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 二人は近場の喫茶店へ入り、窓辺の席へ座る。
 夕方からダイニングバーに変わるらしいその店は、真彦の行きつけらしかった。もっとも、彼が常連なのは夜の部の方だろうけれど。
 黒い木材を基調として作られた店内はどことなく薄暗いけれど、オレンジ色の照明が温かく広がっていて居心地が良い。穏やかに満たされたコーヒーの香りとノクターン調の音楽。大学の近くにこんな場所があったのかと、スウは素直に感心した。こんなお店で紅茶を飲みながらお気に入りの詩集なんて読めたら、とても素敵だ。
 窓際のボックス席で向かい合って座る。
 席についてすぐ、真彦は足を組むと内ポケットからタバコを取り出した。が、すぐに舌打ちをして胸元へ仕舞い直す。一瞬見えた銘柄はマイルドセブンだった。
 タバコの方はまだ続けているのか……と観察するように一連の動作を眺めていたスウへ、真彦の決まり悪そうな視線が飛んできた。
「構いませんよ。タバコなら」
「タバコなら、ね」
 社交辞令は揚げ足をとられて曖昧に笑い返される。
 自ら促されたのを機に、スウは勇気をもって斬りこんだ。
「……あの、薬のほうは」
「やめました。スッパリとやめました」
「そっか。良かった」
 思わずほっと息をつく。それだけが気にかかっていた。
「耳が治れば必要ないしね。あれは依存性は低いから、断つのはそれほど辛くない。今となってはタバコのほうが厄介だな」
 真彦は苦笑してソファーへもたれかかる。一応、禁煙したい気持ちはあるらしい。
 スウは彼の吸っていたタバコのニコチン含有量を思い出し、よくもまあ、あそこまで自分の体を痛めつけられたものだと、間違った方向で感服した。
 「メニュー決まった?」と、真彦がこちらへ向かってくる店員を目の端で追いつつ問いかけた。
 スウは手元のメニューをじっと見つめる。正直な気持ちを言うと、イチゴパフェにとても惹かれている。写真に写ったソースの色が市販の派手な赤色と違って、くすんだ臙脂色なのだ。きっとここのお店でイチゴを煮込んで作っているに違いない。メニューには書いていないけれど、絶対そうだ。
 しかしこの値段はパフェには高すぎる。
 手が込んでいるとはいえ、相場の1.5倍もした。しかもサイズは少し小さいぐらい。加えてデザートの類では群を抜いて高いのだ。これを他人の奢りで頼むのは気が引ける。
 自分へのご褒美だったら喜び勇んで頼むのに……と、無念を噛みしめながらチーズケーキに決めた時、真彦が店員を呼び止めた。
「ホットコーヒーとイチゴパフェ。飲み物は?」
「あ、ミルクティーをホットで」
 彼がパフェを食べるのだろうか。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すスウを置いて、真彦は店員へ向かいっぱなし。何事もないように注文を続ける。
「あとハンバーグセットをライスで一つ。以上。飲み物は一緒に持って来て」
 店員が去ったあと、スウは飲み込めない顔で真彦を窺った。
「ええと……」
「俺さぁ、今日も外回りで昼食いそこねてんの。もう頭フラッフラ」
「そうじゃなくて。私、そんなに物欲しそうでした?」
「うん。穴開くくらいガン見してたじゃん」
 即答された。
 スウは敗北感のようなものを感じて、ちょっとだけ肩を落とす。以前にも彼には好みを見抜かれているのだが、そんな素振りを見せた覚えはない。どうしてこうもバレバレなのかと、意図せぬ自分の表現力に頭を悩ませた。アイといい真彦といい、そんなに自分は取り繕うのが下手なのだろうか。
 注文はすぐにやってきた。
 真彦はハンバーグをさっと切り分けて口へ運ぶ。相当餓えていたらしく、食べるのが早い。そしてナイフ捌きが綺麗だ。いつも肉を捜してお皿をほじくりかえしていた記憶しかないスウは、ここでも軽く驚かされた。
 更に驚いたのが、彼が平然と付け合せの人参のグラッセを食べたこと。これには一瞬奇声を発してしまうくらい驚いた。聞くところによると、仕事で忙しくて食事抜きの日々が続き、何度も目を回した結果、ようやく食べられる時に食べないと死ぬということが身に沁みたらしい。今では何でも素早く食べられるそうだ。ヴィセの家にいた頃とは比べ物にならないくらいの変化だった。
 人間やれば出来るんだなぁと、感慨深く自分のパフェをつつく。予想通り手の込んだイチゴソースは甘酸っぱくて香りが良く、砂糖が控えめだった。濃厚なソフトクリームにソースの酸味がほどよくマッチしている。
 大満足のパフェに舌鼓を打っていると、真彦がハンバーグを切る手を休めずに話しかけてきた。
「俺ってさ」
 半端に言葉を区切って、ぱくりと肉を頬張る。こうして見ると意外と口が大きい。
「口で言ってるうちは反省してないんだって。な、の、で、行動で示してみましたー」
 後半を明るく無邪気に告げられた。
 ……一体、この人に何があったんだろう。
 以前とは微妙に違うテンションに、スウは頭を抱え始める。
 謝罪の内容は分かりきっていた。あの日、真彦が帰るその前の夜に、彼がスウにしようとしたことについてだろう。あの時はどうすればこの人を救えるのか考えるのに必死で気付かなかったが、相当危険なことをされかけていた気がする。
 自然と胡乱な目線になるスウとは対照的に、真彦は子供のようにキラキラした目で反応を待っている。スウが笑って許してくれるとでも思っていそうな顔だが、そういうわけではない。おちゃらけた態度をとることで、場の空気が重い方へ流れないよう調節しているのだ。
 ああ、こういうところはあまり変わっていないなぁと、スウはつい溜息をついた。
「もう二度としないでしょう?」
 お母さんみたいな言い方になる。
「それは崇ちゃん次第かなー」
「もう。冗談ばっかり」
 はははと笑い飛ばされて口を尖らせると、何が気に障ったのか、真彦が演技じみた笑顔をぴたりとやめた。口をへの字に曲げてずいっと身を乗り出し、まじまじと顔を見つめられる。整った顔が妙に近づいて、スウはわずかに眉根を寄せた。
 その様子すら観察対象らしい。真彦が訝しげに首を傾げる。
「崇ちゃんってさ。危機感って持ってます?」
「へ?」
 突拍子のない切り口に間抜けな声が出た。時々、この人の言うことは唐突だ。
「普通に考えて、あんなことしたヤツにホイホイついてこないでしょ。俺なんて昨日から、『顔見た瞬間ダッシュかなぁ』とか、『アイと一緒に誘えば逃げられないかなぁ』とか、考えて考えて考えてですねぇー」
 指揮者のようにナイフを振りながら、嫌味ったらしく語尾を延ばされる。
「待ち伏せしてた時も気付いたらタバコ二箱空けちゃってたのに。いざ会ったら何の警戒心もなくひょいひょいついてきてさ。一体どういう神経してんの」
 早口で吐露された意外な姿に、思わずスーツ姿の青年を上から下まで見てしまう。あの悠然とした演出の裏にそんな葛藤があったのかと、スウは感心半分、意外半分でぽかんとするばかり。
 しかし、どうして自分が説教されているのだろう。
 数秒遅れて我に返り、スウは不満をふんだんに交えて頬を膨らませた。出来るだけ真面目な顔をして、文句の滲んだ声を出す。
「それって当人が言うことじゃないです」
 言っている内容は真っ当この上ないのだが、それを未遂とはいえ本人が言っては頷けるものも頷けない。
 だが、あのあと眠りこけた彼を放置して、自分一人で温かいベッドへ戻ったことを思うと、あまり強くは出られなかった。一度は懸命に引きずろうと試みたのだが、長身の彼を女の腕力で動かせるはずもなく、すぐに諦めてしまったのだ。眠かったというのもある。せめて布団だけでも掛けてあげれば良かったと思いついたのは、彼が帰った後だった。
 それに、とスウは見上げるような目線で真彦を捉える。
 自分で言うほど、彼は危険ではない。
 スウはあの時でさえ、さしたる恐怖や危機を感じはしなかった。頭の中が手一杯でそれどころではなかったのもあるが、どこかでこの人は実行に移さないと分かっていた。たとえ本当に行動しようとしたところで、宿詞が素直に効くだろう。そう、確信していたのだ。根拠なんてないのだけれど。
 実際、本当に危険な相手はこんな忠告なんてしてこない。
 この考えをどう伝えようと悩んでいると、真彦はまるでお兄さんのような顔をした。
「俺は親切心で言ってるんですけどね。崇ちゃんって妙なところで加虐心煽るから、日頃から気をつけるべきですよ。痛いめにあってからじゃ遅いんだからね?」
 さらっと告げられた忠告が意味不明だ。
「まあ、それを守ってあげたいと思う聖人君子サマなら別だけど」
「男は狼ですもんね」
「それは言わないでください。さんざん家でなぶられたから」
 痛いところを突かれて、真彦がハンバーグにフォークを突き刺した。悪夢に呻くような声だった。
 スプーンでパフェを掬いつつ、スウが助け舟を出して話題を変える。
「おうちでは何をしてるんです?」
「手伝いしてる。あ、家事じゃないよ、会社の方ね。時給630円。安くね?」
 途端に気安く喋り始める真彦。テーブルに肘を置き、軽くナナメを向く形で背を丸める。
「今は色んな部署の人らと顔合わせさせられまくってる。大体の仕事を覚えて、人脈を掴んだら次に移動ってな風に。大体十日ちょいで飛ばされるな。朝から深夜まで仕事覚えて、オッサンと飲んで、帰ったら寝るだけ。労働基準法とか無視。なのに630円……割りに合わねぇ」
 これでもたった一人の御曹司。将来要職へ就けるよう、今からアルバイトと称して仕事を覚えさせられているらしい。ケロっとした顔で苦労話をしているが、今までの実績がない分、過酷さは想像を絶するだろう。
「嫌なのが、オヤジが社員から恨み辛みを買いまくってるせいで、アッチコッチでねちねちイジられること。あーウゼェエエエ! だからあそこにだけは就職したくなかったのにッ」
 ジンマシンでも出たかのように頭をかきむしる真彦。跡取り息子も大変らしい。
「今日もこれから戻って書類整理してレジュメ作って……また12時コースかなあー」
「……お疲れ様です」
 泣き出しそうなくらい情けない声を出す真彦へ、スウは苦笑いになりかけた微笑みを修正して同情する。
 あそこの社長は絶世の子煩悩なのに、放任という名の実力主義でもある。愛情ゆえにノルマを厳しくすることはあっても、七光りで甘やかすことはありえない。
 スウは社長の性格を思い出し、呆れを込めて遠くを見つめた。
 獅子は谷から這い上がってきた子供だけを育てるという。あの人の教育方針はどこかそれと重なるところがある。
 あの社長のことだ、息子が自分の意思で出ていった瞬間に、彼がどこで何をしようとも放っておくと決めたのだろう。彼は一度決めたことはとことん貫く。耳のことはヴィセに聞くまで知らなかったかもしれないが、位置ぐらいは常に把握していたはずだ。にもかかわらず、彼が拳銃を忍ばせて生きるような生活をしていても手出しはしなかった。そのまま身を滅ぼす結果になっても、きっと見過ごしたに違いない。落ちた先で足掻こうとも、病もうとも、力尽きようとも、全て本人の力不足。最良の選択のみを選んで這い上がれてこそ、存在に価値があるとする。
 かつての真彦は、父に存在を認められていなかった。
 彼は逃げたのだ。
 S.S.S.という凶悪な呪縛から。
 真彦に示唆されて気づいたのだが、S社には二つの顔がある。技術革新を進め、社会に貢献する優良企業の顔と、国はおろか世界の流れすら左右するほどに貪欲な死の商人の顔。ここで言う死の商人とは、単なる武器商のことだけではない。もちろんS.S.S.はその分野でも広く活躍中だが、それだけで世界を動かせるはずもなく。
 彼らは利権を求め、奪い合うことで国家間の摩擦を誘発する。ことにS社は自ら仕掛けると言っても良いほど積極的に争いを望む。金になるからだ。
 金だけではない。その金が生み出す利権が権力を平伏させ、権力以上の力を発揮する。
 ここから先はスウの知るところではないが、S社があらゆる国家に顔が利くことは周知の事実だった。
 真彦が約束された輝かしくも汚れきった未来を放棄して、海を越えたのが十五の時。
 何も知らぬ子供でいられたほど、彼は素直ではなかっただろう。そして全てを隠してしまうほど、彼の父親は卑怯ではない。十五歳の多感な少年に、その父の背はどう映ったのか。
 『自分から捨てた』と言いながら『助け』を求め続けたその心は、スウにも分からない。まして飛翔炎にはお手上げだったのだろう。適合できなくて当然だったのかもしれない。
 それでも彼は戻ることを選んだ。
 おそらく彼の行く先には、今の多忙な日々など笑い飛ばしてしまうくらいの激務と重圧と醜悪さ、そして栄光があるのだろう。
 それらから逃げず、立ち向かい、逆に食い尽くそうとするその勇気を、彼の父親は何よりも評価する。自分もまた通った道だからだ。
 だからきっと、一度として手を貸さないだろう。そうしてその過酷な環境を乗り越えてやっと――彼を認める。
 しかしこの美貌の御曹司の評価は、未だ時給630円。無残なものである。
 これから始まる彼の波乱に満ちた将来を思って、スウは穏やかに微笑んだ。
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