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「きゃーっはっはっはっは!」 アイがダイニングのテーブルを叩いて爆笑している。たまに突っ伏し、嗚咽にも似た擦れ声を出しながら。 その隣ではヴィセが苦しそうに顔を背けていた。娘と違って声こそあげていないものの、涙目でヒーヒーと息をするのも辛そうだ。 スウはじっと俯いて、机を穴を開けん勢いで見つめ続けていた。アイが用意した紅茶を両手で持ち、手を温める振りをして……身体が震えるのを必死で堪えている。全身をプルプルさせながら、じっとじっと耐え忍ぶ。 アイが正面に座る青年を指差し、なお高らかに笑った。 「耳! 耳って。あーっはっはっは!!」 これだけ笑われているにもかかわらず、真彦はずっと渋面を崩さない。意識を取り戻してすぐにシャワーを浴びた彼の髪は黒く艶やかに濡れている。束感のある黒髪が頬に沿い、鋭利なフェイスラインをより鋭くしていた。整った造形を一つとして崩さず、じっと動かない表情。ずっとこうしていれば凄みのある美形なのだが……。 そう思って、スウはちらりと彼の頭の上を見る。 濡れてぺったりと落ち着いた髪の隙間から突き出した二つの違和感。 ふっさりと、黒い獣の耳が生えていた。 「やあ、心配はしてたんだよ。ニュースになってはいなかったから、大丈夫だとは思ってたけど。まあその耳は……ぶふっ」 先駆けて説明しようとしたヴィセが撃沈した。大抵の事はのらりくらりとかわせてしまう彼も、今回ばかりはツボにはまってしまったらしい。笑いすぎで泣いている。 真彦が一層の渋面を作る。それに合わせて、頭上の耳がピクリと動いた。 「たぶん、その、今話した、ひ、飛翔炎の影響で……くくくっ……や、本っ当に良く似合うねぇー」 「猫耳じゃないとこがミソよね。犬耳、それも狼っ!」 きゃははと容赦なく笑い、アイはかつて一世を風靡した某女性アイドルグループの曲を歌う。おっとこはおーかみなのーよー。 スウの頭にもその歌がリフレインしてきて、さっきからろくに上げられない頭をさらに俯かせることになった。しかし自分の持っている紅茶の表面に真彦の影が映っているので、いっそうプルプルしてしまうだけだ。 どうにかせねばと目線を外した先で、うっかりその本人と目が合う。渋面に疲れた彼の顔には『いっそ笑ってくれ。むしろ殺してくれ』と書いてあった。 「おそらく以前狼に宿っていた飛翔炎なんだろうね。日本狼は絶滅したっていうし、近場に適当な生物がいなかったんだろうけど……いや、二回も人間に憑いたってことは、元は人間に憑依するものだったのかな。黒だし、私とお揃いだねぇ。ぷぷぷっ。いやあ、未だに形を残しているなんて、相当恨みが強いみたいだ」 ヴィセが笑いを噛み殺しながら温かい紅茶を口に含んだ。が、すぐに自殺行為だと気付いたらしく、一口でカップをテーブルに戻す。 「……動物に怨まれる覚えはねぇぞ。人間ならあるが」 不機嫌な声で、むっつりと真彦が答えた。 ヴィセはちょっと意外そうな顔をして、「なるほど。そう捉えるのか」と口の中で呟いた。それから微笑みと共に相手を安心させる声色で語りかける。子供に手ほどきをするように。 「ここで言う恨みは、この世界の『オバケ』がするような個人的なものじゃないよ。実際そういった意思が飛翔炎に残ることもあるけれど、他人に宿った時点で以前のものは消えてしまうらしいから。もっと、そう、例えば信念のようなものかな」 「信念? それが恨みなの?」 アイがこきりと首を傾げる。 「私はその二つは良く似ていると思うけどね。まあ、最後に残るものってことだよ。そして受け継がれるものだ。前の宿主のものでもあり、その前の持ち主のものでもあったもの。そしてその飛翔炎の属性でもあるものだね。普通は自我ができる前に宿るから、この属性のほうに人格が影響されてうまく適合していくものなんだけれど……」 ヴィセは少し言葉を区切り、ちらりとスウを見た。 「君たちは既に自分ができてしまった後に宿られたからねぇ。どうしても齟齬がでてしまう。それがその耳となって現れているんだ。スウちゃんは見たところうまくいっているようだけど、まーくんは違ったみたいだね」 「まーくん言うな」 「スウも取り憑かれてるわけ?」 アイがずいっと身を乗り出し、スウに大きな目を向ける。 「う、うん。そうみたい」 自分には何の違和感もない。変わったことといえば髪の色くらいだが、これは誰でもなるもののようだ。真彦は偶然、黒のままだったが。 「スウちゃんの飛翔炎は特別仕様だからねぇ。それに……」 ヴィセの瞳が懐古を帯びて細められる。 「前の宿主の死後から二十年以上経っているから、ごく純粋な属性しか残っていないんだと思うよ。それにきちんと適合するからこそ、スウちゃんがあちらへ呼ばれたのだろうし」 「呼ばれた? じゃあ、スウがいなくなったのって誰かが無理やり異世界とかに連れてっちゃったからなの? 誰よそいつ!」 息巻くアイをヴィセがなだめる。 「まあまあ、それはいいとして」 「よくない!」 珍しくきっと父親に反抗するアイへ、ヴィセはすっと冷めた目を向けた。 「別に連れて行ったわけじゃないんだよ。そうなるように仕向けただけで。それに乗ってしまった私たちにも非はあるんだ」 それだけでアイは怯えたように口をつぐんで黙り込む。 「そんなことより、この耳、治るんだろうな?」 親子に割って入ったのを気にせず、つっけんどんな口調で真彦がヴィセを睨んだ。 ヴィセはその攻撃性をするりとかわす。 「ああうん、それはたぶんね」 「何その曖昧」 険悪さを深める真彦へ、ヴィセは平静に告げた。 「全ては君しだいってことだよ。あちらでならいざ知らず、こっちには空気中に魔力がほとんどないからね。宿詞が効くかは君の中にどれだけ魔力があるかにかかってる」 「魔力なんかあるわけない」 鋭い否定が突き刺さる。真彦は特に激昂もせず、まるで鏡が光を跳ね返すように答えた。 スウはその姿をどこかで見たような、懐かしくほろ苦い感覚を覚える。そうなのだ。この世界のものなら大抵は――たとえ心のどこかでそれを望んでいたとしても――いざ目の当たりにすれば、否定してしまう。否定して、そして安心するのだ。 「本当にそうかな?」 ヴィセがわずかに笑い、身を伸ばして真彦の今は黒く大きな耳へ口を寄せた。 その言葉をスウは聞き取ることができなかったが、彼女の中の何かがぞわりと反応する。 がっと、真彦がヴィセの顔を正面から掴んだ。 「うっわキモ! なにそれキモイ鳥肌たった!!」 反射的に片耳を押さえ、掴んだままの顔をぐいぐい押しやった。できる限り身を引いて、彼から遠く間合いを取る。その顔は驚きと焦りでドン引きしている。 ヴィセは身を引いて顔を自由にすると、晴れやかな笑顔でにっこり。 「うん、全然効かないね」 更に追い討ちの笑顔でスウへ指示した。 「適合しろって言ってあげてごらん」 今のヴィセの宿詞で真彦は完璧に警戒している。目つきだけで、今度はそうはいかないからなと思っているのが良く分かる。 スウは戸惑いながらそっと彼の頭上に手を添えて、大きな耳へ口を寄せた。よく見るとふさふさしていてかわいい。うっかり笑ってしまって、彼の耳がピクッと動いた。 「……息吹きかけるのヤメテ」 うんざりと言われる。 「適合してください」 周りに零れぬよう、できるだけ小さな声でささやく。 同時に、ばっと真彦がのぞけった。強く耳を抑えてイスごと転ぶ。振り向き様に合った目は、驚きよりもむしろ恐怖に見開かれていた。 その反応の違いにスウは驚いた。けれど、頭のどこか冷静なところでそういうものなのかと納得する。自分の声はやはり、そういうものなのだ。そして彼女の胸に重い液体が凝る。ゆらりゆらりと滞る。 「おや強力。やっぱり本家は違うね」 おっとりとしたヴィセの感想は、誰も聞いてはいなかった。 真彦は見開いた目を決してスウから離さない。その一挙一動を見ずにはいられないというように。 「な……なん」 「宿詞。君たちが魔法と呼ぶものの一つだよ。彼女はその正統な使い手なんだ」 揺れ動く問いかけへ、ヴィセが形を与えた。 「魔法……」 「で、耳、治ったの?」 うわ言のように呟く真彦へ、アイが紅茶をすすりながら問いかける。さっきから大人しい彼女は、どこまでも他人事という調子を崩さない。ヴィセの突拍子もない話もスウの事情も全部聞いている。聞いているが、積極的に関わってこようとはしなかった。 言われて始めて思い出したのか、真彦は恐る恐る頭を掴んでいた手を放した。途端にぴょこんと立つ、ふさふさの黒い耳。 「ダメじゃん!」 責めるような口ぶりでアイがスウを見る。ちなみに治せるかもと言ったのはヴィセで、スウは一言もできるとは言っていない。 「やっぱりか。おかしいなぁ」 一人で納得しているのはヴィセ。 「予想通りだけど、やっぱり不思議だよ。宿られてから何ヶ月も経ってるはずなのに、この程度の魔力だなんて。だからこそこうして心を維持できているわけだけれど、おかしいなぁ」 彼はうーんうーんと頭を傾げていき、ひとしきり傾げきったところでぴたりと止まった。 「まーくん、何かしてるでしょ。それも体に悪いこと」 「さあね。心当たりが多すぎて分かりませーん。ってか、まーくんって言うな」 急にいつもの調子を取り戻して、真彦がイスを戻しながら答えた。 「いーやしてる。なんかしてる。じゃなきゃこんなにもつはずがない。黒の飛翔炎は魔力も強いはずなのに。アイとスウちゃん、何か知らない?」 子供のような口ぶりでヴィセは口を尖らせ、いきなり少女たちに話を振った。 日頃の行いが悪いことでは有名な真彦。本人の言う通り、スウが知っているだけでも体に悪いことならたくさんしている。 「えっと、お酒とタバコと偏食と」 「ドラッグよ」 両肘で頬杖をつき、興味なさげにしていたアイが横からさも当然と言い放った。 「……言うか普通」 アイが知っていることには驚きもしないで、真彦はげんなりと突っ込む。大げさに溜息はついているが、怒ったりはしていない。 「なるほど薬か。そういえば麻薬の中には魔力を強制的に排出させるものがあったなぁ。息子の関係で一時研究させてたんだけど……フィリアがキレて研究所を壊滅させたんだっけ」 懐かしげに恐ろしいことを呟くヴィセ。あの女王ならやりかねない。いや、やる。 その独り言をアイが拾った。 「息子?」 「魔力がなければないほど獣はおとなしくなるだろうね。むしろ魔力こそが獣の実体だと言ってもいい。なるほどなるほど、そうして君は永らえてきたわけだ。面白いな、こんなことでも君たちは薬に頼るんだね。風邪みたいに」 呟く言葉は何かを切り分けるような、無邪気な鋭さを含んでいた。 「で、それが効くんだね。君には」 「そんな理屈は知らんがな」 真彦はどんな言葉も跳ねのける。 その一連のやり取りをぽかんと見ていたスウが、突如はっと我に返った。 「な、なにやってるんですか真彦さん! ダメですよドラッグなんか。体に毒です! 頭溶けちゃうんですよ!?」 「そーよそーよ、社会の底辺よ。下種よ。人間失格よ」 学校の授業で少し齧ったぐらいだったが、スウは麻薬をとても恐ろしいものだと思っていた。怖いもので体に悪いもので、悪い人が使うもの。まさかこんな身近に使っている人がいたとは思いもしなかった。 何も答えないでいる真彦へ、スウが更に言葉を重ねようとしたとき、横からちょいちょいと突かれた。見れば、ヴィセが瀕死の様子でテーブルに突っ伏している。 「あれ?」 「……ごめん、スウちゃん。私たちには君の声の方がヤバいかもしれない……」 そういえば、つい素の声で怒鳴ってしまった気がする。 「え。あっ。すみませっ、え。じゃあ真彦さん、ちょっと、大丈夫ですか!?」 反応がない。しかも目が虚ろだ。 焦ってしばらく頬を叩いていると、反応が返ってきた。 「痛い……痛いから、ってかマジ痛いし痛てぇ!」 やっと我に返った真彦は一息ついて、それまで黙っていた分を取り戻すかのように早口で喋りだした。 「あー息できなかった。死ぬかと思った。あと脳ミソ溶けるのは別のヤツだから。俺そういうアホな真似してまで楽しむタイプじゃないし。変な風に覚えてるとテスト間違うよ?」 「でも体に悪いです」 「今は俺の体に良い方に作用してるよね。アンタにとやかく言う権利ある?」 今日の真彦は以前よりも当たりが厳しい。会わない間に心が荒んでしまったのか、それとも獣の影響か。もしかすると元々こういう性格だったのを無理やり仮面をつけて隠してきたのかもしれない。 ここまで言われてしまうとスウは黙るほかなかった。助けを求めてアイを見れば、彼女はヴィセの介抱に忙しい。 彼女の後を引き継いで真彦を追及したのはヴィセだった。宿詞の衝撃から回復した彼は、細い足を組み、イスに体重を預けるようにして軽く反る。視線は自然と上を向き、うつむきがちの真彦とは全く噛み合わない。 「その薬は獣の侵蝕を抑えてはくれるだろうけど、治してはくれないんじゃないかな。イタチごっこの末に力尽きるのは君のほうだよ。それで本当にいいのかい?」 問いかけはどこか他人事。 「…………」 「宿詞なら治せるよ。跡形もなくね。あいにくここには二人も宿詞の使い手がいる」 真彦は答えない。先ほどと違って答えられないのではなく、黙ってヴィセの出方を窺っていた。相手の手駒を眺めてから、ゆっくり自分の歩を進めようという腹のようだ。 ヴィセはそれに自ら乗った。 「その前に説明しておこう」 すっと、指を三本立てる。 「実は、宿詞には三つの問題があるんだ」 その指を折りながらヴィセは淡々と告げる。 「まず、君はその薬を止めなければならない。宿詞で言うことをきかせようにも、君に作用するには君自身の魔力がなければならないからね。これは君の体の問題。次に、そうして魔力が溜まれば溜まるほど君の中の獣は力をつけ、君を喰らうだろう。君はそれに耐えなければならない。これは単純に意志の問題。そして最後に知ってもらいたいのが」 スウとヴィセの視線が交わされる。 「心の問題だ。宿詞の依存性はドラッグの比ではないよ。本当を言うと、薬で停滞した精神に宿詞はお勧めしたくないくらいなんだ。さっきは運よく気絶で済んだけど……」 ヴィセはその先を言わない。宿詞に慣れ親しんだ者がどうなりどうなっていくのかを、彼は知っているはずなのに。 デュノも初めは真彦ほどではないにしろ、拒絶反応を示して気絶した。あの子が宿詞の魅力にとり憑かれ始めたのは、いつからだっただろう。あの子はもう、スウの声を忘れてくれただろうか。自分を忘れてくれただろうか。 言いようのない寂しさに沈む彼女に気付いたのか、ヴィセが笑顔をつくって妙に明るい声を出した。 「どっちにしろ真彦しだいだね。薬に縋るか、宿詞に頼るか、それとも諦めて獣に喰われるか。よりどりみどりだねぇ、まーくん。あっはっは」 真彦はもう、まーくんと言うなとは言わなかった。彼もスウもアイも、思わず何も言えなかったからだ。 その代わり互いに顔を見合わせて、 「ヴィセさんって、ときどきフツーに残酷だよな」 「うん……」 「……よね」 奇妙な連帯感を持ち合うのだった。 |
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