BACK//TOP//NEXT
 近所にある森林公園はそれなりに広く、大きな樹がたくさんある。
 都会の中央にぽつんと置かれた公園は、周りがマンションの多い住宅地ということもあり、少しでも自然に触れるために人々が集っていた。
 木陰では親子連れの家族が涼み、お弁当を食べている。散策用の小道はカップルや犬の散歩をする人が行き交い、少し離れたところにあるグランドからは少年たちが元気に遊ぶ声が聞こえる。
 夏の緑は美しい。一面の芝生は強い光を浴びて濃く、自然な配置で陣を張る木々は伸びやかだ。日差しに透ける葉が鮮やかで、いつまでも見上げていたくなる。
 背後で帰りたいオーラを発している真彦を気にしなければ、最高のお散歩日和だった。
 なぜか黒い服ばかり着たがる彼は、今日も黒いジーンズに黒いシャツ、黒い帽子と、真夏に似合わない不審者ぶりだ。耳を出さないよう、帽子を目深に被っていることも怪しさに拍車をかけている。これでサングラスでもしていて補導されたら、スウには助けようがない。
 特に会話もなくぶらぶらと整備された歩道を歩いていたが、スウが目当ての大木を見つけて道を外れた。木陰の中は涼しい。彼女は日傘を畳んで木を見上げる。
「この木、好きなんだ。枝振りがいいよね」
「そうか?」
「うん。低いところから枝が分かれてるでしょう。昇りやすそう」
 率直な感想を述べる。
 それのどこがおかしかったのか、相手はたまに見せる微妙な目線を投げかけてきた。
「……意外とわんぱくなんすね」
「そうだよ」
 軽く答えて、ひょいと枝に飛び乗った。今日は長めのキャミソールの下に七分丈のジーンズをはいてきたから、ちょっとくらい動いても大丈夫だろう。
 日頃おとなしいスウは不器用なのも手伝っておしとやかに見られがちだが、それは誤解だ。特に活発というわけでもないが、こうやって自然と触れ合ってのびのびと過ごすほうが、家でじっと本を読むより性に合っている。
 スウは枝に腰掛けて景色を眺めた。この木は小高い場所に生えているので、公園全体が見渡せる。けれど、これでも傍らに立つ真彦より頭一つ半高くなっただけだ。いつもこんな位置から世界を見渡せるなんて、背の高い人が羨ましい。
 スウは自分が一つ自由になった気がして、背伸びをした。
「田舎のおじさんに預けられてた頃、よくこうやって遊んだんだ。……懐かしいな」
「預けられてた?」
 枝に背中をもたれさせていた真彦が、スウの日傘を弄びながらオウム返しに問う。
「うん。両親が離婚する時に、ちょっとね」
「ふうん……」
 彼はそれ以上追求するようなまねはしないで、思慮深げに黙った。
 スウとて言うようなこともない。
 爽やかな空気の中で静かな沈黙が流れた。風の音だけが耳に響く。枝が風に揺れるのに合わせて、木漏れ日がちらちらと眩しい。
 静寂を破ったのは、威勢の良い子供の声だった。
「まー兄ちゃん!」
「うおっ」
 いきなり数人がかりで背中を突き飛ばされて、真彦がのけぞった。反射的に帽子を押さえたのはさすがだ。
 きっと、真彦が腰を押さえて振り返った。
 低い視線の先には、さっきまで遠くで遊んでいた男の子の集団が並んでいた。枝の下でニカッと笑う顔が日に焼けて元気そうだ。
「なんだお前らか。またサッカーしてんの?」
「まー兄ちゃん、どこ行ってたんだよー。ずっと来なかったじゃん」
「お兄さんは忙しいの。色々と」
 どうやら真彦の知り合いらしい。
 ならばここは事の成り行きを見守ろうと、スウは邪魔にならないように枝の上に足を乗せた。体育座りになるように膝を抱く。
「ふーん。ま、兄ちゃんがいなくても俺らは平気だけどな。母さんらが『いない、いない』って騒いでただけだしー」
 一際体格の大きな子供が、生意気そうに胸を張る。
 『母さん』という言葉にスウがちらりと横目で真彦を見た。視線を感じてこちらを向いた目は「違うから」と弁明している。何が違うのかは知らないが、マダムキラーは健在らしい。
「なあな、兄ちゃん今日は遊べるー?」
 小柄で色白な一人が、甘えたように真彦の袖を掴んだ。ちょっと間延びした語尾が舌足らずで可愛い。
「ちょっとムリ」
「ちぇー。せっかく見つけたのにー」
 しょぼんと口を尖らせる男の子。
 真彦が日頃見せない種類の笑みで「また今度な」と頭に手を置いた。
 リーダーらしい男の子がちょいちょいと真彦をつつく。
 真彦がそちらへ気を向けると、男の子は気兼ねなくスウを指差した。
「なあなあ、この人って兄ちゃんのカノジョ?」
「ちゃうちゃう」
 手振り付きで答える相手は冷静だ。
 男の子はちょっと考えてから、ピンと思いついたような顔で、今度はズバリと真彦を指す。
「じゃあ、兄ちゃんがアイジン?」
 その言葉が出た途端、子供たちが途端に騒ぎだし、『アイジン、アイジン』とはやし立てはじめた。
「……お前らちょっとこっち来い」
「やーだよー!」
 微妙に青筋を立てながら真彦が手を伸ばす。
 すると、子供たちが楽しげに逃げ回りだした。クモの子を散らすように散らばったかと思えば、逆に近寄ってちょろちょろしたり、待ち伏せしてからひょいと逃げたり。皆、真彦に構ってもらいたくてしょうがないらしい。
 真彦が一人を捕まえて羽交い絞めにし、その場でぐるぐると回った。捕まった子はきゃーきゃー叫んでいるものの、満面の笑顔だ。
 ひとしきり回ってから、真彦が男の子を手放した。疲れたのか息があがっている。
「ったく。そうだなぁ……、仲間だよ」
 渋々といった調子で答えた。
 それを聞いて、走り回っていた子供たちが一斉に集まってくる。
「マジで!? 強いの!?」
「強い強い。俺なんか犬みたいに思われてんだぞ」
「スゲー!」
「すっげー!」
 それだけの会話で、なぜか子供たちのテンションが一気に上がった。皆キラキラした目でスウを見て、「スゲースゲー」と連呼する。
「? ??」
 自分に向けられる視線の意味が分からなくて、彼女は戸惑う。一体どういうことだろう。
 子供たちの関心がスウに移ったのを見て、真彦がさっと話を切り上げた。
「じゃ、そういうわけで、俺たち忙しいから。また今度な」
「うん、がんばってねー!」
「ちゃんとサッカー来いよー!」
 来た時と同様に、子供たちは嵐のように去っていった。
 真彦がどっと疲れた顔をする。木に寄りかかって額を押さえる様子から、あれだけで相当参っているらしい。
「ったく、ガキどもは自由だなぁ」
 呆れに羨ましげな色を交えて、真彦は誰にともなく呟いた。
「……なんなんですか、あれは」
 スウが枝から降りて問いかける。途端に相手を見上げることになった。
「近所のガキンチョ。前に遊んでやったら懐かれちゃって」
「いえ、そうじゃなくて……」
 どう聞こうかと思案したものの、相手は分かって答えていたらしい。いきなり話の方向を変える。
「崇ちゃんさ、日曜の朝ってテレビ見る?」
「? ワイドショーくらいなら」
「だよなー。女の子だもんなー」
 苦笑交じりに笑って、真彦が首の後ろをかいた。
「あいつら、俺のことを特撮モノに出てくるヒーローだと思ってんだよ。こうやってプラプラしてんのは仮の姿で、いざとなったら変なスーツ着てロボとか乗っちゃう、正義の味方だって思い込んでんの」
「正義の味方!?」
 真彦との間に隔たりがありすぎて、スウは思わず大きな声を出した。
 言われてみれば、特撮モノに出てくる俳優は皆、彼のように若くてかっこいい人たちばかりだ。子供の目にはどちらも同じに見えるだろう。が、真彦はどちらかというとヒーローよりも悪の秘密結社の人と仲が良さそうだ。
 それは本人も十分自覚しているらしく、彼は自嘲を隠さなかった。
「ウケるだろ、こんなヤツに。最近の番組が視聴率狙ってイケメンばっか使うせいだぜ。顔が良いからイイヤツだなんて思ってたら、絶対将来騙されるね」
 スウは真彦の話を聞いて目を輝かせた子供たちを思い出す。あれは期待と憧れの目。
 それに応える真彦の姿は、苦笑まじりでも好意的だった。
「でも偉いね。ちゃんと話を合わせてあげてるんだ」
「ま、ね。子供の夢を壊しちゃダメでしょ」
 つんとした顔で「いつかは勝手に壊れるものだしね」と、照れ隠しをする様を見て、スウは密かに微笑んだ。意外と子供が好きらしい。以前、童顔のアイが嗜好に合わないと言っていたが、本当に子供好きだからこそ、嗜好の対象にすることを嫌がるのかもしれない。
「それにしても……」
 ふと浮かんだ疑問に、スウが少し声を低くする。
「さっきの子たちも言ってたけど、あのことがあってからしばらくの間、どこに居たんです? 外国に帰っていたとか?」
 ずっと気になっていたのだが、今日まで言い出せずにいた。実を言うと、問いかけたが最後、彼の見せない裏の面まで覗いてしまいそうで怖かった。
「や、こっちの知り合いのところに世話になってたよ。途中で耳がバレて逃げてきたんだけどさ。L.A.には帰れない。今戻ったら確実に殺される」
 予想通り出てきた物騒な言い回しに、スウは思わず呆れ返った。
「何したんですか」
「まあ、咲の件とか思い出してもらえれば……」
 大木の木陰に、先ほどとは違う種類の沈黙が流れた。
 大体の予想はつく。きっと、のこのこ帰っていったら殺されるような相手に、咲坂にしたような問題を起こしたのだろう。本当にタチの悪い男だ。
 一瞬上がりかけた好感度が元の位置まで下がったのを感じ取ったのだろうか。真彦がいたずらをした後の子供のように、窺うような目を向けた。そんな顔をするとどこか憎みきれない愛嬌がある。
「や、あの件はほんとスマンした。ちょっと悪乗りがすぎたっつーか、つい実験しちゃったってゆーか」
「実験?」
 言い回しに奇妙なものを感じた。
「そ。見事失敗したけどな」
 悪びれもなく舌を出される。
「どうして?」
 追求すると、真彦はその場に座り込んで木に背中を預けた。帽子を被っているために表情が分からない。こうなると耳が見えないのがもどかしい。彼の耳はころころと変わる表情よりもよっぽど饒舌だからだ。
 仕方なくスウも神妙な顔をして隣に座る。
 帽子から覗く横顔は、真面目なのかふざけているのか分からない、不思議な無表情だった。
「俺、咲は崇ちゃんを取るとふんでたんだよ。いや、そうさせるつもりだったっつーのが正しいのかな。あの生真面目にさ、責任とか義務とか、そういう面倒くさいものを一度全部投げ捨てさせてやる、いい機会だと思ったんだ」
 彼は悩ましげなに眉を寄せ、大げさに肩をすくませた。
「でもまさか、崇ちゃん側から切られるとは」
 言外に予想外の文字が付いていた。
 スウの脳裏にマンションでの出来事が浮かぶ。こちらへ戻ってから初めて咲坂が現れたとき、その場になぜか真彦もいた。あの時は今更咲坂が現れたことに動揺して気付かなかったが、スウを捨てて千尋と生きていくと決めた咲坂に、真彦が何らかの揺さぶりをかけたのかもしれない。もう一度咲坂がスウと会えば何かが変わると、彼は思ったのだろうか。変わるものが未だ在ると確信していたのだろうか。
 結局、それはスウ自身によって打ち砕かれてしまったのだけれど。
「俺の計算が甘かったな」
 大した痛手でもないように、さらりとした反省。
「もう。そういうこと、やめてください」
 どうしてそんな人の心を引っ掻き回すようなことをするのだろう。まるで何かを試すみたいに。
 時々、彼の中には何も無いのではないかと思うときがある。一体どうしたらこの人にも、他人に心があると分かってもらえるのだろう。
「ははは、性分なんだよ」
 スウの哀願は軽く笑って済まされた。耳が見えないだけで、彼の本心が全く読めない。普段は平静を装っていても耳が怯えていたり、馬鹿笑いをしながらも耳だけ全く反応していなかったりして、微妙な心理を憶測できるのだが、帽子一つでここまで難解になるとは。
 真彦の笑い声が止まると、一瞬、不思議な空白が生まれた。
 何かを準備するような、そんな沈黙。
 そしてそれはすぐに終わった。
「崇ちゃん、他に男ができたでしょ」
 良く切れるメスで切り開くような断定だった。相手はおろか、自分の感情さえ含まないような。
「いいえ」
 穏やかな、はっきりとした否定。全く動揺しなかった自分に少し驚きながら、スウはそれが紛れもない事実だったことを悟る。本当の事だから、揺ぎようがない。それが悲しい。
 正面を向いたまま、真彦が意外そうに目だけをこちらへ向けた。続く声は軽い。
「あれ、てっきりそうだと思ってた。女って大げさに騒ぐわりに、次の男ができた瞬間に忘れてくれるからさ」
「そういうのって、男とか女とか関係ないと思いますけど……」
 個人の性格の問題だと思う。
「そうか? 女はシビアだぞ」
 真彦が楽しげに鼻を鳴らす。
「男はもう好きじゃない相手でも、楽しい思い出だけ切り離して飾っておけるのさ。たまに手にとって思い出して、いつまでも覚えてる。それで次の女が怒る。愛がないって責められる」
「……そんな風には見えませんけど」
 聞きながらスウが首を傾げる。まるで自分の経験論のように真彦は話しているが、彼がそんな甘ったるい思い出にいつまでも浸っているような人物とは思えない。むしろ、そんなものは無駄だと言い切って斬り捨ててしまうほうだろう。
「俺は、ね」
 意味ありげに肯定し、余裕の笑みを見せられる。鋭い造形の目元を軽く細めただけで、悪人のような顔つきになった。自分は何をされても痛くない。そう思っている人の顔。
 思えば、真彦の女性関係はいつもドライだった。
 彼の破局率は異様なほどに高い。大概は複雑な関係に疲れた女性から別れ話を切り出してくるのだが、真彦は一度として相手を引き止めたことがないという。肩に積もった雪を払うようにあっさりと、それまでの関係を捨て去ることができるのだ。振られても強がるわけでもなく平然と笑っている彼を見て、スウは密かに美形の余裕を感じていたのだが、今思えば少々ドライが過ぎる。
 逆に一度、相手の女性が彼に熱を上げすぎて、家庭も子供も捨てると言い出だしたことがあった。そのとき彼は「あ、そう」の一言を残して、その相手との交流を一切断ってしまった。「人妻じゃなきゃつまらないよね」と言い切って。
 どうしてスウがそんな事情を知っているかと言うと、当時親しかった咲坂が彼の性癖にひどく憤っていて、自然と彼女の耳にも入ってきたからだった。あの頃はそういう趣味の人なのだろうと納得してきたのだが、こうして彼と深く接してみると、どこか腑に落ちないものがある。
 なんだかんだと言いながら、真彦は情が無いわけではない。気配りやサービス精神は普通の人よりも旺盛なくらいだ。本当は構って欲しいのだろうなとすら思う。時々裏切られるのは、普段の態度と、時折見せる無機物のような冷たさとの落差が激しすぎるから。
 それは悪い事ではない、とスウは思う。問題なのは、彼が自分から災難を振り撒く時にその冷徹さを遺憾なく発揮させるということ。
 そして、その種の冷酷さを見せるのはいつも決まっている。
 『実験』をしている時だけだ。
 真彦はなぜか家庭も仕事の責任も持つ妙齢の女性にばかり近づいてきた。その行為がもし、美しい自分を餌にして幸せな家庭を危機に陥れるためだったとしたら。そうして波乱を呼び込んだ時、その人物が最後に選ぶのは何かを見極めるためだったとしたら。
 咲坂の件だって、わざわざ問題を起こしてから、もう一度スウと対峙させている。と同時に、彼女もどんな対処をとるのか試された。
 まるでそういったデータを積み重ねることで、人間の脆さを証明したいかのようだ。
 いや、証明したいのは強さか。踏みにじられたはずの信頼が息を吹き返す様が見たいのか。
 そうして証明したもので、彼は何がしたいのだろう。
「ねえちょっと、お嬢さん?」
 知らず思考の海へ身をかませたスウへ、真彦が顔の前で手を振っていた。
「またフリーズしてる。今度から旧式パソ子ちゃんって呼ぼうか?」
 軽い声で、真彦が正面から顔を覗きこんだ。けれどその瞳の奥には、わずかな警戒と探るような色がある。
「何考えてたの」
 踏み込む声は低い。
 スウは言葉に詰まった。今考えていたことは根拠があることではない。なんとなく得た直感が基になっている。
 だから、あえてぼかす方向で答えた。
「慎重な人だなって」
「俺が?」
「はい」
 元々スウは論理的に考える事が苦手だ。直感で得たことを分析するだけなので、主観が大いに紛れ込んでしまう。むしろ主観が基になっているといってもいい。理論だけで物事を構築する事ができないのだ。だから、どうしてそれが分かったのか、そんなことを考えたのかを口で説明しようとしても、そこに至る筋道が穴だらけで逆に不審がられてしまう。だったら何も言わない方がいい。
 彼女がそれ以上説明する気がないと悟ると、真彦はさっと身を引いて顔を離した。何気ない風を装って顔を背けたのは、それ以上彼女に情報を与えないためだろうか。
「崇ちゃんってときどき怖いね」
「そうですか?」
「女の勘ってやつかな。何にも考えてないのに、全部分かってんじゃないかって思う時がある」
「そんなことはないです」
 アイにも時々同じようなことを言われるが、全くの勘違いだ。スウに言わせればアイのほうが鋭いし、頭の回転の速さでは真彦の方がずっと上なのだから。
「だろうね。だから怖いんだ」
 さらりと答えて、真彦が立ち上がる。
 振り返らずに去っていく背を慌てて追う。木陰から出て遊歩道へ戻った。綺麗に整備された道は固い。日差しを感じて日傘を思い出したときには、既に相手が頭上にさしかけてくれていた。
「もう帰るの?」
 日傘を受け取りつつ尋ねる。本音を言えば、もう少しここでのんびり自然に触れていたかった。
「喉渇いた」
 軽く肩をすくめて、真彦が自動販売機を指差した。
 思えば、彼は朝から何も口にしていない。
BACK    TOP   NEXT
copyright (c) 2005- 由島こまこ=和多月かい all rights reserved.