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 時計の針が朝の九時を指す頃、パジャマ姿でヴィセがリビングに現れた。いつもより遅い。寝癖をつけたまま欠伸をして、眠たそうにテーブルへつく。
 朝食をとり終えたスウが少し首を傾げて、斜め向かいに座った彼を見上げた。
「あれ、今日はヴィセさんお休みですか?」
「うん。そうだよ」
 答える声まで眠たそうだ。ヴィセは真彦がぐしゃぐしゃに畳んだ新聞を手に取り、簡単に目を通す。
 それからやっと、「ん?」と一人で首を傾げた。
「二人とも、学校は?」
 いつもなら少女たちがとっくに出かけている時間だと気付いたらしい。カレンダーをしげしげと見て、平日だと確認する。
 お盆にヴィセの朝食を乗せたアイがキッチンから出てきた。
「お父さんったら。もう、一週間も前から夏休みよ」
「ええ? まだ通知表を見せてもらってない気がするけど」
 ヴィセがアイに疑惑の目を向ける。小中高と続いた習慣がまだ抜けないようだ。
「大学生は試験が終わったら休み。結果はまだまだずーっと先よ」
 スウは大学で始めての試験にあたふたしていた自分を思い出す。レポートやノートのまとめ方が分からなくて困っていたところへ、運よく真彦が顔を出さなかったらどうなっていただろう。十五で現地入りして半年で英語を身につけたという彼は、高校中退という派手な学歴に反して頭の回転が速い。ざっとノートへ目を通しただけで要点をまとめてしまった。「こことここだけ憶えとけば?」と指した場所がそのままテストで出たときは、神様ではなく彼を拝んだものだった。
 天は二物くらいなら軽くサービスしてくれるらしい。あれだけの容姿と頭脳が揃っているのだから、多少性格に問題があっても仕方がないとすら思う。それに、相応の不運も備えているようだし……。
 そう思って、スウがちらりとソファーで寝転んで腕枕をする真彦を見た。ぱさついた黒髪からは、今日も元気に黒い耳が立っている。
 ヴィセが朝食を食べながら、のんびりと頷き返した。
「そういうものなんだねぇ。じゃあ今日は良い天気だし、皆で動物園へでも行こうか?」
 瞬間、奇妙な沈黙が流れた。
 アイが首をくいっと回して真彦を見たのをきっかけに、スウ、そしてヴィセの視線が真彦の後頭部へ集まる。
「……動物は見飽きたわ」
「俺のことかー!」
 首より速く耳が振り向いて、スウは思わず笑いを堪えた。
 真彦のしかめっ面をアイが思いっきり無視する。
「あたし、水族館がいいなー。今日もあっついし。ねー、スウ?」
 甘えた声でひょいと話を振られた。
「んー……」
「俺はパス」
「あたしはスウに聞いてんの」
 鬱陶しそうにソファーへ寝転び直した彼へ、アイがしっしと手を振る。
 その様子を眺めながら、スウはしばらく考え込むように首元へ手を添えていたが、やがてなにげない調子を装って口を開いた。
「アイ、ヴィセさんと二人で行ってきたら」
 語尾が下げ調子なのは、勧誘ではなく誘導だから。
 アイがぽかんと口を開けてスウを見た。
「せっかくの機会だし、親子水入らずしておいで。私のことは気にしなくていいから」
「えーーーーっ」
 あらん限りの不満を乗せてアイが叫ぶ。予想外のことに、いつもの口達者がどこかへ行ってしまったらしい。
 彼女の雄弁さが戻ってくる前に、スウは素早くヴィセへ顔を寄せて小さくささやいた。
「たまには、アイを思いっきり甘えさせてあげてください」
 すぐには言葉の意味が分からなかったらしい。ヴィセはスウのいたずらげな微笑みを含んだ目を見て、やっと合点がいったと頷く。
「了解。すまないね」
 少しだけ申し訳なさそうに、ヴィセが笑った。



 アイが簡単にお弁当を作ってから二人が出かけた時には、十時半を過ぎていた。それから任された洗濯物と布団を干して、少しだけ掃除機をかけたから、そろそろ十二時近くなる。
 その間ずっともの言いたげにスウへ顔を向けていた真彦が、とうとう意を決したという雰囲気で口を開いた。
「崇ちゃん、お昼どうすんの。ピザでも取る?」
「あー……そんなことしなくても、確か戸棚にそうめんが」
 答えながら台所へ向かおうとしたスウを、さっと大きな腕が封鎖した。
 胡乱な視線と目が合う。
「この前、うどんをどろっどろの液体にしたのは誰でしょう」
 う、と言葉に詰まって立ち尽くす。あの時はアイが『タイマーが鳴るまで見ていて』と言うからかき混ぜていたのだが、当のタイマーが壊れていたためにそんな風になってしまったのだ。
 何とか言い返そうと試みるものの、相手が日頃の恐ろしい戦歴を知っているだけに、容易に懐柔できそうにない。
「とにかく崇ちゃん台所に入るの禁止。居るだけで変な化学反応が起きるから」
「でも、せっかく家に食材があるんだから……」
 使った方が経済的だ。
「俺も出前は好きじゃない。ほらほら、ちょっとそこでテレビでも見ておとなしくしてて」
 子供をたしなめるように追いやられて、スウは渋々ソファーに座る。テレビは真彦が見ていた料理番組のまま。見ているだけで腕前が上がればいいのに。
 そうしてしばらくテレビを見ていると、台所から美味しそうな匂いが漂ってきた。包丁を使う規則正しい音と、何かを洗う音、炒める音。真彦が何かを作っているらしい。
 彼に料理ができると知らなかったスウは、好奇心にかられて台所を覗き見た。
 大きな背中で隠れて、何を作っているのかは分からない。が、ひどく手際が良いことだけは確かだ。一つ仕舞うついでに一つを取り出して、手の空いた時間で使った器具を洗う。それらを必要最小限の動きでスマートに済ましている。料理と片づけを効率よく平行し、出来上がる頃にはキッチンが使う前よりもきれいに整頓されていた。
 骨ばった手が大きな皿をテーブルに置く。
 後を追って席に着いたスウは、その手が前より細くなったことに気付いた。
「どうぞ」
「あ、カルボナーラ」
 スパゲッティ・カルボナーラ。スウの大好物だった。
 思わず喜びが顔に出たらしい。真彦が得意げににやりと笑う。
「クリーム系が好みかなと思って。ベシャメルソースとか好きでしょ」
「なんで分かるんです?」
「なんとなく。見た目的に」
 さらりとはぐらかされて、スウは一人で首を傾げる。見た目がクリーム好きとはどういうことだろう。まさかこの間まで白髪だったからというわけではないだろうが、あっさりとそう言ってきそうな相手でもある。
 細かいことを気にしているうちにパスタが伸びてしまってはいけない。スウはうきうきと手を合わせる。
「いただきます」
 フォークにパスタを巻きつけたところで、真彦が自分の皿を用意していないことに気付いた。
「食べないんですか?」
「夏バテ中」
 面倒くさげに答えて、真彦はなげやりにソファーへ寝転んだ。彼は最近、寝てばかりいる気がする。もともと真彦はリビングのソファーで寝起きしているのだが、昼間でもごろついていることが多い。
 頬杖をつく後ろ姿を横目に見ながら、スウはパスタを口へ運んだ。
「……美味しい」
 予想以上だった。
 クリームたっぷりのホワイトソースは少し薄めで、スープパスタに近い。味付けもどことなく上品で嫌味がなかった。アイが作るカルボナーラは卵をたっぷり使っていて、もっとこってりしている。そこがスウの好きなところでもあるのだけれど、このカルボナーラも一種違った味わいがあって、とても好みだ。
「美味しいです。すごく」
「さいですか」
 自分で作ったものを一口も食べていない彼に、せめて言葉で美味しさを伝えようとしたのに、さらりとかわされてしまった。
「こんなに上手なら、もっと自分で作って食べればいいのに」
 他人の料理に文句を言っていないで、自分の好みに合ったものを作ればいい。そうして、ぜひ他の手料理も振舞ってもらいたいものだと、スウは内心密かに呟いた。
 けれど真彦はソファーから起き上がりもせず、どうでもよさそうな声を返すだけ。
「美味しいと思えないんだよね。だったら無駄な時間使わずに安くカロリー取れればいいかなって」
「体に悪いです」
「ビタミン剤とってるからいいの」
 見向きもせずに言い放たれて、スウは少しがっかりする。確かに彼は食事の代わりに大量のビタミン剤で補っているが、それこそ体に悪いとしか思えない。それに真彦は安くと言ったけれど、それではむしろ高くついているのではないだろうか。
 本当に不可解な人だと、スウは呆れ混じりに溜息をつく。
 大体、こんなところで一日中クーラーを効かせてテレビを見ているなんて、それだけで十分不健康だ。
 空は紛れもない快晴。真っ白な入道雲が立体的に膨らんでいる。今頃アイたちは日傘を広げてお弁当を食べているのだろうか。楽しんでいるといい。
 スウはパスタを食べながらぼんやりと窓の外を見ていたが、二羽のスズメが楽しげに雲を横切ったのを見て、ふと思う。
「そうだ、一緒にお散歩行きません?」
「はあ?」
 返事の代わりに素っ頓狂な声が返ってくる。振り返った顔には信じられないという言葉が大きく書いてあった。ぴんと立った耳が大きい。
 それがすぐ渋面になる。
「ヤダ」
 耳のことを気にする彼は、深夜のコンビニへも出歩こうとしない。耳のことが知られればただではすまないが、スウとしては何ヶ月もこの部屋に閉じこもりっきりなのもどうかと思う。
「帽子を被れば大丈夫。たまには日光浴びないと」
「自律神経ならとっくに狂ってるんでお気になさらず。こんな暑い日に外行くなんてアホだね」
 拒絶どころか敵意すら滲ませて、真彦が身を引いた。
「近くの公園なら大きな木がたくさんあって涼しいですよ。ちょっと待ってて、今準備するから」
 スウはその敵意をあえて無頓着に扱った。経験上、ここで怯えた顔をすれば真彦は調子に乗る。だからといって強く出れば、強情になって手に負えない。アイがいい例だ。
「あの……俺の話、聞いてます?」
 案の定、さっきの威勢はどこへ行ったのか、真彦が情けない顔で耳を下げる。
 その顔をやっぱり綺麗だなと思いながら、スウはにっこりと微笑んだ。
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