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水を貰うとさり気なく席を立った真彦を、ヴィセが珍しく鋭い口調で制してきた。 「真彦。私の言ったことを聞いてなかったのかい?」 宿詞とかいう怪しい声ではなかったものの、その言い様に軽く苛立った彼は、相手を煽る口調で問い返す。 「聞いてましたが何か?」 「だったらその薬は要らないでしょう」 右手に隠し持った錠剤を言い当てられ、罰の悪い思いをする。が、そんな素振りは表さない。 「要らないかどうかは俺が決める」 普段より少し目を細め、視線で警戒のラインを引く。 ヴィセは呆れて、大げさに額へ手をついた。 「……君、まだ私の話を信じていないね」 落胆とも確認ともつかない言い方で、やんわりと指摘される。 事実、真彦は未だ彼らの話を話半分で聞いていた。彼にしてみれば魔法なぞ、たまにやってくる胡散臭い笑顔の宗教家の紡ぐ夢物語と大差ない。 ヴィセもスウも悪い人間でないし、人としては好きな部類だが、その思想にまで付き合ってやるつもりはなかった。 自分の身に起こった事態は異常だ。が、その根拠を魔法やら異世界やら、空想上のものに持っていくようでは、神頼みと変わらない。単なる思考停止だ。頭から信じ込むには、あまりにリスクが高すぎる。 幸い、今はまだ病状を抑える薬がある。彼らの論を信じるのは、もっと確かな証拠を得てからでも遅くない。 勝手な好みや悪意からではなく、真彦は理性でそう解釈した。 こういった考えの違いはどれだけ平易に言ってみせても、簡単に理解してもらえるものではない。説明するだけ時間の無駄だと、彼は鋭い舌打ちと共に踵を返す。無意味に苛立ち、薬を握る手に力がこもる。 ああ、うるさい。 ずっと心の奥から、なにものかが喚きたてていた。あの黒い妙な影が自分の中に入ってきたときからずっとだ。薬を摂れば弱まるものの、一秒として消えることはない。 意味のわからない怒号が耳鳴りになり、耳を押さえる。薄く大きな耳がくしゃりと折れた。その手の違和感。ぞっとする。反射的に、握った錠剤が砕けるくらい力を込める。早く飲もう。そうすれば少しの間だけ、このうるさい喚きが治まるのだから。 だが、彼の行く手を封じるように隣の部屋からアイが顔を覗かせた。 「何やってんのよ真彦ー、どこ行く気?」 「帰る」 短く答えて突っ切ろうとする。 だが相手も一筋縄ではいかない。狭い廊下に立ちふさがって、ふんぞり返って見上げてくる。チビのくせに。 「どこに帰るの」 「俺の部屋」 「水も止められてるのに?」 「じゃあくれ」 「その薬をあたしにくれたらね」 チッと舌打ちが反射的に出た。父子揃って抜け目がない。 「断る」 「じゃあ帰さない」 このセリフはどんな女に言われても恐ろしい。小娘の調子に乗った一言で、善意で保ってきた理性のタガが簡単に外れる。 その機を待っていたかのように、頭の中で獣の咆哮が鳴り響いた。 「るっせぇな! どいつもこいつも!」 「きゃっ」 振り上げた拳を、最後の理性で壁に叩きつけた。壁は厚いが板は薄い。簡単にへこみ、内部の断熱材に手首が柔らかく押し返される。その手の中で、薬が熱をもったように感じられた。 追撃する罵声を発しようとした時、視界の端に静かに佇む少女が居ることに気付いた。 髪を切り、黒髪に染めた彼女はもう白くない。なのに、背景から切り取ったようにはっきりと浮かび上がる姿は、白い輝きを思わせた。 「――ねぇ」 その声は水晶を鳴らしたように明朗に響き、一瞬で彼の体へ染み込む。体が硬直し、視線一つ動かせなかった。金縛り。だが、その力は外からかかったものではない。 少女が近づいてくる。少し細身の、どこにでもいるような女だ。少し困ったように微笑む姿が印象にある。いつも一歩後ろでおとなしく控えて、軽くつつかれただけで不安げに戸惑う。その動作が面白くて、よくからかった。 だがその時の彼女は違った。 にこ、と強者の笑みで彼へ手を差し伸べる。 「お手」 瞬間、何を言われたのか分からなかった。 気がつけば、彼女の差し出した手に自分の手が重なっていた。 少女の細い手がぎゅっと握られる。 「よくできました」 薬を取り上げられた。そう理解した瞬間、ふっと体から力が抜けて、自由が戻る。そしてようやく理解した。これが魔法。 無意識に、空っぽの手をきつく握り締めた。 畜生。 この女は、少し困っているくらいが丁度いい。 目の前で満足げにはにかむ少女を見て、彼は改めて確信した。 |
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