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 その場所は、意外にもスウのよく知る場所だった。
 アイのマンションからそう遠くない森林公園。森だった頃の木を残して作られたため、公園の新しさに対して大木が目立つ。都会にしては広い面積を持ち、緑の中を抜ける散歩道にはいつも小さな子供のいる家族や恋人たちがいて、大きなグラウンドには学校帰りの小学生が走り回っていた。
 公園は、もはや見る影もなく変貌していた。
 まず異様さが目立つのは空だ。喫茶店の駐車場で見たときにも赤く染まっていたが、ここでは更に酷い。赤黒い空には雲が渦巻き、時折紫の雷が走る。
 その空を飛び交う無数の光たち。長く尾を引く色とりどりの炎は、異世界の証、飛翔炎。
 嵐の風に紛れて辺りを縦横無尽に飛び回る姿は、大地に恨みを寄せる人々の魂を思わせた。
 スウは車から降りて、白い外壁を見上げる。公園の外観を失わせた原因はここにもあった。
 昔見た外国のパニック映画で、謎の病原菌に侵された町をまるごと包み、隠してしまったバリケード。それによく似た背の高い簡易の壁が、つるりとした表面を晒して公園を囲っている。
 その周りには、それこそドラマの中でしか見たことのない、武装した男の人たちが無骨な防護服を隠しもせずに立っていた。皆が同じヘルメットを被っているせいで、誰が誰だか分からない。もっとも、この中に知った人など一人もいないのだろうけれど。
 てっきり警察か自衛隊の人達だと思い込んでいたスウは、バリケードの中に入ろうとした真彦が社員証らしいカードを見せただけで通してもらえたことに驚き、それからやっと彼らのスーツやヘルメットにS.S.S.のマークが刻まれていることに気づいた。
 見れば、微動だにしないでバリケードを取り囲んでいるのはS.S.S.のセキュリティばかり。本物の警察や自衛隊と思われるおじさんたちは、周りをうろちょろするか、代表者らしい人が無線で連絡をとっているか、S.S.S.に事情を説明してもらっているかのどれかだ。協力しているのか邪魔をしているのか、さっぱり判断がつかない。
 しかし、こんなことをしてS.S.S.は国に怒られたりしないのだろうか。警察を差し置いて災害らしいものに対処するなんて、公務執行妨害もいいところだ。
 にもかかわらず警察がS.S.S.を逮捕しないところから、この会社が警察と繋がっているらしいことがありありと窺えた。きっと裏で社長が、偉い政治家さんたちへ警察に手を出させないよう、交渉をしたのだ。というか、最初からいざという時のために根回しができているのだ。たぶん。
 真彦だけを頼りにふらふらとついていったスウは、上から下までがっちりと防護服を着込んだ警備のおじさんに胡散臭そうに見られて小さくなった。
 真彦は自分を何だと説明しているのだろう。もし魔法が使える救世主だなんて言われていたら、明日からどう暮らしていけばいいのか分からない。
 でも、おじさんの視線にはいぶかしみよりも、こんな危険な場所にどうして女の子を連れてきたのかという疑問しかなかった。きっと、この辺りの人には真彦の意図など伝わっていないのだろう。
 バリケードを抜けた先では、ヴィセが空を見上げて立ち尽くしていた。
「ヴィセさん!」
「スウちゃん、来たんだ」
 急いで駆け寄る少女を眩しげに眺めて、ヴィセは緊張した頬に弱々しい笑みを乗せた。
「君がいると心強いよ。……ごめんね」
 即座に謝られて、スウは首を振る。
「いいえ。私が望んで来たんです。行きましょう」
「どこか分かるのか?」
 真彦が口元に手を当てながら眉根を寄せた。S社のデータではこの公園の付近の磁場が極限に狂っていることは分かるのだが、ピンポイントに崩壊が始まる箇所は探せない。
 ヴィセが気負いなく前方を指差した。
「こっちから魔力が流れてきているね」
「はい」
 空気に混じる違和感。白粉が頬を撫でるほどかすかな不純物の流れが、前方からバリケードの外へと流れ出している。
 驚きよりも拒絶を滲ませて、真彦が顔をしかめた。
「うげ、やっぱコレそうなの!? 素粒子を肌で感じとれるって人間じゃなくね?」
 彼もまた飛翔炎と魔力をその身に宿す。空気中の魔力の濃度や流れを敏感に感じ取っているのだろう。けれどその感性を理性が否定している。
「肌で感じてるわけじゃないけどね。まーくんはここで待ってなさい。宿詞を使うから、出来るだけ離れていた方がいい」
「あいよ」
「じゃあ――」
 別れを告げようとしたスウの背へ、ぽんと大きな手が添えられた。振り返った耳元に端正な顔がある。
「さっきも言ったが、S社は魔法なんて役に立つはずがないと思ってる。こっちのヤツは皆そうだ。だから何があっても、二人を恨むことはないから」
 気楽にな、と笑いかけられた。
 そのなにげない配慮が、緊張した気持ちを和らげる。
 真彦の良いところを一つだけあげるなら、整った顔ではなく、この気遣いだと思う。



「ここかな……」
 広いグラウンドの中央で、ヴィセがおもむろに足を止めた。
 あたりを渦巻く魔力はいよいよ濃度を増し、肌がびりびりと痺れるほどになっていた。あちらの世界にいてもここまでの違和感はなかったと、スウは身を硬くして辺りを窺う。
 赤かった空は青黒く変わり始めていた。上空のそこかしこで飛翔炎が飛び交っている。帯のように跡を引く光の軌道は、魔力。煙草の紫煙が宙に溶けるように、ふわりと粒子をきらめかせてこの世界に馴染んでいく。
 空ばかり見ていたせいだろうか。スウは、それが自分の胸元ほどの高さにあることに気付かなかった。
 空間に走る光の亀裂。完全に透明なそれは、零れ出る魔力と飛翔炎に照らされて、うっすらと輪郭が分かるほどだった。
 ヴィセは一点を注視し、感慨深げに目元を眇める。
「皮肉だね。私が結界を直すだなんて」
 手を伸ばし、どこか慈しむような仕草で彼は亀裂を撫でた。指先がするりと光を通り抜け、空を掴む。
「ヴィセさん……?」
 呟きに冷めたものを感じて、スウがヴィセを見上げる。
 彼は亀裂を見つめたまま、わずかに笑みのようなものを浮かべた。
「一つ懺悔しようか。私はかつて、滅びを望んだことがある」
 穏やかだが淡々としすぎた声色。
 スウが短く息を飲む。
「反逆心、というのかな。宿詞に生かされているだけの自分が無価値なものに思えてね。……自分だけじゃない。宿詞に頼りきってきた歴代の国王と、あの国の全てが疎ましくて……世界ごと滅んでしまえば良いと望んでいた。誰かが滅ぼしてくれることをね」
 若かった、と彼は呟いた。
「私は臆病だから、本気で行動したことは一度もないよ。でも、上手くいけばそうなるかもしれないという時に、ついそちら側を選んだことは何度もある」
 目を細め、じっと光を見つめながら、ヴィセが微笑む。毒のある自嘲。
「君を自由にした呪文。あれを賢者が見つけるかもしれない森の中に隠したのも、そんな気持ちの現れだと思う。他にもいくつか、自棄になって申し訳のないことをした」
 己をあざ笑い、あきれ、そしてかすかに滲む疲労感。
 スウは日本語を覚える前のヴィセがどんな人だったのか知らない。今の彼がどこにでもいるちょっと子煩悩な、でもごく普通の父親だから、王様として生きていた頃の姿が想像もつかないのだ。
 けれど宿詞が与える影響は大きい。周囲だけでなく、使用する本人までもを虜にする。スウがこの世界へ逃れてなお、心を囚われ続けているように。
 ヴィセが持つ闇も、宿詞という病巣を抱えている。
 彼が神の誘いに乗ってしまったのは、その闇のせいだったかもしれない。
 ヴィセは穏やかに目を伏せる。
「この世界へ来れて良かった。私はここで、自分の愚かさに気付くことができたから」
 初めて言葉が通じなかった時、彼は驚き怯え、一度全てを拒絶した。幼いスウにはよく分からなかったが、あれは宿詞という最大にして唯一の武器が通用しないと自覚したためだろう。三日間、彼は部屋から出なかった。子供のスウにも警戒心を丸出しにして、小さなアイを抱えてうずくまっていた。そして三日目に、衰弱するアイのため、彼は自ら自分の檻を出た。
 あの時、異界の王としてのヴィセは死んだ。
 そして『アイのお父さん』が生まれた。
 それを見て、スウのおじさんは彼を匿うことに決めたのだ。
「許されようとは思わない。でも、償わなければ」
 深い決意を秘めてヴィセが亀裂を睨みつけたとき。
 リン、とガラスの響くような音がして、割れ目が広がった。溢れ出る光が強まり、飛翔炎がするりするりと抜け出してくる。
 海中で波に揉まれたように、魔力の流れが勢いを増ましてうねる。
 慌てて息を吸いかけた彼女へ、ヴィセの制止が飛ぶ。
「待って。まだ早い」
 鋭い魔術師の顔で、ヴィセが飛び交う飛翔炎を睥睨した。
「もっと大量に飛翔炎が流れ込んでからじゃないと。まだこちらに流れ込んだ魔力より崩壊の方が速い」
「はい」
 くぐもったガラスの響く音が二度続く。裂け目が木の根のように広がり、スウの身長を越えた先まで手を伸ばす。
 リンと短く鳴る音は、世界の崩壊という重苦しい事態に反して清らかだった。広がりゆく亀裂を見つめつつ、スウはどことなく風鈴の音に似ていると思う。涼やかで美しい結界の悲鳴。それは世界の歓喜の声か。
 スウは少しだけ後ろへ下がり、ヴィセの横顔を見上げる。
 微動だにしない硬い面持ちが、まだだと伝えていた。
 亀裂は更に広がり、枝を伸ばして空へと向かう。軽い音と共に細かく枝分かれし、零れる光がいっそう強くなったとき。
 はらりと、音もなく亀裂の中央が剥がれ落ちた。
 瞬時に波となって押し寄せる魔力の濁流に、スウは踏みとどまって耐える。粉雪の吹雪に飲まれたようだ。光で前が見えない。
 乱雑な色とりどりの細かい光の粒子に目が眩み、思わず目をつぶった。
「きあら。すせた、せょおほこさゆ」
 耳慣れぬ言葉に目を開く。
 ヴィセが手を差し出して宿詞を紡いでいた。
「戻りなさい」
 その力へ添えるように、スウが命じる。
 空気を伝い、飛び交う飛翔炎へ声が届く。彼らは慌てて急旋回すると、光の中へ飛び込むようにして戻り始めた。水滴が水へ落ちるようにわずかな空間の波紋を生み、亀裂の中へ溶け込む。するとその箇所から光が零れるのをやめ、透明に戻った。
 飛翔炎は次々と亀裂へ舞い戻り、雨のように降り注ぐ。
 しかし、それ以上に綻びが速い。
「別つモノとなり、癒せ」
 ヴィセの言葉がはっきりと聞こえる。彼は宿詞を使うとき、本来の言語を使うはずだ。なのにこうもはっきりと意味が解るということは、二人を包む魔力の濃度が異世界と同等かそれ以上になりつつあるということ。
「もとに、戻りなさい……っ」
 直したはなから亀裂が侵蝕し、そこから魔力と飛翔炎が流れ込む。折り返しそれを戻す頃には、割れ目は剥がれて穴となり、更なる魔力の奔流を生む。穴の広がりに対して、流れ込む飛翔炎の量が足りない。
 焦りが冷静さを失わせた。
「もとに戻れ!」
 ヴィセが異世界の言葉で小さく呟く。魔力が内容を知らせるまでもなく、悪態の響きがあった。
「戻って……!!」
 我を忘れて叫んだとき。
 魔力の流れが意思を持ったかのようにしなり、叩きつけられた。
 明らかな抵抗。
 おかしい。
 自然現象ならば、崩壊が起こってもそのスピードは加速度を越えない。こうも急速に加速し、抗い続けるということは。
 誰かが、魔法で結界を壊そうとしている?
 彼女が初めてその可能性に触れたとき。
 肯定するように、遠い遥から声が届いた。
「ッ!?」
 瞬時にヴィセが目を見開き、たじろぐ。
 瞬間。
 乱暴に練り上げられた魔力によって、ヴィセの体が宙を舞った。
「な……ッ、魔法!?」
「ヴィセさん!!」
 彼の安否を確かめる間もなく、スウも魔力で生まれた力に押され、その場に倒れこむ。それでもなおずるずると押し退けられるのを、精一杯の力で這うようにして耐える。
 これは、魔力の暴走ではない。
 明らかな魔法だ。
 一瞬、聖女が地下室で見せた、異世界の景色にビルが重なる異様な光景を思い出した。
 彼女の望みは、世界の合一。
 間違いない。
 この光の先に誰か術者がいて、魔法で結界を壊そうとしている。
 ……ならば、その術者を叩けばいい。
 砂を握り締めて、少女が身を起こした。



 一度支えを失って宙に浮いたが最後、魔力の流れは風よりもしっかりとヴィセの体を吹き飛ばした。
 途中で宿詞を放って力を拡散させたものの、一度ついた勢いは慣性に従うわけで。
 ヴィセは草地を転がって衝撃を緩和し、瞬時に起き上がる。
 これでも向こうに居た頃は多少の武術も齧っていたのだ。大の苦手だったが。
 ぱっと顔を上げた先で、警備を引き連れたスーツ姿の青年の引きつった顔と目が合った。
「なっ!? ヴィセさん、どっから!?」
 真夜中に泥棒と鉢合わせたような顔で、真彦がなぜか守りの体勢をとった。
 彼は起き上がりつつ、ズボンの土を払う。
「はは、まーくんどうしよう」
 平静を装って作った笑いは、乾いたものにしかならない。
「あの術者、並みの使い手じゃない」
「は?」
 目を見開く相手を無視し、ヴィセは光の中央を見据える。
 結界への攻撃を加えながら、それを抜けた先へ魔法を放つなど、人間のできる業ではない。宿詞でも追いつかぬほどの崩壊速度だ。ただ成すだけでも何百、何千という飛翔炎を消耗していることだろう。その上、こちらへ正確に攻撃を伝えてきたということは。
 この術を操っているのは一人。
 二人以上なら焦点が絞りきれず、ヴィセが吹っ飛ぶ前にあの空間ごと木っ端微塵になっていたはずだ。もちろんスウを巻き込んで。
 もはや王族などというレベルではない。月の民、いやそれ以上の魔力だ。
 ばかな。そんな飛翔炎が存在するはずがない。
 頭を振って、自分の思考を否定しようとした時。

 ――存在するはずのない飛翔炎――

「まさか……」
 かつて異能の王として異世界に君臨した男は、己の導き出した答えに震える。
 そして、愚かな自分の過去を呪った。
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