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重く叫ぶような音に目を覚ます。 嵐が唸りをあげて、窓の外で暴れまわる気配がした。風が容赦なく雨粒を叩きつけ、また引き剥がす。押し寄せては離れ、窺っては突き放す無制御な見えない暴力。それが薄い壁を隔てた先でうち回っている姿が、音だけで目に見えるようだった。 一瞬、閃光が走る。わずか遅れて届いた低い雷鳴に、この音で目覚めたのだと合点がいく。 スウはベッドから身を起こした。傍らではアイが幸せそうに寝息を立てている。寝つきが悪いわりに眠りの深いアイには、台風なんてまさしくどこ吹く風。ぬいぐるみに顔を押し付けて眠る姿は幼い容姿とあいまって可愛らしい。 喉がカラカラに渇いていた。 台風が怖いから早く寝ようと騒ぐアイに誘われるまま、風呂上りに布団へ直行したのが原因らしい。渇きすぎてだるさすら感じる。 重たい体を起こして部屋を出た。スリッパを忘れて素足で歩く。フローリングが冷たい。寝ぼけた頭で冷蔵庫にオレンジジュースがあったはずだ、などと思う。 片目を擦りながらキッチンへ顔を出した彼女は、そこで眠気と共に血の気がさあっと引くのを感じた。 「なに……してるんですか」 ステンレス製の流し台の前で虚ろに立ち尽くしていたのは、真彦。暗い中で青白い顔だけが浮きあがる。髪も服も真っ黒な彼は、簡単に闇へ紛れて正体を掴ませない。 奇妙にぎらついた瞳がこちらを見た。 瞬間、雷光が閃く。 それを反射して強く輝いた刃が、スウの思考を止めた。 一瞬の明かりの中で、彼の姿が明らかになる。 出刃包丁を耳元へ添え、今にもそぎ落とそうとしていた。 何を叫んだかも分からないまま駆け寄って、突き飛ばすように彼の手を阻止する。そのまま自分も倒れこみ、覆いかぶさるように二人、フローリングへ転がった。カタンと無機質な音がして、包丁が部屋の隅にぶつかる。 「何してるんですかッ!?」 もう宿詞もなにもない。覆いかぶさった相手の上で、両肩を掴んで力の限り揺さぶる。 うなだれた長身の男は不思議なくらい無抵抗だった。長い前髪が揺れ、その隙間から男が彼女を見上げる。虚無の瞳。 感情すら欠落したかと思えるほど、無機的に整いきった顔立ち。 ぞっと怯えが背を駆け、彼女は思わず手を止めた。 「……無駄、じゃない?」 酔ったように狂った音程。顔が青ざめているのは本気の宿詞に触れたせいだけではないだろう。定まらない焦点と、不気味に穏やかな無表情。吐息から甘い香りが漂う気すらした。 「どうして……」 薬を使うなと、あれほど強く言い続けてきたのに。 くっと喉の奥で堪えるようにして、彼がせせら笑った。 「崇ちゃんさあ。知ってるんでしょう」 歪められた口元がこの世の何よりも醜いと思わせる、明らかな嘲笑。 目を細め、戯れに獲物を追い詰める。どの角度から責めれば相手が崖端へにじり寄っていくのか、この獣は熟知していた。 「誰にも『俺』を救えないって。知ってるんだろ?」 息すらままならないまま、スウはともすれば逸らそうとする視線を必死で彼へ注ぐ。けれど瞳は直視できず、端正な顎から喉元へと落ちていく。 実際、彼の言葉は正しかった。 宿詞では『彼』そのものを維持することは出来ない。 けれど今目の前で滅びようとする男を残すことは出来たはずだ。それを拒んだのは、他でもない彼自身。 無意識に、両肩を掴んだ手に力がこもった。 搾り出すように言葉を紡ぐ。 「……違う、あなたが」 ――私を拒絶する。 「俺が悪いの? 違うでしょう」 平然とした否定。 「アンタだって嫌がったくせに」 付随する笑みは吸血鬼が牙を覗かせるときのもの。加虐者の優しい優しい微笑み方。 「ちが」 彼の手が伸びて、彼女の細い首にかかった。力は込められず、冷たい親指が柔らかな喉を撫でさする。 「魔法なんてばかげたものに頼って、俺をどうするつもり? しかも結局――」 手が離れ、ぱたりと死人のように床へ落ちる。 「効かなかった」 押し付けるように手へ力を込めて、スウが顔を寄せる。 「聞いて」 「アンタには出来ない」 正面から見据えた目を、完璧な否定がはね返す。怜悧な視線が一切の感情を許さない。同情も慈悲も優しさも、この瞳の前では脆弱な概念の死骸に成り果てるだけ。 「アンタじゃ無理だ。アンタには俺を救えない」 スウがぎゅっと目をつぶる。 ……これが彼の出した結論。 ふっと短く息を吐いて、真彦が床に転がったまま片手で髪をかき上げた。 「――だろ?」 軽く言って微笑む。 その微笑みをスウは知っている気がした。かつて自分が燃え盛る森で見せ、夕闇の中で少年が見せたもの。 微笑みの名は、絶望。 髪に触れた手がそっと彼女の頬に触れ、包み込むように捕らえる。甘く優しく、冷たい肌触り。 「辛そうな顔してるね。そんなに見捨てられない?」 同じことはアイにも言われた。 触れれば共に傷付く。寄らず、触らず、上手く流していけばいい。それが賢い選択。 「簡単なことだろ?」 促す言葉は声色に反して冷たい。もしも死神が末期の病人へ「なぜ生きる?」と問いかけたなら、きっと同じ冷たさと柔らかさを含んでいる。 スウは目を閉じたまま弱く首を振る。 彼女が保身に逃げれば、入れ替わりに彼へ寄り添うのは孤独だ。孤独は自分を否定しない代わりに、いかなる訂正も加えない。ただ粛々と絶望を加速させていく。同じ道を辿ったことがあるゆえに、彼女には彼の末路が見えた。 目を合わせて微笑みを交わすだけで相手を繋ぎとめることは、できる。たとえ血を流し合おうとも。 彼女の決意が見えたのだろう。相手が軽く引き下がる素振りを見せた。 「じゃあさ」 頬から撫でるように手を移動させ、肩へ軽く手を置かれる。 反転、強い力で肩を引かれるとともに反対の腕を掴んで押された。併せて膝で腰の辺りを蹴り上げられて、軽くひっくり返される。滑るように床へ転がり、強か背を打ちつけた。 「一緒に逃げてよ」 ぎしりと、強い力で腕を掴まれる。 入れ替わり覆いかぶさる男の美しい顔が眼前に迫っていた。形の良い唇が三日月の笑みをたたえる。 「無駄なことしてないで、楽になればいい。無理して、苦しんで、のたうちまわって――なんになる?」 彼はポケットから錠剤を取り出し、楽しげに舌へ乗せた。鋭い造形の目元に陶酔の光が走る。 「教えてあげようか。楽しいコト」 いいざまに、首筋へ口づけを落とされた。柔らかな熱と錠剤の硬く冷たい感触が絡み合い、喉元へ伝い下る。 「……全部、忘れさせてやる」 笑みを含んでこぼれた甘い囁きは、支配者の言葉。 スウは身動き一つせず、その様を見つめ続けていた。拘束された手足に力を込めることもなく、叫びもせず逃げもしない。まるで傍観者のように。 「――そうだね」 ふいに投げかけられた冷静な肯定。けれど宿詞ではない。 言葉の意味を汲みそこねて、真彦が動きを止める。黒く鋭い瞳には怪訝の色があった。 その視線を捕らえて、放さない。 「私にはあなたを救えない。あなたの言う通りだと、思うよ」 真剣に思ったままを告げた。口先の甘言では彼を欺くことは不可能だ。 「あなたは私を必要としていない」 『アンタじゃ俺を救えない』――あれが彼の本心だ。 ならばその言葉の中に、彼の真実がある。 「気付いてるんでしょう。自分を救えるのは私じゃないって。それは誰?」 「うるさい」 踏み込む言葉に否定を叩きつけられる。 しかし彼女は揺るがない。 真っ直ぐに青年を見上げる。 「私も弱かったから、あなたの気持ち、分かるよ。逃げた後がどれだけ苦しいのかもね」 自分も彼も同じ。逃げたとて死ぬ勇気はない。死に損なった後の生を後悔と恥辱に染めるだけ。 「うるさい!」 敵意を剥き出しにして睨みつけられた。強くかんだ口元が歪んで、奥歯が軋む音すら聞こえそうだった。 少女は穏やかに告げる。 「私はあなたと逃げられない。なんの力にもなれない」 「うるさいうるさいうるさい!」 真彦が両耳を押さえて叫ぶ。彼女の胸元に額がつくほどに背を曲げて首を振る。 何も聞きたくはない。 きっとそれも本心。 「――だから、聴くよ」 宿詞ではなかった。 闇を薙ぐように放たれた言葉は、耳を押さえた彼にも届いた。喚き声がぴたりと止まる。 「聴くよ。あなたの言いたいこと全部」 そうっと両手を持ち上げ、筋の浮く彼の手へ添える。 少し力を加えただけで、彼の両手は簡単に耳から離れた。 驚いたように彼女を見つめる、その視線を一つ残らず受け止める。 彼は誰の言葉も聴かない。スウやアイやヴィセがどれだけ言葉を弄しても、鼻先でふふんと頷きながら、けっして聞き入れることはないだろう。 自分の叫びすら聴けないのだから。 だから自分が何が欲しいのかも分からない。何を言われるべきなのかも分かっていない。何を言われても響かない。 ならば。 自分で聴かないのなら、誰かへ言わせてしまえばいい。 すっと短く息を吸い込んで、覚悟を込めて言い切る。 「私が聴くから」 ……一緒に聴こう? 真彦の黒い瞳がゆるゆると放れ、俯く。 闇に溶けそうな黒髪が覇気なくスウの胸元へ落ちた。 「……すけてくれ」 擦れた声が沈黙を裂く。 突然、強い力で抱きしめられた。 「助けてくれ。……助けてくれ助けてくれ助けてくれ!!」 慟哭は、目の前の彼女へ宛てたものではない。 一瞬、相手の体重がかかるものの、すぐに横へ転がった。左側へ横たわった青年はそれでも必死に彼女へ顔をうずめ、助けを呼び続ける。彼女ではない誰かへと。 「大丈夫」 強い束縛で身動きできないまま、スウは優しい声を落とす。 「大丈夫。恐くないから」 言われてやっと自分の震えに気づいたように、青年が力を緩める。手を放し、ごろりと仰向けに寝転がると両手で顔を覆う。 「情けないだろ、俺。こんななのに。いい年してさ」 穏やかな呟きが、本当に情けない声をしていた。 「それでも信じてるんだ。あいつなら、きっと、どうにかしてくれるって……」 呆れと溜息を交えて青年が自嘲する。弱々しく、乾いた微笑み。 「自分から捨てたのに。ダッセエの……! 」 己を蔑む声色にはわずかに後悔の残滓が漂っていた。 スウは身を起こし、両手で覆われた彼の美しい顔を覗きこむ。 「その人のこと信じてる?」 気配を感じ取ったのだろう。手を放して、真彦がゆっくりと頷いた。 「その人が、好き?」 少しの空白。 「ああ」 泣き出しそうな顔ではにかむ口元が子供のよう。 スウがにっこりと微笑む。 「やっと本当のこと言ってくれた。あなたたちの信念」 「……?」 不思議そうに見上げる端正な顔へ、スウは頬笑みのまま手を伸ばす。長めの黒髪へ手を触れ、頭を撫でる。 「もう大丈夫。大丈夫だから。……おやすみなさい」 最後の一言は宿詞。 とろりと目を閉じる青年の口から零れた名を耳にして、スウが意外そうに目をしばたいた。 確認するように彼女が顔を覗きこんだときには、彼は深い眠りに落ちている。 その無防備な顔はやはり、とても美しい。
BGM “とにかく無性に…” by globe
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