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 記憶を辿りながら、スウは大学の講堂で静かに窓の外を見つめ続ける。
 構内にある小さな林が硬く縮んだ心を癒してくれる気がした。
 真夏の光線に焼かれた木の葉は、今はまだこわばった暗い緑だ。紅葉が始まるのはもっと後になるだろう。
 ヴィセはあの後しばらく黙考し、やがて「悪いことだ」と答えた。
 もし世界がぐちゃぐちゃになってしまえば、あちらの世界の飛翔炎が大量に流れ込んでくるだろう。この世界の人々は生まれつき飛翔炎を持っていない。真彦のように無理やり宿られて、身も心も破綻をきたしてしまう人が大量に現れることとなる。
 恐ろしい事だ、と思う。今だって十分すぎるほどオカルトじみた現象が起こっているというのに。魔法なんて本の中の出来事と思っているこの世界の人々が、到底受け入れられるとは思えない。皆が一斉にパニックに、いや、恐慌状態に陥るだろう。
 同時に、宿詞も今までと違い、絶対となる。空中を漂う飛翔炎が宿詞の命に反応し、生物はおろか宿詞の宿らない無生物にまで影響を及ぼすようになるのだ。真彦のように意識で反抗しようとしても、それ以前に周りの空気に含まれる魔力が服従を強いるだろう。天候や自然、動物、人間全てを意のままに操れるようになる。と。
 自分の不用意な一言によって何百何千という命が左右される。このことはスウにとって何よりの脅威だった。
 異世界の持つあらゆる要素が彼女は恐ろしい。あの世界の属するものは何もかもが自分たちの理解を超えていて、恐ろしい魔物のように思えた。
 だが、ヴィセが最後に一つ、付け足すように呟いた言葉を思い出す。
 『でも今の私が本当に怖いのは飛翔炎でも宿詞でもないんだ。この世界の人々が持つ、不具を乗り越える力。魔法を持たないにもかかわらずここまで文明を発展させ、更に先を目指そうとしている。なにしろ、この世界には人々の間に真の意味での不平等がほとんどない。逆を言えば、誰でも戦えるんだ。それゆえに生まれたこの世界のシステムは簡単だね。弱者は強者に飲み込まれ、容赦なく淘汰される。真に強い者だけが生き残るが、それすら更なる強者に取って代わられる。しかしそれこそが繁栄。いかに枝葉が変わろうと、世界は絶えず進歩していく。まるで餓えた獣のようだ。……私はあちらの世界をよく知っているから、心配だよ。骨の髄まで貪り尽くされる様が目に浮かぶ』
 異世界にとっても、スウの世界は恐るべき病魔を潜ませているのかもしれない。かつてペストが世界中を席巻したように、触れただけで爆発的に侵蝕し、身を滅ぼさんとする何かが。
 この言葉はスウに、ヴィセが心から世界の崩壊を望んではいないのだと信じさせた。
 彼とて好んで崩壊を促進させたいわけではないのだろう。できればかつてのスウの様に街から一歩も出ずに済ませたいと思っているのかもしれない。
 けれど、ヴィセはこの世界で生きていかなければならない。つい最近、海外での大きな公演を断り、相手方の不興を買ったという話を噂で聞いた。崩壊を食い止めるための彼なりの配慮だろう。しかし一度だけなら許されようが、二度三度と続けばどうなるか。流行が常に移っていく被服業界のこと、すぐに彼のことなど忘れられてしまうだろう。
 今の彼には宿詞もなければ、王という特殊な身分があるわけでもない。ごく普通の男の人なのだ。生活のために不本意な行動を強制されても、抗ってばかりはいられない。
 それでもヴィセは、崩壊を食い止めるために尽力するつもりだと告げた。原因である自分を自覚しながら、それでも。
 ままならない現実に溜息が出た。
 憂鬱さで頭の中がもやもやする。吐息に乗せてこのもやもやを吐き出せてしまえたらと思いながら、スウが再度窓の外へ意識を戻したとき。
 林の上空を、淡く輝く火の玉がふよふよと漂っていた。
「あ!!」
 とっさに叫んで席を立つ。
 講堂内の視線が一斉に自分へ集まる気配がしたが、構ってはいられない。取り繕うことすらせず、スウは教室を飛び出した。
 飛翔炎はその名の通り、空飛ぶ炎。地面から離れられない彼女をからかうかのように、東へ西へ飛び回る。そうして散々キリキリ舞いさせた挙句、高い塀をひょいと越えて学外へ出てしまった。
 追いかける彼女は空ばかり見て校門を飛び出す。
 同時に、甲高いクラクションの音が鳴り響いた。
 ビクリと硬直して足を止めた瞬間、目の前をトラックが通り過ぎていった。危うく歩道から飛び出すところだった。いくら宿詞が使えても、この世界では車に轢かれただけで簡単に命を落とす。自分もただの女の子であったことを思い出し、スウは軽く血の気が引いた。
 それにしても、あのトラック一台にしては随分大きなクラクションだったけれど……。
 散漫な気持ちのまま辺りを見回すと、一台の黒い外車が停まっていることに気づいた。と、その扉が開いてさらりとスーツを着こなした一人の男性が降りてきた。
 直線的な印象を与える黒いスーツ。ヨレや型崩れのないところから真新しいものだと分かる。仕立ての良い正装は、広い肩幅と長い足を強調していっそうスタイルを良く見せた。髪を切ったのだろう。伸びてぼさぼさの印象だった黒髪が、短く整えられている。前髪が短くなったせいか、もともと年齢を感じさせなかった見ためが更に若返った気がした。背筋もすっと伸びていて、歩き方にも落ち着きがある。
 かっこいい。
 一ヶ月ぶりに目の前に現れた真彦は、憑き物が落ちたようにあか抜けていた。
 スウはこれまで彼の顔を美しいと思いこそすれ、格好良いと感じたことは一度もなかった。人を食ったような表情や芝居じみた動作に一目で妖しげなものを感じて、全体の格好良さよりも顔立ちの美しさの方が目立っていたからだ。妖艶だったというのかもしれない。それが、余分なものが削ぎ落とされてすっきりとした雰囲気に変わり、どこがどうということもないのだが、素直に格好良いと思えた。
 目の前で立ち止まった相手に、ふと軽い違和感を覚える。
 近づくまで気付かなかったが、彼の着ているスーツは黒ではない。ほとんど黒に近い暗灰色に、薄くストライプが入っていて、黒よりも柔らかい印象を受ける。
 彼はいつもの皮肉げな笑みを浮かべず、上目がちに会釈した。
「どうも」
「あ……こんにちは。ええと、ま、こと……さん?」
 呼び慣れない名前に戸惑う。宿詞で本名を呼ぶことは危険なため、ヴィセに決して呼ばないようにと言い含められていたが、呼ばずにはいられなかった。今はもう無意識にもほとんど宿詞は現れなくなっているので、一度くらいなら許されるだろう。
 相手が決まり悪げに肩をすくめる。
「真彦でいいよ、そっちの方が慣れてるし。アイは?」
 視線がずいぶん下の方を探す。そういう認識なのか。
「アイはちょっと……」
 おそらくまだ授業中だ。途中で飛び出してきたことを言うべきか迷い、スウは言葉を濁した。
 けれど真彦にはそれで問題なかったらしい。
「まあいいか。今、暇? この前の詫びになんか奢りますよ」
 さらりと殊勝なことを言われて、スウは動揺した。今までの彼なら絶対に口にしなかった言い回しだ。
「え、ど、どうしたんですか? というか、今どうしてるんですか?」
「生きてますね」
 それは見れば分かる。
 思いっきり腑に落ちない顔をしたスウへ、真彦はあえて答えない選択をした。くるりと身を翻して、自分の車へ向かう。
 混乱しながらも、スウは導かれるようについていく。並んで見上げた横顔に、かつて滲んだ影はなかった。
「バイトの初給料が入ったんで、やっと身動きが取れるようになったんだよ。どこ行く? 時間が時間だし、甘いもんの方がいい?」
「ええと、マクドナル」
「気を使わなくても結構。実家住まいだから生活費はかかんないし、家の備品使いたい放題だし。コレもな」
 くいっと顎で車を示されて、スウは納得しつつ複雑な気持ちになる。
 自分は金銭面に気を遣ったのではなく、真彦が食べられそうなものを口に出しただけだ。けれど彼の様子を見たところ、余計な心配だったらしい。少なくともヴィセの家にいた頃よりは健康的になっているし、顔色も良い。……体つきだけは、まるで雑巾を絞られたように更に引き締まったようにも思えるが。
「今は実家に住んでるんだね」
 あんなに毛嫌いしてたのにと感心して頷く彼女へ、真彦は皮肉っぽい笑みを浮かべて車の扉を開けた。
「ヒキコモリからパラサイトにレベルアップしただけですが」
「……すごい進歩です」
 そんな謙遜が出てくる辺りが、特に。
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