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 硬い扉の前に立ち尽くしたまま、スウは長い間そこから目をそらすことができなかった。正確には、その扉の向こうから。
 夏なのに素足のつま先が冷えて重い。戸の隙間から漏れる冷たい空気が膝まで這い上がってくる。
「どうしたの、スウ。泣いてるの?」
 唐突に声をかけられて、スウは慌てて振り向く。
「アイ……」
 買い物袋をさげたアイが、驚いた顔で廊下に立っていた。
「真彦に会ったの? 何か言われたの? だから泣いてるの?」
 アイが素足で駆け寄り、無防備に顔を覗きこんだ。心配そうに窺う大きな瞳。不安げな表情が、いっそう幼さを強調する。
 二回目だ、と気付いて、スウは内心わずかに苦笑する。咲坂が尋ねてきたときも、アイはこんな風に決め付けた。
 自分はそんなに泣き虫に見えるのだろうか。どちらかというと、幼い頃から自分は泣かないほうだった。耐えることは円滑に生きるすべだと知っていたから。それでも時々耐え切れなくなると、誰もいない場所を探しては涙をぬぐった覚えがある。その時の印象がアイに深く刻まれているのだろう。
 けれど、今の自分を満たしているのは悲しみではなかったし、怒りでもなかった。だから涙は必要ない。
 無駄な心配をかけぬよう、スウは小さく首を振って無理やり微笑んでみせる。
 それでも少し、引きつった。
 表情からわずかな情報を読み取って、アイが怪訝そうに問いかけた。
「もしかして、魔法を使ったの?」
「……効かなかった」
 ひたり、と少女が息を止めた。
「動かないようにしてから適合させようとしたんだけど、抵抗されて」
 無意識に首へ触れる。掴まれた瞬間、強い力に殺意すら感じた。
 アイはちらりとその指先を目で追うと、何も言わずにスウの手を取ってリビングへ連れ去った。クマのぬいぐるみが転がるソファーへ彼女を座らせて、そのままふいとキッチンへ消える。
 すぐに戻ってきた少女は二つのマグカップ持っていて、片方をずいっと彼女へ差し出した。
 押し付けられるままに受け取ると、ふわりと温かい熱が手のひらへ伝わる。わずかに白い湯気を立てたミルク。熱過ぎずぬる過ぎず、夏の熱気の残る室内で口につけても不快感がない。それどころか緊張でかじかんだ手足を優しくほぐしてくれる。
 どっかりと雑な態度でアイが隣に腰掛けた。不機嫌そうな顔で自分のミルクをずずーっとすする。
「あたし、アイツ大っ嫌い」
 日本刀で竹を斬るように、突然スパッと言い切った。
「いーい? スウ、よく聞いて。アイツは手の施し様もないバカよ。偏食だし、ジャンキーだし、犬だし。人の幸せぶち壊しにしといて自分は高みの見物。挙句、破滅する相手を見て嘲笑ってるようなバカ」
 矢継ぎ早にまくしたてられて、スウは目を白黒させる。いちいち言う事がもっともだが、こうも早口では全く口が挟めない。
「しかも自分のことに触れられると苛つくし怒るし暴れるし。五つも年下の女の子にマジでキレてる時点で、ぶっちぎりのクズ野郎だわ。そんなヤツにいちいち構ってやる必要がどこにある? ないでしょ?」
 ギッっと親の敵を見る勢いで睨まれて、スウは思わず鼻白んだ。
「だからあんなヤツの事、放っとけばいいのよ!」
 いいざまに、びしりっと顔へ手を突きつけられる。けれどそれはアイのものではなく、いつの間にか抱え込んだクマさんの腕だった。
 クマのつぶらな瞳と見詰め合うこと、数秒。やっとのことでアイの言いたいことを理解する。
 流暢に悪いところばかりを並べられるとつい頷いてしまうが、真彦にも長所はあった。特に、相手の負担にならないようにさり気なく配慮してくれる技術は一級品だ。その器用さと愛嬌にほだされて、スウは心を削ってまで宿詞を使うかためらい、悩んだ。
 それらを全部、見ない振りをして、すっぱり切り捨ててしまえというのだろう。
 わかった? と語気を強めてアイが言葉を重ねる。
「スウもあたしみたいに放っときなさい。いいわね?」
 目尻を吊り上げて、自信満々に命令した。視線はスウから決してそらさない。はったりをかます時のアイは、まるで一枚岩のように揺らがない。
 スウはその目を正面から見つめ、じっと黙り込む。
 それからふっと、微笑んだ。
「ううん。アイは放ってなんかない」
 相手の気迫と正面からぶつかり合わないように、彼女は意図して柔らかく答えた。
「知ってるよ。アイが毎日四人分の料理をきっちり作ってるってこと。それを私やヴィセさんに秘密で戸棚の奥に隠してることも、毎朝……黙って捨ててることも」
 真彦が一緒に食事をとらなくなって久しい。最近では、食器すら準備しなくなってきたほどだ。けれどアイは必ず三人が食べる分より少しだけ多く料理を作り、とっておいていた。もちろん真彦のためだなんて一言も言いはしなかったけれど。
「全部知ってたよ」
 アイは、アイの方法で真彦を思いやっている。だから、今言ったことはスウを納得させるための詭弁。少しでも心を苦しめず、彼女に手を退かせるために。
 アイは一瞬顔を赤くしてから、それをねじ込むように不機嫌な顔を作って、口元をつんと尖らせた。
「あたしは仲間はずれだもの」
 そのぐらいしかできないわ。と、視線をそらして呟かれる。
 思いもよらない返答に、スウは一瞬言葉を見失った。アイには飛翔炎がない。だから魔法のことには関われない。
 けれど、代わりに自分の得意分野で努力することを、そんな悲しい言葉で表現して欲しくなかった。
 その思いの伝え方が分からなくて俯く彼女を、アイが優しく諭す。
「ねえ、スウ。触らないでいればいいのよ」
 穏やかで、不思議と大人びた声だった。
「……あたし、アイツの気持ち分かるわ。構われれば構われるほど意地になっちゃうの。寄るな触るな近づくな。たとえ周りの全部をぶっ壊してでも、自分を守る。守ってやる。そうなっちゃってる人間の目。そんなのにわざわざ近づいてやる必要はないわ」
 スウのマグカップを持つ両手に、そっとアイの手が添えられた。
「結局、両方とも傷つくのよ。分かるでしょ」
 分からなくは、ない。
 アイは見ているだけでは気付かないくらい寛大に相手を思いやる。その優しさはふんわりとした真綿に包まれているようで、心地良い。繊細で慎重な配慮に、いつまでも甘えていたくなる。
 けれど、本当にそれでいいのだろうか……?
 問いかけは彼のほうから投げられた。あまりにも遠回りで、臆病なものだったゆえに、彼女にはその真意が汲み取れないくらいだったけれど。
 どうしても素直に頷けなくて、スウはうなだれる。
 アイの優しさは、確かに心穏やかにいられるかもしれない。
 けれど、長く続けるには重いのだ。知らず肩に積もった雪が旅人の足を鈍らせていくように、長引くにつれて相手の心をゆっくりと鈍らせていく。丁度、かつての自分の甘い甘い言葉たちのように。
「でもアイ。私は手遅れになるのが怖い」
 搾り出された呟きが、アイの曖昧な微笑みを崩した。
「私、いつも上手くいかないんだ。たとえそれが一番良い方法だって、分かりきってたとしても、ぐずぐず悩んで……」
 ためらう。戸惑う。後悔する。そうして長引いた末に、全てが手遅れになってしまう。
 いつもそうだ。正しい正しい、誰もが認める正論を、最後の最後で感情が手を下すことを許さない。そして、その中途半端な態度が、もっとも避けるべき結末へと自分を導いていく。
 ……あの別れの時もそう。自分は最後の一瞬、振り返ってしまった。本来ならば、あそこで断ち切ってしまうべきだったのに。そうすれば、あの子が危険を冒して神殿を出ることもなかったかもしれない。
「いつもダメになる。だから今回は頑張ったんだけど……」
 失敗を繰り返さないために彼女は焦った。その焦りが彼の反感を買い、手がつけられなくなってしまった。自分で自分が情けないと思う。本当に、どうしていつも後悔ばかりすることになるのだろう。
「やっぱり私、ダメだね」
「そう簡単に決め付けない」
 ぴしゃりと、張り手を打つような声が飛んだ。
 驚いて顔を上げた彼女へ、いつもの澄ました顔を取り戻したアイが胸をそらせて見上げていた。
「スウは一つ勘違いしてるわ」
「え?」
「考えすぎてタイミングを逃しちゃうのは全然悪いことなんかじゃない。そりゃ、不器用だなーとは思うけど。いい? スウの欠点はね、諦めが早すぎることよ!」
 相変わらず揺らぎなく言い切られる。
「いっつも一人でさっさと玉砕してるんだから。意外と思い切りは良いくせに」
 口先をつんと尖らせて、大きな瞳で睨みあげるアイ。猫のように大きな瞳が、下から真っ直ぐにスウを捕らえていた。
「考えて考えて選んだ結果でしょ? 一回くらい躓いたからって切り捨ててたら、なんにも残らないじゃない。悩んだだけ時間の無駄だわ」
 「だからウジウジしてるだけに見えるのよ」と、小さな友人はクマごと膝を抱え込む。飲み干したマグカップを指先でくるくると回した。
 スウはその様子をしばらく放心して見ていたが、やがてカップを置いて正面を向く。低いテーブルを挟んでソファーの真向かいに据えられたテレビには、何も映っていない。黒い画面に映った自分自身と目が合う。
 そんな風に考えたこと、一度もなかった。
 自分の欠点は行動が遅いこと。一つの意見を信じきることができず、様々な手段を思い描いて秤にかけてしまうがゆえに、最善の一手を選んだときには手遅れになっているからだ。『遅かった』、敗北感と共にはっきりとそう感じるために、それ以外の原因なんて考えもしなかった。
 だが同時に、スロースターターだという自覚が、出鼻を挫かれた際に大きく影響しているのも事実だ。『遅かったから』、そう言ってあっさりと身を引き、一人で打ちひしがれる。全部投げ出して諦めて、可哀想な自分を自分で可愛がる。結果は遥か先に在るというのに。
 思えば、思慮が長すぎて非難されたことは一度もなかった。
 スウは驚きと感心をもって、傍らの少女を見つめる。
 長く付き合ってきただけあって、アイはスウを知り尽くしている。ちょっと言い方が厳しいけれど、はっきりと物を言ってくれる相手がいるのは貴重なことだ。
 その一方でふと、かつて「諦めないで」と自分を叱咤した相手がいたことを思い出す。生への執着をあっさり手放し、逃げ出そうとした彼女へ向けられた純粋な言葉。彼女のために尽力してくれた少年は、同時に、何をしてもかなわない本当の諦念を知っていた。
 沈鬱に黙り込んだ彼女をアイは落ち着かなげに見つめていたが、急にはっと我に返った。
「……って、これじゃああたし、スウの後押ししてんじゃん!」
 頭を抱えて更に小さくなるアイ。
 放っておけと言ってみたり、諦めるなと言ってみたり。どちらもスウのためを思っての言葉だから、アイの中では真実なのだろう。
「あはは。でも、アイの言いたいことは良く分かったよ。心配かけてごめんね」
 思わずにっこりと微笑む。
「もう慣れっこよ」
 軽く答えて、アイはひょいとソファーから飛び出した。スカートの皺をはらい、軽快な足取りでキッチンへ向かう。
「さ、美味しいご飯を作りましょ。スウも手伝ってね。いつまでもあたしに頼ってちゃダメなんだから。一品ぐらい作れるようにならなきゃね」
「ん、そうだね」
 スウも立ち上がり、後を追う。
 振り返った先の扉は、ぴったりと閉められて何も語りはしなかった。
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