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 買出しの帰り道、スウとアイは仲良く並んでビニール袋をさげていた。
 限界まで詰め込まれた袋は、底にあるペットボトルや缶詰のせいで、少女の手にはいくぶん重い。近所だからと自転車を置いてきたことを悔やみつつ、二人は両手の袋を揺らして歩く。
 笑い合いながら繰り返される、たわいない会話。講義の話、友達のこと、テレビの内容、今日の失敗、明日の予定。
 繋がるようで途切れ、途切れるようでつながる話の合間に、スウはふと気付いて空を見上げた。
 夕日に変わろうとする太陽は、まろやかな琥珀色に空を染めている。赤みの弱い光に目を細め、彼女はそのまま軽く目蓋を閉じた。
「夏ももう終わりだね」
「へ? そお?」
「ほら、ツクツクボウシが鳴いてる」
 どこか遠くで羽化したばかりの蝉が鳴いている。耳を澄まさなければ拾えなかったであろうその音が、目を閉じた瞬間、強く耳へ飛び込んできた。
 いわれて初めて気づいた顔で、アイが辺りを見回す。
「ええー? なんか鳴き方違わない?」
「そうだよ。まだ上手に鳴けないだけ」
 途切れ途切れで不器用な鳴き声は、七年間の暗く閉じた世界から急に飛び出して、途方に暮れている子供のよう。
 その若く瑞々しい音色と、彼らの残された命と、終わり行く夏と。歪な調和が、彼女の中に『今年もまた』という不思議な感慨を呼び起こす。
 温く湿った風が吹き、鳴き声を遠くへ掻き消した。風は決して弱くないはずなのに、不思議と肌を冷やさない。湿気が重くまとわりついて、ふわりと身を包む。この快とも不快とも言えない感触は、嵐の前の風。
 瞼を薄く開く。
 空はいつまでも紅くならない。明日はきっと晴れではない。
「……台風が来てる?」
「うん。でも、予報じゃこっちには来ないって言ってたけど」
「そう」
 無意識に天を仰いで、スウはそのまま遠くを見つめる。歩みを進めながらも余所見ができるのは、よく知った道だからこそ。車の通りもそれほど多くない。
「ねーえー、スウ」
 余所見をしながら歩いていた彼女へ、いつの間に足を止めたのか、アイが後ろから意味深に呼びかけた。
「なぁに?」
 振り返って応える。
「今晩は煮物にしようって、二人で決めたよね」
「うん」
 煮物はスウの提案だ。和食が馴染んでいる彼女は、時々無性に煮物が食べたくなる。アイは料理のレパートリーが広い上に、本人がイタリアン好きなので、ついつい洋食が続いてしまいがちだ。だから、和食が食べたいときは自分から主張していかないといけなかった。
 スウが頷くやいなや、突然アイが荷物を置き、小さな体を丸めてしゃがみこんだ。ガサガサと袋をあさって、胡乱な顔を向ける。
「でもさあ、お醤油切れてたから忘れずに買わなきゃねって、言ってたよね?」
「うん」
 買い物に行く前に二人で備蓄を確認したから、間違いないはずだ。常備品で無かったのは、醤油と砂糖、コーヒー豆。それからトマトの水煮やオイルサーディン、コーンビーフの缶詰など。冷蔵庫の中身はアイにまかせっきりなので、スウには何がなんだか分からないのだけれど。
「ねえ、醤油だけ忘れてない?」
「そんなことないよ、私、ちゃんとカゴに入れて……」
 袋に入れたはずだ、とスウが手持ちの袋をあさる。すぐに大きな黒いボトルを見つけて、ほら、と示すように取り出した時。
「あ」
 そのラベルを見て、彼女はそのまま停止した。
「……それ、どう見てもソースじゃない?」
 否定のしようがなかった。
「ご、ごめん」
「あっちゃあー。あたしとしたことが、うっかりしてたわ」
 無言で俯くスウを無視して、アイが大げさに肩をすくめた。可愛い顔がギャグ漫画のように歪む。が、すぐに気を取り直して袋を掲げ、スウの目の前にずいっと差し出した。
「あたし、今すぐ買ってくるから。スウはこれ持って先に帰るコト!」
「あ、うん」
 押し付けられるままに受け取って、倍に増えた重量に少しよろける。
 いや、倍どころではない。アイの袋の方がかなり重かった。
 見た目こそ小ぶりだが、アイは意外と力持ちだ。スウには重すぎる物でも、片手で軽々と運んでしまう。あの小さな体のどこからそんな力が湧いてくるのか、スウはいつも不思議に思う。
 荷物へ気をとられた彼女へ、何を思ったかアイがべしりと一発背中を叩いた。
「気をつけてね。今日のスウ、ぼんやりしすぎよ!」
「え?」
 さり気なく釘を刺されて、一瞬、ひやりとする。
「そうか、な……」
 態勢を立て直した彼女が視線を向けたときには、アイの背中ははるか遠くを駆けていた。もともと小柄なアイがもっと小さくなっていく。
 アイが角を曲がるまで見送って、スウは荷物を持ち直す。無機質なビニールがガサリと音をたてた。
 荷が増えたとはいえ、家まではあと少しだ。マンションにはエレベーターがあるので、登るのには苦労しない。一人でも大丈夫。
 けれどその家で待っているはずのものを思い浮かべて、彼女は知らず気鬱になる。
 『おそらくもう、彼は宿詞が通じるくらいの魔力を一瞬で生成できるよ』
 ヴィセの言葉が頭の中で響いた。
 ……どうにかしたいとは思う。その一方で、どうもしたくないとも思う。自分には彼に宿詞を使う勇気がない。
 頭の片隅で、そのことがずっと回り続けていた。買い物をしている時も、アイと話していても、景色へ心を飛ばしながらも。
 アイに指摘されて、やっと本題が意識へ浮上してきた。
 そうなればもう、答えは出ている。
 いずれはヴィセか自分のどちらかが判断を下さなければならない。そう決まっている。
 重い足と荷物に耐えながら、スウは黙って家路を急いだ。



 予想通り、家の中は静まり返っていた。
 彼女はそっと鍵を開けて、玄関に身を滑り込ませると、一息ついて荷物を置いた。とにかくまずは飲み物をと、スリッパも履かずに台所へ向かうと、リビングからチカチカと明かりがこぼれていることに気づいた。
 一瞬どきりとして、呼吸が止まる。かつてこの家で見た、石の光を思い出したからだ。
 けれどその光は青だけではなく、赤や緑、白や黄色へとすぐに色を変えていった。テレビの光だと気付くまで、そう時間はかからなかった。
 出かける前に消し忘れていたのだろうか。
 安堵まじりにリビングへ顔を出した彼女は、そこで久しく見なかった姿を見つけて立ち止まる。
 仄暗い夕闇の中で、真彦がテレビの前に座り込んでいた。
 乱れた髪。背を丸め、食い入るように画面を見つめる姿はどこか必死で、スウの知る彼とは別人のように見えた。瞬きしないその顔をテレビが七色に染めている。
 『あなたの街のS.S.S.』
 不意に流れたメッセージ。耳慣れたそれは、スウもよく知る企業の宣伝文句。
 『三つのSは信頼の――
 ぶつりと、唯一の光源が断たれた。
「何?」
 硬質な声が放たれたのと、部屋の明かりが灯ったのはほぼ同時。
 真彦が立ち上がり、彼女へ向き直っていた。手にあるのはテレビのそれではなく、照明のリモコン。急な明かりに目が慣れていないせいか、彼は半分目蓋を落とし、わずかに顔を背けている。
 流し目に似た視線を向けられて、ぞっと鳥肌が立った。光の入らない瞳は闇のように黒い。痣のように浮く隈が病人のようだ。青ざめた顔はいっそう痩けて鋭く、精悍さを増している。そして、力を込めることを忘れた蝋人形のような無表情が――元が整っている故にひどく冷たく見えると、彼が意図してしなかったものが――彼女を見据えていた。
 一瞬怯み、反応が遅れる。そのためらいがうろたえになって、彼女はその場で萎縮してしまう。何かひどく、見てはいけないものを見てしまった気がした。それが何かは分からないのだけれど。
 彼は目を逸らし、ガシガシと頭をかく。伸びた前髪が顔にかかり、いっそう病的にみえる。
「何っつってんの」
「えっ……」
 苛立った声で再度問いかけられ、スウは戸惑いをあらわに相手を見上げる。その動きと被さるように、チッ、と鋭い舌打ちが耳朶を打ち、無意識にびくりと肩がすくむ。
 傍目にもその動きが面白かったのだろう。真彦がにやりと口元をゆがめた。
 その表情に怖気づき、スウは今度こそ何も言えなくなる。何かを、この空気を打破する何事かを言わねばならない。そう分かってはいるものの、彼女の唇は動かない。
 どうしよう。
 考えのまとまらないまま、力を込めて口を開き、また閉じる。
 彼女が何度目かに口を閉じた時、真彦がはっと息をついて視線を逸らした。首に手を添えてぼきぼきと鳴らすと、ぱっと視線を上げる。ぱっちりと見開いた瞳には、いつもの軽く遊ぶような光が宿っていた。
「で、何なの? そんな目で見つめられると、俺、思わずいじめたくなっちゃって困っちゃうんですけどおー」
 けたけたと笑いながらからかわれて、彼女は逆に動揺する。
 これは、いつもの彼だ。素早く、遊ぶように言葉を操り、相手を煙に巻いてしまう道化の男。
 けれど言っていることは先程と何も変わらない。
「………………」
 スウはもう一度口を開いて、ためらいに閉じた。そのまま俯いたが最後、もう顔を上げることが出来ない。
 言わねばならない。今を逃せば、次に彼が部屋から出て来るのはずっと先になるだろう。
 無理をして自分を隠さなければならないほど、そしてそのことがスウにもはっきりと見て取れるほどに、彼は病み疲れている。次がある保障はどこにもない。だから、今、自分が。
 貝のように口を閉ざした彼女を、真彦は少しの間見ていた。だがすぐに「ま、いいや」と呟いて、ためらいなく一歩を踏み出す。
 真横を通り過ぎる気配に、スウが顔を上げる。予想よりもずっとあっさりと身を翻された。振り返ったときにはもう、真彦は自分の部屋の扉に手をかけている。
「あっ」
 断たれる。
 反射的に追いかけて、スウは閉まろうとする扉に手を伸ばす。
 指先が扉に触れ、爪が高い音をはじき出した。
「痛っ」
 思わず呟く。
 その叫びに満たない声が届いたのだろうか。閉まりかけた扉が開いた。
「大丈夫? 挟んだ?」
 慌ててひょいと顔を出したのは、さっきのぞっとするような無表情でも、作り物の笑顔でもなかった。
「当たっただけ……です」
 言いながら、スウはその整った顔をじっと見つめる。真摯に、大きなためらいを含んで。
 数秒、黒い瞳と目が合う。
 そしてやはり彼女は俯いてしまう。
 一向に煮え切らないスウの態度に、真彦が何かを諦め、盛大に呆れ返って溜息をついた。腕を組み、笑みとも計らいともつかない口元で見下ろされる。
「だから、何なわけ?」
「え、えっと……」
 追い詰めるような問いかけに、スウは思わず視線をさまよわせる。偶然、扉の隙間から覗く室内が目に入った。
「あっ。すごい、この部屋きれい!」
「めっちゃ話すりかえてませんか」
 瞬時に突っ込まれるも、気にしない。引っかかったら負けだ。
 スウは出来得る限りの笑顔を意識して作り上げる。引きつったって気にしない。とにもかくにも、勢いがあればいいのだ。主導権を握った方が勝ちと、アイも常々そう言っている。
「すごいですね。この倉庫、いつも足の踏み場がないくらい本が平積みされてたのに!」
 無理やり向けた矛先の、どうでもよさにつられたのだろうか。真彦がいぶかしみを解かないながらも話に乗る素振りを見せた。
「あー……暇だったんで」
「意外ときっちりしてるんだ」
 素直に感心して、スウは真彦越しに室内を見渡す。左側の壁一面に備え付けられた本棚は、本がぐちゃくちゃに詰まっていたはずだ。足元の床も、まさしく踏み所がないくらい書物が平積みされていた。専門書が多いために捨てるにも捨てられず、大判書が場所を取る一方だったのだが、それらが見事に整頓されている。
 興味深く本棚を見つめるスウへ、真彦がどこかバツの悪そうな顔で横から口を挟んだ。
「片付けってさ、積みゲーみたいで楽しくない?」
「は?」
「あーハイ俺だけですかそうですか」
 投げやりに言うなり、真彦は何気なく取り出した本をひょいと投げ捨てて、頭の後ろで手を組んだ。ざっと部屋を見渡していたかと思うと、不意に「あ、そうだ」と呟いて、書棚の一角を指差す。
「ついでだから聞きたいんだけど、この本ってヴィセさんの? 妙に堅っ苦しいのばっかで見てて欝になるから捨てたいんだけど。あの人って難しい本、嫌いなんじゃなかったっけ?」
「全部アイのですよ。ヴィセさんは本はあまり読みたがらないから」
 ぱかっと、真彦がくるみ割り人形のように口を開いた。いつも思うが、反応が速い。
「マジか。哲学書じゃんコレ」
「アイの趣味です」
 アイが哲学に傾倒しだしたのは中学の頃。高校で倫理を教えられるずっと前だった。一体何がどう彼女の琴線に触れたのかは分からないが、一時期のアイはむさぼるように哲学関係の本を買い漁っていた。特に近代の西洋のものがお気に入りらしいが、詳しい事は知らない。
「へぇー、見かけによらないねぇ。あんなノリで『神は死んだ』とか言ってんだ?」
 皮肉げな微笑みを浮かべて、真彦が顎を指先でさする。
 確かに、日頃のアイは一切そんな素振りを見せなかった。明るく楽しくお洒落なことが大好きだと豪語して止まない彼女は、暗い顔や辛気臭い顔を決して見せたがらない。なのに、そんな彼女がどうして哲学に目覚めたのか、スウですら全く予測がつかなかった。
 高校で倫理を選択しなかったスウは、大学に入った今でもそちらの方面に疎い。真彦の呟きが誰の引用かもはっきりしないくらいだ。
「でも、アイはどっちかというとその人じゃなくて、えーと、なんでしたっけ、あの呪文みたいな。えーっと、コビトエル……」
「『コギト・エルゴ・スム』?」
「そう、それが好きみたいです」
「ふうん。デカルト派か」
 さも一般教養だと言わんばかりに頷かれて、スウは内心冷や汗をかく。
 無理やり取り繕う彼女に気付いているのかいないのか、真彦はそ知らぬ顔で作者別に整えられた蔵書から数冊を手に取り、興味なさげにパラパラとめくった。「さすがに原書は無いな」と呟いて、ご丁寧に元あった場所へ戻す。それから、ふいに手を止めて、首を捻るようにスウを見下ろした。
 ぼんやりとその様子を眺めていたスウは、不覚にも視線を正面から捉えられてしまった。
 見透かしたような瞳が勝ち誇って微笑んだ時、彼女は怯えた。肉食動物の前で小型の草食動物が停止する時に似ている。逃げた方が良いと分かっているのに、体が動かない。
「何考えてんの」
 今度は逃がさぬとばかりに繰り返された質問。
 彼女はとっさに視線を逸らそうと試みて、寸前で踏みとどまる。無意識に握り締めた指の、爪が割れていたことに気づいたからだ。……自分は何のために彼を呼び止めた?
 そうする必要があったから。
「…………」
 薄く口を開いたまま黙り込む。ためらいで唇が震えた。それでも真っ直ぐに彼を見詰め、彼女は一歩も動かない。
 何度自分を奮い起こし、怯んだことだろう。今日この家の扉を開けたとき、開ける前。彼を見つけたとき、見失いかけた時。
 そして今。ずっと。
 最後の勇気を振り絞って、今度こそ口を開く。
「……あの、」
 少し背伸びをして、彼の耳元へ口を寄せる。
「おとなしくしていてください」
 ずっと窺っていた。
「すぐに済みますから」
 宿詞を、使う機会を。
「お願い。適合し――
「やめろ」
 震えかけた彼女の喉を、骨ばった大きな手が掴んだ。
 衝撃で後ろへ倒れ、扉にぶつかる。その音に驚いたように、薄い喉の皮を掴んでいた手が離れた。
 どうして。
 混乱しながらも事態だけは把握する。自分は「おとなしくしろ」と言った。抵抗なんてされるはずがなかったはずなのに。
 宿詞が、
 ひゅうと喉の奥が音をあげる。
 効かなかった……?
 瞬間、背をあずけている扉へ平手を叩きつけられた。
 背を伝う衝撃に身をすくませて、思わず目をつぶる。
「出てけ。今すぐ、ほら、出て行けッ!!」



 冷たい扉はまた閉じられた。ついさっきこの扉を開けたのは、彼の方だったのに。
 スウはじっと木製の扉を見つめ、立ち尽くす。
 ああ、彼は本当は、何を求めていたのだろう。
 繰りかえし問いかけられた言葉。
 “何? ――何が言いたいの?”
 ためらい、留まり、いつまでも前に進めない自分に何度もなされた『催促』。
 その答えを自分は導くことができなかった。
 彼の望んだ、たった一つの言葉を。
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