、どうしても感想が聞きたいの」
「自分で食べればだいたいわかるだろう」
 奥から茶らしきものを持ってきたヴィルへ、アルマは拳を振り上げた。
「それがそうでもないんだってば。自分だと、分量が原因かな、それとも混ぜ方かな、そういえばメレンゲが緩かったかも、卵の水分が多かったかなって、無限に原因がわき出てきちゃって、何が何だかわからなくなっちゃうのよ!」
 淡々とした手つきで差し出された茶をすする。不思議なハーブの味がした。
「一口だけでいいの。さっき言ったみたいに砂糖も使ってないから、食べてみて!」
 もう一度紙袋を突き出すと、ヴィルは渋々といった調子で受け取った。中から出てきた丸っこいカップケーキをかじる。
「まずい、と言うほどでもないが、何か決め手に欠ける味だな」
「でしょ? 蜂蜜だとこうなるってわけでもないから、困ってるの」
「なるほど」
 まじめな調子で頷いて、ヴィルはすっとアルマを見つめた。向かいのソファーに腰掛け、足を組む。
「出来の件は置いておいて、君としては完璧に作ったつもりでいるのか?」
「え、うん、そう、なんだけど……」
 アルマはぎくりとして言葉を止めた。確かに制作中はすべて完璧だったという手応えがある。なのにどこか物足りない結果しか生まない。そんな現状を打破したかった。そうして心の焦りをとりのぞけば、もっと高度なケーキも成功していくだろうと思ったのだ。
「以前のゼリーでも感じたんだが……」
 とヴィルは顎に手をあて、考えこむように呟いた。
 何が原因なのだろう。やはり分量か、それとも混ぜ方だろうか。メレンゲの配分だけは自信があるのだが、蜂蜜に慣れていないのも、原因の一つかもしれない。
 そんなアルマの思いなど気にもせず、ヴィルはさらりと告げた。
「君のお菓子には錬金術の基礎物質たるエリクシールを強く感じた。この菓子からも感じることは感じるんだが……どうにも不安定なんだ。それが雑味となって感じられるんじゃないだろうか」
 いきなり予測の範囲から吹っ飛んだことを言われ、アルマはぽかんと口を開いた。
「つまりその、〈えりくしーる〉が原因ってこと?」
「そう。練甘術は錬金術の一派だ。科学と魔術のあわいをゆらぐ存在で……つまり、術者の精神状態を大きく反映するんだ」
「え、ちょっと待って」
 急につらつらと告げられ、アルマは混乱した。自分の状態を見直すように俯いて、胸のあたりを見おろす。この心が、影響している?
「確かにお菓子作りにもその日の気分ってすごく影響すると思う。師匠も『テンションが大事』ってよく言ってるし」
「君たちにとってはその程度のことなのかもしれないがな。本精のないものは何であろうと偽物だ。だから違和感をおぼえるんだろうな……。まずは気持ちの整理をつけることだ。雑念のない純真な気持ちで向き合えば、自ずと整っていくだろうよ」
「でも、自分の心なんてどうしたらわかるの? わたしだって一生懸命やってるんだよ? 師匠みたいには無理でも……」
 ヴィルはアルマの言葉を遮るように茶を一口すすり、彼女の中の何かを検分するような目で見た。
「誰かを理想とするのは、長い目で見ると意味のないことだ」
「でも師匠は」
「すごい、というのは何度も聞いた。確かに実力もあるし、洗練されている。この国では数少ない本物の練甘術師だ」
「本物の練甘術師?」
 問いかけると、ヴィルはばつが悪そうに舌打ちした。
「……おれが認める、という意味で聞いておけばいい。それより言いたいのは――」
 と、そこまで言って戸棚に近づき、水晶でできたペンタクルを取り出した。鉄製の柱から糸が垂れていて、その先端に水晶がとりついている。不思議な文様の入った水晶をインク壺に浸し、ヴィルはくるんと糸を揺らした。水晶を伝うインクが綺麗な丸を描く。
「この丸が大きい状態が君たち練甘術師の理想だとしたならば。今の君はこんな感じだ」
 今度は胸ポケットから鉄製のペンを取り出し、トキトキに尖った小さな図形を描く。たりないところがたくさんあるという意味だろう。
「で、多くの人は最初から丸を描こうとしてこうする」
 ヴィルはもう一度ペンタクルを揺らす。それは大きな丸を描いてくるくると回った後、中心へむかって渦を描いていき、やがて小さな点を描いて停止した。
「これも調和のとれた図形の一つだがな。おれはあまり好きじゃない」
「えっと、これってつまり、最初から全部やり過ぎて小さくなっちゃうってこと?」
「そうだ。大抵の人間はこうやって凝り固まっていく。だから――」
 ヴィルは今度は横にペンタクルを揺らした。細い楕円を描きながら少しずつずれていく水晶が、ゆっくりゆっくり花のような文様を描きだす。
「いっそ極端から極端へ揺れ動いたほうが、最終的に綺麗な絵になると思わないか? 素晴らしい黄金律の世界だ」
 意味がわからなくて目をしばたたかせるアルマに、ヴィルは一度こほんと咳をした。
「――つまり、初めから完璧にしようとするより、失敗してでも自分なりの長所を一つずつ増やしていったほうが良い。君の師匠はもう、こんな大きな花なんだろうよ」
 と、花形すべてが入る丸を描く。
「この花びらの一つ一つが一生懸命手に入れた技術ってこと?」
「そうだ。そうやって覚えていくものだろう」
 素っ気なく言い、ペンタクルを片付けるヴィルを見つめ、アルマは思った。
(……なんとなくだけど、元気づけてくれてるんだよ、ね?)
 もう一度図形を見下ろす。いつかこんな大輪の花を咲かせられるようになるだろうか。
「そっか、それでいいんだ」
 心持ち背中が軽くなった気がして、アルマは背伸びをした。
「失敗は沢山してるつもりなんだけどね……。作ってるときの自分まで見てる余裕がなかったのかも」
「師匠は見ていてくれないのか」
「うん、自分の研究が忙しいらしくって」
「ふうん」
 その頷き方は冷たかったが、ヴィルの茶色の瞳には理解が込められている気がした。
「じゃあ今から作るか。おれが見ているから」
「え? ええ、いいけど……」
 アルマが恐る恐るリビングから繋がるキッチンを覗くと、そこは燦々たる状況のままだった。焦げた壁には穴が開き、コンロはひっくり返ったままだ。掃除だけはしてあるようだが、今日までどうやって料理をしてきたのだろう。
 うろたえるアルマを置いてヴィルはさっさとコートを着こんだ。
「何してるんだ、早く行くぞ」
「どこへ?」
「君の工房に決まってるだろう?」
 そう言うと、ヴィルはさっさと木製の扉を開いて出て行ってしまった。

   §  §  §

 月の光にきらめくルーメンの飴細工の庭は、夜になると幻想的な雰囲気に包まれる。
 アルマたちが到着したとき、工房のチョコレートの煙突からはまだ白い煙が上がっていた。
「師匠、まだやってるみたい」
 アルマがちらりと後ろを振り返ると、ヴィルが若干緊張した面持ちでうなずいた。
 チョコの扉をそうっと押し開けると甘い香りがこぼれてきて、一瞬夢見心地になる。
「こんばんは、師匠。居残りお疲れさまです」
「あら、アルマちゃん。ちょうど良いところにきたわね。えっと、倉庫から新しいお砂糖を出してきてくれる?」
「はい、それとあの、こっちの彼はヴィルっていって……」
 手で示す間もなく、ヴィルが自分から口を開いた。
「ヴィルフリートと申します。少し見学してもよろしいでしょうか」
 普段のぼそぼそしゃべりとは別人の、紳士的な声色でヴィルが微笑をうかべていた。
(……だれ?)
 横柄な彼しか知らないアルマは凍りつく。
 そんな彼女を気にすることもなく、ヴィルの整った横顔は薄い微笑みを浮かべたままフリーダを見ていた。
 フリーダは何も気づかない様子で笑いかける。
「もちろんよ。よろしくね、ヴィルくん」
「ありがとうございます。僕はできるだけおとなしくしていますね」
 一人称まで『僕』になっている。
 一体ヴィルに何があったのかと焦ったアルマだったが、その態度が『臨戦態勢』なのだと気づくのにそう時間はかからなかった。薄い微笑の中に冷たい敵意がある。
 そこまで練甘術師が嫌いなのか、それとも大人が嫌いなのか、ヴィルの表情からは何も読み取れない。
 フリーダは何も気づかず、にこにこと作業へ戻った。そしてすぐに。
 ポーン
 竈から爆発音がした。
 しかもポンポンポポンと何度もである。
 それを平然と無視する師匠を、アルマは顔を引きつらせてうかがった。
「師匠……、ポップコーンでも作ってるんですか?」
「違うの。新しいお砂糖を試すようになったら、しょっちゅう爆発するようになっちゃったのよ」
 困ったものね、とフリーダは慣れた様子で肩をすくませる。
 問題の新しい砂糖はクララの父が経営するアイヒマン糖蜜社のもので、おしゃれなパッケージの大袋に入っていた。触感はサラサラとしたザラメ糖に近く、ひと匙で今までの砂糖の何倍もの甘さがあり、カロリーは半分だという。
 とはいえ食べて爆発するようなものを売るわけにはいかない。そこで巨匠フリーダに新製品の開発のかたわらで、組み合わすと絶対に爆発する食材の特定を依頼しているそうだ。
 持ってきた砂糖の大袋をしげしげと眺め、アルマはほうとため息をついた。
「アルマ、少しその砂糖を見てもいいか?」
 近づいてきたヴィルが砂糖をサラサラと手から落とし、何事かを真剣に考える。
「またエリクシールがどうこうってみてるの?」
「まあな」
 言いながらヴィルがさっと小袋に砂糖を移したのを、アルマは見逃さなかった。師匠の手前大声で非難できず、小声で問いかける。
「その砂糖、どうするの?」
「少し研究するだけだ。爆発物はテオの得意分野だからな。悪いようにはしない」
 ほんの少しだからいいだろう、と平然と言いのけられ、アルマは戸惑った。
「本当にいいの? 危ないことにならない?」
「信じろ。で、君はさっさとケーキなり菓子なり作りはじめたらどうなんだ」
「わかってるわよっ」
 焚きつけられると受けてしまう性格なので、さっさと腕まくりをして作業を始める。砂糖の代わりに蜂蜜を使ってスポンジケーキを作るのだ。
 小麦粉をふるい、分量をきっちりと量る。卵は卵白と卵黄で分けて、ふんわりとしたメレンゲに。もったりとした感覚で生地に十分空気が入っているのを把握して、別立てした卵白ときっちりと混ぜ合わせたら、型へ流して竈のオーブンへ。
 竈の前でミトンを合わせて祈るアルマを、少年は不思議な生物でも観察するような目で見ていた。
 そうしてできたスポンジは、表面がでこぼこと不規則に萎んでいた。
家庭の味として楽しむならばともかく、仮にも職人として店に出せる代物ではない。
「ま、まずは腕慣らしだもんっ」
 「腕慣らしで失敗するのか」というヴィルの発言を無視して、アルマは連続でスポンジを焼く。できたのはやはりいびつな膨らみ方をしたものだった。その次も、その次も。
 そんな物体を五つも作り上げたとき。
 アルマは丸型ごとスポンジを放りだした。
「……もう、やだぁ……」
 こぼれる涙をミトンで拭く。
 自分では一生懸命つくっているつもりなのに、どうしてこうも上手くいかないのだろう。やはりヴィルの言うとおり、エリクシールが原因なのかもしれない。だとすれば失敗しているのはアルマの手ではなく、心だ。
(そんなの、どうやってなおせって言うの……?)
 ミトンで顔を覆って涙を隠す。それでもじわじわとミトンに染みが広がっていった。
 珍しい弟子の錯乱に、フリーダが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうしたの? そんな失敗、大丈夫よ。これだけ膨らんでるんだから、上のところをぺよんと切って、ムースの下地にでもすればいいでしょう?」
 そのやさしい言葉が逆に痛かった。そういった生地は初めからカットすることを計算に入れて作るものだ。失敗作とは根本的に質が違う。
 アルマはぼろぼろと泣きながら師匠に向き直った。
「でも、こんな、スポンジしか、作れないんじゃ、職人なんて一生無理です」
「スランプなんて皆いっつもよ」
 軽く笑って答えられる。そう言えるだけの度量が羨ましかった。
「じゃあ今から一緒に原因を考えましょう。これだと……竈がアツアツすぎたのか、ぷしゅぷしゅがうまくできてなかったか、どちらかね。生地を焼く前にコトンって落とすでしょ? そのときに気合いが足りないと、こうなっちゃうのよ」
「…………はい」
 アルマは鼻をぐずぐずと鳴らしてこたえた。
 その様子を冷静に見ていたヴィルが壁際でぼそりと呟く。
「……『ぺよん』? 『ぷしゅぷしゅ』?」
 一方、泣き続けるアルマに、師匠がエプロンを締めなおして優しく告げた。
「いいわ。次はわたしが手伝うからね、安心してね」
 アルマと一緒にもう一度スポンジを作ってくれるらしい。師匠の優しい手助けに、アルマの涙も少しだけおさまった。
「いい? ここで混ぜるのをぐるぐるからシャカシャカ、ざっざっざに変えていくの」
「はい」
 こんな簡単なスポンジを一から手解きされるのは、工房に入ってすぐの頃以来で、なんだか気恥ずかしい。
 アルマは珍しく真剣に指摘してくれる師匠がうれしくて、でもそこまで手をわずらわせたことが悔しくて、必死に涙を止めようとがんばった。が、一度堰を切ったものはうまく戻ってくれない。なおもぽろり、ぽろりと涙が頬を伝っていく。
「メレンゲはふわふわじゃダメ。上のほうがざくざくになるくらいになったら、全部をとろーんと混ぜて……。そうそう、そこから生地にどうやって入れるんだった?」
「三回に分けて、ヘラで切るように手早く混ぜるんですよね」
「そう、しゅぴしゅぴしゅぴーんってするのよ」
「…………」
 いつの間にか、遠くから送られてくるヴィルの視線が同情を含んだものになっていた。
 一通り作り上げ、型を竈へ入れる。
「竈さま竈さま、どうか今度こそうまくいきますようにっ」
 アルマがもう一度竈の前で祈っていると、壁際からヴィルが近づいてきた。初めに一度ため息をついてから、作業に戻ったフリーダにじとっとした視線を送り、それからアルマへ向きなおる。
「アレで今までよくやってきたな」
 開口一番のねぎらいの言葉に、アルマは少し驚いた。
「そう? 師匠は感覚的に分かりやすく教えてくれてるけど……」
 と竈を見つめ続けながら答える。
「本当に説明が頭に入ってるのか? あんな言い方じゃすぐ忘れるぞ」
「そういえばわたし、忘れっぽいんだったっけ」
 アルマがはっと手元に口を当てるのを、ヴィルは呆れた様子で見ていた。
「あんな説明の仕方だからだ。まったく、君の理解力には恐れ入ったよ」
 「結構上手にまとめてるし」と、小さな呟きが聞こえ、アルマは一瞬少年と目を合わせた。すぐに視線をそらされるも、そんなことでいちいち傷ついてはいられない。ぱっと前をむき、竈とむきあう。今は試作品が一番だ。
「それで、君はいつもそういう風に焼き上がりまで竈の前で突っ立ってるのか?」
「え、うん」
 なかば上の空でこたえると、「ふうん」という冷たい返事が返ってきた。なにやらヴィルの機嫌を損ねてしまったようだ。
「そんな風だと疲れるだけだろ。効率も悪いし。もっと肩の力を抜け」
「え。あ、うん、ありがとう」
 険のある声のわりに言うことが優しく感じて、アルマは軽く混乱した。
 それがヴィルの不機嫌を加速させたらしい。ひときわ冷たい声になった。
「それからもっと集中しろ。時間を有効に使え」
「それはわかってるけど、今は時間より質をとりたいの」
 言われてできるなら苦労はない。師匠のように効率よく動けるならそれにこしたことはないのだが、今のアルマには――。
「ふうん。なら、これからも『無駄に』頑張るんだな」
 容赦なく投げつけられた言葉に、一瞬でアルマの頭の中の何かがぶっつりと切れた。
「ヴィルはお菓子の専門じゃないでしょっ、お菓子作りのこと、なんにも知らないくせに、知ったようなこと言わないでよ!」
 まずいと思った時にはもう遅い。
(しまった、言いすぎた……!)
 自分から助言を求めつつ、いざ指摘されたら逆ギレである。
 気まずい沈黙に、我に返ったアルマは背筋が凍る思いをした。
 しかしヴィルは大して堪えた様子もなく、作業台の器材を一瞥した。
「まぁな――君の主張は正しい。確かにおれは菓子の専門じゃないからな」
 そしてアルマへ向けて初めて微笑みを浮かべた。
「だから、一度経験してみようと思う」
 はっきりとした宣言だった。
 その微笑の冷たさにヴィルの怒りを察知し、アルマはひっと表情を引きつらせた。やばい、絶対に怒ってる、どうしよう。

   §  §  §

 ヴィルはアルマから素早く作業台を奪うと、見よう見まねで材料を揃え、さっさと作業を始めた。当然、その手つきは不慣れだ。生来の不器用さもあるが、特に真似した相手がアルマなのでかき混ぜ具合などは見ていられなかった。
「あーそこは、うそ、ちょ」
「うるさい黙れ」
 指摘もいっさい聞き入れず、少年はざっくりと生地を作ると竈へ放りこんだ。
 そこでアルマと同じように竈の前で待っているかと思いきや、彼はすぐに竈へ背を向け、器材を洗い終えると胸ポケットから筆記用具をとりだして、何かをだーっと書き加えていった。
 ぶつぶつ呟きながら何事かを検討し、一人で黙考する。
 アルマはその様子を固唾をのんで見つめた。
 ヴィルのケーキはすぐに焼き上がったが、やはりその状態は芳しくなかった。表面が真っ黒に焦げ上がっているのに中は半生なのだ。
 しかしそれを気にする様子もなくヴィルはまたメモを取りはじめた。
 アルマがそっとその手元をのぞく。紙には焼き上がり状態から、かかった時間、分量や竈の癖が細かな文字で書き記してあった。
 メモを終えると、ヴィルはまた新たな材料を量りはじめた。
「まだ作るの?」
「当然だ」
 無表情で答え、先程とは微妙に配分の違う材料をそろえる。こなれた手つきで生地を練り、焼き時間も少し短くなった。
 それでも焼き色はやはり黒すぎる。でも先程よりは若干マシだ。
 そしてまたメモ。
 更に次の材料で仕切り直す。今度は焼いている途中で型の向きを左右逆にして数分。
 なかなか上手にできたが、アルマほど膨らんではいない。味見をしたが触感もいまいちで、粉のダマが多かった。
「次だな」
 メモを終えてヴィルが呟いた。
 そこからは速かった。三度目は混ぜ方を変え、四度目は卵の温度、五度目は差し湯の加減、六度目は型にふたをして。どんどんと加速する手つきは師匠以上のものがあった。
 アルマは作業を終えた師匠と一緒に、その様子をはらはらと見守っていた。師匠のような水素爆発はないものの、ヴィルは炭の塊のようなスポンジをいくつも作成している。
 十個目のケーキが美しいきつね色になったとき、ヴィルは驚くことをした。
 残り九個のスポンジを、すべてゴミ箱に捨てたのだ。
「え、いいの? そんなに捨てちゃって」
「よろしいですよね、巨匠?」
「ええ。頑張ってね。若い子がこんなに一生懸命お菓子を作ってくれると、わたしも嬉しいわ」
 どこかピントのずれた師匠の意見をほとんど無視するようにして、ヴィルは作業に戻った。
 その後も淡々と作ってはメモし、捨てていく。
 だんだんと上達していく少年の腕前に、アルマは胸の奥がむかむかとしてきた。手出ししたいけどできないイライラと、自分ならこうするのにという焦燥、その二つが混ざって、体がむずむずした。心配げに組合わせた手がせわしなく動く。
 ヴィルが二十五個目のスポンジを焼き上げた瞬間、アルマは叫んだ。
「わたしも作りたい――!」
 飛びつくように作業台へかけより、師匠側の機材を借りる。
 と、一気に作り始めた。
 いつもより手早く材料を揃える。粉のふるい方も、卵のわり方も手早く、ここ最近の過剰なほどの丁寧さが抜けていた。けれど完全に暗記した手順に無駄はなく、黙々と進める手つきはいつかのように軽くしなやかだった。
(次はこう。こうして、こう)
 軽々と動く手で生地を混ぜ、メレンゲを泡立てる。全身が軽かった。ひらりひらりと材料を混ぜきったところで、アルマははたと気づいた。
 時間が早い。
 集中した証拠だろう。いつもは不安とともにダラダラとすぎていく時間が、ぽーんと飛び越えたようだった。
 頭も冴えているようで、今はミスの原因まできっちり覚えていた。更にミスをしても心が萎えるどころか、いっそうの張り合いになっていくのだ。
 型を竈に入れたとき、アルマはヴィルをちらりと見た。彼は作業を終えていて、作業台の外側から師匠と一緒にこちらを見ていた。
(よし、次はもっとやわらかいスポンジにしよっと)
 二回目の挑戦からはもっと軽やかだった。体が動きを覚えているし、ミスも覚えているので必要なところでは慎重になるのだ。細かい機微が必要な泡立ても集中してやり終え、ぽんぽんと竈に型を入れていく。
 兄のこともティアナのことも、砂糖や料理のことも全部吹っ飛んだ境地で、アルマはにこにこしながらケーキを作り続けた。
 そうして、一つ目のスポンジが焼き上がる頃には、七つの型が竈に入っていた。

   §  §  §

 そんなアルマをヴィルは呆れ半分で見ていたが、ふいにフリーダが近づいてきたので居ずまいを正した。
 今日の作業を終えたらしい彼女は弟子の様子を目を細めて見て、満足げに微笑んだ。
「すごいねぇ。あんな生き生きとしたアルマちゃん、もうずっと見てなかったわ。一体どんな魔法をかけたの?」
 おっとりとした物言いに、どこかときめかしいものを期待するような響きがあった。
 こういった大人の追求が苦手なヴィルは、通常の三割増しの無表情でこたえた。
「……僕、プライド高いんですよ」
「へぇ」
「だから他人のプライドのツボも心得てるんです。自分が血反吐を吐きそうなくらい苦労してることへ、ド素人が平然と手を出してきたら、腹が立つでしょう? 少なくとも僕はムカつく。思わずスランプなんか忘れるくらいに」
 かつて薬作りで苦労したヴィルは、兄弟子であるテオに同じやり方で焚きつけられ、嫉妬の力でスランプを脱したことがあった。
 挑戦的な笑みを浮かべてフリーダへ視線を移せば、彼女はその敵意をやんわりと避けて微笑んだ。
「わざとたきつけてたのね」
「僕、人が悪いんで」
「あはは、いい子だよお」
 フリーダはおおらかに笑った。
「……全然、ですよ」
 なにしろテロリストなのだから、と心の中で呟いてアルマを見れば、彼女は真剣にケーキを作っていた。いまいちなスポンジも綺麗にデコレーションして、どこか素朴さのあるショートケーキに仕上げている。
 生き生きとした彼女の様子に、ヴィルは嫉妬にも似た思いをかき立てられた。本当に嫉妬させようとしたのは、自分のほうなのに。
「……ほんとに嫌がらせだったんだけどな。なんであんな前向きになったんだか」
 知らず溜息をつきそうになっているところへ、フリーダがどこか遠い目をしてアルマを見つめながらささやいた。
「本当はね、もうちょっとであの子を別の工房へ出すところだったの」
 ヴィルが驚いて彼女を見ると、その微笑みには若干の苦笑が混じっていた。
「ほら、うちの工房って私と二人で息が詰まるでしょう? ルーメンには男の職人ばっかりだし。いっぱい弟子のいるところで揉まれたら、あの子も一皮むけるかなって」
 いわれてヴィルは工房の作業台が二人で使うには大きいことに気づいた。少なくともあと三人は使えるようになっている。
「弟子は一人しか持たない主義なんですか?」
 錬金術師に多い世襲制なのだろうか。
「ううん。昔はもっといっぱいいたのよ」
 フリーダは頭の三角巾を取り、軽く首を振った。豊かな茶髪がふわりと広がる。
「私の説明ってわかりづらいらしくてね、アルマちゃんしか残らなかったの」
「……なるほど」
 確かにあのめちゃくちゃな説明では、育つものも育たないだろう。今日の様子を見て、ヴィルはアルマが意外と賢いことを見抜いていた。あれだけ感覚的な言葉を修正しながら手解きを受けているのだから、前の手順を忘れてミスをするのもうなずける。
 逆にきっちり説明しすぎてうざかった自分の師匠を思い出し、ヴィルは嘆息した。
 それを見て何を思ったか、フリーダがくすりと笑った。
「ヴィルくんも素質あるわよ。うちの弟子になってアルマちゃんを助けてくれない?」
「なんでそこでアルマが――……いえ、お断りします。たきつけ役は今日だけですからね」
「そっか。残念。アルマちゃんが頼りにするくらいだから、相当なしっかりさんだと思ったんだけど」
「頼りに?」
 ヴィルの言葉はフリーダの「うちの工房にもしっかりさんがいてくれたらなぁ」という一言にかき消された。
「あーあ。嫉妬しちゃう。私、やっぱり師匠失格なのかしら。人に教えるの向いてないし……あっ」
 一人でぼそぼそ言っていたフリーダが、突然顔を上げた。
「アレをああしてこうすれば、もっとモッチリ感でるかも!?」
 言うが早いか、作業台のむこうへ飛びこんでいく。その素早さに驚きながら、ヴィルは思ったことをそのまま口にした。
「ほんとコミュニケーション不全な人だな……」

   §  §  §

 タイマーの音が鳴り響き、アルマの最後のケーキが焼き上がった。
 竈から型を取りだしたとき、アルマはほぅっと溜息に似た吐息をもらした。
 平らな表面はむらのない美しい焼き色で、表面から見て取れるしっとり感は中まで完璧にそうだろうと思わせてくれる。へたにデコレーションを加えたものよりも美しいスポンジ生地は、このまま食べても他のケーキに負けないだろうとすら思えた。
「――できた!」
 アルマの叫びとほぼ同時に、フリーダも竈をのぞきこんで叫んだ。
「できた〜! 完璧!」
 見れば、一緒に焼いていたフリーダの試作品もおいしそうに焼き上がっていた。カリッと焼き色のついた細いクッキーだ。
 抱き合って喜び合う師弟へ、ヴィルが何度目かの溜息をつきそうになったとき、工房の扉が開いてリアが顔をのぞかせた。
「姉さん、根を詰めるのもいいかげんに――あら、アルマちゃんとお客さん?」
 ヴィルを見て目を見開くリアへ、師弟が抱き合ったまま笑いかけた。
「聞いてリア! アルマちゃんがこんなに綺麗なスポンジを焼いたの!」
「師匠の試作品が完成したんですよー!」
「な、なになに?」
 二人に手招きされて工房の中へ入ったリアは、そこにあった大量の失敗スポンジ群を見て驚き、そしてアルマの完成品を目に入れるやいなや。
「これ……本当にアルマが作ったの?」
「はい!」
「すごい、このままうちのショーウインドウに飾れそう……!」
 リアはすでに抱き合った師弟へ更に上からがばりと抱きついた。
「よく頑張ったわね、アルマ!」
 ケーキに関してはフリーダよりも厳しいリアにここまで言われ、アルマは思わず涙がこぼれた。
 三人できゃあきゃあと笑いながら試食したスポンジは、想像以上にしっとりして口の中でほろりと消えてしまう、優しい味わいだった。

   §  §  §

 翌日はよく晴れた休日だった。
 アルマは朝一で作ったクッキーを携えてティアナの家を訪れた。しかし出迎えた母親はすでに娘が出かけてしまった旨を告げると、何も知らない調子で「きっとエルクくんの病院に行ったのよ」と付け加えた。
 まだ彼女が婚約破棄の件を聞いていないことを確信したアルマは、急いで病院へ向かった。きっとティアナが婚約破棄を断ろうとしていると信じて。
 だが、いざアルマが到着してみると、予想に反して病室の空気は重かった。
「……ごめんなさい……」
 ティアナの声はすっかりやつれてしまった手足と同じくらいか細かった。緩く巻いた髪を垂らして、エルクに頭を下げている。
 同室のおじさんたちまでもが固唾を飲んで見守るなか、エルクは優しくこたえた。
「顔を上げて、ティア」
 痩せて昔の面影が出てきた彼は、声も以前と同じ響きに戻ってきていた。
「いいんだ。こうなることはもうずっとわかってた。君はよく尽くしてくれたし、本当に恨んでなんかいないんだ」
「違うの。私が悪いの、あなたのことをまっすぐに見られない私が悪いの!」
 そう言いつつ、ティアナは俯いたままだった。自分の足下を見つめたまま、前で組んだ指をいじっている。
「エルクのことが嫌いになったんじゃないの。ただ自分のことが許せなくて……どうしても許せなくて」
 ぎゅっと自分の胸元を掴み、ティアナは悔しそうな顔をした。
「私、最低なの。テロにあって、こんな、命まで危なかったエルクを……大きくなってしまったあなたを見て……私、ほんと最低なことに……」
 苦しげに彼女は叫んだ。
「『Jカップ!』って、思ったの!」
「な、何が?」
「おっぱいよ!」
 ティアナの声は鋭く響いて、病室中を駆け抜けた。彼女はエルクの胸元を指さし、
「見てよこのずっしりとした重量感ッ! カップから出したばかりのプリンみたいに、もっちもちのぷるんっぷるん! あああもう羨ましいいい!!」
 ぎゅっと自分の胸元を掴んで叫ぶ。細身の彼女にとって、エルクの脂にたぎった豊満な? 肉体は喉から手が出んばかりに魅力的なようだった。
 衝撃にぷるんと揺れる兄の胸部をまじまじと見つめてから、アルマはティアナに向き直った。
「で、でもそんな、ティアナさんだって……普通に」
「ないの。ないのよこれ全部スポンジケーキなの!」
 アルマをきっと睨み返し、ティアナは自分の胸元へ容赦なく手を突っ込んだ。ぽんぽんとスポンジを取り出していく。
 一個、二個、三個、四個……ええええ?
 元の体積からは想像もできないほどのスポンジに、同室のおじさんたちを含めたその場の全員が仰天した。
「服の上からでもわかるでしょう? 私、まな板なの。いえ洗濯板……それどころか、すり鉢なのよ! えぐれてるの!」
「いやそこまでってほどじゃ……」
 エルクのフォローは誰にも信じてもらえなかった。
「いいの、わかってるのよエルク」
 ティアナはすっかり男のようになった胸元を握りしめ、さめざめと言葉を続けた。
「わたし、あなたのその豊かなおっぱいを見ているのが辛かった。女の人に敵わないなら仕方ないわ。でもあなたは男の人で、あまつさえ未来の旦那様になる人なのに。このままじゃ、もし赤ちゃんができてもあなたのおっぱいがいいって言い出すんじゃないかって、不安で……」
「ないない」
 同室のおじさんたちが揃って首を振った。
「でもこんな立派なおっぱい、うずもれてみたいと思わない!?」
「たとえ世界一の胸の持ち主でも、男ってだけで『ない』よ……」
 力なく答えるエルクをフォローするように、隣のベッドのおじさんが話に首を突っ込んだ。
「お嬢ちゃん。胸なんて大きかろうが小さかろうがどうだっていいじゃないか。赤ん坊に吸わせるとき以外はお飾り程度に思っとけ」
「そんなことないわ!」
「そうよそうよ!」
 アルマも思わず叫んでいた。深刻な胸部の問題を抱えるのは自分も同じなのだ。リアのような豊かに張り出た胸元にあこがれる気持ちは人一倍強い。
「わたしだってお兄ちゃんほどじゃなくても、もう半分くらいあればって思うもん。男の人にはわかんないかもしれないけど、女には死活問題なんだからね!」
 病室の中での数少ない擁護に、ティアナがアルマへうるんだ青い瞳を向けた。
「アルマちゃん……わかってくれる?」
「なんとなくだけどわかります。わたしがティアナさんの立場だったら、すっごく気にすると思うもの」
 アルマがティアナへ駆け寄ると、彼女はその手を掴んで両手で包んだ。
「ありがとう、アルマちゃんっ!」
 細い両腕でぎゅっと抱きしめられる。
 その感触に「あ、これって貧乳ってレベルじゃないかも……」と思ったのは秘密にして、アルマはおとなしく抱かれることにした。
「あのね、ティア」
 エルクが大きな身を起こして呼びかけた。
「まさか胸のことでそこまで思い詰めてるとは知らなくて……。その、ごめんね、てっきり僕が太ったことを気にしてると思ってて。こんなデブと結婚するのは嫌だと思ったんだ」
 ティアナははっと息をのんでアルマを手放した。
「そんな、外見なんて胸以外はどうだっていいのよ!」
 それからティアナはしゅんとしおらしくなって、いつものか細い声に戻った。
「そんな誤解をしてたのね、エルク。私のほうこそ、ごめんなさい。自分の……この胸が憎たらしいって思えば思うほど、あなたを受け入れられなくなってた。私はあなたの外見じゃなく、人となりを愛しているのに」
 エルクは小さくなった緑の目を見開いてティアナを見つめた。
「今でもそう言ってくれるかい?」
「ええ、何度でも。あなたに婚約を破棄されそうになったとき思ったの。絶対に嫌だって。あなたが愛してくれるなら、こんなえぐれた胸でも、胸を張って生きていける気がするの。……だから」
 ティアナはすっと息を吸って、綺麗な声で告げた。
「私と結婚してください」
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