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五章   きづな


 買い物に寄ってから帰ったスウは、玄関の扉を開けた途端に広がった美味しそうな匂いに胸をときめかせた。
 この香りはおそらくハンバーグ。アイお手製のデミグラスソースでじっくり煮込んだ、ヴィセの大好物だ。トマトを効かせたソースがさっぱりとしていて、肉汁たっぷりのお肉でも全然しつこくない。スウがいつか覚えたい料理の一つだった。
 自然と足早にリビングに入ると、アイが忙しげにセッティングをしていた。
「おかえりー、早かったね」
「言われた通り買ってきたけど、これでいい?」
 スウが長ネギの飛び出したビニール袋を掲げた。牛乳が二本とジャガイモが入っているので、なかなか重たい。
「オッケオッケ。スウが買出ししてくれるから助かっちゃう。学校帰りに寄ってると、手の込んだ料理ができないのよねー」
 中身を確認しつつ、アイはスウから袋を受け取って軽々と持っていく。こう見えてアイは力持ちだ。この小さな体のどこにこんな腕力が隠れているのだろう。
 ひっそりと首をひねるスウ越しに、アイがテレビを見ている真彦へ嫌味を投げかけた。
「まったく、少しはそこの暇そーなワンコが役に立つといいんだけど」
 真彦は戻ってきてからずっとヴィセの家でお世話になっている。本人の意思ではなく、また薬に手を出さないか皆で見張るためだ。もちろんスウもアイも昼間は学校で、ヴィセは仕事なので、十分に見ていられるわけではない。けれど真彦はしおらしく、むしろ引き篭もる勢いでじっとしているので、誰もいなくても佐藤家から出ている様子はなかった。
 彼のことはスウも居候の身なので文句は言えない。だが、アイはその範囲ではない。ことあるごとにチクチクと嫌味を言う姿は、姑の嫁いびりを思わせた。家の中に入ってきた異物という点では、どちらも同じなのかもしれない。
 真彦はいいかげんうんざりしているらしく、溜息混じりに抗議の声をあげる。
「ちゃんと手伝うって言ったじゃん」
「あんたが台所に立つと、なんでかめちゃくちゃ邪魔なのよ。でっかいし、動きは被るし、うるさいし」
「気が回るって言ってください」
「ピーマン使おうとすると邪魔するし。お肉ばっかりになるしー」
「ああ? 『何食べたい?』って聞いたのはそっちだろ」
 眉をひそめる真彦の顔を見て、スウがピンと思い出す。
「あ、そうそう。そうだと思って、ついでに買ってきたんだよ」
 そういって自分の鞄を探る。奥の方に入ってしまった袋を取り出し、にっこり笑って真彦へ差し出した。
「はい、ジャーキー」
 一瞬、真彦の顔が止まる。スウが近づくと耳が倒れるのはいつものことだ。
「……人間用、だよな?」
「うん、多分」
 あまり自信はない。でもお酒の近くに置いてあったから、きっとおつまみ用だろう。その隣の棚はペット用品だったが。
 疑い深そうに真彦が袋の裏を確認していた時、台所からアイの声がかかった。
「ご飯できたよー、運ぶの手伝ってー」
「はーい」
 アイのご飯は相変わらず美味しい。ちょっぴり生クリームをかけた煮込みハンバーグは文句なく絶品だし、シーフードのたっぷり入ったマリネもアボガドのコクがあとを引く。コンソメのスープはシンプルだが、塩加減が絶妙でほんのり甘く感じた。白いご飯でさえ、つやつやと光って一粒一粒が数えられるくらいだ。どうしてこんなに透明感があるのだろう。同じ炊飯器でもスウが水加減をすると必ず失敗するのに。
 しみじみと幸せを噛みしめるスウに対し、真彦は大好きな肉料理に喜ぶわけでもなく、手持ち無沙汰にフォークを突き刺してはテレビを見ている。それすらさして面白そうでもない。
 CMに差し掛かかるのと同時、彼がいつものようにチャンネルを国営に変えた。
 丁度画面に映ったのは、眼鏡をかけた細面の男性だった。肩が広く、ブラウンのスーツがよく似合う。顔立ちは印象に残らないが、眼鏡越しに微笑む瞳が理知的な余裕を感じさせる。
 パッと、真彦がCM真っ只中の民放に変えた。
 それに食いついたのはアイ。
「あっ、ちょっと変えないでよ。この社長、あたし大好きなんだから」
「俺は嫌い」
 即座に答える声は平坦で、横顔は無表情。
「もー。あんたに主導権はないのよ!」
 言うなりアイがリモコンを奪い取り、チャンネルを戻す。真面目そうなおじさんばかりを揃えた、かたい番組だ。最近の事件や事故を取り上げて、色んな意見をおじさん同士で交し合っているらしい。政治評論家や知識人ばかりの中にその男性はすんなりと溶け込んで、その実、異彩を放っていた。
 話は丁度、最近の異常現象とオカルトブームを取り上げているらしい。
 司会者と見られる壮年の男性がさっと社長へ手を向けた。
『これらの件について、社長はどうお考えになりますか?』
『いやあ、私も専門ではないので言いにくいですが……そうですね』
 男性がクローズアップされる。少し困ったように手を首へ添え、微笑みのまま顔を傾げた。上手に謙遜しているが、身にまとった自信は少しも崩れない。
『私は幽霊なんて信じていませんが、これらがもし、非科学的な現象なのだとしたら……』
 ふっと内へ考え込むように声をと視線を落とし、それからすっと前を向く。その瞳が光を返して、いたずらげに輝いた。
『解明する対象が増えて、嬉しくなってしまうな』
 まるで勝算がないことが楽しいような、強気の笑み。
 黒。
 リモコンを奪い返した真彦がテレビの電源を切っていた。
「……うぜぇ」
「なに切ってんの〜!?」
 テレビを切られたことよりも、簡単にリモコンを奪われたことに憤慨して、アイが甲高い声でナイフを振り回す。
「うざいから」
 淡々と告げたのはテレビに対してか、それともアイの態度へか。真彦が捨てるような動作でリモコンをテーブルへ置いた。
 すかさずアイがテレビをつけるものの、番組はもう別のものに移っていた。落胆でアイの口が尖る。ついで流れる文句は諭す色合いのほうが強い。
「もー。嫌い嫌いって言うけど、この人ウチの学校の理事なんだからね。アンタも知ってんでしょ?」
 真彦は答えない。表情も変わらない。ただその黒い耳がひゅっと後ろへ倒れた。
 それを見ていなかったのか、アイは構わず続ける。
「この会社、この前の震災の時も外国に寄付とか物資送ったりして、めちゃめちゃ社会貢献してたじゃない。この街が他のところより早く復興できたのも、この会社のお膝元だったからって言われてるくらいなんだからね」
 アイが言い終えるか否か、それまで石像のように動かなかった真彦の口元が引っ張られるように横へ開いた。
「本気で言ってるなら笑えるな。その貢献に見合うだけの資源の利権や市場参入権を確保してるに決まってんだろ。アイツにとって、他人の不幸なんて付け込む隙でしかないんだから」
 初め、スウにはそれが笑みだと分からなかった。牙を剥いたと思ったからだ。
 だか彼は確かに笑っている。その瞳以外で。
「他人だけじゃない。アイツが前身の身内会社を金で買収したのは有名だろう。他にも星の数ほど食ってるが。まあ、その前身自体、買収工作でのし上がったようなものだがな」
「むー。でも、この社長さんのほうがアンタの百倍かっこいいもん」
 反撃の術を失って、アイが更に口を尖らせた。力技の理論はまったく筋が通っていないものの、相手を恐れる様子やまごつく様は見られない。いつも堂々と胸を張って、真正面からどんな相手も睨み上げる。それが佐藤アイ。
 が、その言葉は真彦をしらけさせてしまったらしい。彼は途端につまらなそうな顔をして眉を放った。ピンと耳が定位置に戻る。
「ったく。言ってくれるな」
 呆れた声はいつもの軽みを帯びていた。
「……でも、理事さんはいい人だよ」
 ほとぼりが冷めたのを確認して、スウがおずおずと声をかけた。自分の進学に理事が一役買ってくれたことを、彼女は忘れていない。ヴィセが何か手を尽くしてくれたのだとしても、彼が甘受してくれてくれたからこそ、今の彼女があるのだから。
 すっと、真彦の目が細められた。整った顔がそれだけで驚くほど冷たいものになる。
「俺の薬がこのS社開発でも、か?」
 スウは自分の表情が固まるのを自覚した。おそらくアイも同じだろう。二人は揃って何も言い返せなかった。
 一瞬の沈黙ののち、ふうっと息を抜くように真彦の表情から冷たさが抜けた。それだけで人造物のような顔が人間らしいものになる。
「正確には前身の頃に子会社が作ったんだけどな」
「その子会社って、総葉製薬? 事故でなくなったはずでしょ?」
 さすがにアイは復活が早い。
「そのときにバラけた社員が裏の方に散らばったらしいぜ。ちなみに俺が使ってるのはその無許可ジェネリック」
 いつも通りのおどけた調子で、真彦がひらりと指先を躍らせた。二本の指の間に挟まっているのは、白い錠剤。
「あー! なんで持ってんの!?」
「ヒ・ミ・ツ」
「渡しなさいよ。ちょ、スウ!」
 名前を呼ばれるより早く、スウは真彦を見据えていた。
 えへっと媚びを売る相手と目が合う。
「またお手、しますよ?」
 が、相手もなかなかのもの。彼の中に魔力を溜め込むには、できるだけ宿詞を使わないほうが効率がいいことを知っている。
「いやいやいや、崇ちゃんに限ってそんな、脅迫するようなマネ……」
「しますよ」
「え」
 ヒュウっと音をたてそうな勢いで、真彦の耳が後ろ向きにねた。
「するよ?」
 重ねて駄目押しを一つ。
「……ゴメンナサイ、冗談です……」
 ぺこりと頭を下げつつ差し出した薬を見れば、スウもよく知るビタミン剤だった。
 スパーンと、アイが容赦なくその頭を叩く。
「もー! 冗談きついんだから!」
「良かった。なんとなくそんな気はしてたけど」
 ほっと胸をなでおろして微笑むスウ。緊張が解けて我に返れば、目の前の料理が冷めてしまっている。あんなに美味しそうに湯気を立てていたハンバーグが縮んで見えた。慌てて食べようとして、その油断が口を滑らせた。
「あ、お醤油とってくれる?」
 言うやいなや、ダンッと凄まじい勢いで醤油の小瓶が目の前に置かれた。勢い余って中身が飛び散る。ランチョンマットに黒い染みが滲んだ。
 何をしたのか分からないという顔で呆然と自分の手を見るのは、真彦。
「ごめん、うっかり……」
 スウがとっさに謝る。
 つい素の声で喋ってしまっていた。今更口を押さえても、もう遅い。
「……計算? ねぇそれ計算?」
 真彦が大げさに額を押さえて落ち込む。しくしくと泣き声が聞こえるが、振りなのか本気なのか見分けがつかない。耳がまだピンと立っているところから推測すると、振りが七の本気が三というところだろうか。
 泣きまねを続ける彼に、アイが無情な言葉を告げた。
「スウの犬ね。アンタ」
 その後、本気で沈んだ彼のテンションを元に戻すのは、それはそれは大変だった。



 いつもより早めに玄関の扉が開き、ヴィセが帰ってきた。靴を脱ぐ音と一緒に嬉しそうな独り言が聞こえてくる。
「おや、ハンバーグだね。早く帰れてよかったなぁ」
「あ、お父さん! おかえりなさーい!」
 アイがぱっと席を立って駆けていった。察するに、おかえりなさいの抱擁をして、上着を脱がせて、クローゼットへかけてあげているのだろう。
 ネクタイを外したヴィセがひょいと顔を出し、普段通りの微笑みを浮かべた。
「ただいま。皆いい子にしてたかい?」
「いい子って」
 真彦がぼそりとつっこんだ。
「おかえりなさい、ヴィセさん」
 スウが気をきかせて席を立つより早く、アイがさっとヴィセの椅子を引いて彼を座らせた。
「今ご飯準備するねー」
 食べかけの自分の夕食をそのままに、アイは平気で台所へ向かう。
 それを微妙な目で追うのは、真彦。
「なによう」
 視線を察知して、アイが上目遣いに喧嘩を売った。ヴィセの前なので少し声が媚びている。
「そういうの、実の親子で恥ずかしくないわけ? オママゴトじゃないんだし」
 真彦はあからさまに馬鹿にした口調で問いかけた。
 帰ってきたからというもの、真彦はしばしば突然機嫌が悪くなる。スウにはその瞬間がはっきり見て取れるものの、何が原因なのか分からない。共同生活の中で部分部分の地雷は把握できてきたものの、どんな傾向があるのか、それぞれが彼の中で繋がっているのかなどは予測が立てられなかった。作家で観察眼の鋭いスウのおじさんならば、あるいは一目で見抜けたのかもしれないが。
 不可解な彼のご機嫌にスウが首をひねった時、アイがさらりと聞き流すように答えた。
「やあね、実の親子ならこんなマネしないわよ」
 諭す声はまるでお姉さん。
「あーハイハ……は?」
 簡単に告げられた言葉に、真彦は予測が狂って素っ頓狂な声をあげた。目と口を開けたまま、ぽかんとアイを見つめる。
 その隣でヴィセがおっとりと驚いた。
「あーれー、アイ、知ってたのかい?」
「そりゃあね」
 娘ですもの。と答える声は呆れている。
 そして、最後にのんびりと頷いたのはスウだった。
「へぇ、そうなんだ」
「反応薄っ」
 なぜだか自分に矛先を向ける真彦に、彼女は首を傾げる。
「そう? 前からどっちかな、とは思ってたんだけど……」
「思ってたんならツッコんでください」
 胡乱な視線で眉を寄せられた。そんなことを言われても、本当に言うほどではないと思っていたのだからしょうがない。
「アイとヴィセさんがいい関係を築けてるなら、血の繋がりなんて関係ないと思うけど」
 平然と微笑むスウへ、真彦は奇妙なものでも見るような目を向ける。
「大有りだろ。少なくとも今は」
 溜息と共に彼が肩を落とすと、大きな耳が力なく外側へ倒れた。
「んー」
 スウは首をめぐらせて、どこを見るともなく視線を注ぐ。
「私と私のお父さんは血が繋がってたけど、それだけじゃ駄目だったんだよね……」
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