一章 見習い練甘術師とデブテロリスト 「うわ、やばっ」 苺色のスカートを引きあげ、アルマはあわてた。いつの間にかウエストがぎりぎりになっていたのだ。やわらかな白い綿飴のブラウスに、てらてらと赤く輝く飴の糸で織られたスカート。シンプルながら清潔さを感じさせるこの出で立ちが、工房付属のお店の制服だ。もしもこの制服が入らなくなったら、お店の手伝いができなくなってしまう。 (工房のほうに入り浸っててもいいんだけど……それも気がひけるし) 「これは……そろそろ『ヘンゼルの骨』を使わないとやばいかも」 師匠には使うなと言われてるんだけど、とつぶやいて、アルマは透き通った氷砂糖の鏡を見た。地味な顔立ちに少しこげた赤毛。明るい緑の瞳だけが美形の兄との唯一の共通点だ。小さめの口元をにっこりと引き延ばして、笑顔の練習をする。 「いらっしゃいませ」と営業用の声を出してから、アルマは部屋を出た。 軽い足取りでビスケットの階段をおりていくと、焼きたてのフィナンシェの香りがするキッチンについた。 「おはよ、お兄ちゃん」 「ああ、おはよう、アルマ」 飴色の髪をかきあげながら、キッチンの向かいのカウンターに座っている兄のエルクが振りむいた。誰もが認める甘い顔だちを笑顔でさらに甘くして、優しげな緑の目を細めている。手元にはホワイトチョコの平皿に山盛りのフィナンシェがあった。 「今日は僕でも焦げずに温めなおせたよ」 「昨日の晩ご飯、そんなに残ってたっけ。じゃあ、ココアはわたしが作るね」 キッチンへはいると、アルマは手早くアラザンの銀ヤカンに水をいれて火にかけた。スプーン三杯のココアをマシュマロのカップに入れ、山盛りの砂糖を五杯くわえる。後はお湯を待つだけだ。 ヤカンの口から湯気が出てきた頃、カウンター越しのリビングから、氷砂糖のテレビの音声がきこえてきた。 『本日、クレープ通りでテロ事件が発生しました。現在は十五名が負傷、三名が病院に運ばれています。なお、このテロは近年頻発している『反ヘンゼルの骨団』によるものとされており――』 ナレーターの声を遮るように、アルマがふわふわのマシュマロカップに湯をそそぐ。 「またテロ? 怖いね」 「今回のはうちに近いみたいだ。ほんとうに怖いね、この前はシロップ商店街でお向かいのファーナーさんが巻きこまれているし」 「そうだっけ?」とアルマが首をかしげる。 「そうだよ。アルマはほんとに忘れっぽいなぁ」 エルクはあきれ半分で笑った。 「ファーナーさんったら、夫婦そろってまん丸になっちゃってさ、娘さんが『こんな両親じゃ恋人に紹介できない』って嘆いてたくらいだったよ」 「ああ、それなら、聞いたことがあるような? 『こんなことならエルクみたいにさっさと婚約しておけばよかった』って、お兄ちゃんのことを羨ましがってたっけ」 アルマがバームクーヘンのカウンター越しにココアを渡す。 「あー……それは」 エルクはカップを受けとり、納得と照れを足して二で割ったような声をだした。 二ヶ月前に婚約した兄は、半年後に結婚を控えている。彼と婚約者との仲睦まじさはご近所でも有名だ。人目もはばからずイチャイチャするせいで、アルマも何度か周囲の冷やかしの声をきいているくらいだった。 「僕の結婚は、まぁ、もう少し先の話だけどね」 と、話を軽く流してエルクは大皿からフィナンシェをとった。その指先には薄紫の斑点がある。皿の絵付け師をしている兄の指はいつも七色に染まっていて、今日はブルーベリーの紫が多かった。 彼が絵付けした皿が並ぶ暖炉の上に、両親の写真がある。木製の小さな家の前に、家族四人が並んで立っているものだ。右から順に父、兄、アルマに母。だが、この両親のことを、アルマはほとんど覚えていない。知っているのは写真から読みとれることだけだ。自分の赤毛は父親似、兄の金髪は母親似――それ以上はわからない。 六つ年上のエルクでも、この頃家族がどこの国にいて、どんな暮らしをしていたのかまったく覚えていないと言うほどだから、アルマにはこの二人が家族だという実感がもてなかった。彼女にとっては兄が唯一の家族だ。 エルクはぱくぱくとフィナンシェを口へ運びながら、アルマへ笑いかけた。 「結婚式ではアルマが立派なウエディングケーキをつくってくれるから、僕はなにも心配してないけどね。もう構想はできてるかい?」 「え、う、うん。なんとなくなんだけど、ね」 びくりとしたついでにフィナンシェを落としそうになり、アルマはあわてた。 アルマは幼い頃からケーキ作りが大好きで、お菓子職人の弟子をしている。この国では十二歳から職人の弟子になるのが決まりで、アルマは十四歳になったばかり。まだまだ二年目のひよっこだ。 「一応、お兄ちゃんたちの好みを反映しようかな、とか……考えてるけど」 「そっか。ティアナも期待しているから、がんばってね」 「う、うん。わたし、まだ見習いで失敗ばっかりだけど……」 実は最近失敗が多く、すっかり自信をなくしているのだ。そのせいかウエディングケーキの考案も一向にすすまない。 そんな妹の焦りを見透かしてか、兄が安心させるように笑った。 「いいんだ。僕はアルマが作ってくれるだけで嬉しいから」 「わかった、わたし、がんばる!」 ぱっと明るい笑顔でこたえて、アルマは握り拳をつくった。兄の晴れ舞台に協力できるのだから、おびえてなんていられない。精一杯の作品をつくるべく、師匠に意見を聞いてがんばろう。 そう思い、半分になったフィナンシェの山を置いて立ちあがった。閉じたカーテンに近づくと思いっきり開ける。 まぶしい朝日が差し込み、ほのかにゆがんだ飴のガラスが、クッキーの板床に薄い影をつくった。向かいの家のチョコレートの瓦の上にちょこんと顔を出した太陽が、町全体を照らしている。ブラウニーの石畳にパイ生地のアパート、クッキー屋根の家やシュークリームの立派な塔―― あらゆるものがお菓子でできたこの小さな都市国家が、一大甘味国、ドルチェブルグだった。 § § § リーフパイ通りは左右を黒砂糖のアパートメントにかこまれた小道で、パイ生地の敷石がさくさくとした足音をたてさせる。 その突きあたりのT字路に、甘い香りをふりまくケーキ屋があった。 飴細工の植木がくぎる敷地には、二棟の建物がある。一方は飴ガラスが開放的な雰囲気をもたらすパティスリー・ルーメン。もう一方はこぢんまりとした工房だ。 工房は飾り気のないスポンジの壁で、一見倉庫のようにもみえる。けれどブラウニーの屋根にある小さなチョコレートの煙突からは、こうばしい香りが絶えなかった。 朝食の買い出しにとあふれかえる主婦の波をよけて、アルマは工房へむかった。 小ぶりなチョコレートの扉を開けると、むっとする甘い匂いが出迎えてくれる。 「おはようございまー……あれ、師匠?」 いつもなら小麦運びをしながらこたえてくれる師匠が、今日はいなかった。お店のほうに用事があるのかもしれない。 アルマは白いエプロンを手早く身につけた。頭にも白い三角巾をきゅっと結ぶと、奥の倉庫から小麦や砂糖を運ぶべく、荷車を引いていく。弟子入りした頃は重い小麦の袋をつむのが辛くて毎晩腕が痛んだけれども、今は慣れてしまった。 二十五キロの小麦と砂糖の紙袋を荷台にのせ、小ぶりな竈をぐるりと囲う長テーブルに運ぶ。この作業台の右側を師匠が、左側をアルマが使っている。師匠のところは汚れ一つないが、アルマの場所はちょこちょこと傷や汚れが目立っていた。 必要な器材をそろえ、竈に火を入れると、鼻歌交じりに今日の分の小麦をふるう。 「――よしっと、完璧!」 一通りの下準備が終わると、氷砂糖でつくられた巨大な冷蔵庫から使いかけの材料を取りだし、常温で保存された卵と一緒にテーブルへ並べる。 ここからが腕慣らしの時間だ。きっちり計った砂糖に卵を混ぜて、小麦、メレンゲと合わせる。一般的な丸型に生地を流しこむと、適温になった竈へ。これでごく普通のスポンジ生地ができるはず。 「竈さま竈さま、あとはおねがいしますっ」 アルマは竈の前で両手を合わせると、そっと竈の小窓をのぞきこんだ。息をはりつめて様子をうかがう。膨らみ具合はまあまあだ。このままいけばきっと大丈夫だろう。 そう思った矢先、生地の表面がグズグズとしぼんでしまった。 「えー、なんでぇ」 できあがったスポンジを見て、アルマは小柄な肩をもっと小さくしてため息をついた。表面がでこぼこだ。これではショートケーキにも使えないだろう。上の部分を削ってもぺらぺらな生地になるだけだ。 仕方なくゴミ箱へ投げ入れようとして、つい手が止まった。いくら失敗作とはいえ、捨ててしまうのはもったいない。迷ったあげく、作業台の下にしまいこんだ。 「後でこっそり持って帰って、家で食べようっと」 そう呟いたとき、少しだけ開いていた工房の窓から、若い女性の声が飛びこんできた。 「だからあたしは反対してるのよ、姉さん!」 きつい口調に驚いて窓を見れば、二人の女性が口論しながら工房へと向かってきていた。 長いストレートヘアーを高い位置で一つにくくった美女がルーメンの店長、リアだ。きつめのメイクに合わせて、声もきつい。 対して、やわらかい空気をふりまいている茶髪のソバージュの女性が、工房の主人にしてアルマの師匠、フリーダだった。おっとりとした性格だが、作るケーキが革新的かつ前衛的で、とても評判がいい。 「でもね、リア。一度外へ修行にいくのは、アルマちゃんにとってもいいことだと思うの」 「それが向こうの策略だって言ってんのよっ」 リアが長いポニーテールをばさりと後ろへ払いのけた。 「あいつら、あの子からスキルを盗むつもりなんだってば。去年のコンテストで姉さんに負けたから、必死なのよ」 「そんなことはどうでもいいの。なによりアルマちゃんの勉強になるし……それに私、最近あの子にうまく教えられていないかもって思いはじめてて……」 「それは――あら、おはようアルマ」 突然声色を変えて、リアがアルマへ窓越しに手を振った。フリーダも何事もなかったようにやわらかく微笑む。 「おはよう、アルマちゃん」 アルマは慌てて窓を全開にした。 「お、おはようございます、師匠。それに店長も」 ぎくしゃくとした声にあわせて、アルマの視線がゆらいだ。 (今の話は何だろう。わたしをどこか別の工房へ手伝いに出すみたいに聞こえたけど……) 弟子の動揺には気づかず、フリーダは妹へさらりと手を振った。 「じゃあねリア。この話はまた今度」 「もう。姉さんってば、いっつもそうなんだから」 リアと別れ、工房に入ったフリーダがにこにこしながら器材をチェックする。その様子をうかがいつつ、アルマはおそるおそる声をかけた。 「師匠、今の話……」 「あらなあに?」 「いえ、なんでもないで――あっ」 下手に誤魔化そうとしたのがいけなかったようだ。慣れきっているはずの卵割りに失敗してしまった。 ボウルに入り込んだ殻を必死に取りだしながら、アルマは思う。 (こんな風にいつまで経っても失敗ばかりだから、師匠はわたしに嫌気がさしちゃったんじゃ……) 焦るアルマの左隣で、師匠はパカパカと卵を割っていた。黄身と白身を一瞬で分けて、すぐに次の卵へ。片手に持った卵に当てるだけで、どんな卵も行儀よく割れていく。 ケーキ作りに没頭すると、師匠はいつも無言になる。質問しようにも作業が早すぎて、声をかけるタイミングを逃してしまうのだ。 それでも頑張って声をかけると、 「師匠、このスポンジの具合は――」 「うん? 生地が『ぺよんぺよん』になって、『ぷりっ』となったらできあがりよ」 「『ぷりっ』っていうと……照りがでてまとまってきたらってことですよね?」 「かなー? もうちょっと『ぷりんぷりん』かも〜。『つやっつや』の『ぷりんぷりん』にしてね」 ……となるのだ。謎の表現を多用され、混乱しているうちに次の作業にうつってしまう。 そうして、アルマが『ぽろんぽろん』と『ぴたぴた』と『るんっ』の意味を考えているうちに、師匠は試作品をつくりあげていった。 やがてアルマが三つのケーキを焼き終えた頃。 「アルマちゃん、そろそろお昼ごはんにする?」 「あ、はい」 こたえて顔を上げたアルマの目に、ずらりと並んだ師匠の試作品が飛びこんできた。 山盛りのプチシューにキャラメルソースがてらてらと輝くシュークリームタワー。八分立ての生クリームをしっとりとしたスポンジでくるりと包んだロールケーキ。きつね色の表面が香ばしいベイクドチーズケーキなどなど。 「このがっつりシュークリームタワーのお試しと、ごんぶとロールのお試しと、山盛りフルーツタルトのお試しと、ショートケーキのお試しと――どれがいい?」 アルマはつやつやの照りのついた山のようなフルーツタルトと、真っ白なクリームが苺を包み込むようにのったショートケーキを見比べた。 「えっと……、ショートケーキの試作品で!」 「あら、また? アルマちゃんはショートケーキが大好きね」 言うがはやいか、師匠はショートケーキを切りわけた。七分立てのクリームがとろりとスポンジを守っている。ちらちらとのぞく苺のアクセントが愛らしい。師匠のショートケーキはシンプルながらも強力に食欲をさそった。 「師匠のショートケーキが一番なんです。あと、その、お兄ちゃんのウエディングケーキの参考にもなるし……」 「ああ、あれね。ショートケーキにするの?」 「そのつもりです。こんな風に」 エプロンのポケットから小さく折りたたまれた紙を取りだし、作業台に広げた。 「丸型ショートを三段にして、てっぺんにマジパンの花嫁さんと花婿さんの人形を――」 「悪くないわね」 ふむ、とうなずく師匠は無表情だった。 「でもせっかくの結婚式なんだから、もっとパアッとさせたほうがいいんじゃないかしら? こう、見た人がルンルンになるくらいの」 「そうです、よね……」 アルマは気弱な声でこたえ、紙に『華やかさが足りない』と書きこんだ。 「フルーツの盛りつけでも印象って変わってくるから、リアにもきいてみて」 「はい。師匠のケーキをお店に届けるついでにうかがってみます。それと、私のをお兄ちゃんに届けてきますね」 「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」 「はいっ!」 「アルマちゃんのショートケーキはちゃんと冷やしておくからね」 師匠にウインクされて、アルマは笑顔をかえした。エプロンを脱ぎ置いて、紙のボックスにケーキを詰める。 「お兄ちゃん、今日のお弁当は気に入ってくれるかな。……三つとも失敗作なんだけど」 アルマにとっては、失敗作でも喜んで食べてくれる兄が唯一の救いだった。 § § § アルマはケーキボックスを三段にして抱え歩いていた。エルクのいる絵付け工房へはもうすぐだ。箱で前がほとんど見えないが、いつも通る道だから大丈夫だろう。 そう思って角砂糖のビルの角をまがった瞬間、激しい衝撃とともにケーキボックスが飛んでいった。 「――ッぎゃ!」 叫び声と一緒に一番上のボックスが大きくはね飛んで、菱形クッキーの路面を転がったあと、チョコレートの車にひかれてしまった。 自分に何が起こったかわからぬまま、尻もちをつくアルマへ、変声期前の男の子の声がかかった。 「危ないなっ、ああ、くそっ」 声が届くやいなや、相手は黒い上着をひるがえして駆けていった。最後に見た横顔がいやに整っていたことだけが強く印象に残る。 一瞬の出来事に呆然としてから、アルマは我にかえった。 「ちょ、え、なにあいつ!」 勢いよくぶつかられたことを理解し、アルマは憤然と立ち上がった。目の前に転がるケーキボックスを見おろす。横向きに落ちた箱の中には、べちゃりと崩れたショートケーキが入っているに違いない。 「私の努力の結晶を……! つぎに会ったら、許さないんだからね!」 と叫んだ瞬間、前方からもっとすさまじい絶叫がおしよせてきた。 「キャー! いやぁ――!」 「助けてくれ――!!」 「こんなの私じゃないいいぃぃ――!!」 あまりの声量に思わず身をすくませてから、アルマは慌てて立ち上がった。 「なにこれ……まさか」 「テロだ! 逃げろ、まだあるかもしれん!」 男の号令で人々がいっせいに逃げた瞬間、小ぶりな爆発音が続いた。煙をあげる爆竹に混乱がふくれあがる。地面にはガラスのかけらや小瓶が散乱していて、どろりとした緑色の液体が菱形クッキーの路面にぐずぐずとしみこんでいた。そしてその道の上には、数人の男女が倒れている。 道の端々で小山のように横たわるそれらは、皆、丸々と太った大男や大女だった。 「テロだ、デブテロだああぁー!」 「『ヘンゼルの骨』が効いてない!?」 「うそ、うそうそうそ私を見ないでいやあああ!」 きゃーっと、ひときわ高い声をあげて気絶した大女のかたわらに、アルマは見覚えのあるすらりとした女性を見つけた。 「ティアナさん! 大丈夫ですか!?」 「あ……アルマちゃん」 細身の体型が目を引く、エルクの婚約者のティアナだ。茎の細い花のような立ち姿が、巨人たちの中でひときわ目立ってみえた。 「エルクが、エルクが私をかばって……」 「えっ? お兄ちゃんもいるんですか!? どこにっ?」 慌ててあたりを見回すも、エルクらしき人物はいない。 無事逃げおおせていればいいのだけれど……とアルマが思ったとき、けたたましいサイレンを鳴らした救急車がやってきて、駆け足で降りてきた救護員と思われる男たちが、大男たちへと向かっていった。 「呼吸が、気道が確保できないッ!」 「ちくしょう、どうやって運ぶんだ、こんなの!」 「重すぎるッ」 「三人がかりでも無理だ」 「くそっ、医者を呼べ!」 「誰か、誰か病院をもってこーい!!」 大騒ぎする救護員につられてそちらを見れば、見覚えのある金髪がちらりと覗いていた。 「お、おにい……」 「エルク!」 ティアナと同時に駆け寄れば、そこにいたのは兄とは似ても似つかない丸々と太った男だった。太くころころとした手足。膨らんだお腹にはスイカでも入っていそうだ。もちもちにふくれた顔はエルクの二倍はあるだろう。 「エルク、エルク!」 それに向かって兄の名を呼び続けるティアナに、アルマは小さな声で呟いた。 「ティアナさん……これ、別人じゃ」 「違うの、私をかばってエルクは!」 悲壮な声で振り向いたティアナの目元には涙が浮かんでいた。 そのとき、その金髪の巨人がうめいた。 「うう……」 そのくぐもった声がやはり別人で、アルマはやっぱり違うと思ったのだが。 彼の手には、今朝兄がつけていたのと同じ紫の斑点があった。 アルマの血の気が一瞬で消えた。 目の前に横たわる丸まると太った男へ、そうっと声をかける。 「――兄ちゃん……なの? 本当に?」 「ほらどいてどいて!」 今にも気絶しそうなアルマを増援の救護員のおじさんがドンッと押しのけていく。 「いっくぞー、せーのっ!」 大の男が五人がかりで金髪の男を担架に乗せて、ストレッチャーをぎしぎしと軋ませながら運んでいった。 救急車が去っていくのを見送りながら、後に残されたアルマはゆるゆると頭をかきむしり、 「お兄ちゃんが、わたしのお兄ちゃんが――マックス巨デブになっちゃった!!」 絶叫した。 § § § 「――そう言われてもねぇ、このテのテロで使われる薬は、何の成分でできてるのかもわからなくて、手の打ちようがないんだよ」 病院の狭い診療室で、アルマとティアナは医者の説明を受けていた。 ふくよかな腹回りの医者が、レントゲン写真の一部を指さす。 「ほら、この脂肪。肝臓までいっちゃってる。ボクが見てきた中でも、こりゃあ結構な肥満だよ、うん」 独り言のように呟いて、医者が白っぽい部分をくるくると指で示すのだが、アルマにはこれが兄のどこの部分を写したものかもわからなかった。白い部分が多すぎるのだ。 「あの、今すぐ命がどうこうってことは……」 「あるある。まず気道が確保できてないし、寝返りをうつのも難しいくらいだ。深刻な、いや、致死的な肥満だな、うん」 「それって、死んじゃうってことですか!?」 「そう。このままだと糖尿や痛風を発症する日も遠くない。まったく、『ヘンゼルの骨』の弊害は大きいよ」 幻惑菓子『ヘンゼルの骨』は、食べると痩せてみえるという魔法のお菓子だ。細いクッキーに白砂糖がかけられたもので、味はひどく甘ったるい。『ヘンゼルの骨』という名は、建国の祖、国王ハンス一世が幼少の頃お菓子の家の魔女に捕らえられた際、目の悪い彼女を騙すために使った鳥の骨にちなんで名付けられているという。 アルマは師匠の「お菓子職人がお菓子でごまかしをしてはいけないわ」という一言に従って使わずにいたが、ドルチェブルグの住人のほとんどが日常的に食べているだろう。 「その『ヘンゼルの骨』をまた使うっていうのは……?」 深刻な表情でティアナがたずねた。 「ダメダメ。そもそもあの薬は『ヘンゼルの骨』が効かない体質にするんだよ。この二年で百人以上の被害者がいるけどね、もう一度『ヘンゼルの骨』が効いた人は一人もいない」 「それで、どうすればお兄ちゃんはメガデブじゃなくな……――助かるんですか?」 「痩せるしかないね」 一瞬ぽかんとしてしまったアルマへ、医者はしみじみとうなずいてみせた。 「三ヶ月も入院すればまともに動けるようになるでしょう。うちの入院食はほんっとうに健康的というかね、私のズボンがワンサイズ小さくなるくらいだから。精神的には不健康になりそうなものばっかりだけどね、ははは」 そう言って笑う医者の机にはドーナッツが置いてあった。 「運動はとうぶん無理かな……あれじゃあすぐ膝をやられるだろうから。まずは減量だね」 じゃあね、と軽く診察室を追い出され、アルマとティアナはエルクの病室へ向かった。 大きく膨らんだ蒲団に眠るエルクは、やっぱり本人とは思えないほど巨大化していた。まん丸になった顔には、かつては長いと思っていたまつげがちょびちょびと生えている。崩れきった輪郭線に今朝までの面影はいっさいない。 自慢の兄の変貌にアルマがため息もつけずにいると、エルクの分厚いまぶたがゆっくりと開いた。 「……っ。ここは――っ?」 彼は身を起こそうとして、重い体に驚いたようだ。おそるおそる自分の手を見て、太短くなった指に目を見開く。それから顔をなで、二重あごをぽよぽよさせてから二人を見た。 「アルマにティア……。……――そうか、ばれちゃったか」 くぐもってしまった声に、兄特有の優しい響きが混ざっていた。 ティアナが戸惑ったようにうつむきながら、か細い声でこたえる。 「エルク、あの、あなたはテロに巻きこまれたの。私を被って薬をかぶって……。とにかく、命があって良かった」 「そ、そうよお兄ちゃん、ちょっと商店街のお肉屋さんに似ちゃった――じゃなくて、ふくふくしくなっちゃっただけだもの。命があって何よりだよ」 「――ごめん」 ごまかしのきかないエルクの声に、アルマとティアナは一瞬で沈黙した。 「騙していてごめん。もうずっと『ヘンゼルの骨』を食べ続けていたから、自分がこんなになっていると知らなかったんだ。知っていたら婚約なんて申しこまなかっ――」 「エルクっ」 「お兄ちゃん!」 二人が同時に口を開いた。 ティアナはすぐに口を閉じ、アルマはそのまま早口で語りだす。 「どうしてもっと早く『ヘンゼルの骨』を使ってるって言ってくれなかったの? 知ってたらもっと協力したのに。わたしの作ったケーキだって残してくれてもよかったし、失敗作なんてもっと食べなくてもよかっ――」 はっと気づいて、アルマが口元を押さえる。 (まさか――まさか、まさかまさか……!) アルマはこれまでの生活を思い出す。 昼食に作りたてのケーキを三ホールも届け、夕飯には午後からの失敗作を五ホール並べる。大食の兄が喜んで食べてくれるのがうれしくて、そんな生活を弟子入りしてから二年間続けてきた。兄は常人の三倍を超える量のお菓子をおいしそうに食べていたが、「胃下垂だから」と言っていたので、すっかり安心していたのだ。 しかし今思えば、エルクを失敗作の投棄所――まるでゴミ箱のように扱っていたのではないか? (そんなことない……! ……――なんて、言えない……っ) アルマはおそるおそる口を開いた。 「もしかしなくても……私の……お菓子のせいで、ふとった、の?」 「それは……」 エルクは口ごもる。 兄もティアナも頷かなかったが、場に落ちた沈黙がすべてを肯定していた。 (…………やっぱり) 心のなかの太い柱が折れた気がした。アルマは即座に頭を下げる。 「お兄ちゃん、ごめ――」 「ごめんねアルマ。本当にごめん」 謝罪は兄のほうがすばやく、強かった。 「こんな兄じゃきっと嫌だろうに。本当に、ごめん」 「違うの、本当は、わたしがっ!」 アルマはこみあげてきた涙をどうしたらよいのかわからず、慌てて兄に背を向けると病室を飛び出した。 (――ケーキのせいだ) 泣きながら思う。 自分のケーキが悪かった。 自分がケーキ職人なんて目指したから、兄がこんなことになったのだ。 涙をぬぐいながら走るうち、懐かしい記憶がよみがえってきた。初めてアルマがキッチンに立った日、つたないホットケーキを兄が喜んで食べてくれたこと。毎年大きくなっていった誕生日ケーキ。もっとケーキ作りが上手になりたいという願いを聞いて、兄がツテを頼ってくれた師匠の工房。 兄がいたからこそ、失敗続きの毎日を乗り越えられていたのに――。 § § § ぼろぼろと涙をこぼしながら、アルマは裏路地を歩いていた。人混みをさけた結果、見知らぬ小道に迷いこんだのだ。 自分が迷子になったことにも気づかず泣き続けるアルマを、通りすがりの日傘を差した婦人が不思議げに眺めていった。 その数秒後、その彼女と思われる女性の悲鳴が背後から聞こえてきた。 「ぎゃああああぁぁッッ!!」 びくりと振り返れば、目の前に緑の液体がぱっと広がっていた。 「きゃ――」 悲鳴をあげる間もなく、頭からばしゃりと液体をかぶる。少しぬめっとした、気持ち悪い感触。 「――ちっ、こいつ、使ってねぇ」 舌打ちとともに、粗野な男の声が耳の横を駆け抜けていった。 「子供だからだ。大人を狙え、ばか」 冷静な変声期前の少年の声がして、アルマは顔を上げた。すぐ横を黒い服と髪の少年が駆けていく。その整った横顔に見覚えがあった。 「あ、あんた、お昼にぶつかった――」 「きゃあああっ! デブテロよ――!!」 大きく丸くなった女性の叫びがアルマの声を押しつぶす間に、少年は走り去っていく。 アルマはとっさにその少年のあとを追いかけた。 「待ちなさい、よっ!」 走りつつポケットから大ぶりの金平糖をつかみ取り、少年たちの足元へ放り投げる。 金平糖は地面に当たった衝撃でトキトキに尖った。きっと靴の裏に刺さって、少年たちの足止めになるはずだ。 「げ、こいつっ!?」 焦って振りかえる二人組に、今度は手のひらサイズのゼリーが投げつけられた。服にべったりと張りつくと取れない、瞬間接着ゼリーだ。 「さっきのお返しよ、テロリストさん。わたし特製の防犯お菓子、たんと召しあがれ!」 勝ち誇ったように告げ、アルマはほくそ笑む。日頃から防犯グッズを作り置いていて本当に良かった。少年たちの足を止めることはできなかったが、鬱憤晴らしくらいにはなってくれている。 「ちっ、練甘術師か」 少年の鋭い舌打ちが響く。 『練甘術師』とは、お菓子で何かを作る職人の総称だ。食べ物としてのケーキだけでなく、建物や生活雑貨に至るまで、その制作範囲はドルチェブルグのすべてに広がっている。 「逃げるぞ、ヴィル!」 彼らは二手に分かれてさらなる小道へ入りこんでいった。 アルマは一瞬迷ってから、ヴィルと呼ばれた黒い外套の少年を追いかけた。 § § § 「待ちなさいよ、このデブテロリスト!」 小さな橋の上で五つめのゼリーが背中に命中し、黒髪の少年が足を止めてふりかえった。荒い息を整えつつも、冷たい茶色の瞳がきっとこちらを睨む。 「デブとはまた、失敬な。おれたちが太っているように聞こえるんだが」 「デブにするからデブテロリストでしょっ」 自信満々に言い返すアルマに、一瞬、少年が押し黙った。そのまま彼はアルマをじっと見て、いぶかしげに眉間へ皺を寄せた。 「君は……まさか、あ――?」 「さあ、ここが年貢の納め時よ! 覚悟なさい、デブテロリスト!」 指を突き付けて息巻くアルマを、少年は無表情で見つめたあと、大きく溜息をついた。 「……まあいい。そんなことより、なんでそんなに一生懸命おいかけてくるんだ? さっさと警察でも呼べばいいだろうに」 「そ、それは……あんたがお兄ちゃんの仇だからよっ!」 「兄貴の?」 意外そうな顔で、少年が『仇……』と呟いた。 「まさか、あの薬のせいで死んだとか言い出すんじゃないだろうな」 「そんなわけないでしょ! ただ病院のベッドから動けなくて、家にも帰れなくて、婚約も破棄されそうなだけよっ」 「……ああ、そういうことか」 冷静な頷きが返ってきて、アルマは逆に頭に血がのぼるのを感じた。一瞬でこちらの事情を見抜かれ、恥じらいと怒りがまざっていく。 「だ、か、ら! どうやったらあの薬の呪いが解けるのか、教えなさいっ!」 「ない」 冷酷な声で少年が答え、黒いコートを翻して歩きだした。 数秒間その場で固まったアルマが、小走りで追いかける。 「待ちなさいよっ。ないはずないでしょ。そうでしょ? ねぇ――ねぇってば!」 すがりつくように掴まえたコートの袖を、あっさりと振り払われた。 冷たく見下ろされておびえたアルマへ、少年は整った顔をゆがめてため息をついた。 「……仕方ないな」 歩みを止め、コートの内側へ手をのばす。 また怪しい薬かと、アルマが身を固めたとき、ふ、と小さな笑いが落ちてきた。 「――……ひどい格好だ。そのまま返すのも忍びなくなるくらいに」 懐から出た手がアルマの頭上へ伸びてくる。 びくりと身をすくませて目を閉じると、ぺた、と乾いた感触がおでこに張り付いた。 「え……」 「拭け」 言われるがままにそれを手に取り、顔を拭くと、白いハンカチに緑のシミがべったりとついた。見れば制服の白いブラウスも肩から胸元まで緑に染まっている。 「ぎゃ、どうしよ。染み抜きで落ちるかな」 「それはこちらの台詞だ。このゼリー、どうすれば取れるんだ?」 「それはお湯にひたすと溶けて……じゃなくて、この薬、わたしも被ったってことは、もう二度と『ヘンゼルの骨』が使えなくなったってこと!?」 「理論上はそうなるな」 淡々と答えられ、アルマの頭からさあっと血の気が引いた。今朝のスカート……ぎりぎりで入ったから良かったものの、もうこれ以上は太れない。ここが乙女の限界値だと、深く心に刻みこむ。 「で。このゼリー、爆発とかしないだろうな」 「失礼ね。どこぞの毒薬と一緒にしないで」 きつく言い返すと、少年はあきれたように見返してきた。懐から小瓶を取り出し、小さく振る。緑色の液体がとろりとおどった。 「この薬に毒性はない。ただエリクシールの流出を防ぐだけだし、本来の姿に戻るのは二次的な作用にすぎないからな」 「エリク……?」 「エリクシール。おれたち錬金術師が〈本精〉と呼ぶ、万物を万物たらしめるものだ。そしてこの国の人々がまったく持っていないものでもある。おれたちは人間が本来持っているべきものを、あるべきように戻しただけだ」 淡々とした掴みづらい説明に、アルマの頭は真っ白になった。 「本精を戻したってどういうこと……? お兄ちゃんはどうなっちゃうの?」 「どうなるって……。偽りの姿がとれなくなるだけだ。太ったなら痩せればいいだろう。まあ、この国の環境じゃ、結果がでる前に成人病になるかもしれないが」 「もうなりそうなのよっ」 ベッドいっぱいに膨れあがった兄の姿を思い出す。小枝のようだった指は丸太と言っても良いほどで、面長だった顔はもちもちの二重あご、すっと通っていた鼻筋も見事な団子っ鼻になってしまっていた。医者曰く、このままじゃすぐに糖尿病、脂肪肝からくる肝硬変に睡眠時無呼吸症候群。今日の命があることを感謝したほうがいいとまで言われたのだ。 それをアルマが悲壮な表情で告げると、少年はなおも冷静に答えた。 「別に今すぐ死ぬわけじゃないだろう。何をそんなに焦ってるんだ?」 アルマは拳を握りしめてうつむく。 「だって、わたし……わたしのケーキのせいで……。ううん、それだけじゃない!」 きっと顔を上げる。 「わたし、お菓子しか作れないんだもの! 明日のご飯にチーズケーキ以外思い浮かばないの。ダイエットなんて絶対に無理よ!」 どれだけ食事制限をしても、毎日の食事がケーキでは元も子もない。 (それに、わたしがケーキをワンホール抱えて食べているのに、お兄ちゃんにはたった三切れだなんて……耐えられない!) その情景を思い浮かべたアルマは、両手で顔を覆った。 「どうしよう。わたしのせいでお兄ちゃんが死んじゃったら……もう、生きていけない!」 両親が死んで以来、ずっと二人だけで寄り添って生きてきた。幼い自分を育ててくれた兄が、アルマの心のよりどころだというのに。 涙を浮かべるアルマを見て、少年が小さくため息をついた。 「ったく、この国の練甘術師はどいつもこいつも……」 悪態をついて歩きだす。その速さは先ほどと違い、どこか甘い。 「……ついてこい」 「なに? 痩せる薬でもくれるの?」 「そんなものはない」 振り返りもせず、少年は続けた。 「その狂った感覚じゃ、これから先が心配だからな。『料理』ってものを教えてやる」 「りょうり? なに、それ」 きょとんと目をしばたたかせるアルマに、ヴィルは思いっきりため息をついた。ここから説明するのか、と無言の声がついていた気がする。 「料理は料理だ。君たちがケーキを食べるのと同様に、おれたちは料理を食べるんだ」 「それがお兄ちゃんを救う方法ってこと?」 「おそらくな」 それ以上の返事はなかった。 しかし、その未知の『料理』なるものが兄を救うことを直感的に察知したアルマは、素直に少年についていくことにしたのだった。 |
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