二章 錬金術師のキッチン

 小橋から少し先、あまり人目につかないクラッカーの通りを曲がってすぐの場所に、『反ヘンゼルの骨団』の隠れ家はあった。
 入り口の階段を下り、この国では珍しい木製の扉を開けると、むっとする異臭が漂ってきた。つんと鼻をつく、お菓子では絶対にありえない匂いだ。
 玄関脇の小さな広間には子供たちが三人いて、みなまじめに本を読んでいた。そのうちの一人がぱっと顔をあげる。
「ヴィルフリートが帰ってきた!」
 一人が叫ぶと、残りもいっせいに顔を上げて笑顔で駆けよってきた。
「おかえり〜」
「お疲れさま、ヴィル」
「誰? これ」
 子供にアルマを指さされ、ヴィルフリートと呼ばれた少年が不機嫌そうに答えた。
「……自分で聞け」
 親しげな子供たちにも彼はそっけなかった。
「アルマよ、ヴィー……ええと、ヴィルフリートさん」
 後ろから声をかけると、名を呼ばれたことに軽く驚いた様子で、少年が振り返った。
「ふうん……アルマか。おれのことはヴィルでいい」
 言いざま、ヴィルはそのあたりに置いてあった服を手に取り、アルマへ投げてよこした。
「まずは頭を洗って、着替えてこい」
「あ、うん」
 アルマは軽く戸惑いながら洗い場へむかう。このヴィルという少年、ぶっきらぼうな言い方が癪だが、することは意外と親切だ。紳士的、というのかもしれない。
 一通り身体を洗い終えたアルマは、大きすぎる上着を着て広間へ戻った。
すると子供たちが興味津々で寄り集まってきた。
「アルマってどの辺に住んでるの? ……へぇ、西の住宅街かぁ」
「お誕生日はいつ? 好きなお花はなあに?」
「やっぱり、アルマもヴィルに拾われたクチなの?」
「拾われた?」
 うん、と頷く男の子を、アルマは驚いて見つめた。今更ながら、なぜテロリストの住処に子供がいるのか不思議に思う。無理やり拉致監禁されているならともかく、自由に本を読んだり絵を描いたりしていて、ヴィルにもなついてるようだ。
 ふいに上着の袖を捕まれて、アルマは驚いて後ろを振り返った。かわいい女の子がじぃっと見上げている。
「お姉ちゃん、甘いにおいがする」
「え?」
 汚れを綺麗に洗い流したはずだが、石けんの香りではなく甘いにおいがするらしい。
「それはこの娘が練甘術師だからだ」
 アルマが答えようとするより早く、ヴィルが話に割って入った。上着を脱いだ彼は、黒っぽい詰め襟の服装をしていた。シンプルだけれど、どこか怪しげな魔術師の印象がある。
「――練甘術師!」
 複数の甲高い声が響いて、子供たちが蜘蛛の子を散らすように離れていった。カーテンやソファの後ろへ隠れて、敵意に満ちた視線を送ってくる。
「ど、どうしたのみんな、いきなり」
 突然の豹変に戸惑っていると、ヴィルが冷静に奥の部屋へ行くように指示した。
「こいつらはみんな、この国の菓子に両親を奪われているんだ。君だって俺たちが気づかせなければ、お兄さんを突然死させていたかもしれない。……そういう子供たちだ。普段は色んなところへ徒弟にでているんだが」
 今日は大がかりにやったから避難させていた、と説明しながら、ヴィルはアルマを奥へ導いた。
「お菓子に……」
 促されるままに奥へ進んだアルマは、その部屋に並ぶ奇怪な品々の数々に息をのんだ。天井からつるされた薬草やコウモリの干物、明らかに毒と思われる瓶に入った液体や、本棚にぎっしりと詰まった分厚い革の本、謎の文字で記されたノート、机の上にはフラスコや蒸溜器具と思われるガラス製の装置が置かれている。
 特にアルマを驚かせたのは、それらすべてがお菓子ではない素材でできていたことと、その場所が本当はただのキッチンだったということだった。
「なにここ……いつもなにを作ってるの?」
「薬と料理だ」
 ヴィルはアルマへ振り返り、口元に薄い笑みをうかべた。
「一節によれば、錬金術は料理を母とする。練甘術とも親戚なんだよ」

   §  §  §

 ほの暗いキッチンの奥を指さされて、アルマは沈黙した。奥のほうでぐつぐつと煮立って異臭を放っている謎の鍋が、『料理』なるものらしいのだが……鍋から突き出ている鳥の足はなんなのだろう。
「あれ、食べれるの……?」
「子供たちは嫌がるが、まあ、悪くはな――」
「まっずいまっずい。こいつのメシを食うぐらいなら牛の餌でも食ってたほうがマシだね」
 いきなり降ってわいた騒がしい男の声に、アルマはキッチンから続く小部屋の扉を見た。
 そこに立っていたのは、見覚えのあるガサツそうな若い男だった。茶髪でひょろりと背が高く、四肢が細い。
「あなた、あのときの!」
 アルマに緑の液体をおみまいした、失礼な男だ。
「ようお嬢ちゃん、さっきは悪かったな。お、かわいい格好してるじゃないか」
 ずかずかと近寄られ、頭をなでまわされた。
 男はアルマのぶかぶかの上着をちょいと引っ張り、ヴィルへにやりと笑みをむける。
「ここでオレのワイシャツを貸すとはいいセンスだ、ヴィル」
「しね」
 ヴィルの返しは鋭かった。が、まったく効いていなかった。男は半分歌いながらアルマの頭をなで続ける。
「で、お前はま〜たやっかいなモンを連れこんだんだなぁ〜、お兄ちゃんは面倒の予感がするんだなぁ〜」
「うるさいな、テオには迷惑かけないからいいだろ」
「良くないだろ、ここは兄弟子としてしっかりきっかり――」
「してないのがあんただろ」
「ちょ、ちょっと……」
「なんだいお嬢ちゃん?」
 アルマの頭をなでる手は止まらない。
「あの、あなたたちはデブ……テロリストなんですよね? なんでこんなところで子供を養ってるんですか」
「養ってないけどな。どっかのボンクラが集めちまったんだよ。ったく、拾うのは猫と空き缶だけにしておけと師匠に言われてきたのになぁ〜」
 うるさいな、と呟くヴィルを制してアルマはテオと呼ばれた男を見上げた。
「あなたたちもお菓子に恨みがあるんですか? だからテロを?」
 ぱっと頭から手が離れ、アルマのぐしゃぐしゃの赤毛だけが残った。
「んーまあ、恨みもあるといえばあるかな? テロはただの警告だけど」
「警告?」
「そう。このままだとこうなるって、のんきな大衆どもに教えてやってるのさ。変身魔法なんぞ、気づかないうちに太りに太って突然死するだけだ。それを知らない人間がこの街には多すぎる。だから俺たちがこの国の異常さを気づかせてやってるって寸法さ」
「異常なんて……。ずいぶんな言い方をするんですね」
「俺らには異常としか言えないね。だがまぁ、この国の人間には無理な感性だろうよ。特にお嬢ちゃんたち練甘術師にゃ、明日のメシがかかってるから、文句の一つも言いたかろうがな」
 あからさまな嫌味にアルマが唇を噛んだとき、それまで黙って成り行きを見ていた少年が動いた。とん、とヴィルのこぶしがテオの胸を打つ。
「テオ、あんたは少し黙ってろ」
「甘いなぁ、ヴィルは。そんなんだから弁論術の試験に落ちまくったんだぞ」
「あんたがキツすぎるんだよ」
「まあ、ガキとはいえ、お嬢ちゃんも練甘術師だからな。俺のあたりもキツくなるか」
 さらりと言い放たれた言葉が、思いのほかアルマの心に刺さった。先ほど子供たちから受けた敵意を思いだす。テオの蔑みのような視線はそれとよく似ていた。
 けれど当のアルマは練甘術師見習いで、世の練甘術師が受ける賞賛も批判も、一度も経験したことがなかった。だからこんな風に一括りにされて揶揄されることには、もっともっと慣れていなかった。彼女はうつむき、しゅんとうなだれる。
「あの、その……ごめんなさい。わたし練甘術師になるってこと、きちんと考えてなかったかも」
「気弱になるな。テオにつけ込まれるだけだ」
 生真面目な顔つきでアルマに向き合うヴィルを、テオがにやにやと笑う。
「ナイト気取りもいいけどな、お前、もう少し兄弟子に敬意ってもんをはらえっつーの」
「あんたにそんな人徳がないからだ。あれば、別に敬意ぐらい……」
「おんやあ? この前『大人は全員信用ならない』とか、青臭いことを言ってたのは誰だったかな〜」
 しっしと手を払って追い払おうとするヴィルに、テオが軽く蹴りを入れる。
「で、お前はこの子を連れ込んでどうするつもりなんだ? 飯炊き係にでもするのか?」
「違う。が、そんなところでもあるか」
 ウィルはアルマへふりむいて、手招きした。
「――来い、アルマ。君に本当の料理を教えてやる。とびきりのダイエット食だ」
 そう言ってコンロの前へむかうヴィルへついて行き、アルマは相手をじっと見上げた。ヴィルはそれほど背が高いわけではないが、小柄なアルマと並ぶと頭半分ほど視線が高い。
「料理って、このジュレみたいなやつ?」
「これは薬膳スープ。薬と食事の中間だな。もっとまともなやつを教えてやるから、テオは去れ」
「あーはいはい。お邪魔虫は消えますよっと」
 奥の扉から闇に消えたテオへ、ヴィルがため息を交えた異国語の呪いの言葉を放り投げた。その外国の言葉がアルマの耳につく。
「あの……ヴィルってもしかして、外の国の人?」
「ああ。おれたち二人はこの国のずっと西にある大国から来た。この国のことはそこでは幻の国と言われていたな」
「幻の国……。お菓子の国だから?」
「そう。一日三食お菓子ばかりの異常な国。あと、この町のふざけた練甘工業製品も」
 言いながら、ヴィルはコンロ脇の壁をこんこんと叩いた。タルト生地のしっかりした壁は頑丈で、傷一つつかない。
「家から車から電化製品まで。溶けないチョコレートに割れない飴、崩れないケーキと、一般の菓子の限界を越えきっている。すべて狂った練甘術のなれの果てだ。気持ち悪いったらない」
「そんな……これって普通じゃないの?」
「この国で育ったならおかしいとも思えないだろうよ。ここの練甘術は、錬金術の中でももっとも奇妙な進化をしているんだから」
「れんきんじゅつ?」
 舌っ足らずな発音に、ヴィルはまた派手にため息をついた。
「練甘術を知っていて、錬金術を知らないんだよな……この国の人間は。さっきも言っただろう、錬金術と練甘術は姉妹のようなものだと。錬金術のうち、甘味に関わる分野を特化させたのが練甘術だ」
 悪し様な言い方にむっとしたものの、唯一兄を救う方法である『料理』を知っている相手にアルマは何も言えなかった。
 ヴィルは学校の先生のような声色で続けた。
「錬金術とは、元は物質を金に作り変えようとして始まった学問だ。生命の根源の謎を探ったり、物事の本質を探究したりもしてきた。昨今は魔術と混合して、ほとんど呪いのようなことをしている錬金術師が多いがな」
「魔術なんてものがあるの?」
「君に言われたくなかったな、赤毛の練甘術師見習いさん」
 皮肉げに笑う彼には異国風の訛りがあった。
「練甘術は錬金術のから派生した中でも、とびきりの魔術寄りだ。どんなお菓子でもこの国の砂糖を使うだけで、簡単に信じられないほどの強度や耐久性を持つんだからな。にもかかわらず、この国の連中はそれをたいした自覚もせず、平然と使い続けている。いつか大変なことになるぞ」
 その一例が『ヘンゼルの骨』だな、と呟いて、ヴィルは冷たい目元を不快げに細めた。
「だから料理だ。今のこの国は料理でしか救えない」
 きっぱりと言い切られ、アルマは小首を傾げた。
「その料理で、ほんとにお兄ちゃんを救えるの?」
「君がしっかり管理できればな。作り方なんて練甘術師ならすぐ覚えるだろうよ。その代わり、俺たちを警察に通報しないことと、こちらの計画に協力することを同意してもらう」
「え……ちょっと、なに勝手に決めてるのっ?」
 少年はクロークをあごで示し、外套の背中にべったり張り付いた接着ゼリーを見せた。
 つられて振り返ったアルマへ、彼は言う。
「あれは君の考案だろう? あんな菓子が売っているところなんて見たことがないからな。錬金術と練甘術の中間的な、いい作品だ」
「いい作品――」
 長らく聞かなかった言葉に、アルマの胸がとくんと高鳴った。いつも「今日のケーキはここがいいね」と評価してくれる兄と、「いい感じね」としか言ってくれない師匠の間でうやむやになっていた自分の感情が、ぱっと開けた世界に飛び出したようだった。
「わかった。わたし、がんばる!」
 ぎゅっと両手を握ってにっこりと笑いかけると、少年はどこか虚を突かれたような表情でアルマを見つめ返した。
「……ああ、うん」
 妙に素直に頷いた少年が、はっと我に返るのと同時に、アルマは腕まくりをした。
「じゃあ、まずは卵と小麦粉と砂糖だよね! どこにあるのかな?」
 まずはその発想から離れろ、というヴィルの声は彼女の耳に届いていなかった。

   §  §  §

「待て。どうしてそこで砂糖を振りかける? 今作ってるのはサラダなんだぞ」
「え、なんとなくそのほうがおいしいかなって」
「まず野菜を砂糖漬けにしたがる癖をやめろ。肉にも振りかけるな。下味は塩と胡椒が基本なんだぞ」
「塩の大切さは知ってる。スポンジにちょっと混ぜると、甘さが引き立つんだよね」
「だからそこから離れろと言ってるだろうが。待て、大さじはすりきれで使え。『勘』とかぬかすな」
「大丈夫、そういうのは慣れてるから」
「慣れすぎなんだよ、ばか。あと包丁はまな板を使え。何でもかんでもリンゴの皮むきみたいに切るな」
「え、これカッティングナイフじゃないの?」
「違う。いいからおれの手つきを真似してろ」
 アルマは隣で必死に指示をするヴィルの手元をちらりと見た。
「……でもヴィル、意外と下手」
「こんな風に話しながら料理したことがないからだ。ああ、水はそこで二百ミリリットルだからな、間違えるなよ」
「変なとこばっかり細かいんだから。あ、これなんてもの?」
 見たことのない丸い緑の野菜に、アルマはうきうきと問いかけた。
「キャベツだ。この国で手に入れるのは苦労してるんだからな、もう失敗するなよ」
 ヴィルがちらりと視線を送った先には、甘く煮込みすぎたシチューの失敗作が並んでいた。どれもちょっと目を離した隙にアルマが味見して、砂糖を入れまくったせいだ。アルマからするとこの家の砂糖は甘みが弱くて、もっと入れても大丈夫なような気がするのだが、ヴィルにとってはそうでもないらしい。突然あまい匂いを醸しだす鍋に彼が何度もめまいを起こしかけたのを、アルマは見ていた。
「『きゃべつ』と『れたす』って似てるのね。あ、お芋は知ってる。スイートポテトでよく使うもの。うん、いい感じ」
 アルマは見知らぬ食材の数々に戸惑いを通り越して、なんだってやってやるという気分になっていた。初めのうちはこれらの食材をどうやってケーキにするのか考えていたものの、少年のスープをひとくち飲んでみてその思考がくるりと変わった。
 不味い。甘くない。
 こんな不味いものでも無理をして食べるのが、料理なるものなのだ!
「我慢して我慢して、それでやっとダイエットができるんだもん。不味いものを食べるのもダイエットのひとつなんだよ、ね?」
「違うと言ってるだろうが。うまいものでローカロリーにしているんだ。おれの計算では完璧なんだからな」
「計算でおいしくできるなら、わたしのケーキに失敗なんてないじゃない」
「……まあ、な。ああ、そこは焦げやすいからよくかき混ぜろ。それから片栗粉は火を切ってから入れろ。混ぜる途中で固まるとやっかいだ」
「はーい、ヴィル先生」
 ヴィルの教え方は細かくて、作業しながらだとお互いに大混乱するのだが、一つ一つの指示が的確なので、師匠と違って新鮮だった。
「さすがに呑みこみが早いな……」
 作業を始めて三時間ほど経った頃、ヴィルがぽつりと呟いた。
 その頃には殆どの食材を使い果たし、フルコースを三コースほど作っていた。キッチンに漂う香りも香ばしく、今までに嗅いだことのない類のものなのに不思議と食欲を誘う。
 ちょうど広間からお腹をすかせた子供たちの期待に満ちた顔がのぞき、アルマは思わずほくそ笑んだ。
「そろそろ終わりにしよう。このテーブルの上の物体を処理してからじゃないと、ろくに身動きもできなくなりそうだ」
 ヴィルの嫌みったらしい号令で、子供たちがキッチンへ駆けこんできた。
「ヴィル〜、ごはんごはん!」
「お腹すいたー、テオ呼んでくるね」
「運ぶの手伝うよ、これも?」
 いつの間にか五人に増えた子供たちが、我先にと料理を広間へ運んでいく。野菜と鶏肉が中心の健康的なものばかりだ。
「いっただっきまーす!」
 広間のテーブルいっぱいにのった料理を子供たちがにこにことほおばった。
「いつものヴィルのよりおいしい!」
 タマネギドレッシングのサラダを食べて、女の子が笑った。
「うん、おいしい」
「そこそこいけるな。久々のまともなメシだ」
 いつの間にかテーブルの端に座っていたテオが野菜の煮物をつまみながらうなずいた。
 その隣の子供がホワイトシチューにパンを浸しながらヴィルへとむく。
「こんなまともな料理ができるなら、もっと早く作ってくれればよかったのに」
「おれの薬膳料理をばかにするな。健康面では一番なんだからな」
 むっすりとむくれたヴィルがパンを切り分ける。その声はすねているように聞こえた。
 最後に卓についたアルマが鳥の香草焼きを一口かじり、不思議そうに呟く。
「本当に甘くないのが『料理』ってものなのね……。不味くはないけど……変な感じ」
 ふむふむと頷きながら様々な料理を一口ずつ口へ運ぶ。裏ごしに手間がかかったコーンのスープに、謎の海藻サラダ、彩り野菜のマリネや魚のオーブン焼き。どれ一つとして甘くないのだが、代わりに塩味や酸味、香草の風味がほどよく効いていて、素材の旨味と上手に合わさっていた。
 そこへヴィルがパンを切り渡してきたので、ありがたく頂戴する。口に含むとスポンジそっくりの見た目と違い、小麦の風味と一緒にほのかな甘みが広がった。
「これが『パン』。パンケーキのパンね」
 無意識に呟いてからふと我にかえると、テーブルを囲む全員がアルマを見つめていた。
「あ、おいしい、ですよ?」
 慌てて笑顔を作る。
 すると皆何事もなかったかのようにそれぞれの食事へ戻った。テオだけが一人、おもしろげにニヤリと笑みを向けてきた。
「たまにはまともな食事もいいだろ? どうだ嬢ちゃん、俺たちの仲間にならないか?」
「なんでテロリストの仲間にならなきゃならないんですか」
「この味を知っちまったからにゃあ、もう嬢ちゃんもテロリストだ。なあ、ヴィル?」
「――――テロはもうしない」
「はあっ?」
 突然の宣言にテオが鼻白み、子供たちが浮き足立った。
 ヴィルはじっと料理を見つめたまま、淡々と宣言する。
「アルマの兄貴はテロで本当にひどいことになったんだ。テロにあった人々のその後の人生を、俺たちは甘く考えすぎていたと思う。おれはもう薬は作らない。今日が最後だ」
「なに今更言ってんだよ、ヴィルフリート!」
 椅子を蹴ってテオが立ち上がった。どんと手をついたテーブルの上で、ほとんど空になった皿が少しだけ跳ねた。
「お前はこの国を見捨てるのか? 今まで俺たちに救えなかった国はないんだぞ」
「諦めてはいない。けど……このやり方は好きじゃない。初めからそう言ってただろ」
「でも、俺たち錬金術師は、この街じゃろくに動けないんだぞ!」
「もう止めよう」
 ヴィルが素早く手を上げてテオを制した。
「これ以上は部外者を交えてするものじゃない。アルマ、そこの箱に料理を詰めて持っていくといい。お兄さんに食べさせてやれ」
「あ、うん……」
 言われるままに手を動かし、アルマはランチボックスをつくると、彼らの隠れ家をあとにした。
 隠れ家の茶色い木の扉を抜け、階段を上がって小道へ出た瞬間、漂ってきた甘い香りに、やっと自分の故郷へ帰ることができたように思ったのだった。

   §  §  §

 夕方の赤い日差しがべっこう飴の通りをてらてらと照らしていた。その先の丘に見える総合病院は、白い角砂糖のブロックをいくつも積み上げた、無骨なお城のようだった。
 食事の給仕をする看護婦の脇をすりぬけ、アルマは兄のベッドへむかった。まだ夕食は来ていないようだ。
「お兄ちゃん、これ、お夕飯まえに食べてほしいの」
「これは?」
 巨大化した兄が持つと、ランチボックスはおもちゃのように見えた。
 ボックスの中には色とりどりの野菜のサラダが入っている。ヴィルが教えてくれた中でも一番カロリーが低いドレッシングをかけたものだ。病院食がどんなものでも、まずサラダを食べさせてから夕食を食わせろと少年は言っていた。
「これはなんて言うか……不思議な味だね。まずいわけじゃないんだけど、ちょっと酸っぱくて…………甘くない。懐かしい、かな」
 エルクがサラダを食べているうちに看護婦がやってきた。
 どんと置かれたドーナッツの盛り合わせにアルマは目をむく。
「えっ、病院食って、お菓子なんですか!?」
 アルマの焦った声をうけて、看護婦がおおらかに笑った。
「そうですよぉ、おから入りのローカロドーナッツです。出入りの業者さんに特別に作ってもらってるんですよ」
「そんな。揚げ物で痩せようだなんて……」
 うめくアルマへ、エルクが野太くなった声で嘆いた。
「聞いておくれよアルマ。ここじゃ朝昼晩の一日三回、毎食ドーナッツなんだ。しかも量が少なくて辛いんだよ」
 見ればドーナッツは上手に積み重ねてあるものの、たった五つしかなかった。毎朝大皿いっぱいのフィナンシェを食べ、昼は失敗ケーキを三ホールも完食していた兄が耐えられる量ではない。こんなことならヴィルの隠れ家にあった鳥の香草焼きやパンを持ってきてあげればよかった。
「わかった。これからわたしが毎日料理を持ってきてあげるね。だから今はこれで我慢して。必ずおいしい料理を作れるようになるから!」
「りょうり……? アルマ、きみは料理を習ってるのかい?」
「料理を知ってるの? お兄ちゃん」
「――こんばんわ、エルク」
 か細い声とともにふわりと甘い百合の花の香りが広がって、アルマは戸口へ振りむいた。
 エルクの婚約者ティアナが花束を抱えて立っていた。
「ティアナさん、来てくれたんだ」
 にこりと微笑むティアナから花束を受け取ってアルマは花瓶を手に取った。エルクが絵付けをした中でアルマがもっとも気に入っている、蔓植物の描かれた瓶だ。
「あ、えっと、わたし花をいけてきますね。お兄ちゃんのこと、よろしく頼みます」
「……ええ」
 その声の低さと、答えの前にあったちょっとした沈黙に、アルマはティアナを見上げた。
 彼女は細い手でぎゅっと胸元を掴んで立ち尽くしていた。
 その美しくも物憂げな横顔は、エルクを避けて、ベッドの足元をひたと見つめたまま動かなかった。

   §  §  §

 日曜日、お昼のパティスリー・ルーメンは混雑の極みだった。
「いらっしゃいませぇー、三名様ですね」
 喫茶コーナーでは次から次へと押し寄せる客を店子たちが華麗にさばき、厨房からくりだされる大皿を的確に配っている。
 日曜のこの時間、ルーメンを手伝っているアルマは、テイクアウト用のショーケースの向こう側で食い入るようにケーキを見つめる奥様たちと対峙していた。
「この『メリーさんのとろりんふわんちょチーズケーキ』をいただけるかしら?」
「はい、かしこまりました!」
 営業用の声と笑顔でてきぱきと動く。常連さんに「工房の中でくすぶっているよりこっちのほうが似合うわよ」と言われるだけあって、人好きする笑顔がアルマの最大の武器だ。
 ショーケースに並んだケーキはどれも師匠の考案で、美しく彩られた色彩感覚がずばぬけていると評判だった。もちろん味も折り紙つき。一番人気のショートケーキは、一度食べたら二度目には三つ買いたくなるという。
 アルマの切り分けたチーズケーキもルーメンの人気商品の一つで、二種類のレアチーズをマーブル状にタルト生地へ流し、縁に小さく生クリームをしぼった、素朴ながら可愛らしい一品だ。とろける食感がクセになると、リピーターも多い。
 ショーウィンドウに飾られたケーキのどれもがおいしそうで、アルマは自然と口元をゆるませた。
「アルマったら。よだれ垂らすんじゃないわよ」
 喫茶のカウンター越しに店長のリアが笑いかける。その手には小さめのナイフが握られていて、オレンジの皮をするするとむいていた。
 ルーメン評判の美しい盛りつけは、フルーツカッティング師のリアがいるからこそだった。季節ごとに工房からやってくる新作ケーキに合わせ、皿との調和をめざして盛りつけのデザインをしているのだ。他にも、様々なフルーツを用いた華やかな盛り合わせを作ったり、ナイフ一本で果物にバラの花を咲かせたり、三種のソースで皿に華麗な文様を描いたり。姉妹だけに感性が合うのか、リアの盛りつけはフリーダの奇抜なケーキによく合っていた。
「よう、リア」
 パイナップルの器にブドウやサクランボをぽいぽいと投げ込むリアへ、カウンターに座った常連客の男が声をかけた。
「機嫌よさそうじゃないか。そろそろお嫁のもらい手でも見つかったか?」
「カール! もう、ふざけないでよ、この忙しいときにっ」
 手だけは休めずにリアがカウンターのむかいの相手をにらむ。深い紺の制服を着た彼は、この地区を担当する警察官だ。リアとは同い年でよくちょっかいをかけている。
「お前は昔っからきっついもんなぁー」
「テロから市民も守れない警官さんに言われたくないわ」
 そう言ってからしまったと思ったのか、リアが申し訳なさそうな目つきでアルマを見た。
 カール警官もアルマへ顔を向け、頷く。
「テロと言えば、アルマちゃん、お兄さんの様子はどうだい?」
「一応、病院でダイエットしてますけど……。まだベッドから起きられないみたいです」
 アルマは少し緊張してこたえた。ヴィルとの約束の手前、テロリストたちのことは通報できない。警官に感づかれないように事実を告げるのが精一杯だった。
 そんなアルマの心中にはまったく気付かず、カールは大げさに目を剥いた。
「うわー、エルクのやつ、そのレベルだったのか。心肺機能は大丈夫か?」
「はい、体は丈夫なほうみたいで」
「俺、あの日は休暇とってたんだよ。そういう日に限って大規模なテロが二件も建て続けに起きてさぁ。あーくそ、あのデブテロリストども! 次はただじゃ済まさんぞ!」
 拳でカウンターをどんと叩き、カールが憎々しげに吐き捨てた。
 びくりと肩をすくませたアルマの耳に、「次」という一言が残る。ヴィルは『次はない』と言っていたが、テオはそんなつもりは全くなかったようだった。また事件が起こることはあるのだろうか。
(ううん、あの頑固そうなヴィルが自分の意見を変えるはずがない)
 きっと次のテロはないと信じ、アルマは硬く口を閉ざした。
 そこへ、リアが飾り立てたハーフケーキを少しガサツに警官の前へ置いた。
「でもカール、あんたまで薬を被っちゃったらどうするのよ。実は『ヘンゼルの骨』を使ってるんでしょ?」
「なにぃ、この腹を見ろ! ムキムキかつ、てろりと脂の乗った見事な――」
「おっさん腹ね」
「うっせえ、とにかく自前なんだよ、俺は。お前こそその胸、使ってんじゃねぇか?」
「はあ!? これはスポンジを入れてんのよ――ってなに言わせんのよこのバカ警官!」
「わあ、店長、果物投げちゃダメですよ!」
 カッティングナイフを振り回しているリアから少しでも離れるべく、アルマはショーケースの奥へ身を引いた。
 そのとき、カラリと飴細工のチャイムが鳴って、店のガラス戸が開いた。
「こんにちは。お持ち帰りよろしいかしら」
 甘くやわらかい声がして、プラチナブロンドの美少女がアルマの前へ立った。年の頃は七つか八つだろうか。あごの細い小さな顔に、整った目鼻立ち。夢見るようなアイスブルーの瞳には大人びた光が宿っている。彼女からはケーキに似た甘いバニラの香りがした。
 可憐な花のような笑みを浮かべて、少女が小さな指でショーケースを指さした。
「『真夜中のザッハトルテ』と『苺のふあふあムース』、あと『木苺のざっくりタルト』をいただけるかしら」
「あ、はい、ただいまっ」
 子供ながら優雅な仕草に見とれてしまい、うわずった声になった。
 ザッハトルテと苺のムースをお盆に乗せたあと、ホールの木苺のタルトを切り分ける。
 木苺のたっぷりのったこのタルトは、ショーケースの中でもひときわ目を引く一品だ。砕いた紅玉のような木苺の下に、こっくりとしたカスタードクリームの層がしかれている。その下にはココア風味のタルト生地。口に含んだ際に甘酸っぱい味とココアの風味がうまく解け合う、アルマ絶賛のケーキだった。
「あらクララちゃん。いらっしゃい。今日はひとりでお使いなの?」
「ええ。お兄さんたちには外で待ってもらっておりますの」
 クララは飴ガラスの入り口を振り返る。その向こうにはずらりと黒い服とサングラスをかけた男たちが並んでいた。一目で『お兄さん』の意味が血のつながった兄妹ではないことがわかる、いかつい顔ぶれだ。きっとクララ専用のボディガードなのだろう。
「あ、それといつものを三つくださいな」
 そっと両手を合わせ、クララが小首をかしげてアルマを見上げた。無敵の微笑み付きだ。
「え、いつものって……?」
「カスタードチーズケーキよ。あのサクランボが中に入ってるやつ」
「そうですの。わたくし、このケーキに惚れこんでおりますのよ。とろりとしたカスタードとチーズの融合、酸味を届けるブラックチェリー。カサリと繊細にほどけるパイ生地の香ばしさ……。私がドルチェブルグ一と認める、すばらしい逸品ですわ」
 常連らしい少女の態度に、アルマは内心首をかしげた。週に二、三日はルーメンの手伝いをしているのに、この少女を見たことは一度もないのだ。記憶力の弱い自分のことだから、忘れてしまっているだけかもしれないが。
「あとそう、今日はフリーダ様に用事があって参りましたの。工房へお邪魔してもよろしいかしら?」
「もちろん。クララちゃんのお父様にはいつもお世話になってるもの」
 リアがにっこりと微笑んでこたえた。その手はするするとリンゴの皮をむいている。
 アルマが箱詰めしたケーキを受け取り、クララはボディガードの男に荷物をあずけた。
 その拍子にちらりと目に入ったボディガードの胸の記章に、アルマは息をのむ。
 アイヒマン糖蜜社――この国の砂糖を専売している大企業だ。
 クララは白く小さな手でボディガードに指示をだし、大きな紙袋を工房へ運ばせた。
「このたび新しく売りだす新商品が、とてもローカロリーなお砂糖なのですけれど、少し癖があるらしいのです。ぜひフリーダ様にお試ししていただいて、ご意見をいただきたいのですわ」
 それでは、と工房へ向かうクララの整った横顔を見つめ、アルマはただただ感嘆していた。
(アイヒマン社のご令嬢が、こんなにかわいらしい美少女だったなんて!)
 いつも営業でくる若者がまったく愛想がないせいで、アイヒマン社に良いイメージを持っていなかったアルマも、その印象を強制的に変えられてしまった。
 そのまま呆然とと彼女の後ろ姿を見ていると、喫茶のピークを終えたリアがぽんと肩を叩いた。
「お疲れさま、アルマ。休憩入んなさい」
 彼女は口角をきゅっとあげて微笑んだ。
「あんたがいて良かったわ。またよろしくね」
「はいっ、店長」
 アルマも笑顔で返し、それから以前リアとフリーダが話していた他の店へ修業に行く話がちらりと頭をよぎった。
(……他のお店なんか、行かなくていいよね)
 工房では失敗だらけでも、ルーメンにいるときはみんなと仲良く働けている。こうして気分を発散させて、また工房に戻るのが、自分の性に合っているのだ。
(だから、他のお店になんか行きたくない)
 くすぶる気持ちを抑え込み、アルマは店の奥へときびすを返した。

   §  §  §

 それから工房でさんざん失敗作を作り上げ、自宅へついたのは夕方の少し前、空がカスタード色に染まりはじめた頃だった。
 チョコレートの玄関を開けた途端、いつもの焼き菓子の香りとは違う焦げ臭さが漂ってきて、アルマの疲れは吹っ飛んだ。すぐさま臭いの元であろうキッチンへ駆ける。
「な、なに? なんであんたがうちにいるの!?」
 カウンター式のキッチンで可愛い苺柄のミトンをつけていたのは、デブテロリストこと反ヘンゼルの骨団の一員、ヴィルだった。
「それは……」
 ヴィルは一瞬目をそらして言葉を濁してから、すっとアルマへ視線を合わせ、台本を読むように告げた。
「君は自分で思っているよりずっと有名人みたいだな。『赤毛の練甘術師見習いを知らないか』と聞いて回ったら、すぐにこの家が見つかった」
「そうじゃなくて。どうしてうちにいるの?」
「ピッキングくらいできなくちゃテロなんてできないからな」
「だーかーらぁ」
 ばん、とカウンターに手をついて、むこう側の彼に顔をぐっと近づける。
「どうやってじゃなくて、〈どうして〉うちなのよ!」
「う……」
 ヴィルはなぜか一瞬たじろいで、キッチンの奥へ下がった。黒い服が影になじんで、白い顔だけが浮かび上がったように見える。そう思って目を合わせれば、茶色の瞳をすっとそらされた。少し斜めを向いた利発そうな顔立ちがアルマの目に焼きつく。
 じっと見ていたのが効いたのか、ヴィルが重い口を割った。
「……『もうテロをしない』と言ったら、テオがキレて……――キッチンを爆破した」
「へ?」
「いわく、『テロをしないならこんなモンもういらねぇだろ――!』……だそうだ」
 アルマはそのままぽかんと数秒間固まった。
(……ええと、つまりあのテオとかいう人が自分でキッチンを爆破したってこと? 自分で自分の家の?)
 その沈黙を呆れととらえたのか、ヴィルはふてくされたとき特有の早口になった。
「昔から喧嘩するとこうなんだよ。いつもは爆竹程度で済んでるんだけど、今回は本気すぎて当分キッチンが使えなくなったんだ」
「それでうちのキッチンを使いに来たってわけ? 信じらんない!」
「突飛な話なのはわかってる。だから詫びと言ってはなんだが、前とは違う料理を教えようかと思ってるんだが……」
「もう関わらないでって言ったら?」
 アルマは腰に両手を当て、警戒しきった目でにらんだ。
 正直なところ、テロリストとこれ以上の関係を持ちたくなかった。もしも自宅を容赦なく爆破するテオが殴りこみにきたら、アルマの家は半壊ではすまないだろう。ヴィルですら、たった一度の面識しかない相手の家へ上がりこんだあげく、勝手にキッチンを使うような輩なのだから。
 怒れるアルマをヴィルは申し訳なさげに横目で見たあと、小声でぼそぼそと呟いた。
「おれの計算では、すべてのレシピが菓子の十分の一のカロリーなんだがな……」
「うぐ」
 思わず攻めの体勢が崩れる。それだけのレシピをアルマひとりで考えられるかと言われれば、完全に無理だ。これから先、兄のために作り続けるだろうダイエット料理を思い、胃のあたりがずんと重くなる。
 同時に子供たちの「おいしかった」という評価が脳裏によみがえった。幸せそうにモモ肉にかぶりつく姿が忘れられない。
 このままヴィルを放っておいたら、あの子たちまでひもじい思いをするのではないだろうか。そんなことはさせられない。
「……わかった。今はお兄ちゃんもいないから、ちょっとぐらいなら使ってもいいよ」
「恩にきる」
 まじめな顔で頷く少年にちょっとした苦笑を感じながら、アルマはキッチンへ入ろうとした。
 それをヴィルが慌てて止める。
「待ってくれ、今魚を焦がしたから」
「うちのオーブン、結構クセがあるの。かしてみて」
 ぱかりとオーブンを開けると、目の前に巨大な魚の口があった。ぎょろりとした目玉は真っ白になっていて、真っ黒にすすけた皮は半分はがれ落ち、びちゃびちゃとした油を垂らして……えぐかった。
 その焦げたギザギザの歯を二秒ほど見つめ、アルマはスパンッと扉を閉じた。
「なに、今の」
「タラのオーブン焼き、だったんだが……」
「た、食べ物なの? こ、これだと相当な大皿が必要だね。わたし、取ってくるから。じ、じゃあねっ」
 焦げたことばかりを気にしているヴィルを置いて、アルマは引きつった顔でオーブンから離れた。素早くキッチンをあとにし、倉庫へ向かう。
(あんなオバケ魚、どこで手に入れたんだろ。パンケーキ通りの小川ででも釣ったのかな? それとも黒豆通りの闇市で?)
 そんな要らない思索にふけりながら、アルマは倉庫をあさった。兄が絵付けした皿が山のようにある中で、一番大きなものを見つける。これならばあのオバケ魚でも収まってくれるだろう。つる草模様が描かれた皿には桃色の花がちりばめられていて、ところどころに小鳥がとまっていた。中央には大輪の花のブーケが描かれ、白磁を文字通り華やかに彩っている。
 キッチンへ持ち帰ると、ヴィルはその大皿をしげしげと眺めた。
「いい柄だな。色に透明感がある」
「でしょ、お兄ちゃんが絵付けしたものなの」
「ふうん、エルクは絵付け師なのか」
 さりげなく言われて、アルマはきょとんと目をしばたたかせた。
「あれ? ヴィル、どうしてお兄ちゃんの名前、知ってるの?」
 ヴィルの茶色の瞳が、あからさまに泳いだ。
「そ、それは……。確か昨日、料理をしているときに言っていなかったか?」
「そうだっけ? ごめん、私、忘れっぽいんだよね」
 アルマはえへへと頭をかいて誤魔化した。
 ヴィルがさっと視線を室内へ走らせて、暖炉の上に飾られた家族の写真を見た。アルマの知らない木造の家の前で、父母と幼い兄妹がうつっている。
 その隣には、兄が皿の絵付けで得た賞状やトロフィーが並んでいた。
「すごいな、あんなにたくさんの賞」
「えへへ。お兄ちゃん、若いけど熟練の職人さんにも一目置かれてるんだよ」
「……立派な兄貴なんだな」
 と、ヴィルが低い声で呟いた。
 アルマが巨大魚を皿にうつそうと格闘しているうちに、少年はそのままふらりと隣の部屋へ入っていった。
 床に散乱した絵の具や筆を見下ろし、ヴィルは二、三度まばたきをした。
「この部屋で絵付けをしてるのか?」
「ううん。そこはお兄ちゃんが趣味でやってる絵の部屋。絵の具が散乱してて危ないよ」
 キッチンからアルマが答えた。
 ヴィルは踏みそうになった絵の具を手に取り、においをかいだ。
「これは……ジャムか?」
「そう。お皿の絵付けにもジャムを使うでしょう? 一緒よ」
 ドルチェブルグ特有の透明感のある絵皿は、ジャムの釉薬を使っているからこそだという。香りもよく美しい釉薬は諸外国からの評価も高いのだが、この国は輸入ばかりで輸出をいっさいしないため、これらの絵皿も決して国外には出さないそうだ。
 魚を皿にもったアルマが部屋をのぞくと、ヴィルはイーゼルにのった一枚の絵を見つめていた。兄がテロに遭う直前に描いていた、かきかけのアルマの絵だ。何かのお菓子をにこにこと楽しげに作る姿が描かれている。
「この絵はいいな、優しい雰囲気がある」
「そう、かな?」
 照れ隠しに頬をかきつつ、カンバスへ近づけば、薄い鉛筆でもう一人の人物の下絵が描いてあった。やわらかな長い金髪が印象的な、兄の婚約者ティアナだ。
「――あ、これ、あの日だ」
 初めて兄がティアナをうちに連れてきた日のことを思い出す。アルマがお菓子作りをしている最中に二人がやってきた。手が汚れてお茶も出せないでいると、ティアナがきてお菓子作りを手伝ってくれたのだ。
 くしくもちょうど作っていたのがティアナの好物のシガレットクッキーで、とても喜ばれたのを覚えている。
「お兄ちゃん、あの日のこと覚えてたんだ」
 絵の中のアルマは本当に楽しそうに微笑んでいる。こうして作ったケーキを何度兄に食べてもらい、褒めてもらったことだろう。
 ケーキ作りが大好きだったあの頃を思い出して、アルマは胸が苦しくなった。何もかも、お菓子を教わることすべてが楽しかった。戻れるものなら戻りたいとすら思う。
「君の絵が多いな。お兄さんは妹が可愛くてしょうがなかったようだ」
 まわりに置かれた絵画を見て、ヴィルが感慨深げに呟いた。見ればどの絵もアルマがちらちらといる。殺風景な風景画でも、小さく描かれた跳ねた赤毛がアクセントになっていた。
「お兄ちゃんってば、こんなの描いてたんだ……ちょっと恥ずかしい」
「妹思いなんだろうな」
「うん、ちょっとシスコン気味っていうか、たった二人の家族だからかな? すごく甘やかされてるの」
 アルマはしみじみと頷いた。アルマにとって兄が母親で父親だった。晴れた日はいつも手をつないで一緒に歩いて、雨の日は傘を差し掛けてくれる。一緒にいても不思議と息のつまらない、そんな優しい兄だった。
 けれど心配性の気もあって、あそこに行くなら大通りを歩きなさいとか、女の子なんだから遅くまで出歩いちゃダメだとか、耳にタコができそうなくらいたくさんのことを言われてきた。アルマが出かける前の忘れ物発見機能はドルチェブルグ一だろう。
 まだヘンゼルの骨が効いていたころは、その容姿からご近所やルーメンの若い女の子に大人気で、自慢の兄だった。性格もとにかく優しくて、夕食に明らかな失敗ケーキばかり並べても嫌な顔ひとつせず、「次は頑張ろうね」と励ましつつ頬ばってくれていた。
 そこまで身を削って、いや、太らせてまで自分を助けてくれていた兄をどうしても助けたい。そう思い、アルマはぐっと拳を握りしめた。
(絶対、おいしい料理をつくれるようになって、お兄ちゃんをダイエットさせてみせる!)
 決意を新たに頬を上気させていると、ヴィルが絵画を見ながらちらりと視線をよこした。
「ご両親の絵はないんだな」
「うん。わたしが小さい頃に亡くなってて。お兄ちゃんもあんまり覚えてないんだって」
 アルマの言葉を聞いた瞬間、ヴィルの目がすっと鋭くなった。
「ご両親は……この国にいつ?」
「お母さんたちは来てないの。この国に来たのは、お母さんたちがいなくなってから。お兄ちゃんとふたりで来たんだって」
「君もそのクチか……」
 低い声で呟き、ヴィルが何事かを考え込むように腕を組んだ。不思議そうに見つめるアルマと目が合うと、ぱっと視線をそらす。
「キッチンに戻ろう。君のために作ったレシピが二十はあるからな」
 きびすを返すヴィルの後ろ姿を見つめ、アルマは呟く。
「……君のため?」
 少し考え込んで、「そうか」と手を叩く。
「お兄ちゃんのためにそこまでしてくれたんだ。これは頑張らなきゃ!」

   §  §  §

 などという決心がもったのは、はじめの一時間までだった。
 料理が始まって三十分ほどで汚れきったキッチンで、ヴィルが絶望しきった目をして呟いた。
「……アルマ。君には学習能力というものがないのかい?」
 異国風の皮肉な言葉回しよりも、淡々とした言い方が勘に障り、アルマはかっとなった。
「あ、あるに決まってるでしょっ、ちょっと忘れっぽいだけでっ。それに、ヴィルが横から口出しばっかりするから失敗するんじゃない!」
「……そうだな。それを言いたくなるのは、君がその砂糖壺を手放さないからなんだがな」
 アルマの手元でつるりと光る白い壺へ視線を落とし、少年は深いため息をついた。
「はっきり言う。アルマ、砂糖を使わないようにしろ」
「ええっ。でも、お砂糖でカロリーが上がるのは知ってるけど……。まったくお砂糖なしじゃおいしくないでしょ? ほんの少し使うだけだから」
「ダメだ。この国の砂糖は体に良くない」
「え?」
 アルマは目を見開いて相手を見た。
「この際だから正直に言う。今すぐ砂糖を摂取するのをやめろ。君はすでにおれの薬を被っているから大丈夫だとは思うが……」
 ヴィルは独り言のように続きをぼそぼそ呟いた。それを聞き取れず、アルマは邪険に言い返した。
「なにそれ。わたしにもうお菓子を作るなって言いたいの?」
「違う。蜂蜜や他の甘味料を使えばいいんだ」
「そんなので作ったって限界ってものがあるでしょ」
「それはそうだが……」
 少し黙り込んでから、ヴィルは呟いた。
「もうしばらくの間でいい。料理だけを食べてろ。甘いものは口にするな」
「なんでよっ」
「それは……」
 ヴィルはしばらく押し黙り、やがて静かに口を開いた。
「――君は、幼い頃のことを覚えているか?」
 唐突に問いかけられ、アルマは鼻白む。
「子どもの頃のこと? そりゃ……覚えてるけど」
「本当に? 八年以上前のことを覚えているか? 五年前でもいい」
「えっと、五年前……五年前?」
 とっさに五年前の記憶が浮かばず、アルマは焦った。
「そ、その頃は……その、小さかったから……っ」
 必死に間をかせいでも、記憶はまったく蘇ってこなかった。頭の中に真っ白なモヤがかかっている。
(そんなはずない。前はお兄ちゃんと暮らしていて、とっても平和で、テロなんかなくて――でも、何があったんだっけ?)
 おかしい。いくら自分が忘れっぽいからといっても、たった五年前のことが思い出せないなんてありえない。――ありえてなんか、ほしくない!
「うそ……。思い出せない」
 口ごもるアルマへ、ヴィルがまじめな顔で告げた。
「この国の砂糖は記憶障害を起こす。だいたい七〜八年が記憶の限界だ。だから君たちはこんな異常な国でも何の疑問も持たずに暮らしていられるんだ」
「砂糖が原因なんて……そんなこと、あるわけないじゃない。もしそうだったら、この国のお菓子職人はどうすればいいのっ?」
「だから練甘術師が諸悪の根源なんだよ」
 きつい視線でにらまれて、アルマはとっさに動けなかった。泣きそうになるのを肩を振るわせてこらえる。それでも信じたくなかった。
(砂糖が記憶を奪うだなんて……絶対にありえないよ)
 じわりと、目に涙が浮かんだ。
 それを見てどう思ったのか、ヴィルは軽くため息をついて目をそらした。
「……悪い、俺が言い過ぎた。君たちにはどうしようもないことだもんな」
 そんなことないと言い返そうとするアルマを押し止めるように、ヴィルは早口で続けた。
「アルマ。正直なところ、君は器用だ。口頭で教えたことも即座にこなすし、包丁の使い方も様になっている」
 「あとは甘いものを忘れればいいんだ」と彼は呟いた。
「君の舌から変わらなければ、またお兄さんをケーキ漬けにするだけだ。君自身、お菓子ばかり食べて生きていくだろう。それでは意味がないんだ。まず君から変わってほしい」
 ――ケーキ漬け。
 その言葉がいやに響いて聞こえた気がして、アルマの胸が黒くざわめいた。
「そんなことを言われても……わたし、どうすればいいの?」
「具体的には白湯を飲んで舌を慣らして――」
「違うの、そうじゃない!」
 アルマは我知らず叫んでいた。
「あなたに料理を習って、わたし、わかんなくなっちゃったの。本当にお菓子作りが好きだったのに、今は変なの、楽しくないの!」
 ここのところ、ずっと思ってきたことだった。ケーキ作りに失敗する度に胸のうちで頭をもたげ、その度に「違う」と否定し続けてきた感情だ。
 アルマの心は叫んでいた――本当はもう、お菓子を作るのが辛い、と。
 だけどそんなもの認められない。否定して、気付かないふりをして、忘れていた。
 そんな今ですら必死なのに、ヴィルは更にこの上をいけと言う。砂糖を使わないお菓子作りなんて、どれだけ難しいことだろう。アルマには想像もできなくて、ただ自分には無理だということだけがわかった。
 アルマは鼻の奥がつんとしてくるのを自覚した。それを気力でぐっとこらえる。きっとまな板の上にある刻みタマネギのせいだ、そうに違いない。
「師匠にも他の工房に出されるかもしれないし、いつも失敗ばっかり。さっきの絵みたいになんか、きっともう、一生笑えない。そのうえケーキなんか作るなでしょう? もう嫌なの!」
 ぽろりと涙が落ちた。鼻がぐずつく。それを隠すべくまな板へ向き直ると、タマネギの臭気がつんときて、いっそう涙を出させた。
 ヴィルは何かを言おうとして口を開いたが、すぐに閉じた。考え深げな表情でじっとアルマを見てくる。その視線は同情ではない何か悲しげなものを映しているようだった。
 居心地の悪い沈黙に耐えられなくて、アルマは目をこすった。
「ごめんなさい、わたし、変なこと言ってる」
「……いい。わかった。やっぱりおれたちが間違ってたんだな。何も知らない君に叩きこみすぎたんだ。混乱するのも無理はない」
 その響きがいつもより優しくて、アルマは少し驚いた。
「そ、そんなことは」
「ある」
 ヴィルは真剣なまなざしで続けた。
「食材、技法、そして感性。そのすべてを曲げられてなお自分の道を歩めるのは、本当の職人だけだ。君にはまだ早すぎたんだろう」
 アルマへハンカチを渡し、ヴィルはどこか遠くを眺めるようにキッチンの小窓のむこうを見た。小さく見えるシュークリーム塔の先端をじっと見つめる。
「おれはな、アルマ。君にお菓子とケーキの中間的な作品をつくってもらって、人々に料理を浸透させたかったんだ」
 アルマは思わず息をのんだ。
 ドルチェブルグの人々に料理を浸透させる――もしそれが叶えば、この国の誰もが潜在的にかかえる難病、肥満を克服することができる。
(……でも、そんなものすごいこと、今のわたしじゃ到底無理だよ)
 師匠なら軽々できてしまうだろう。だが、いつお店が持てるとも限らない見習い練甘術師相手では、ヴィルの計画は遠大すぎる。
「そういうことは師匠に言ってよ、わたしはまだ見習いなんだから」
「知ってる。それに、もうやってみたんだ。ドルチェブルグ中の製菓店に匿名で手紙を出してみた。でも、誰も変わろうとしなかった。だから、若い世代から変えていこうと思ったんだ。俺たちがいなくなったあとも料理が根付いて、続いていくように」
 アルマは絶句した。
 この国の大人は変わらなかった――この事実が、ヴィルを大人不信にさせた原因なのだろうか。
 この国の問題はお菓子を主食として食べる習慣や、甘いものが良いものだという価値観に起因している。アルマひとりに料理を教え込んでも、そのあとが続かなければ意味がない。料理の習慣が広まって、続いていかなければならない。
 だが、ヴィルはいつかはいなくなる。テロリストがこんな小さな国で長居できるはずがないのだ。そうなったときに、すぐに料理が廃れてしまったら、元も子もない。
「そっか……」
(ヴィルは色んなことを考えて、わたしに料理を教えてるんだ)
 なぜか胸が苦しくなって、アルマはうつむいた。
 ヴィルは真剣な声で話を続けた。
「おれも焦ってたかもしれない。君が早く覚えてくれれば、この国はもっと良くなるって。健全な料理が広まっていって、皆が健康になってくれるんじゃないかって」
 少年の言葉ににじむ熱意に、アルマは少したじろいだ。
「なんでわたしなの? 師匠はもっとすごいのに」
「君が覚えれば師匠にも伝わる。そうだろう?」
「う、ん。それは、そうだけど……」
 言われるままにうなずきながらも、アルマは納得がいかなかった。偶然兄をテロされて、料理を教わる関係になっただけなのだ。
「師匠がわたしから何かを吸収するなんてあり得ない気がする。師匠は完璧で、すっごいの。どんなレシピでも一度で覚えてしまうし、食べただけで技法まで当てちゃうんだから」
「だから君の師匠からあたれっていうのか? 巨匠フリーダの突飛さはおれでも聞いたことがあるんだが」
「突飛だなんて。ただちょっと発想がすごいだけよ。虹色クリームのエクレアとか」
 リアの盛りつけ技術をもってしてダメだった不人気ケーキを思い出す。あれは失敗だったが、フリーダのケーキは一見とんでもなくて、でも食べるとおいしいという二重の楽しさがあるのだ。
 アルマの主張を無視して、ヴィルは腕組みした。文句ありげにすがめた目元が鋭い。
「おれも錬金術師の端くれだから言うが、独り立ちした錬金術師は大抵どこかイカれてるものだ。練甘術師も同じだろう」
「なっ、そんなことないっ。師匠はちょっと天然なだけだもの!」
「おれの師匠なんてすごかったぞ。弟子に平気で毒をもって、その記録ばかり書いてた。ペンを手放すのは寝るときだけだった」
 さらりと告げられた内容に思わず沈黙したアルマへ、ヴィルは更にたたみかけた。
「テオだって昔はまともな兄貴分だったんだ。それが錬金術師として独り立ちして、色んなことに携わって……あんな風になってしまった」
 組んだ腕を悔しげに握りしめ、ヴィルの黒い服にしわが走った。
 アルマはテオの軽い態度でバサバサと人を傷つける物言いを思い出し、昔はどんなまともな人だったのかと思いをめぐらせた。が、まったく想像できなかった。わかったのは錬金術師とはみんなひと癖もふた癖もある人物ばかりなのだろうということだけだった。
「だからヴィルは……大人を信用しないの?」
「かもしれない。それにこの国には特に信用にたる大人がいないことは、君も気づいているだろう?」
「? なんのこと?」
「五十代以上の成人がきわめて少ない、ということだよ。老人世代は皆無だ」
 言われて初めて気づいた。
 確かにおじいちゃんやおばあちゃんがこの国にはいない。みんな太りすぎで死んでしまうからではなく、初めから存在しないのだ。
「わたしみたいに外の国から来る人が多いからじゃないの?」
 ちらりと暖炉の上の写真を見る。幸せそうに笑う家族の背後に立っているのは、お菓子ではない素材でつくられた家だった。しかし、その場所がどこかアルマは知らない。国の名前を忘れたと兄は言っていたが、今思えば当時五つだったアルマはともかく、十二歳だったエルクが自分の国の名前を覚えていないはずがない。
 こんなことを疑問にも思わずに、この街の住人は平気で暮らしている。
(これが砂糖の記憶障害ってこと……?)
 サァッと、体中から血の気が引いた。
 アルマの理解が及んだのを見て取り、ヴィルが腕を組んだまま指先をとんとんと弾いた。
「この国は難民のよせ集めなんだ」
「なんみん?」
「戦争で土地を奪われた人たちのことだ。この国の外は……――いい、なんでもない」
 ヴィルは強制的に口を閉ざした。
 何か聞いてはいけないことに触れてしまった気がして、アルマはそっと息を飲み込んだ。
 だが、ヴィルはふう、とため息をついただけだった。
「……今まではただ救ってきたんだがな。この国だけは人々の常識から叩き直さないといけなくて、危険な方法もとった。それに手詰まり感を覚えていたところへ、ちょうどいい年齢の練甘術師と出会ったってわけさ」
 それだけを言うと、ヴィルは肩をすくめてまな板に向き直った。
「さあ、次のレシピにいこう。ほうれん草とトマトのグラタンだ」
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