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六章   慟哭


 ――ち……よ。

 ――……い。……しい。しいっ。――しい……ッ!
 声が聞こえる。
 一人きりの部屋で、誰にも聞こえない声がした。呻くような、わめくような叫びは頭の中で反響し、一つとしてうまく聞き取れない。
「うるさい」
 殺すように呟いて、頭を押さえつけた。手のひらの中で折れ込む耳の感触が気持ち悪い。自分の異形を自覚して、彼はきつく両手を握り締めた。
 また、薬が切れた。
 無意識に胸ポケットを探るも、殻のビニルシートが転がり出るだけ。ぐしゃりと握り潰して投げ捨てる。予備はどこだ。
 立ち上がって、壁いっぱいに備え付けられた本棚を漁る。上段右から四冊目。違う。これは昨日使い切った。下段左の十三冊目。は、この間チビ助に見つかった。足元なんて二度と使うか。二段目手前の平積み下から三冊目二三五ページ。中央から二十三冊目奥七八〇ページ……どこだ。どこだどこだどこだどこだ。
 背表紙を撫でれば撫でるほど、ページをめくればめくるほど、焦りが記憶を鈍らせて正解へ辿り着けない。その間にも耳の奥で獣がわめき続けている。
 ――辛い。 ――悔しい。 ――悲しい。 ――寂しい!!
 痛切な嘆きに共鳴するかのように沸き起こる、後悔と気に入らない感情。恨み? 憎しみ? そんなものなら簡単に制御できる。今までの人生の中で嫌というほど経験してきたのだから。だが、この感情は気に入らない。
「うるせぇんだよッ!」
 かき消すために張り上げられた声は、壁に当たってむなしく霧散した。
 この声が聞こえ始めたのは、いつからだったか。はじめはただ泣き叫ぶような雄叫びだったものが、いつの間にか意味を持った。意味のある音で叫び続けるようになった。
 それも、彼自身の声で。
 ――
「黙れ!!」
 手にした本を床へ叩きつける。
 違う。自分はそんなことなど、毛ほども思っていない。これはコイツが勝手に言っているだけだ。絶対違う。違う!
 頭を押さえて床へしゃがみこもうとした時、視界の端に鈍く光るアルミの端を見つけた。飛びつくように掴み、ビニルシートから薬を数錠取り出す。数えもせずに口へ放り込んだ。一瞬吐きそうになる。味も触感も全てが気に入らない。半ば唾液に溶けた薬物が喉を通るときの、むせ返るような不快感。本当は薬なんて大嫌いだ。だが、この愚かな獣を黙らせるにはそれしか方法がない。
 やがて緩やかに恍惚の波が訪れると共に、獣が言葉を一つずつ失っていく。彼のものだった声色も獣じみた呻きへと変化し、その意味を忘れていく。
 ――……よ……くやし……ああ……ぁあ……!
 詰まり、擦れ、小さくなる声。
 そうだ消えろ。消滅して、そして死ね。
 ――ああああああああああああああああああ!!!
 最後に一つ狂い鳴き、声は途絶えた。



 いつものように夕食が出来上がって、さあこれから食べ始めようという時。難しい顔をして席についたアイが、突然フォークの後ろでテーブルをガンガンと叩きだした。
「あーもうっ。タルタル・ステーキなんて、どうやって作るのよ!」
「タルタル?」
 瞬きを二つした後で、スウが首を傾げた。アイの脈絡のない感情の変化はいつものことだが、突然出てきた耳慣れない料理の名前は気になる。
 イタリアンが大好きなアイは、今日のディナーも南イタリア風一色だ。フランスパンを浸したオニオンスープやエビとアサリの白ワイン蒸し、マルゲリータピザなどのベーシックなものから、ちょっと手の込んだ舌平目のグラタンや創作前菜の盛り合わせまで、テーブルの上には十分な量が揃っている。他にもオーブンの中では二枚目のシーフードピザが待っているし、デザートのティラミスとラズベリーのムースも楽しみだ。これ以上品数を増やす必要は全くないと思う。
「タルタルソースのこと?」
「ぶっぶー。まあ、生ハンバーグってかんじ」
「生っ?」
 生の魚料理には馴染みがあるものの、生肉となるとユッケぐらいしかスウは知らなかった。肉の刺身や寿司も聞いたことはあるけれど、本物に出会った試しはない。
「フフフ、あたしは調べたの」
 疑問符を顔に貼り付けているスウへ、アイが人差し指を立てて得意げに笑った。つんと尖った唇と、不敵に持ち上げられた口角。可愛らしさの中にスパイスのような毒が仕込まれている。しかもそれが不思議と鼻につかず、愛らしい。
「犬って鼻は良いけど、舌はバカなのよね。だから同じ物を食べても、人間が食べたときほど美味しく感じないんじゃないかって推測したワケ。だから食べないのかなって。あいつ、見た目によらず神経質じゃない?」
 ずばりと言い当てたような顔をするアイへ、スウは曖昧に頷いてみせた。神経質と言い切るには、真彦は大胆すぎる気がしたからだ。男性の基準をヴィセに求めるアイからすれば十分なのだろうが、いかんせんヴィセが鷹揚すぎる。
「だから本物の狼が何を食べてるか考えてみたの」
「あー、それで生肉」
 スウが今度こそ本当の頷きをもって応えた。
 真彦がとり憑かれてから一年以上。薬によって侵食を阻んではいるものの、そろそろ耳以外の部分まで変化が起こっているのではないか、と踏んだのだろう。
 アイが頬を膨らませて、両腕で頬杖をついた。
「問題はどこで新鮮な肉をゲットするかなのよねー。焼肉屋さんとか、どこで仕入れてんのかしら。ちょっと遠いけど、商店街のお肉屋さんに聞いてみようかなぁ」
「近所のスーパーのお肉じゃダメなの?」
 スウがお茶をコップへ注ぎながら、なにげなく応えた。アイだって、いつもそこの店は安くて美味しいと褒めている。
「生食用はないの。っていうかスウ、今、普通のパック入り豚バラとかをイメージしたでしょ。頼むから変なチャレンジ精神に溢れないで。あっても絶対あたしが買うから!」
「……はーい」
 妙に力を込めて説得されて、スウは目を合わせないように努めた。完全にバレていた。
 そこへ、真彦を夕食に呼びに行っていたヴィセが首を振りつつ戻ってきた。どことなくしょんぼりとした様子で溜息をついている。椅子に腰掛ける背中が丸かった。
「どうだった?」
 アイが窺ってみせるも、答えは最初から知れていた。ここ最近、真彦が食事の席を共にしたことはない。だからこそ今日のように、アイが好きな物をのびのびと作れているのだが。
「ダメだったよ。それにどうも私、最近まーくんに嫌われてる気がするんだよねぇ。避けられてるというか。宿詞のせいでスウちゃんもすっかり口数少なくなっちゃったし、なんだか寂しいなぁ」
「ええと……」
 フォローしようにも、彼の言う通りに口数を控えているスウには言えることがない。最近は制御ができているのでヴィセにも積極的に話しかけているつもりだが、以前に比べると会話は減ってしまっていた。
 ヴィセが慣れた手つきで白ワインを空けた。一杯分だけ多めに注いでコルクを戻す。アルコールに弱い彼にはそれで十分なのだ。ここに真彦がいれば、軽く二本は空にしてしまっただろう。ヴィセお気に入りの黄みの強いワインはかなりの甘口らしい。以前、真彦が一緒に飲んで「邪道」と顔をしかめていたのを思い出す。彼は赤ワインが好きだった。
 真彦の居ない食卓は味気ない。ただ居ないだけなら気兼ねなく美食を楽しめるものの、本人が薄壁一枚隔てた先に居て、食べたい物も受け付けられずにいるのだから。彼は物欲しそうな素振りを見せないが、それがプライドの産物だということはスウにも分かる。
「もー。ヒキコモリも大概にしてよね」
 前菜を食べながらぶつくさと難癖を付けるアイに触発されてか、ヴィセが物憂げに呟いた。
「やっぱり、鍵を取り上げちゃったのが悪かったのかなぁ」
「鍵?」
「真彦の部屋の鍵をね。一緒に居させたほうが安心だし、細かい状態も分かるから、取り上げてしまっているんだけど……ちょっと騒がしすぎたかな。野生動物ってデリケートなものらしいし」
 スウも前々から、隣に自室があるのに良く留まっているものだと感心していた。真彦なら鍵開けぐらい簡単なはずだ。彼にも人恋しいところがあるのかと邪推していたが、裏でヴィセが動いていたらしい。もともとヴィセ名義の部屋なので、電気もガスも止め放題なのだろう。
 だが、もしスウが真彦の立場だったら、部屋には絶対戻らない。
 一人で、何も打つ手がなくて、ただただ時間の経過に怯える恐怖。自分が堕ちていくのを止められない絶望感。
 こうして近くに人がいるだけで心強くいられることを、彼女はよく知っている。
 もの寂しい記憶に沈み込んだ彼女を、アイの大きな声が掬い上げた。
「だからって、ウチで薬やってたら意味ないじゃない!」
 そう、今の問題はそこである。アイに見付けられてからも、真彦は薬を止めない。スウも見つけるたびに取り上げているのだが、それも焼け石に水。そのうちだんだんと根城と決めた部屋から出てこなくなってきて、今では中で何をしているのかも分からない。
 憂鬱に溜息をつく二人へ、ヴィセがピザを齧りながらつるりと滑らせるように言葉を返した。
「前も言ったように、私は薬を禁止する気はなかったよ」
 悪びれすらない平然とした言葉。
「真彦が薬に頼るつもりなら、そのまま常用させて様子を見ようと思っていたくらいだから」
「ええ〜〜!」
「そんな、ヴィセさんまで……」
 確かに彼は選び放題だと言っていた。けれど、それは選べるようで選択肢は一つだと示唆しているのだとスウは捉えていた。アイもそうに違いない。
 ショックを隠さない少女達を、ヴィセは曖昧な微笑みを浮かべて見遣る。
「君たちには分からないかもしれないね。真彦は今、見た目よりずっと不安定な状態なんだ。スウちゃんを襲った男を思い出してごらん。ちょっとでも気を抜けば、彼のように精神をズタズタに引き裂かれてしまうはずだよね。真彦がそうならないでいるのは、薬の力だけじゃないんだよ。あの時は本人がいたから喧嘩になると思って黙っていたのだけれど……」
 ヴィセがそこでわずかにためらった。
「やはり、信念なのかな。魔法や宿詞、我々の世界に属する全てを否定する意志だよ」
「信じていないってことですね」
 スウが思いがけず、すんなりと相槌を打つ。
「そう。非科学的だと切り捨てて、脅威を自覚しないでいることで、自分を安定させているんだね。一つ筋が通っていれば、人の心はとても強くあることができる」
 そう言って、ヴィセがグラスを傾けた。
「君たちはこの世界で育ったから、自分で自覚している以上に科学を絶対だと思っている。私から見ればね。……科学的に証明されていれば安心でしょう?」
「分からないわ」
 アイが即答する。考えてもいないような速さで答えられるのは、既に考えたことがあるからだ。アイはよくこういう答え方をする。
 ヴィセが優しく微笑んだ。包み込むような、非を正さない残酷さのある笑み。
「そういうものだろうね。じゃあ反対に、なんでも魔法で説明されたら胡散臭く感じるでしょう」
「……はい」
 控えめに、だが確りとした声でスウが頷く。彼女が身をもって体験してきたことだ。
「私もそうだよ。科学なんて信じられない。今でも心の底ではね」
 満足げに答えて、ヴィセがもう一度グラスを傾けた。今日の彼が饒舌で、どことなく皮肉げな色があるのは、このワインのせいかもしれない。
「だから魔力もなしで空を飛ぶ飛行機なんて、怖くて見たくもないくらいなんだ。今にも落ちてきそうで」
 肩をすくめておどけるヴィセ。
 スウはふと異世界での会話を思い出す。スウが魔法のない世界から来たと知ったとき、デュノは魔力のない自分でも空が飛べると言って、飛行機を羨んだ。レゼも方向は違えど、革新的な技術になると喜んだ。彼らも、もし実際に飛行機を目にしたら、ヴィセのように感じるのだろうか。
 少女たちはいつの間にか料理に手をつけるのを止めていた。
 ヴィセがグラスを置いて、ふっと穏やかな微笑みを消す。
「人ってそういうものだと思うよ。どれだけ事例を出されても、根付いたものに抗うことは難しい。お金が全てだと思っている人間は最終的にお金に頼るし、力だと思えば力、愛だと思えば愛。真彦の場合はたまたま魔法の真逆だっただけで」
「真逆……」
 合理を信じる人だから、魔法が受け入れられないのだろうか。
 スウは少し考えて、その説を否定する。
 自分は異世界で戸惑いながらも魔法を受け入れることができた。その時は魔法が非合理だなんて思わなかった。合理的に説明してくれたから。
 妄信もあっただろう。だがそれ以上に、彼らは理性的だった。
 きっと、この世界にあってなお魔法を信じろというほうが無理なのだ。
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