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翌朝、寝過ごしたアイは慌ててベッドを飛び出すと、着替えもせずに台所へ向かった。 昨晩うっかり炊飯器をセットするのを忘れたためだ。 今から高速炊飯スイッチを押せば一時間もしないで炊きたてのご飯が食べられるはずだが、なにげに食にうるさい親友は悪気のない顔をして「高速だとやっぱり香りがイマイチだね」なんて言うのだ。自分はお米を洗剤で洗おうとするくせに。 その親友はベッドと仲良しですと言わんばかりに熟睡している。昔は日の出と共に起きるのが習慣で新聞屋さんと仲良しだったスウも、戻ってからは今時の若者らしく放っておくと昼まで寝ている。 誰も見ていないのを良いことに蹴破るようにしてキッチンへ駆け込んだアイは、そこで死んだように眠っている真彦を発見し、金切り声をあげた。 「なんでこんなトコで寝てんのー!?」 「アイちゃん……起き抜けにその声ヤバイって。キーンってきたキーンって」 顔をしかめて起き上がった真彦。相変わらず黒ずくめだが、今日はいつもに増してヨレヨレだ。クシャクシャのゴミ袋を思い起こさせる。 「あー体痛てえ。崇ちゃんあのまま放置したな……復讐か?」 不穏なセリフをはきながら猫のように体を伸ばす真彦。なにげなくぼさぼさの黒髪を掻き、その手がふと止まった。 同時にアイもその変化に気付く。 「あー!?」 驚きで声の出ない相手に代わって、アイが叫ぶ。 耳が、ない。 人間のものに戻っている。 「なんで? なんで!?」 「分からん。あの時、崇ちゃんなんかしたっけ……?」 驚いているわりに冷静な真彦に違和感を覚えて、アイが盛大に首をかしげたとき、 「おはよー」 犯人としか思えない少女がのんきに起きてきた。 それもなぜか満面の笑顔。微笑みが上手いためあまり気付かれないが、スウは大げさな表情があまり得意ではない。特にここ最近ではかなりレアだ。 「コレ、何? 魔法が効いたの?」 人差し指を突きつけると、真彦があからさまに嫌そうな顔をした。 「ううん」 ケロっと首を振られる。余計に意味が分からない。というか、この親友は基本的に何を考えているのか分からない。ついつい何でもお見通しのような振りをしてしまうが、アイに分かるのは表面に現れてくる部分だけで、未だに本質的なところはさっぱりだ。彼女のおじさんといい、妙に謎っぽいところがある。 真彦と顔を見交わせて肩をすくめたとき、玄関の扉が開いた。 佐藤家唯一の異世界人、お父様のご帰宅だ。 「お父さん聞いて聞いて聞いて! ついでにコレ見てーーー!」 アイがダッシュで出迎え、ひしっと抱きつく。 「ただいまおはようー。あれ? みんな早いね」 いつも空気を読むのが微妙に遅い父は、今回ものほほんとしている。 アイに急かされてキッチンへ連れてこられたヴィセが真彦の姿を認めるや、アイと同じく思いっきり人差し指を突きつけた。 「まーくん、それ!」 瞬きを一つ。 「治ったの?」 「勝手にな」 答える声はなぜか照れているようだった。 「勝手に?」 オウム返しでヴィセが見る先は、やっぱりスウ。 彼女は晴れやかに微笑んでいる。 「ヴィセさん、言ったでしょう。信念と齟齬があるからだって」 スウがふっと片目を閉じた。ウインクのようでもあり、何か違う意味があるような気もする。 アイは以前父が言っていたことを思い起こす。プリンがどうので紛れてしまったが、確か、同じ信念を持っているはずの二つの心が、一方が歪んでしまっているためにぴったり一致しないという話だった。 スウがいっそう笑みを深める。瞳には自信と確信が宿っていた。 「心を動かす力って、宿詞だけじゃないと思うんです」 まるで、なぞなぞのような言葉。 けれどヴィセにはそれで通じたらしい。一瞬意外そうにしてから、ぱっと明るく微笑む。 「私も、ずっとそう信じたかったんだ」 嬉しそうな幸せそうな、少年のような顔だった。 「どーいうこと?」 「そーいうこと」 こてんと首を傾げたアイの頭をぽんぽんと叩いて、真彦が部屋を出ていく。そのまま倉庫へ戻るかと思ったが、素通りして玄関へ向かう。 ひょいと靴を履こうとした広い背中へ、ヴィセが言い難そうに声をかけた。 「あのね、まーくん。今下にね……」 「部屋に帰るの?」 振り返った美形の男は一瞬口篭る。 「……実家に帰ろうと思う」 怒っているような、ふてくされているような、ぶすくれた声。 「十五の時から会ってないからさ。久々に顔ぐらい見せようかなって」 文句あんのかとでも言いたそうにまくし立ててから、ふっと肩の力を抜いた。 「まあ、耳のことは秘密だけどな」 ぽそりと零れた安堵を拾って、ヴィセが答えた。 「あ、ごめん。私が昨日話しちゃった。しかも今、下で迎えが控えてる」 「なにィ!?」 真彦の声がひっくり返る。ばっと振り返った顔が完全に崩れていた。口を間抜けにぽかんと開けている。 「マジでか。やばい死ぬ。崇ちゃんどうしよう俺解体される!!」 「へ?」 「はあ?」 意味不明なことを口走って頭を抱える壮絶美形。ムンクの叫びみたいになってても一応美形と認識する自分の脳ミソを、アイは密かに疑った。 「やー、多分それは無いと思うけどなぁ。……お父さん、ありえないくらい目がキラキラしてたけど……」 「バラされる……モルモットにされる……! だから帰れなかったのに!」 引きつった笑顔で否定を試みるヴィセを完璧にスルーして、真彦がうわ言のように悲観的な未来を呟き続けた。 アイとスウは二人で目を見合わせ、小首を傾げあうばかり。 「でももう耳も治ったんだし、大丈夫だよ! たぶん」 「いざとなったらこっちの情報使って、交渉して……あー、もういい。なんとかするわ」 一回り背中を小さくしつつも、何かを吹っ切って真彦が顔を上げる。その横顔は思いのほか沈んではいなかった。無謀な戦いに挑む者特有の、意地にも似た何かが潜んでいる。 しかしこの男は、そのテの気配をそう簡単に漏らさない。 「じゃ。俺、行くから」 なにげない仕草を装って、ひょいと片手をあげる。 「ん」 小さく手を上げて応えたのは、スウ。 黙って彼の背を眺めていたアイは、そのとき初めて真彦が何も持っていないことに気づく。そして瞬時に理解した。 だからこの男は極力私物を所持しなかったのだ。いずれ帰るために。 あの何もない部屋へ寄ることもせず、彼は行くのだろう。 金音がして、玄関の扉がゆっくりと開く。 その向こうに黒いスーツとサングラスをかけた二人組みが待ち構えていた。 スウが短く息を飲む。 対する真彦は挑発的な笑顔を作りあげる。完全なバランスの、けれどどこまでも人為的な笑み。この男はそういう世界が似合う。 「道を開けな。お愚息サマのお帰りだ!」 台風一過。 晴れ渡った青空の下で、絶世の美男が道化の仮面を被り直した。 「で……モルモットにされる実家って、どんな家?」 真彦が去ったあと、ぽかんとした顔のままアイがぽそりと呟いた。 さすがアイ、どんな時でもツッコミを忘れないなぁと思いながら、スウも一緒に首を傾げる。 「あれ、知らなかった? 真彦の本名は総葉 真っていって、S.S.S.の御曹司なんだよ」 ネクタイを外そうと果敢に試みながら、ヴィセがさも当たり前のように告げてきた。 ぱちぱち、とスウとアイが揃って瞬きを繰り返す。 「S.S.S.って……真彦の薬を造ったっていう、あの?」 スウの頭の中を聞き慣れたCMのフレーズが駆けて行く。 “あなたの街のS.S.S. 三つのSは信頼の証――ソウバ・サイエンス・サクシーデッド” 真彦が嫌悪し、また縋るように見ていた会社のCM。 スウは頭の中でパズルのピースがぴたりと合わさるのを感じた。 S社は多大な社会貢献を褒められる一方で、ほの暗い噂も多い。今の社長になってからはあまり悪い話は聞かないが、全くないというわけでもなく。なにしろ真彦の薬を作った会社だ。魔法を科学的に解明するためならば、人権の一つや二つ、踏みにじることもあるかもしれない。……たとえそれが自分の息子だろうと。 『父さん』と、真彦は言った。 眠りに落ちる寸前で彼が助けを求めたのは、十五の時に自身が捨てたはずの父親。 聞いた当初はあまりに意外すぎて耳を疑ったが、思えば最初から真彦はS社の力は認めていた。 確かにS社の財力と科学力をもってすれば、真彦の耳ぐらい直せたかもしれない。が、そのために自分の存在を明かせばモルモットにされる危険性もあり……。 助かると確信できるのに、頼れない。 彼が荒んで引き篭もるのも仕方がなかったのかもしれない。 「じゃあ、私が滞りなく進学できたのも」 ふと気付いて、スウがヴィセへ問いかける。 S社はスウとアイの通う私立学校の経営会社でもある。S社の社長=総葉学園の理事だ。 「うん。『いつもバカ息子が世話になってるから』って、快く引き受けてくれたよ。いやあ、持つべきものは人脈だねぇ。私の戸籍を偽造してくれたのも彼だし」 ヴィセと理事は旧知の間柄だ。学校の制服が変わるときにヴィセへデザインを依頼したのも理事だった。 なぜか誇らしげにへらへらしていたヴィセが、急に何かを思い出してぽんと手を打つ。 「そうだ。その総葉さんに大変なことを教えてもらったんだった」 ちょいちょいと指先で少女達を集め、内緒話をするように声をひそめる。 「S社って科学全般を扱ってるでしょう。そこの研究所の極秘情報らしいんだけど……」 極秘情報だから小声で話すらしい。あまり意味がないと思う。 ヴィセの年に似合わぬ純粋さに内心苦笑していたスウだったが、続く言葉に耳を疑った。 「この世界、かなり限界に来ているらしい」 「!?」 アイが声にならない驚きを発する。口元を押さえて大きな瞳を見開いている。 「ここ最近、特に磁場の狂いが酷くなってきているんだそうだ。社長が科学的に説明がつかないって嘆いていたよ。結界の綻びが影響しているんだと思う」 「それって、まさか私たちが……」 嫌な想像が頭を過ぎる。 白の賢者は世界の結界を侵食するために送り込まれた。今までの賢者は森から出ることができなかったが、スウは違う。声を失う代わりに自由を手に入れていた。出歩いたといっても王都から出ていないが、それでも綻びは広がったはずだ。 そして、この世界にはヴィセがいる。 以前彼は自分もこの世界へと願う少年へ、『逆でも世界の構造は変わらない』と告げた。 世界の構造は変わらない―― 一方の世界から他方の世界へ来たものは、その世界の結界を壊すという構造は。 ならば、彼もまた結界を壊し続けている。 しかもスウの記憶が正しければ、ヴィセは仕事の関係で海外へもしばしば出かけている。最近は飛行機が嫌だ、英語が喋れないと駄々をこねては逃げているようだが、ヴィクトリアンローズを立ち上げた頃はそんな我侭も言えなかったのだろう。アイを知り合いに預けて何ヶ月と居なかったこともある。今思い出しても、その時のアイの寂しがり様は酷かった。 もし、その世界の崩壊現象がスウとヴィセのせいだったとしたら。 張り詰めた彼女の表情に気付いたヴィセが、どこか疲れたように淡々と告げる。 「そんなはずはないんだ。結界には自己修復機能があったはずなんだから。実際に今まで私が仕事で世界中を回っても、少なくとも目に見える影響はなかった。それが総葉さんのデータによると……一年半ほど前から悪化の一途をたどっているらしい」 「私が戻った頃ですね」 ひどく硬い声が出た。 「正確には地震の二ヶ月後から始まっているそうだよ」 「え……?」 無意識に自分が帰って来たのが契機だと思い込んでいたスウは、ヴィセの言葉に虚を突かれた。 わずかとはいえ時期がずれているのなら、自分のせいではないかもしれない……? じわりと広がりかける安堵を、真面目な顔で押し込める。 「どういうことです?」 「何者かによって、結界の自己修復機能が止められてしまったってことだよ」 「まあ、現在進行形で広げてるのは私だけど」と自嘲気味に呟いて、ヴィセが肩をすくめた。 スウが戻ってきた今、結界が綻びる原因はヴィセ以外に無い。 寂しげに微笑む彼は急に疲れてしまったように見えた。 アイがその腕を支えるように掴んで、真摯に彼を見上げる。 「その結界が無くなったら、この世界はどうなるの?」 「一つだけ言えるのは、世界の分離ができなくなるってことだろうね。異世界とこの世界が繋がって、ぐちゃぐちゃになってしまう。ほとんど崩壊するといってもいい」 「そんな……」 ヴィセはどこか遠くを見つめながら、淡々と言葉を紡ぐ。 「宿詞と賢者の存在、地震、結界の修復機能の停止……」 指折り数えた指を、ぐっと握り締めた。わずかにひそめられた眉間に浮かぶのは、嫌悪。 「まるで、誰かが世界を破滅させようとしているみたいだね」 「……誰が?」 「さあ。人か……あるいは神か」 「神?」 唐突に投げ出された単語は酷く浮いていた。ヴィセの性格からして、神の力を信じているとは思えなかったからだ。 けれどふと、あちらの世界の人々が月を信仰していたことを思い出す。こちらではそんな素振りを見せないけれど、ヴィセも神様の存在を信じているのだろうか。 そう思って見上げた先の男性の顔は、疲労以外の何かを滲ませている。 「ヴィセさん、まだ私に隠してることがありますね?」 突発的に疑惑が口をついた。確信も証拠も何もない。あるのは直感と、ヴィセは自分からは決して語らないという事実。 案の定、彼は自信満々に悪気のない笑顔を返してきた。 「言えないことはたくさんあるね。あーでも、まーくんの件なんかはもっと早くに言ってても良かったかな。総葉さんなら二人とも知ってるし、てっきり分かってると思ってて。あれであの二人って似てるでしょ? まーくんが嫌がるだろうから口には出さなかったんだけど」 珍しく流暢に誤魔化そうとした相手を、ぱっと手を広げて制する。これでビクリと身を縮めるのだから、アーゼン国王もまだまだだ。 「教えてもらいます。私はアイみたいに甘くないですから」 「えっ……ええー」 ヴィセが怯えながら文句っぽい悲鳴をあげる。 スウはアイを真似して口元をつんと尖らせた。 「ヴィセさんを甘やかすとロクなことにならないんだから。これからはもっと厳しくします」 「そんなぁ、スウちゃーん」 情けない声で縋る壮年男性を、スウはにっこり微笑んで見上げた。 |
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