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 思いのほか本屋で長居してしまったせいか、夕闇が早くも降りてきた。節約のためか、マンションの通路の照明は、まだ働く気はないようだ。窓の外の空は不思議と明るいにもかかわらず、すぐ前を行くアイはぼんやりと闇に包まれている。
 その背を眺めて歩いていたスウが、不意に「ねえ」と聞こえるか聞こえないかので呼びかけた。
「なあに?」
 アイが足を止め、くるりと振り向く。黒いソバージュがふんわり揺れる。
 けれどスウは何も言わない。
 不自然な沈黙が十分に流れてから、彼女は小さく首を振った。
「ううん。空、綺麗だね」
 そう言って、今まで見てもいなかった窓の外に目を向ける。
 夕日の消えた空は紫から藍へのグラデーションに、輝くオレンジの雲が浮き上がっていた。夕日の面影を残す雲は妙に立体的で、手を伸ばせば掴めてしまいそうだ。
「そう? そんなに珍しいものじゃないわよ」
「……そっか」
 スウは呟きで返すと、そのまま足を止めてじっと空へ見入った。夕空は刻々と色を変え、やがて雲の代わりに一番星が輝き始める。けれどその星よりも街の明かりのほうが、ずっと美しく闇を彩ることを彼女は知っている。
 知らず、溜息が零れた。
 本当は、そんなことを言うつもりはなかった。呼びかけたのだって、ほとんど自分の意思じゃない。気付いたら声が出ていた。

 『ねえ――あの地震ね。私のせいかもしれないんだ』

 ……かもしれないという程度の確信ではなかった。
 本当は、最初から知っていたのだ。戻ったあの瞬間、彼女は確かに聞いたのだから。何者かの失望と、怒りの声を。
 あの声がどれだけの力を持っているのか、スウには分からない。たとえ声と地震が無関係だったとしても、スウが異世界から戻ってきたこと自体が引き金になったのではないのかという疑問が残る。それほどまでにあの地震はタイミングが良く、不自然だった。
 けれど人一人が左右するには余りに大きなことで、スウは始めのうち、その意味が良く理解できなかった。地震によって両親を殺した事が彼女への罰に当たるのだとは、何とか飲み込めた。けれど悲しみと混乱が目を眩ませて、しばらくの間何を思うことも、感じることも出来なかった。
 やがてその答えは時が経てば経つほど明瞭に彼女を苦しめ始める。もしそうだとしたら。
 そうだとしたら。
 あの震災が及ぼした全ての不幸は、スウのせいだ。
 松本先生の体調も、仕事を辞めた後の苦労も、両親の死も、破壊された街も、国も、人も。
 全て彼女が戻ることを選んだから。
 考えただけで、絶望で何も見えなくなる。何も出来なくなる。もし不用意にアイへこの事を告げてしまっていたなら、彼女はその場で泣き崩れていたかもしれない。
 ……そんなことを望んだわけではなかったのに。
 けれど今更泣くこともできなくて、彼女はただ呆然と立ち尽くす。いつもそう。自分には立ち止まることしかできない。
 ふと気付くと、アイが心配そうな顔で見上げていた。その顔がまるで迷子の子供のようで、スウにふっと微笑みが蘇る。
 アイは聡い。だからいつも明確なことを言わないで過ぎてしまう。あちらが流してくれるから、こちらもつられて終わってしまう。きっと、きちんと話した方が何倍も良いんだろうけれど。
 これがあの少年だったなら。
 おそらくきっと、はっきり聞いてくれるだろう。あの特有の率直さで、何の迷いもなく、愚かだといわれるほど真っ直ぐに。
 その救いは、ここではあまりに貴重だ。
 ……でも、そんな甘えは今更許されない。
 思っても仕方のないことと自分を戒めようとしたとき。不意に近くの扉からガタンと大きな音がした。
 必要以上に驚いて二人が扉を見つめる。思わず息を潜めたものの、それ以降物音はしない。まるで相手も息を潜めているような。
 ところでここはマンションのどの辺りなんだろうと表札を見たスウに対し、アイは積極的だった。いきなり扉を拳でガンガン叩き始める。
「ちょっとお、真彦ー? 帰ってきたんなら顔ぐらい見せないさいよー」
 見れば、思いっきり真彦の部屋だった。
「真彦さん、帰ってきたのかな?」
「借金取りじゃなければね」
 不吉なことを言って、アイは構わず取っ手を握る。どうせロックが掛かっているだろうと気軽に引いたらしい。なんの抵抗もなく扉は開き、危うく顔面に激突するところだった。
 ぽっかりと開いた扉の奥は闇ばかり。灯り一つついていない。
「……真彦?」
 さすがにアイも不安を感じ始めたらしい。訝しげに首をひねりながら、それでも指先でぱちぱちとスイッチをつけようとする。
「電気、止められてるみたい」
 何ヶ月も不在だったのだから、当然のことだろう。
 暗いというだけで及び腰になるスウとは正反対に、アイはどこまでも強気だった。
「ちょっと真彦ー? 居るのは分かってるのよー!」
 靴を脱ぎ散らかし、どしどしと廊下を進んでいく。すぐにその背が見えなくなって、スウは慌てて後を追った。
 暗がりに目が慣れるにつれ、部屋の様子が徐々に見えはじめてきた。うっすらと埃の積もった室内は、不思議なくらいガランとしている。物と言えるものもなく、生活に最低限必要なものだけが死んだように転がっていた。あるのは冷蔵庫とテレビとベッドくらいだ。食べ物のゴミや雑誌はおろか、整頓棚やクーラー、テーブル、ソファーなどは一つもない。真彦の人柄からなんとなく雑然とした部屋を想像していたスウは、そのギャップに少なからず驚いた。
「まーさーひーこー?」
 リビングの隅々を探し回るアイの声が聞こえる。ときどきガツンゴツンと何かにぶつかっては逆ギレしている様子から、思いっきり不用意に歩き回っているようだ。暗いのだから、もう少し保守的になって欲しい。
「アイ、足元に気をつけ……」
 見えないアイへ注意を投げかけた時、手前の扉の奥から呻きのような声が聞こえた。
「……? 真彦さん?」
 返事はない。一応軽くノックしてゆっくりと扉を押し開ける。
 暗闇に目が慣れてはじめに識別できたのは、白い壁。窓のない狭い部屋は、暗闇も手伝って奇妙な圧迫感を覚えさせた。その壁の端に、ぽっかりとくり抜いたように影があった。
 そこには、靴を履いたままの足を投げ出して壁にもたれる青年がいた。黒い上下に、黒い帽子。うなだれたように下を向いた顔は、帽子のつばに隠れて窺えない。
「真彦さん……?」
 呼びかけたとき相手の目だけが光った気がして、少し怖くなる。いくら待っても返事はない。
 少し様子がおかしいが、真彦には違いない。そう信じて、スウはためらいながら室内へ踏み込んだ。
「よるな」
 その動作で始めて彼女を認識したように、相手が帽子を押さえた。鋭い声色からギリリと張り詰めた神経が伝わってくる。苦しそうな息遣いと、熱に浮かされたような目。力の入らない身体。
 ……酔っているのだろうか?
 そう思って更に近づいた時、暗い中で何かを踏んだ。
 足元に錠剤が散らばっていた。暗くてよく見えないが、かなりの量が散乱している。まるで投げ捨てたかのように。
「薬? こんなにたくさん、どこか調子が悪……」
「うるさい!!」
 突然叩きつけられた怒号に身がすくむ。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
 それでも声をひそめて彼の傍らに膝をついた。熱でもあるのだろうかと額へ手を伸ばす。
 闇のような瞳と目が合った。
 ぞっと身動きがとれないでいるスウへ、彼の大きな手が伸びる。
「ダメ! そいつ、とんでる!」
 背後からかかった警告に応える間もなく、強い力で突き飛ばされた。錠剤の散らばる床へ倒れこみ、天と地が一瞬逆転する。
 直後、扉付近からひゃあというアイの悲鳴とどんもりうつ音が聞こえた。続く罵声に乙女らしさは微塵も残っていない。――なにすんのよこのハゲ!!
 それに応えず容赦なく遠ざかる足音。
 スウは慌てて身を起こし、後を追う。部屋を飛び出し、廊下の先を駆ける背を見つけた。
「待って――止まりなさい!」
 夢中で叫んだ。
「!!」
 瞬間、扉に手を伸ばしていた相手が、ぐっと身をよじるようにして折った。開けるはずだった扉に手をつき、背を丸めて震え……堪えきれずに吐瀉する。そのままむせ込み、ずるずると倒れこむ。動かない。
 思いもしなかった反応に、スウはその場に立ち尽す。なぜ? なにがあったの。
 そっと二の腕をつかまれ、心臓が踊る。アイだった。
 二人は震える身を寄せ合いながらそうっと近づき、相手の意識がないことを確認する。
「真彦、なんだよね? ね?」
 アイの声は震えていた。
 スウは答える代わりに、勇気を振り絞って彼の頭を覆う黒い帽子を取り払った。
 あらわになる整った顔と。

「ッキャーーーーーーーーー!!」
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