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 でもね、と誰かが頭の内側からささやいた。
「宿詞なら、根本から覆すこともできるんじゃないですか」
「薬に頼らないようにさせるつもりかい? 宿詞で魔法を信じるように?」
 全く同じ内容を噛み砕いて告げられた時、スウの心臓が大きく鼓動した。表情が冷たい水を浴びせかけられたように硬直する。
「私は反対するよ。獣云々以前に、そこまで深いところを覆されて自分を保てる人間がいるとは思えない。宿詞はね、万能だけれど、必ず完璧な結果を生むわけではないんだよ」
「……はい」
 スウが俯く。顔が熱い。自分は宿詞を使いたくないと思っていたのではなかったか。それが、進んで人の心を操作しようと思うだなんて。
 自分が恥ずかしい。
 萎縮する彼女を見かねてか、ヴィセが優しくフォローした。
「でも、目の付け所はすごくいいと思うよ。事実、真彦の飛翔炎は必死で彼に適合しようとしている。合わない部分を侵食し、彼の心を作り変えてしまおうとしているんだ。そもそも宿詞を使っても、飛翔炎に合わせて宿主を変えることしかできないんだよ。飛翔炎の側も調節するけれど、宿主への負担も大きい。それでも、少なくとも拒絶反応に苦しむことはなくなる。……もっとも、拒絶しなければ苦しみも無いって意味だけど」
 スウは目を見開いてヴィセを見つめた。それでは想像していたものと違う。
「じゃあ、根本的な解決方法は」
「難しいね。私は便宜的に宿詞で『治る』と言ったけれど、我々が手を下していいのは妥協の領域までだ。それ以上は、たとえ立ち入れるとしても立ち入っちゃいけない。それは分かっているでしょう」
「……分かっています」
 口を結んでスウが俯く。
 ヴィセが慈しむように微笑んだ。
「ごめんね。私たちの世界では人格形成の過程で宿詞の影響を受けるから、その点は問題視されていなかったんだ。実際、そこまでこだわる程のことじゃないと思うんだけど……」
 愚痴じみた呟きを叩き割るように、アイの真っ直ぐな声が入りこんだ。
「お父さんの話、抽象的すぎて全ッ然わかんない」
 スパッと言い切る愛娘。
 さっきからずっと黙っていたのはアイなりに思う所でも、と内心ハラハラしていたスウは、その手厳しい審判が意外だった。アイは強い批判的精神の持ち主だが、その矛先がヴィセに向かうことはほとんどない。
「えっ。ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」
 素直に謝るヴィセ。時折見せる純粋そうな一面を隠さないのが彼の長所だ。
「うーん、どう言えばいいのかな……」
 頬を軽くかきながら、ヴィセが視線をさ迷わせた。
「じゃあ、例えば今すぐ自分が死ぬとしたら、何が心残りだい?」
「プリン」
 即答したのはアイだった。彼女は器用にナイフとフォークでアサリを殻から取り外し、ぱくりと一口。つんと澄まして白々しいセリフを吐く。
「昨日のプリン、食べたかったなあ〜」
「ご、ごめん……」
 アイが自分用にと確保していたプリンを、うっかりスウが食べてしまっていた。賞味期限が切れていたから処分しようとしたのだが……それがアイの逆鱗に触れてしまったらしい。
 そんな乙女の戦いには気付かず、ヴィセが軽い動作で人差し指を立てた。
「じゃあそれにしよう。プリンが食べたい、そう思って前の宿主が死んだ。そしてその飛翔炎が次の宿主に乗り移った。けれどその宿主は、昔プリンを百個食べてお腹を壊して以来、二度とプリンなんて食うか! と思っているとしたら?」
「最悪の事態ね」
「だね。飛翔炎は食べたい。宿主は食べたくない。つまり、心が二つになってしまっている状態なんだ。これが不適合の原理」
 フォークで宙に絵を書くようにして、ヴィセが説明する。
「でも、これって別に宿主そのものはプリンが嫌いだとか、食べられないとかじゃなくて、むしろ大好きの部類だよね。自分で百個も食べてるんだから。……罰ゲームとかじゃなければね」
「あー」
 スウがどこか間の抜けた納得の声を出した。良くは分からないが、なんとなく掴めた気がする。
「そうじゃなければ、そもそも飛翔炎が寄り付かないはずなんだ。だから宿詞を使ってプリンを食べないようにした場合、宿主の本心ともズレがでてしまうことになる」
 ヴィセが呆れたように溜息をついた。椅子に背をあずけて、斜め上へ視線を投げかける。
「人間みたいな高い知能を持った生き物は、そういう矛盾した感情を持てる。でも、飛翔炎はいわばオリジナルの劣化コピー。融通の利かなさじゃピカイチだよ。さらにオリジナルが人間でなかった場合、両者のズレは半端じゃない」
 あ、今のは後天的な憑依の話ね、とヴィセが肩をすくめた。「向うではこの例えだと、生まれながらにプリン大好き人間になるから」と苦笑する。
「だから上手に適合させるには、飛翔炎には『ちょっと我慢しろ』って命令して、宿主には『一回くらい食べてみたら』と譲歩させる必要があるんだ。はみ出した部分をそれぞれ削って、ぴったりと重ね合わせるしかない。分かるかな?」
 二人が頷く。アイは素早く、スウはワンテンポ遅れて。
「だからどうしても、宿主の意志に影響を及ぼさずにはいられないんだ。今は飛翔炎が一人で頑張っている状態なのだけど、これを宿詞でサポートすることになる。獣も一緒に丸く納めてしまうから、侵食を促進させるわけではないのだけれど……妥協点が出てくると言えば良いのかなぁ」
 自分の説明に自信が持てないらしく、ヴィセが顎に手を当てて考え込んだ。彼とスウたちとでは知識も違えば育った常識も違う。ヴィセたちは生まれた時から飛翔炎に宿られているから、その意志に人格が影響されるのは当たり前のことなのだろう。
「それは……もっと、優しく促すことはできないんですか?」
 スウが恐る恐る窺う。宿詞で宿主に心境の変化を起こさせるとしても、穏やかな変化ならば当人も気付かないことがあるかもしれない。
「宿詞は単純な力だからね。使う人次第ではあるけれど……メスと同じだよ。たとえ癒すためでも、切り裂かなければいけないし、傷も残る。優しくするか手荒くするかの違いはあってもね」
 スウが軽く俯いて黙り込む。反論はできないが、素直に頷くこともできなかった。
 彼女は宿詞をなんでもできる力だと思っていた。異世界の人々が繰りかえし自分に教えてくれたように、万能にして絶対の力だと。言葉一つでどんな事態も解決してしまう、それこそ『魔法』だと思っていた。だから真彦のことも、彼が同意して魔力を溜めてくれたなら、事は一瞬で済むと思っていたのだが。
「……飛翔炎を取り除くことは、できないんですか」
 ふと、それまで考えてもみなかった発想が彼女の口を動かした。
 言った後から自分の中に有ったものに気付く。
 他人の意志が心の中にあるなんて、考えただけで気持ちが悪い。できることなら排除したい。宿詞ならば、憑き物を落とすように、彼の中から飛翔炎を取り出すこともできるのではないか。そうすれば自分の力が消えることもありえるのではないか。普通の人間に、戻れるのではないか。そんな願望が底に潜んでいた。
 ヴィセが一瞬黙る。
「それだけは駄目だ。私が許さない」
 突然声色を変えた相手に、スウの背筋がぞっとざわめいた。宿詞ではない。けれど、それに等しい力のある声。異世界の人々が聞いたならこう言うだろう。勅命、と。
「飛翔炎を宿主から引き剥がすことは、根の張った精神ごと魂を引き抜くようなもの。本来なら死でしかありえないことだ。宿詞で行えば肉体は滅びないけれど、その人という存在は永遠に消えてなくなってしまう」
 ヴィセは笑っていない。それは、先程からずっと続いていた。ではこの違和感は何だ。ひたと見据えられた黒い瞳に、普段とは違う確固たる意志と自覚があった。王としての、そして宿詞の継承者としての。
 けれどそれは幻のように、跡も残さずいつもの彼の中に隠れてしまった。
 ヴィセはひょいと肩をすくめる動作で視線を外し、肩を揉んで体をほぐした。頬杖をついて何気なく、けれど諦めを滲ませて呟く。
「結局、真彦を今の真彦のままでいさせてくれるのは薬だけなんだ。薬は何も解決しない代わりに、何かを変える力もない。このまま常用すれば、緩やかに堕落していくだけだろうけど……」
 そこで少し言葉を切ってちらりと少女達を見遣る。視線には配慮の色があった。
 けれど言葉はそぐわない。
「それは、本人の意思だから」
 スウがとっさに腰を浮かせる。
「じゃあ、みすみすっ」
「見過ごせないというなら、覚悟が要るだろうね」
 すっと下から見据えられて、怯む。彼女はとっさに目を伏せて黙り込んだ。力なく席に戻る。
 ヴィセがワインのコルクをもう一度開け、先ほどよりも多めに注いだ。
「だから、私は機を窺っていたんだ。真彦が獣に拒否を示さなくなるくらい侵食されたら、その時こそ宿詞を使おうって。今のままだと、それより早く限界が来てしまいそうだけどね……。思ったよりずっと頑固だったみたいだ。どうしようか」
 スウには答えられなかった。おそらくヴィセも同じだろう。同じだから、いつもより多めに注いだワインを、さらに多めに注ぐことになっているのだ。
 ぎゅっとコルクをねじ込んで、ヴィセが低く呟く。
「おそらくもう、彼は宿詞が通じるくらいの魔力を一瞬で生成できるよ。薬さえ切れていればね」
 はっとしてスウが顔を上げる。
――ねえ」
 だが彼女が答えるより早く、ヴィセの解説中も一人で黙々と夕食を食べていたアイがフォークを止めて首を傾げた。
 アイは不用意なことを言わない。深刻な話を聞く時ほど、関心がない風を装って好き勝手している振りをするからだ。が、話を聞いていないわけではない。
「誰かに変えられてしまった自分って、本当の自分だって言えるのかしら」
 内側へ沈みこむような声で、アイが呟いた。こういう時のアイの言葉は、川底の流れから逃れて、突然木の葉が水面へ顔を出したような、そんな不思議さがある。
「さあ、どうだろうね」
 さらりと受け流すのは、ヴィセの悪い癖だ。
「あたし、なんとなく真彦が引き篭もってる理由が分かった気がする」
 神妙な顔をして溜息をつき、アイが自分の食器を片付け始めた。
 すっかり冷え切った料理の数々を眺めて、スウは自分の箸を置いた。これ以上、手を付けようとは思えなかった。
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