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七章   望まざるは終焉……


 大学の講堂の隅で、スウはぼんやりと頬杖をつく。
 教壇の前では講師が熱弁をふるっているけれど、教科書を忘れてしまったスウには何を言っているのかさっぱり分からない。
 いつも文句を言いつつも教科書を見せてくれるアイは、この時間は別の講義を受けている。中学高校とずっとクラスが一緒で、休み時間もべったりだった二人だが、大学になってからは別行動が増えてきた。特に今期の時間割はバラバラで、構内ではお昼休みにしか顔を合わせない日もある。
 入れ代わりに増えた知り合いたちと、愛想笑いの日々。どこまで親しくして良いのか分からない彼女たちになんとなく気後れして、今日も教科書を見せてもらう機会を逃してしまった。
 彼女たちも良い子だ。一言告げれば喜んで見せてくれるだろう。なのにその一言を伝えることが、ひどく億劫に思えてしまう。
 講堂内は静かだけれど、ざわめきが絶えなかった。小声で談笑する人、携帯をいじる人、漫画を読む人、イラストを書く人、お菓子を食べる人、真面目に授業を聞いている人。誰も大声をあげて騒いでいるわけではないのに、それぞれの動きが発する音が重なって不協和音を作りあげている。それにマイクを通した講師の声がひどく歪に調和していた。
 騒音を頭から遮断するように、スウは窓の外を見る。
 真彦が出て行ってから一ヶ月が過ぎようとしていた。九月も終わろうとする秋晴れの空は、うっすらとヒダを作る白い雲が遠く浮かんでいる。空の距離が一番遠く感じる頃だ。妙に高くなった頭上を見上げるたびに、スウはどこか物悲しい気持ちになる。
 不意に先日のことを思い出し、彼女はひとり、目を伏せた。


 ヴィセを問い詰めようとしたとき、意外にもアイは協力的だった。
 逃げ出そうとするヴィセをスウに掴まえさせて、自分はキッチンから椅子を一脚運んできた。ソファーの前に配置して、問答無用でヴィセをそこへ座らせる。対面するようにソファーへスウを座らせ、自分はちゃっかりその膝へ乗った。話から締め出しを食らうのは目に見えているので、スキンシップで寂しさを紛らわそうという作戦である。しっかりしたものだ、と呆れと感心が入り混じったのを覚えている。
 罪人のように吊るし上げられたヴィセは諦めて苦笑すると、しぶしぶ口を開いた。
「発端は、私が逃げたことなんだろうね」
 微笑みを交えて告げられた言葉は、罪悪感を含んで自虐的だ。
 が、娘は容赦しなかった。
「お父さんって、嫌なことからは全力で逃げるわよね」
「バレてる!?」
「開き直るともいいますね」
 相手が追求する前に『聞かれるのは嫌だ』と提示して、それ以上口を挟ませない。要領の良いような悪いような、とても我がままな逃避手段だ。あと、さり気なく自分が動かないことで他人に厄介事を任せるときもある。こういう大人にはなりたくないと思わせるヴィセの一面だ。
「昔からそうだったんですね……」
 宿詞が使えたのに。そして王様だったのに。
 淡々と傷に塩を塗りこまれて、ヴィセがひぃと顔を歪ませた。
 そこへ更に追い討ちの一撃。
「それで、何から逃げたんですか?」
「全て……かなぁ」
 フォローのしようのない一言である。
「……奥さんに嫌われますよ」
 スウは溜息をつきそうになるのを我慢して呟いた。あの女王が聞いたら鬼神のごとく怒り狂うに違いない。
「それはもう、凄まじい罵倒の数々でした」
 なぜか目を輝かせて答えられる。
「…………」
 沈黙する少女二人の目力に圧されて、ヴィセが窺うように話の方向を変えた。
「ええと、スウちゃんは神の声を聞いたことがあるかな。神と言っても、私が便宜上そう呼んでいるだけだけれど」
 アイの髪をもてあそんでいたスウの手がピクリと止まる。
「……地鳴りのような」
「そう。よく夢を介して語りかけてくる」
 脳裏にあの無数の音が重なって生まれたような音声が蘇る。
 『お前には、失望した』
 怒りと苛立ち、そして幻滅から生まれる無関心。
 思い出すたびに眩暈のような恐怖を覚える、正体不明の声。
 あれが、あの理不尽な声が神のものだと言うのか?
「神って、あなたたちの言っていた月の神のことですか?」
「トコユメのこと? あれはただの伝承だよ。君たちだって天照大神とか、ヤハウェやギリシャ神話の神様が物質として実在するとは思っていないでしょう。信じている人たちはいるだろうけれど。そういうことだよ」
 ヴィセは俯き気味に肩をすくめる。それからひどく真面目な顔をして顔を上げた。
「アレは世界の意志だ。もしかしたら本当に世界を『作った』モノのなのかもしれない。私たちとは次元の違う、けれど実在するものだよ」
「……世界の、意思」
 噛みしめるようにして呟く。
「私もはっきりしたことは言えないのだけれど、アレはあちらの世界とこの世界を一つにしてしまおうと目論んでいる。我々人間を利用してね」
「なぜ? あんな地震が起こせる力があるのに」
 スウが戻ってきたときに引き起こされた地震はすさまじいものだった。まさしく“神の怒り”と名づけられたあの震災は、今なお世界に深い傷跡を残している。
「直接手を下すことはできないらしいんだ。私が思うに、特にアレは飛翔炎を支配することができない。だから白の賢者という存在を生み出し、間接的に作用しようとした」
 賢者が神の言葉を聞き、それを宿詞にすることで神の力を発揮させようという魂胆か。
「賢者は本来、神の傀儡であるべきモノだったんだよ」
「傀儡……」
 しかし賢者たちはアーゼン王家によって森へ捉われ、宿詞も奪われ続けていた。傀儡は役割を果たさず、世界は維持されてきた。デュノがスウを開放するまでは。
「代わりにその役割を強要されてきたのが、歴代のアーゼン国王だよ。ただ、彼らはある意味賢明で、神の意には沿わなかった。いや、多分沿えなかったんだね。賢者を解放することは宿詞の危険性を考えれば不可能だし、我々の宿詞は賢者と違って単純に技術だから、個人の力量に差がある。普通に使う分にはほとんど問題ないだろうだけど、世界が関わってくるとなるとレベルが違うから」
 スウがはっと顔を上げる。神の言葉は賢者だけに聞こえているものではないらしい。ならばヴィセもまたあの声に指示されてこの世界へ来たのだろうか。
 ヴィセは声をひそめて、暗く微笑んだ。
「今の神の望みは世界の崩壊。ここから先は……分かるよね」
 森から開放された稀有な賢者を利用し、結界を綻ばせようとしたのだろう。そのためにはスウがあの世界を移動し、様々な場所へ出かける必要があった。
 けれど彼女はデュノのもとを離れなかった。
 さぞ苛立ったことだろう。怒り、彼女の怠慢を責め立てたことだろう。賢者のくせに宿詞も使えず、どこにも行こうとしない。挙句、宿詞が使えるようになると何もせずに帰って来た。
 役立たずの傀儡。
「意に添えなかった私はもう必要ない。天罰を加えて、放棄した」
 スウは硬い声を落とす。
「やっぱり、お父さんとお母さんは……」
 最後の啓示の意味はスウへの制裁。それがあの地震と両親の死を意味していることは明らかだった。
 直接自分へ危害を加えなかったことが何より腹立たしい。あの災害の影響は波紋のように広がり、今もスウではない誰かに不幸となって訪れているというのに。
 あの時自分を殺さなかったのは、まだ利用価値があると目論んでいるからなのだろうか。
 ヴィセが顔の前で手を組み、視線を床へ落とす。それは懺悔をする人の姿に似ていた。
「お二人のことは本当に……残念だった。アレの干渉を無視して、君を返そうした私が浅はかだったよ。悔やんでも悔やみきれない。……咲君の件があったにも関わらず、気付かなかったんだから」
 思いもよらない名前に、スウが驚きの声をあげる。
「咲坂さんが、どうして?」
 確かに彼のことはショックだった。この世界に戻ってからスウを打ちのめした様々な物事の中でも、思い出したくないことの一つだ。
「これも推測だけれど。スウちゃんは向こうで森から出てから、遠くへ出かけたり、旅に出たりはしなかったんだよね?」
「はい」
 デュノが出かけられないため、スウはほとんど神殿から出なかった。言葉が通じないので、一人歩きができなかったためだ。神殿の中ですら、初めのうちは恐々歩いていたくらいなのだから。外出といえば、フェイに連れられて王都を歩いたことや城へ出かけたくらいだ。
 ……思えば、そのときはあの恐ろしい夢を見なかった。
「夢の中で脅迫されたことはない? 私はよくされたけど」
「よく覚えていないんです。いつも夢の中で怒られていて……」
 夢の中で怒鳴り散らされたこともある。ただ、その頃には目覚めると隣にデュノの寝顔があって、安心して眠り直すことができた。温もりが不安を退けて、ただの夢だと思い込ませてくれていた。だから彼女は夢の内容をはっきりと自覚することなく時を過ごしてしまった。
 ヴィセは真面目な顔のまま、淡々と質問を重ねる。
「君にとって、当時、一番大切で会いたかった人は誰だったかな」
 一瞬、答えられなかった。
「まさか」
 強い否定の気持ちが生まれて、スウは戸惑う。
 一息ついて自分を落ち着かせた。
「咲坂さんのことも、その神が関わっていると?」
「あれは真彦が悪いのよ!」
 高い声でアイが割り込んできた。
 ずっと膝の上にいたのに存在を忘れていたスウは、急にアイの温もりを覚えて落ち着く。甘いシャンプーの匂いに今更気付いた。
 ヴィセはきょとんとアイを見つめてから、顎に手を添えて頷いて、深い理解を示した。
「真彦……ああなるほど、彼が一枚噛んでいたのか。あの子はよく人を試すからね。自分が愛されている自信がないから」
 しょうがない子だよね、と微笑みを浮かべるヴィセ。まるで息子のいたずらに呆れる父親のようで、スウはその表情に二人の関係を見たような気がした。親を捨てた子供と、子供を置いてきた親。互いに補い合うところがあったのかもしれない。
「真彦の好奇心、咲君の不安、千尋ちゃんの思い……他にも要素はいろいろあったと思うけれど、それら全てが上手く噛み合うように配置するのが、アレの得意技だね」
「……運命ってヤツ?」
 アイが嫌そうに窺う。
 ヴィセは皮肉に笑って答えた。
「あえて『見えざる手』と呼ぼうか。私の時は度重なる飢饉から来る、権力者への疑念と不信。そうして生まれる国々の焦りが戦争を呼び寄せた。私の国は元が豊かだから耐え切れないほどではなかったけれど、逆にその豊かさが特に凶暴な一国に狙われる原因になって……」
 ヴィセは遠い昔を思い出して目を細めた。軽く足を組み、指先を組んで片膝へ乗せる。
 スウはかつて異世界で聞いた国王失踪の経緯を思い出す。
「まさか、それがグルディンですか?」
「よく知ってるね」
 スウはグルディンという国を知らない。直接行ったことがないため、フェイの祖国でアーゼンと折り合いが悪いということ以外は知りようがなかった。
 だがその唯一の接点であったフェイが、大柄ながらも穏やかで優しくで、異世界で知り合った中では最も頼りなると判断していたため、彼の祖国ならさぞ穏健な国なのだろうと勝手に思い込んでいた。
 そんなスウの印象など、ヴィセは知ったことではないだろう。彼は眉間にしわを寄せて思案に沈む。
「今思えば、あちらも戦争なんて望んではいなかった。……誰しも無傷で利を得たがる」
 流暢に呟く顔は暗い。最後の無感動な言葉は、ヴィセがこの世界で得た真理だろうか。
「グルディンは大きな国だけれど、国土のほとんどが砂漠と凍土で覆われている。アーゼンの豊かな大地を得たいと思うのは当然だよね。だからアーゼンの持つ唯一絶対の力である宿詞を排除し、無力化しようとした」
 くい、とヴィセの口元が歪む。皮肉と嘲り自嘲と。暗いものを宿して、彼は力なく笑う。
「我が国は恥ずかしいぐらい宿詞に頼りきっているからね。官僚制をとってはいるけれど、内実、ほとんど機能していない。宿詞さえなければあんなにダメな国はないよ」
 一国を背負う王としての立場から見たとき、その光景はどう映っただろう。足元のどこもかしこもがぐらついて、一歩も踏み出せない恐怖を覚えはしなかっただろうか。頼れるのは自分の言葉だけ。しかしその力は使えば使うほど彼を孤立させていく。
 けれどヴィセが知っているのは十年前のアーゼンだ。その頃は彼の言う通りの国家だったのかもしれない。宿詞の威力を考えれば、官僚たちが腑抜けてしまうのも当然のように思われる。
 でも、今は違う。
 スウは城で見たレゼの部下たちを思い出す。私生活をなげうって仕事に没頭する若い官僚たち。自分の仕事のために上司を無理やり連行するのはどうか思うが、これも情熱の一形態だと言えば許されそうな気もする。
 彼らはきっと、自分の仕事が好きなのだ。アーゼン人は好きなことにのめり込むと周りが見えなくなると聞いた。自分の仕事を愛せる環境にあることは、きっと幸せなことなのだ。
 宿詞の無い間にもアーゼンは在り続けねばならなかった。必要に迫られる形で、国は変わっていったのだろう。はじめは大変なことだったに違いない。それに屈せず尽力し続けたのは、あの己にも他人にも厳しい銀髪の女王と、その息子レゼ。
 それをこの人はまだ知らない。
 どこに傷を抱えているのか分からないスウへ配慮して、ヴィセは異世界のことを根掘り葉掘り聞いたりはしなかった。古アーゼン語を解した月の民の老婆が生きていた頃は、多少なり情報が流れていたのだろうが、今はスウが唯一の情報源のはずだ。女王が今どうしているか、自分の息子たちがどうなったのかを、きっと知りたがっていたはずなのに。
 知らず残酷なことをしたと、スウは自分を悔やんだ。
 意図せず、同時にヴィセも声色へ後悔を滲ませた。
「……我々は手を組むべきだったんだ。アーゼンの豊かさと魔法理論、グルディンの鉱物資源と武力。どちらもハナから奪い合うものではなく、与え合うべきものだった」
 今だから分かる最善の選択。当事者であればあるほど、何が最善の未来を紡ぐのか見通すことは難しくなる。 
「ただ、そうなるには宿詞は強大すぎた。我々に苦しみ喘ぐ他国の存在を無視させるほどにね。そしてグルディンは……過酷な環境と歴史を持つためかな。占領した土地の他民族を殲滅するクセがあって」
 スウは思わず息を飲む。フェイの国がそこまで暴力的だとは思わなかった。もっと紳士的な人々だと思っていたのに。
 驚愕を無知と捉えたのだろう。ヴィセが苦笑いを含む。
「フィリアの民族もグルディンに滅ぼされているからね。ましてやアーゼン民族なんて」
 他民族を人間ではないと判断し、虐殺してしまうことはこの世界でも何度も繰り返されていることだ。アーゼン人とグルディン人は身体的にもかなり違うから、そういう事態もありえるだろう。これは分かる。
 だが、フィルフレイアは素人のスウが見ても一目でグルディン系だと分かる顔立ちだった。それすら許されないとは。
 ヴィセはふと沈み込むような無表情になった。
「私は単純に戦争が嫌だったんだ。我が国はちょっと何かあるとすぐ宿詞に頼るから、国王は必ず祭り上げられる」
 皮肉を込めようとした声色は失敗し、疲れを滲ませる。
「私は……本当に宿詞が嫌いだった。憎んでいたと言ってもいい。政治にも興味が持てなくて……特に考えもせず、官僚や相手が促すまま和平の交渉へ出向いた。直接むこうのトップを宿詞で操ってしまおうって魂胆もあったんだけど。でも相手の方が一枚上手でね。宿詞を封じられてしまった」
 「今思えばバカだよねぇ」と、彼は軽く自嘲した。
「今までもそういうことは何回かあったから、対処法ももちろん用意していたけれど……知っているかな、グルディンの王族はアーゼンの王族と同等の魔力量を持つ、花葉色の飛翔炎の血統でね。しかもそこの跡継ぎ君が、あの国では滅多にいない魔法の使い手で。……穏便に済ますには相手が悪すぎた」
 その場を逃れたところで、騒ぎが広まれば国の面子に関わる。軽いいさかいなどではない。国王が狙われたのだ。即座に全面戦争が始まるだろう。
「大事になることは避けられなかった。私がいればアーゼンが勝つだろう。……宿詞の力でね。それから他にもいくつか思うところがあって、私は全てが嫌になった」
「逃げたのね」
 すかさず滑り込んだアイの言葉を、ヴィセは笑顔で無視した。
「その時まさしく天啓のように声がしたのさ。魔神のね」
「……逃げたんですね」
 今度はスウが釘を刺す。これも無視。
「そうして、晴れてこの世界に辿り着いた私は、宿詞の呪縛から放たれたというわけだよ。スウちゃんと同様にね」
 にこっと、心臓にハリネズミの毛が生えていそうな顔で微笑まれる。
「まあ、正しくはそそのかされたんだけど。まさかこっちでは魔法が使えないとはねー。ほとぼりが醒めるまで避難するつもりが、そのまま帰れなくなるなんて」
 ははは、と乾いた声で笑うヴィセ。
 対するスウとアイはぽかんと口を開ける。
 この王様、本当に逃げるためだけに、この世界へ来たのか。
 一瞬力いっぱい非難しそうになったのを思い直し、スウは冷静を努めた。
 彼は宿詞という力を持つがために、それが通用しない世界が想像できなかったのだろう。ヴィセだけでなく、あちらの世界の者なら誰しも魔法のない状態なんて思いつかないに違いない。ゆえにこちらの世界のことを何も知らされずに逃げ場所として提案されたなら……騙されてしまうかもしれない。ヴィセだったら。
 スウは何とか事実を飲み込むと、形だけでも頷いて理解を示す。
「えっと……その神のことと、ヴィセさんがどうしてこの世界に来たのかは分かりました」
 言いたいことは沢山あるが、とりあえずそれは脇に置いておく。
 スウは視線を落とし、膝に座ったままのアイの髪をゆっくりと撫でた。
「でも、ヴィセさんは一度、異世界に戻る機会がありましたよね」
「あったね」
 対面する男性は正直だった。
 彼が石に魔力を溜めたために、世界の膜が己の所有物を引っ張る力が増大し、その流れにスウが乗ってしまった。力が暴走する前にヴィセが戻っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「その時すぐに帰らなかったのは、アイがいたから?」
 すっと、アイの黒髪の上から相手を見据える。
 ヴィセは一切の気負いなく答えた。
「もちろん」
 少し遅れて、彼はスウの視線の意味を理解する。
「あっ、その目は疑ってるね!?」
「……他にも理由が」
「ありません。あったらとっくに帰っているよ。あの頃私が逃げたものは、今思えばどれも取るに足らないことばかりだった。戻ることに異存は無いよ」
 ヴィセはそこでふうっと溜息をつき、椅子の背に全身を預けた。
「この子は私の逃避の償いであり、戒めだ」
 誓いのような声色。
 だが最後の言葉が難しくてどう捉えればいいのか分からない。アイの前だから甘いことを言ったとも考えられるが……。それにしては使った単語が強すぎた。
 でも、とスウは考える。
 神は意に沿わなかった自分にあれだけの仕打ちをしたのだ。今戻れば、ヴィセも大切な人々を失うのではないだろうか。そしてそれを取り戻す、一番穏便な方法は。
「じゃあ、最後に一つ、教えてください」
 スウは一度身を正して、真剣に問う。
「世界が一つになって崩壊してしまうことは、ヴィセさんにとって悪いことですか?」
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