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 ヴィセに宿詞の外し方を習い始めてから、一年と少し経つ。
 初めの頃は要領を得なかった呼吸や発声の方法もすっかり身について、この頃ではどちらが本当の自分の声なのか分からなくなってきた。
 正面では、ヴィセがゆったりと椅子に腰掛けて足を組んでいる。
肘掛に腕を置いて軽く頬杖をつくスタイルは、スウの発声練習をみているときにしか見かけない。
 そうして余裕ありげに微笑んでいると、どことなく高貴な風格があるように思えてくるから不思議だ。普段はそんな風には見えないのに。
 心持ち緊張した面持ちで対峙する二人を、アイがいつかの真彦のようにソファーに寝転んで、面白そうに見上げていた。傍らにはクマのぬいぐるみ。赤いリボンが可愛いアイのお気に入りだ。このぬいぐるみはリビング担当で、アイがここで寝転がる時は大抵抱かれている。
 真彦が帰ってきてからは以前のように秘密にする必要がないので、二人はリビングで練習していた。ヴィセの部屋は未だに危険が多い。アイが掃除機で高価なヴェネチアングラスのビーズを吸い込んで、スウと二人でゴミパックを漁ったのはつい先日のことだ。何が落ちていて何が隠れているか分からない部屋に入るのは、できるだけ避けたい。
 緊張すると失敗してしまう体質のスウは、普段よりも練習のほうが自爆率が高い。気にすれば気にするほどそちらへ寄っていってしまう様は、まるで下手な車の運転のよう。宿詞にしない、絶対しないと思うほど、ヴィセ曰く『それはそれは正統な』宿詞になってしまうそうだ。
 真彦は何度か巻き添えを食らっているので、練習が始まったと見るや脱兎のごとく別室へ避難していた。
 スウが慣れた調子で背筋を伸ばし、リラックスして息を吸い込む。
「ドレミファソラシド」
 一息で言い切った。
 余分なことは何も言わず、ちらりと窺うようにヴィセを見る。
「うん」
 彼は満足そうに頷いた。
「いいんじゃないかな。もう完璧だね」
 にこっと微笑まれて、スウがほっと胸をなでおろした。完璧という言葉を反芻して、ほのかに笑みが広がる。
「やった……」
 胸の前で小さくガッツポーズ。
「はいダメ」
「あっ」
 また油断した。
 悔しげに口元を押さえるスウへ、ヴィセはにこにこと機嫌の良い笑みを向けた。そのまま優雅に足を組み替える。
「最近は逆に安心すると出ちゃうみたいだね。常にっていうのは、なかなか難しいでしょう」
 スウは肩を落として、小さく溜息をついた。
 先日うっかり真彦に醤油を取らせてしまったのも、気の緩みが原因だった。ヴィセと真彦、二人の前で決して宿詞を使わないように意識してきた結果、今ではほとんど意識しなくとも非宿詞で話せるようになっている。だが逆に意識しない分、ふとした瞬間に本来の声がでてしまう時があった。
 アイがソファーの上でごろりと転がる。首を傾げる勢いで体まで回転してしまったらしい。
「あたしにはぜんっぜん違いが分かんないわ。お父さん、なんで分かるのー?」
 バタバタと足を動かし、ぎゅうっとクマを抱きしめる。頬に押し付けられたクマの頭部が、綿が出そうなくらい曲がっている。
「そりゃあ私たちには飛翔炎があるからね。音の違いじゃないんだよ」
 訳知り顔で説明されて、アイの小さな顔がぷうっと膨れた。桃色の唇がきゅっとすぼまり、つんと尖る。
「ずるーい。これってあたし一人仲間はずれよね。ひどいひどい、あたしも欲しい。っていうかスウの魔法が欲しい! そしたら真彦、使いたい放題じゃん。あたしもお手したーい!」
 ばたばたばたばたごろんごろん。癇癪を起こした子供のように、いや、水揚げされた雷魚のように、アイが寝転んだまま暴れまわる。頭から落ちたらどうしよう。
「アイ」
 クマを振り回して暴れる娘へ、ヴィセが珍しく咎める声で呼びかけた。
 ぴたりとアイの動きが止まる。
「そんな便利なものじゃないんだよ。宿詞は呪いだ」
「むー」
 それでもアイの頬は赤く膨れたまま。むーむーと不平を音で繰り返す。
 見かねてヴィセが一つ、指を立てた。しょうがないなと微笑む顔は、どこにでもいる父親のものだ。
「例えばアイって、よく人の悪口を言うでしょう」
「『バカ』とか?」
「それは状態を指す言葉だけど……もっと動作的な、『刺されろ』とか『死ね』とか『ハゲろ』とか」
「え……えへっ」
 可愛らしい声でぺろりと舌を出し、おどけるアイ。ヴィセの前では比較的たおやかに振舞っていたものの、父親は娘の本質を見抜いていたらしい。少なくとも少女たちが考えていたよりは、ずっと。
「そういうことをスウちゃんが私の世界で言うとね、聞いた人全員がなるからね。ここでなら私と真彦だけだけど」
「こっわ!」
 恐怖よりはむしろ引いた顔で、アイがソファーに身を起こした。
 それに対してスウはわずかに俯いて、その顔にかすかな影を落とす。膝の上に置いた両手を見つめ、じっと物思いに沈む。
 あえて軽い話に仕立ててあるが、ヴィセの言葉は本当だろう。あの世界でスウが一言でも誰かにそういったことを望んでいたら、そして彼女を取り巻く結界の守りがなかったなら。ほんの一言で聞いたもの全てに影響を与えてしまったのだろう。無論、自分はそんなことなど決して言いはしないが――
 そうだろうか。
 スウの中で、一つの問いかけと共に紅蓮の記憶が蘇る。
 一度だけ、たった一度だけ、彼女は激情に我を忘れかけた。デュノが聖女の手に落ち、魔力源として殺されそうになったあの時。彼女の魔法で壁に叩き付けられ、痛みに理性が消え去ったあの瞬間。
 初めて、心の底から他人を憎んだ。
 あの時脳裏を掠めた言葉が、耳の奥で蘇る。
 ――こんな女。
 この言葉の続きは何だったか。確か何かがあって、この先は思考を中断させられたはずだ。焼け付くような怒りと、噴き上げる憎しみ。それらが導くべきだった言葉は。
 ――こんな女、死ねばいい。
 ざあっと音を立てて、心臓が凍る。
 あの時何があって自分の思考が中断されたのか思い出せないが、それがなかったら彼女は明確に聖女への殺意を自覚していただろう。そしてそれを抱えたまま、結界の封印を解かれたことだろう。……そのとき自分はどうしただろう。
 その先は考えたくなかった。けれど考えずにはいられない。なかったことだからといって、放置することはできないのだ。探り、捉え、見張らなくてはならない。二度とのさばらせぬように。
 冷たい椅子に腰掛けたまま、スウは静かに問いかけ続けた。彼女は髪のひと房も動かさない。絵画のように静止して、じっとその場に留まる。
 ……良かった、ここに帰ってきて。
 やがて導かれた結論に、彼女は安堵した。
 結局、自分は人間なんだろう。わがままで自己中心的な、欲望とは切っても切れない存在。だからこそ、少年から離れて正解だったと思う。あのままあの子に触れていれば、手放せなくなるのは自分のほうだ。彼が成長し、自分の元を離れようとした時、あの女のように爪を立てて縋りつくのは、私。欲望の権化と化し、その力であの子に手をかけただろう。心から、そして体から。その力が自分には宿ってしまったのだから。
 やがて彼女はわずかに身じろぎして、姿勢を緩めた。そしてあの時自分に殺意を抱かせなかった何者かに、心から感謝した。
 そうしてやっと、スウはアイとヴィセの元へ立ち返る。二人はスウの様子に気付いているのかいないのか、続けて宿詞の話をしていた。スウが物思いに沈むとひたすら黙り込むのはいつものことだから、慣れっこの二人は何も言わない。同様に、いきなり彼女が目の前の世界へ戻ってきても、二人はそ知らぬ顔で迎え入れてくれる。
 ヴィセはアーゼンでの宿詞の使用例を解説している最中だった。平然と口にするところから、本当に身近な事柄だったことが窺える。
「他にもあるよ。私の国では拷問じゃない唯一の死刑の方法が、国王による処刑、つまり宿詞だからね。甘美なる死と言われるくらい苦しみのない方法だとされていて、本当に一瞬で……」
「もおやだー、怖いってお父さん! 今夜トイレ行けなくなっちゃう!」
 いやいやという仕草でアイが耳を塞ぐ。アイは昔からスウがいる時は夜中のトイレに一人で行けないのだが、指摘するのも野暮だろうと黙っておいた。
 娘の怯えようが面白かったらしい。ヴィセは陽気に笑う。
「あはは、ごめんごめん。……うん、私も怖かったよ」
 なにげなく添えられた一言が怖い。
「こんなかんじで、宿詞には色んな用途があるんだ。病気の子供を治したり、嵐を鎮めたり、反乱分子を思想から覆させたり、戦争の際に兵士に不敗神話を信じ込ませたり、敵兵を一掃したり……」
 指折り数えているうちに当時の心情に立ち返ったのか、ヴィセがいつもの穏やかな笑みを消す。さりげなく溜息をついて放たれた言葉は投げやりだった。
「私は大嫌いだったね。消えてなくなればいいと思ってたよ。本当に」
 明らかにこめられた害意に驚く。ヴィセにそんな一面があったとは思わなかった。いつでものん気すぎるくらいの鷹揚さで、寛大に物事を受け入れているのに。
 けれど、スウが知っているのはこちらへ来た後のヴィセだ。出逢った当初は一言も日本語が喋れなかったため、しばらくどんな人なのか分からなかった。日本語を覚えるにつれ徐々に彼の人となりを理解していったのだが、その過程でヴィセの人格に何かしらの変化があったのだとしたら、今の彼はアーゼン国王として生きていた頃とは全くの別人になってしまっているかもしれない。
 消えて欲しかったのは宿詞だろうか。それとも王位か、国か、彼自身なのか。
 スウは答えを求めて彼の目を見たが、黒い瞳はもはや過去を宿していなかった。
 アイは心底思い知りましたという顔でうんざりと溜息をつく。
「よ〜く分かりました〜。も〜欲しいなんて言いません〜」
 言葉に反して、妙に間延びした言い方に不平の色が出ていた。それからキッと勝ち気な顔を二人へ向ける。
「でも魔法が効くのも使えるのも、そっちの人達がそのなんとかって火の玉を持ってるからなんでしょ? なんでこっちには無いの? ずるくない? それがあれば魔法が使えちゃうのよ? 外国語なんていう面倒くさい教科もなかったのよ? すごいずるいじゃん!」
 やっぱり欲しいー! と両の拳を振り回す。クマさんはとっくの昔に吹っ飛んで、部屋の片隅に落ちている。アイは自分だけ飛翔炎がなくて、仲間に入れないのが悔しいのだ。
 その気持ちを汲んでいるのか、いないのか。ヴィセは相変わらずおっとりと頷きながら同意を示した。
「あー、それはそうなんだよねぇ。そのぶん言語が淘汰されなくて方言や文字の細分化が凄いんだけど……。私もこっちに来て、言葉が通じなかったのが一番びっくりしたなあ」
 ヴィセ一人が飛翔炎を持っていたところで、相手が持っていなかったり、空気中に魔力がなければ通じない。
 スウはずっと昔、初めて言葉が通じないと分かった時のヴィセの顔を思い出し、くすりと微笑んだ。
「憶えてます。すごく落ち込んでましたよね。今の真彦さんみたいに引き篭もって、おじさんが『子連れの手負いは気が立ってて危ない』って言ってたくらいですから」
「そんなことを? あの時は言葉が通じない上に知らない場所でアイを抱えて、途方に暮れていたからねぇ……」
「その頃のこと、あたしなーんにも憶えてないのよね」
「でも、私みたいな不審な外国人をよく家に入れたよねぇ、おじさん」
 ヴィセが腕を組み、しみじみと考え込む。
 子供だったスウが拾ってきた彼を、田舎のおじさんはしばらく住まわせてあげていた。性格柄、親切とは言いがたいおじさんの親切としか言いようがない行動に、ヴィセが首を傾げるのは当たり前だった。そうでなくても普通の大人は厄介事を嫌う。
「ああ、それは多分、アイがいたからですよ」
 スウが訳知り顔でにっこりと笑った。
「でも小さい子を放っておけないような人じゃないよね。スウちゃん、小さいのによくほったらかしにされてたし」
「いえ、あれは見てないようで見てるんです」
 おじさんは自分から積極的に子供を構いはしなかった。それどころか人間嫌いなのではないかと疑われるほど、誰に対しても淡白な性格だ。
 けれどスウがどこから家に入っても必ず「おかえり」の一言があったし、外で遊んで帰ってくる頃には必ず夕飯を用意していた。子供には危険な場所へ行こうと秘密の計画を立てていると、絶対に見破って阻止されたし、両親のことを思い出して夜中に一人で泣いている時には、そっと月を見に連れ出してくれた。幼かったスウは、おじさんは実は人の心が読めるんじゃないかと疑ったこともある。
「きっと、ヴィセさんの気迫に思うところがあったんでしょう」
「私の?」
 きょとんと自分を指差して、ヴィセが首を傾げた。
「何があってもアイだけは絶対に守るって。言葉は通じなかったけど、それだけはよく分かりましたから」
 片時もアイを手放さず、まめに面倒をみていた。仕事人間の父親しか知らなかったスウは、こんなお父さんも世の中にはいるのかと、新種の虫を見つけたような気分になったものだった。
「……当時の私には、そのぐらいしかできなかったからね」
 穏やかな謙遜は自嘲を含んで小さい。けれどその中に混じりこんだ照れ隠しを見つけ出し、スウはずっと年上のはずの彼をかわいらしいと感じた。
 ととっとフローリングを靴下で駆ける音が響く。
「お父さん、大好き!」
 アイがヴィセへ盛大に飛びつき、首に手を回してぎゅっとしがみついた。
「はいはい」
 ヴィセは慣れた手つきで小さな娘の背を優しく叩く。穏やかな微笑みが横顔に広がった。
 スウはそれを笑顔で見つめながら、心中密かに羨ましいと思う。アイのように気持ちをはっきりと表すことができたなら、自分ももっと誰かに愛されることができたのかもしれない。
「あたし、お風呂いってくるね!」
 一瞬だが激しい抱擁に満足して、アイがぱっと身を離した。満面の笑顔で手を振って、くるりと踵を返す。素早い動きは機嫌が良い証拠。薔薇色の頬が可愛らしかった。
 ぱたぱたと軽い足音が去っていくほうを眺めて、ヴィセが目を細める。微笑んでいるはずなのにどこか寂しげな影を横顔に落とし、静かに呟いた。
「アイを見ていると、私は父親失格なんじゃないかと思うよ」
 思いもよらない言葉に、スウが目を見開く。今のやり取りの一体どこからそんな考えが出てきたのだろう。
「そんなこと……」
「親に気を遣いながら生きるのは、子供にとって不幸なことなんじゃないかな。スウちゃんはそうは思わないかい?」
「…………」
 とっさに言葉が返せなかった。いつもの考え込んでしまう癖が出たわけではない。絶対に否定しようと身構えていたのに、思いもよらず自分の経験がそれを肯定してしまったからだった。
 アイは自分の本性を繕ってまでヴィセの気を引いたり、自分を可愛らしく演出する。その一方で邪魔にならないように自ら身を引いて距離を置く。こういった都合の良さは恋人同士なら良くあることだが、家族、それも親子の間では奇異に思えた。
 黙りこむ彼女を、ヴィセはそれ以上追及しなかった。
「これで血がつながっていたら、少しは違ったのかもしれないけどね」
「一緒です」
 スウは素早く言った。
 それから一拍置いて、わざと一度自分のペースを取り戻してから、決して宿詞にならないように細心の注意を払って言葉を紡ぐ。
「アイは幸せですよ。ヴィセさんのことが大好きなんだから。私が保証します」
 スウにとって、これだけがはっきりと言い切れる真実だった。アイがヴィセを慕っていることは疑いようもない。その彼と過ごす毎日が、アイにとって不幸なはずがない。
 けれどヴィセはなお納得がいかないのか、寂しげな微笑みのまま。
「そうならざるおえない環境にあることが、本当の不幸なのかもしれないね」
 呟きに混じる皮肉の残滓。
「違います」
 鋭い声色は、宿詞になるぎりぎりのところで回避された。
「アイはそれを自分の幸せに作り変えました。自分の力で。だからあの子は幸せなんです。その努力を認めてあげてください」
 ヴィセは意外そうに眉を上げ、改めて名を問うような視線でスウを見た。
 急に気恥ずかしくなって、彼女は慌てて席を立つ。一瞬だったが、無防備な子供のような瞳が、かつて自分を見上げた少年のそれと重なったからだ。
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