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 寝室のベッドで一緒に寝転がりながら、二人の少女はそれぞれまったく別のことをしていた。
 小柄な一人はぬいぐるみを腕の中に抱きしめて、なにやら話しかけている。内容はほとんどがたわいない一日の報告と、真彦の愚痴だ。
 寝室担当のぬいぐるみはフクロウさん。主な仕事はアイの添い寝。
 アイはたくさんの人形を持っていて、台所はカエルさん、お風呂場にはアヒルさん、玄関にはコトリさんが鎮座している。以前は他にも押入れいっぱいにぬいぐるみが入っていたのだが、スウがやってきた時に整理して、今は一部の少数精鋭が残っているだけだ。
 もう一人の少女、スウは何度も読んだお気に入りの文庫本を黙々と読み返していた。一人遊びが苦でない彼女は、アイが構ってこなければずっとそうしているだろう。
 仲良しの二人は互いがそこにいるだけで、気兼ねなく自由でいられた。
 スウはキリの良いところまで読みきって、ふと肩下まで伸びた黒髪をかきあげた。そろそろまた切ってしまおうかと思案したとき、アイが遠慮がちに呼びかけてきた。
「ねーえ」
「なあに?」
 呼びかけに甘えの空気を感じて、スウはなにげなく振り返る。
 ふわふわのウェーブがかった黒髪を下ろしたアイは、童話に出てくるお姫様のように可愛らしい。小さなフリルがついたノースリーブのパジャマを着ていて、かぼちゃパンツのような短いズボンから赤い膝がのぞく。無意識につんと尖った口元と上目遣いの視線が、いかにも何か言いたげだった。
「お父さんはどうして今、ここに居るんだと思う?」
 内容はわかるものの、なんとなく小難しい言い方だった。見かけによらず哲学的なところのあるアイは、ときどき答えの出ない問題を提示して、スウを悩ませる。いつもは言葉遊びの延長線のようなものだが、今回はきちんとした答えがある。スウに聞かれても憶測しか返せないタイプのものだったが。
「うーん、なんでかなぁ」
 はっきりと分からないと言い切ることもできたものの、真摯な質問を無下にすることもできなくて、スウは言葉を濁した。
 ヴィセは王として戦争を回避するために、和平の条約を結びに敵国へ向かい、そこで行方不明になったと聞いている。そのあたりの詳しいいきさつは、話を教えてくれたデュノもレゼも知らなかった。おそらくそこで何かがあったのだろうが、どうしてこの世界に来ることになったのかは不明だ。
 こちらへ帰ってきてから何度か彼に直接聞こうと試みたものの、うまい具合にアイが居合わせたり、ヴィセ自身が強引に話を変えたりして、機会をつかめなかった。というより、ヴィセに話を変えられた時点でスウが手を引いたと言ったほうが正しい。
 彼は都合の悪い事を隠すときに、器用に相手の目をくらませるようなことはしない。むしろできない。どれだけ上手に日本語を話そうと、母国語以外で嘘を突き通すのは難しい。「だからゴメンネ」と、にっこり笑って開き直られた時は、どうしようかと思ったものだ。
 ゆえに、スウがこれ以上首を突っ込むことはできない。
「アイが直接聞いてみたらどう?」
「もー。それができるならスウに聞かないわよー」
 アイはぬいぐるみを小脇に抱えて更に口を尖らせた。さすが娘。父親の性格を熟知している。けれどスウはアイがヴィセに直接尋ねない理由をもう一つ知っていた。こう見えて、アイは意外と臆病なのだ。
 自分の前ではあえて弱さを隠さないアイに好感を抱いて、スウがふふっと微笑む。
「ヴィセさんの過去、気になる?」
「……うん」
 尖らせた口元をぬいぐるみで隠して、アイは素直に頷いた。
「私も詳しくは分からないんだよ。王様だったってことと、奥さんをものすごく大切にしてたってことぐらいで」
 王は女王をとても愛していたという。自ら望んで生き別れたとは思えない。
 さり気なく告げたものの、スウは内心どんな反応が帰ってくるのか緊張していた。『奥さん』というファクターは、アイにとっても大きな意味を持っているはずだ。けれど本当に彼のことを知りたいなら、避けては通れない。
 アイはぼんやりとぬいぐるみを額にくっつけて遊んでいる。
「うん。好きな人がいるってことは、なんとなく知ってた」
 さらりと返される。アイは自分の中で大切なことを告げるとき、こういう言い方を選ぶ。
 だからスウも穏やかな声で返した。
「そっか」
「予測だけどね。お父さんって独身なのに女っけないし、結婚は経験してそうだなって。てっきり死別してるのかと思ってたけど……。あれでしょ、背が高くて髪の長い、ナイスバディの美人でしょ。キッツイ感じの」
「そう、正解。なんで分かるの?」
 ずばり言い当てられて、逆にスウがたじろぐ。今までにフィルフレイアのことを告げたことはないはずだ。
「そのイメージ、ヴィクトリアそのものじゃない」
「あ」
 言われて思い当たる。
 ヴィセがデザイナーを務める『ヴィクトリアンローズ』は、その名に反してアジア色の強い洋服を作っている。名前のヴィクトリアンはイギリスのヴィクトリア女王と関係があるように捉えられがちだが、実際は違う。大体ヴィセは英語が大の苦手で、わざわざ小洒落た名前を借りるくらいなら、いっそひらがなで付けてしまうだろう。
 もともとヴィセは女性服しか作らなかった。ブランドが知名度を上げるにつれ、男性物にも事業を拡大していったが、大胆なシルエットと繊細な色使いが本当に映えるのは、今でも女性用のドレスだ。一口にドレスと言っても、和服なのかチャイナ服なのか洋服なのかはっきりしないものが多い。物によって洋服らしかったり着物のようだったりするし、一つ装飾を加えただけで和服が洋服になってしまったりするので、明確にジャンル分けをすることができないのだ。
 そしてヴィセがデザインしたものは全て、たった一人の女性のために作られている。
 架空の女性・ヴィクトリア。勝利の女神の名を持つ乙女。
 強くしなやかなその印象が殊に現れるのは、彼の揃えるモデルたちの中だ。一人ひとりはそれぞれに個性的なのだが、全体を俯瞰してみると、特に女性はスラリと背が高く、グラマラスで、長い髪が美しい。どれも意志の強そうな目元が印象的なクールビューティばかりだった。男だが真彦もその系統の一人だし、咲坂ですら性格を取り払って顔立ちだけ見てみれば涼しげな印象がある。
 かつて、スウはヴィセに尋ねたことがある。ヴィクトリアは分かるとして、どうして薔薇なのか? と。彼は笑って答えた。「薔薇の花が一番似合うんだ」と。薔薇といえば真紅で情熱的なイメージが強かったスウは、そのときどうにも納得がいかなかったものだが、今なら分かる。
 ヴィセの中にあった薔薇は、あの深く鮮やかな青。
 研ぎ澄まされた銀の髪に、彼女があの花を挿したことはあるのだろうか。スウが見た唯一の装飾は、無骨で厳つい剣だけだった。
 ヴィクトリアンローズ。彼女に捧げる装飾品。報われない花たち。
「お父さんが誰かを愛してるのは知ってたわ。それに、あたしが絶対にその人には敵わないってことも」
 いつの間にかアイはベッドの上に座り、膝を抱えて顔をうずめている。顔に黒い影が降りて、表情が分からない。
「だからあたし、せめて二番目にはなれると思って頑張ってきたの。最愛の人は無理だけど、最愛の娘にはなれると信じてきたのに……なのに」
 膝を抱えた腕にぎゅっと力がこもる。小振りな肩がよけいに小さくなり、ぷるぷると震える。
 泣いているのだろうか?
 心配してスウがそっとその肩に触れようとしたとき。
 ぱっとアイが顔を上げた。
「なのに、息子って何よ。しかも息子たちって、複数形じゃん!!」
 目の前にあるのは憤怒の表情。きりりとつりあがった眉と据わりきった目には、弱さの欠片も見られない。
「あー……。うん、双子らしいから……」
「いーやーっ! そんな情報、聞きたくもないわッ!」
 アイは両手でばっと耳を塞ぎ、イヤイヤをするように頭を振る。あーあー聞こえない聞こえないと、自分で声を出して防音した。
 スウはそのまま停止していたが、やがて行き場の無くなった手にちらりと視線を落とした。先走って慰めなくて本当に良かった。うかつなことを言っていたら、どんな反応が返ってきたことか。想像しただけで眩暈がする。
 アイはぬいぐるみの両手を引き裂かんばかりに引っ張って、キーキー喚いている。
「ずるいわ! あたしがこんなに頑張って娘になろうとしてるのに、そいつらは何があっても息子でいられるのよ。離れてても、何もしてあげなくても、お父さんのことを好きじゃなくっても! 憎いわ。あたしにはお父さんしかいないのに!」
「アイ……」
 スウはそっとアイに近づいて、小さな頭に手を置いた。
 途端にアイから覇気が消え、おとなしくなる。一回り更に小さくなってしまったようだった。
「アイは不安かもしれないけど、ヴィセさんはアイのお父さんだよ。ちゃんとアイを見てるし、本当は心配してる。アイに幸せになってほしいって思ってるよ」
「そんなこと、知ってるもん」
 慰めは思ったような効果を与えなかった。聡いアイには口先の取り繕いは通用しない。自分の言葉が本当な分、スウはもどかしさに切なくなる。
 ふっとアイの声が沈む。女の子らしい華やかさが消えて、ひどく大人びたものになった。
「私たちはいつもそう。陳腐で歪なオママゴト。いつになったら演じ終えるの」
 それからぎゅっとスウにしがみつき、胸に顔を押し付けた。
「スウ、もうどこにも行っちゃやあよ。あたしを一人にしたら、許さないんだから」
 甘えた声は高い。
 スウがそっとアイの頭を撫でる。
「私もここを出たら一人ぼっちだよ。ヴィセさんもアイも真彦さんも。だからきっと、一緒にいるんだね」
「一人は嫌。皆がいてもこんなに寂しいのに、一人ぼっちなんて耐えられない」
 パジャマをぎゅっと握られて、スウは小さく息をつく。今日はこのままアイが寝付くまで頭を撫で続けることになるだろう。昔からしばしばあったことだが、最近はここまで甘えん坊さんになることはなかったのに。
 柔らかな黒髪の感触に心地良さを感じながら、スウは少し、悲しくなる。
 寂しいのは、アイが孤独を振り払えないからだ。
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