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 嵐のような魔力の中で、スウはおもむろに立ち上がる。
 目を凝らし、光の間から垣間見える結界を窺う。崩壊するまで、まだわずかな時間があるだろう。
 相手の言葉はスウにはわからなかった。
 つまり、相手は宿詞ではなく、普通の魔法を使っているということ。
 飛翔炎に直接作用する宿詞と違い、魔法は意思を伝えるはずの魔力を消費する。それゆえに呪文を放つその一瞬、異なる言語を使う者同士では意志の疎通が出来なくなるのだ。
 魔法が使えるあちらの人間ならば、等しく飛翔炎が宿っている。
 ならば、宿詞を拒むことは出来ない。
 即座にそう判断し、スウは宿詞の矛先を変える。光の先にいるであろう、術者へ。
「止めなさい」
 ビクリと呼応するように、魔力の流れが緩まる。
「結界を、壊さないで」
 亀裂の広がりが明らかに弱まった。
 効いている。
 予想通りの反応に、スウが勝機を掴んだその瞬間。
 息を吹き返すように崩壊が進み始めた。
「!?」
 宿詞で術者を封じたはずだ。
 一人ではなかったのか?
 崩壊が復活したことに動揺し、一瞬、宿詞が遅れた。
 即座に魔力が唸りをあげて襲いかかる。術者が魔法で直接こちらを叩こうとしているのだ。
「邪魔しないで!」
 間髪放たれた宿詞により、寸前で力が霧散する。
 だが、崩壊が止まる様子はない。
 それどころか視界いっぱいを輝く亀裂が埋め尽くしている。
「もう、止め――!?」
 溜まらず叫んだとき。
 彼女の制止を振り切り、術者が呪文を放った。
 はらりはらりと、桜吹雪のように結界が崩れ始める。
 スウは目を見開いて息を飲む。
 光の中に霞んだ影を見つけたからだ。
 あれが、術者?
 動揺で目を凝らすことが出来ない。光に紛れて、影は淡く揺らぐ。
 どうして効かない? 真彦のように心を閉ざしている? でも、ここはこんなに魔力で満ちている。抵抗なんて出来るはずがない。魔力の流れが逆だから、宿詞が届いていないのか?
 それとも。
 この術者、宿詞が効かない……?
 平静を失い、息すらままならなくなる。
 だって、宿詞が効かない人なんて、一人しかいない。でもあの子に魔法は使えないはずだ。
 でも、でも。
 初めのうちこそ彼女の声に不調を訴えていたけれど、いつの頃からかあの子はいくら声を聞いても満足しなくなった。それどころか自分から彼女の声を求めて手を伸ばし、宿詞へ依存しはじめた。
 戻ってすぐの頃、電話越しに聞いたヴィセの言葉が蘇る。
 『私にも多少の耐性はあるんだよ?』
 耐性。
 宿詞もまた薬物のように、触れれば触れるほど絶対量が増えていくのだろうか。そうして徐々に慣れ親しみ、依存していくのか。
 息ができない。
 どうして気付かなかったのだろう。あの、最後の時。
 自分は『邪魔をするな』と言ったのだ。
 なのに、あの中でただ一人、少年は自分へ駆け寄った。
 心臓が早鐘を打つ。何も考えられなくて、じっとその影を見つめ続けた。恐怖に耐え切れなくて、ぎゅっと目を閉じた時。
 光の向こう側、遠い彼方から呪文が投げられた。
 彼とは違う、低い声。
 別人。
 知らず、一筋の涙が流れ落ちる。
 目を開き、力の限り叫んだ。
 光の渦が彼女を包み込むように、その両腕を広げる。パリンパシンと亀裂が走る音がする。吹雪のように結界が舞い注ぐ。世界が歪んで軋みをあげる。大地が底から揺さぶられる。
 宿詞が握りつぶされる感覚が、手に取るように分かった。単純な力に押し負け、捻じ伏せられる。
 宿詞が。
 絶対の力が。
 ……負けた?
 光の中で、少女は淡く揺れる灰色の髪を見た。



 光は一瞬で霧散し、嘘のように消え果てた。
 穏やかな風が頬を撫で、髪を揺らす。
 その感覚すらスウには感じられなかった。
 宿詞の敗北も、信念の喪失も、今この場で確定したあらゆるもの全てが信じられず、何も考えられなかった。
 広い広い荒野のような空間で、少女は呆然と立ち尽くし、ただ目の前を見つめ続ける。
 薄い背中。
 しなやかに伸びた手足。
 すらりとしていながらしっかりとした佇まいは、軽く見上げるほど。首まで覆う洋服に似た衣装を身に付け、こちらに背を向けている。
 首筋を這う襟足は長めで、背まで届きそうなくらい。
 そして、忘れもしない不思議な灰色の髪。
 レゼだ、と思った。
 あの、明るい青年。責任感が強くて気配り上手。常に周りを引っ張っていくカリスマを持った男の人。
 この後ろ姿は、彼と同じ。
 そう思っていたのに、搾り出された声は別の意味を成した。

――デュ……ノ……?」

 消え入る音を拾って、青年がゆっくりと振り返る。
 虚ろに見開かれた目元。紺色の瞳は拭っても拭いきれない影を纏って、仄暗い光が宿っている。その片目から、一筋の涙が伝っていた。
 何も映していないようだった目が、彼女を捉えてわずかに細まる。
 少しだけ首を傾げる仕草が、記憶の中のそれと重なった。
「……スウ?」
 軽めのテノールに隠された、名残。
 その言葉が彼の中へ染み込むと同時、不思議そうに見つめる目元が、口元が緩やかに綻び始める。まるで乾いた紙が水を吸い込むように、ゆるく、受動的な変化。
 やがて完成された無邪気な笑みは、同じ。
「スウッ!」
 包まれるように抱きしめられる。
 つよい、ちから。
 詰まった息すら零れるほど強く、強く抱きすくめられる。まるで小さな子供がぬいぐるみを取り上げられないよう、必死で抵抗するように。
 縋りつくような抱擁に身を任せながら、彼女は自分自身へ問う。

 この青年は……。
 世界を崩壊させた、この男は。

 ……誰だろう。




第二部 Suh編 終
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