BACK//TOP//NEXT
 炭酸のペットボトルに口をつけながら、真彦がジーンズから携帯電話を取り出した。
 ブラック一色のボディが細かく振動している。
 一度は取り出したそれを、赤く光るサブディスプレイにさっと目を通しただけで、彼はポケットへ戻した。
 スウは一瞬、出なくても良いのかと言いかけたが、すぐにメールだったのかもしれないと思い直す。後できちんと返信するつもりなのかもしれないし、本当にどうでもいい物なのかもしれない。勝手に送られてくる熱烈な業者メールには、スウも辟易していた。
 そのまま真彦は何も言わず、ぶらぶらと歩く。
 彼女も黙ってついていった。
 近くでセミが鳴いている。いつの間にか日が陰り、風が少し涼しくなった。
 スウはぼんやりと真彦の広い背中を眺める。自分といると黙っていることが多いな、と思いながら。口数の少ないスウは、知らず相手に気まずい思いをさせていることがある。真彦は配慮を欠かさない類の人間だが、それでも黙っていると言うことは、もしかすると相当うんざりさせているのかもしれない。
 そう考えながらも、自身はとくに居心地の悪さを感じていなかった彼女は、突然話を振られて少し驚いた。
「白状してもいい?」
「え?」
 真彦が振り返らずに、決まりの悪そうな声で告げた。両手を頭の後ろで組んで上を向く。視線の先には何も無い。ただ青い空が広がっている。
「さっき言ってたのって、実は咲の話なんだ。思い出がどうのこうのってヤツ。崇ちゃん、千尋ちゃんって憶えてる?」
「はい」
 スウは答えながら、さり気ない帽子の押さえ方だと思う。
「俺がこんなだから会ってはいないんだけど、たまにメールが来るんだよね。もう結婚して一年でしょ。最近、特に愚痴が増えてる」
「……はぁ」
 どう言うべきか分からずに、間の抜けた相槌を打った。それから先程の着信を思い出す。
 咲坂が結婚して一年と少し経つ。去年の十月ごろ、無事子供が生まれたと聞いた。女の子だという。モデル同士の夫婦から生まれたのだから、きっと玉のように可愛らしいだろう。咲坂の優しい性格なら、きっと子供も妻も大切にしているに違いない。
 三人の幸せな家庭を想像して、彼女が小さく微笑む。
 それを横目で確認するように見て、真彦が口を開いた。
「咲がさ、いつまで経っても忘れてくれないんだって」
 スウが立ち止まった。
「俺は被害妄想も入ってると思うけどね。咲は崇ちゃんが綺麗に始末してくれたはずだから」
 そこまで言い切ってから、真彦が振り返る。語調にはあの試すような気配が混じっていた。
 小道で二人が向き合う。
 彼の鋭い造形の目元が、心を見せない瞳で観察している。
「それは……心配だね」
 スウが顔を曇らせて、考え込むように足元を見下ろした。
「千尋さん、あんまり私のことを気にかけないといいんだけど……」
「ちょ、おもっきし論点ちがくね?」
 はあ? と、真彦が表情を崩した。それだけで作り物のようだった造形に血が通う。二枚目が三枚目になる瞬間。
 けれどスウは真面目に答える。
「そうかな、結構怖いことなんだよ。私のお父さんとお母さんはそれで離婚してるから」
「あ……そうなの」
 勢いを消されて、真彦が尻すぼみに相槌を打つ。
「うん。お母さんには結婚前に親しかった人がいたんだって。その人のことは私も良く分からないんだけど……。お母さん、結婚してから随分長く子供ができなくて、やっとできたのが私だったの。……あんまり長く子供ができなかったからかな。お父さんは私がその人の子供だったんじゃないかって、ずっと心のどこかで思ってきたらしくて」
 母は綺麗な人だった。父が不安になるのも仕方がないと思わせるくらい、華やかで社交的で、辛い時にも笑顔一つで前向きに構えられる人だった。
 対する父は真面目で、仕事以外は何も知らないような人だった。どうしてあの二人が、と周りに思わせるくらいに。
「でも、お父さんは離婚が決まる間際まで疑惑を言い出さなかった。きっと言えなかったんだと思う。根は優しい人だったから」
 自分が生まれてから九年間、時折浮かぶその疑問を、父はなだめすかしてきたのだろう。本当に真面目な人だった。真面目で不器用な人だった。黙々と仕事に打ち込んだのは、おそらくそれが日々育っていく不和の芽を握りつぶす唯一の手段だったから。
 もっと早く口にしてくれていれば、結果は変わっていたのかもしれない。
「結局私、DNA鑑定までしたんだ。今でも覚えてる。結果は……」
「まぎれもなく親子だった、と」
 真彦が流暢に言葉を繋ぐ。以前彼女が零した呟きを律儀に覚えていたらしい。
「うん。でもね」
 遠い記憶がスウの脳裏をよぎった。
 彼女はふっと目を伏せて、小さく首を振る。
「二人は離婚しちゃった。夫婦仲はとっくに冷めていたし、お母さんも疲れてたみたい」
「ふうん。現実なんてそんなもんかね」
 頷く声はどこか冷めていた。
「きっとね、私が誰の子供だとか、そんなことは関係なかったんだと思う。お父さんがお母さんを信じられなかったから、まるで問題のように浮き上がってきただけで」
 もしも二人の関係が順調だったなら、たとえスウが二人の子供でなかったとしても、問題は無かっただろう。もう少し両親が互いに愛し合っていて、自分が愛されていたのなら。
 その証拠に、アイとヴィセは血が繋がっていなくてもうまくやっている。生前の父とうまく接する事ができなかったスウは、いつも二人が羨ましかった。ヴィセと出合ったときから密かに血縁を疑問に思っていたが、それをあえて封じさせるほど、二人はスウの理想だった。
 昔は、そうなれない自分を責めたこともある。
 父親の不信から、スウの父への不信は始まった。自分の存在を疑った父を、今度は彼女が信じられなくなった。
 親権を得たのは父だったから、二人は一緒に住んでいた。けれどスウはアイの寂しがりを理由にして、いつも家から逃げていた。そして父も仕事を理由に顔を合わせはしなかった。初めはスウも煩悶したが、時間が経つにつれ二人の関係はそういうモノになってしまった。
 よく似た親子だ、と今更ながら皮肉に思う。互いに衝突もせず、触れ合わず、なのに別れることもできないで、接点だけで生きていた。
 けれどそれでも、自分は父を慕っていた。そう気付いたのは、本当に一人になった時だった。
 異世界であの小さな森に捕らわれていた時、自分が本当に帰りたいと願ったのは、恋人の胸でも、アイの作る手料理の元でもない。
 あの寂しくて居辛さしか感じなかった自分の家。そこに父と母と自分がいる姿を、たとえ戻っても在り得ないはずだった姿を、彼女は求めていた。
 その望みはもう、永遠に叶わない。
「だからね。千尋さんも私のことなんて気にしないでいて欲しいんだ」
 もう誰にも繰り返させたくない。その自分が疑惑の種になるなんて、絶対に嫌だ。
 その思いがあるからこそ、彼女はあれほどきっぱりと咲坂を切り捨てることができたのかもしれない。
 真彦はどこか神妙そうに、それでいて興味深げに頷いた。
「伝えとくよ」
 スウが笑顔で応える。
 すると真彦がくるりと背を向けた。歩きながら軽く腕を伸ばしてストレッチする。
「そういえば俺も昔、似たようなことがあったなぁ」
 ぼんやりとした呟きが聞こえた。
 早足で彼を追いかけだしたスウは、いきなり立ち止まって振り返った真彦にぶつかりそうになる。
 すぐ目の前に、余裕に満ちた顔があった。
「俺の顔ってキレイでしょ」
「はい」
 何も考えずに答える。
「……いいかげんソコが突っ込みどころだって気付いてくれる?」
「へ?」
 思いもよらない斬り返しに、スウは目を丸めて停止した。
 真彦が「やっぱパソ子ちゃんだよなー」と、よく分からないことを言う。瞬きを繰り返す彼女を見て、へらっと笑った。
「まあいいや。実はこの顔さ、オヤジの兄貴に激似なんだよね。つまり俺の伯父さんに」
「そうなんだ」
 ちょっと見てみたい。こんな美形が二人もいたら、目の保養なんてものじゃないだろう。
 彼女の思考を読んだのか、真彦が顔をしかめて肩をすくめた。
「並ぶと怖いぞ。そもそもうちの家系って顔が薄いっつーか、特徴がないのが特徴みたいでさ。それがちょっとした配置の違いで、えっらいキレイに感じるらしいんだ」
「ああ、そう言われれば」
 真彦の美しさはそのバランスにある。特徴といえば鋭い目元ぐらいで、これといった癖がない。そのせいか、見れば見るほど整った顔をしているのだが、目の前に居ない時にその顔を思い出そうとしても、細部が曖昧にぼやけてしまうのだ。
 まじまじと見つめるスウが気恥ずかしくなったのか、真彦は遠くを見るようにして顔を背けた。その横顔すら綺麗だと思う。
「厄介なのが、相手が近い血縁ってことでさ。崇ちゃんみたいにDNA鑑定しても、あんまりはっきり言い切れないらしいんだ。今はどうだか知らないが、俺が子供の頃だから二十年以上前だろ」
「それは困りますね……」
 昼のドラマではよく聞くが、身近にあったら嫌な話だ。
「助かったのが、伯父が偏屈の人間嫌いで、うちの母親とどう見ても接点がなかったってこと。だから俺も疑ったこともなかったんだが、正月なんかに親戚が揃うたびにからかわれてさ。止めさせようにも、俺のオヤジ末っ子だから親戚ん中で権力ないわけ」
 大げさに肩をすくめて、真彦は盛大に溜息をついた。
 道化じみた動きに誘われて、スウが笑う。
「オヤジも気にも留めてなかった。それがいきなり、中一の時だったかな? 突然、『調べるようなことはしないけど、お前は俺の息子だ』とか言い出してさ」
 真彦が少しだけ声を落とした。
「いきなりすぎて、バッカじゃねぇのって思ったな」
「素敵なお父さんじゃないですか」
 自分の父にもそう言える度胸があったなら。スウは苦笑まじりに微笑む。
 はん、と鼻で笑うようにして、真彦がそっぽを向いた。
「『だって俺似で超バカだもーん』とかケロッと言われて、むかっ腹立った覚えしかねぇけどな。軽く殺意湧くぞ」
「それは……お茶目なおじさんだね……」
 なんというか、紛れもなく親子だ。



 空が妙に黄色くなり、遠くで雷の音が聞こえた。慌てて家へ向かったものの、途中で大雨に降られてしまった。まだ夕立がくるような晩夏ではないのだが、夏の天気は気難しい。
 頭から水を滴らして家へ入ると、アイが仁王立ちで待っていた。
「おかえり」
「アイ、早かったね。どうしたの?」
「天気予報で夕方から雨だってあったから、早めに切り上げてきたの。誰かさんたちの夕飯も作らなきゃだし。少し時間があったから、奥の部屋を片付けてたんだけど……」
 言葉はスウに向けられたものの、アイは鋭い目つきで真彦を睨み上げている。そのまま何も言わずにじーっと真彦をにらみ続けた。
 厄介な気配を感じ取って、真彦が軽く眉間をしかめた。面倒くさげに「なんすか」と呟く。
 アイは真彦から視線を動かさずに、ぎゅっと握った手を突き出した。
 彼の前でぱっと開く。
「コレ。どういうことなのか説明してもらうからね」
 真っ白なタブレットが一つ、手のひらに乗っていた。
「もう飲んでないよ」
 動揺一つない、平然とした声だった。
「嘘。だったらどうしてご飯を食べないでビタミン剤なんか飲んでるの。薬で胃がやられて、まともに動かないんでしょ。知ってるんだからねッ」
 語尾を荒げるアイに、真彦が小さく舌打ちした。ゆっくりとした動作で首の後ろをかく。目線は決して合わせない。
「その通り。でも、何食っても美味く感じなくなったのは本当」
 いいながら、何事もなかったかのように二人の横を通り過ぎていった。やる気のない、うざったい気分を示すかのような歩き方だった。
「……どうして」
 少し我慢すれば宿詞で治せるかもしれないのに。そう分かっているのに、どうして抗うのだろう。
 遠くなる背にぽつりと問いかけたスウは、振り返った青年の目を見て絶句する。
「アンタには関係ない」
 低く、冷たい声で告げ、真彦は奥の部屋へ消えた。
 スウがその場に立ち尽くす。
 まるで全てが敵と信じるかのような、拒絶の視線だった。暗く、冷たく、何一つ受け入れるつもりのない目。寄せ付けることすら許さない。
 へらりと笑う仮面の下で、あんな視線を向けていたのだろうか。
 そう思うと無性に悲しくて、彼女は俯いて目を伏せた。
BACK    TOP   NEXT
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.