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四章 内側から喰らうもの 初夏の日差しはすぐに梅雨の雲に覆われ、単調な雨が続いた。 激しくもなく、かといって止むこともない重苦しい雨。 カラフルな傘の花畑に嫌気がさした頃、唐突に夏がやってきた。 梅雨の水気を風が飛ばす前に、太陽の熱線が注ぎすぎたらしい。鋭い日差しが直接肌を焦がし、蒸気が体の心まで蒸しあげてくるようだった。湿気は空で爆発でもあったのかというほど入道雲が大きく育て、アブラゼミ達が暑い暑いと騒いだ。 その声がツクツクボウシに変わるころには、突然の夕立と巨大な台風が入れ替わりに現れ、熱を含んだ大気を少しずつ連れ去っていった。 そうすると気の早い大空は、虫たちの奏でだす自慢話に耳を傾けるつもりがないのか、まだ夏の気配の残るうちからどんどんと身を引いて、うろこ雲の向こうへ逃げてしまった。 やがて街路樹が色づき始め、赤や黄色の暖かそうな冬服へ模様替えを始める。 でもそれは一瞬のこと。 冷たい北風がその服をはがす頃、都会の喧騒からクリスマスソングが流れ出し、木々は光り輝く一張羅を与えられた。その上から柔らかい羽毛のような雪が覆いかぶさって、年明けの最も寒い間、白い上着に覆われる。 重い雪が滑り落ち、殺風景な町並みが戻ってくると、街角の思いもよらぬところから梅の香りが漂ってきた。けれどそれは幻のように微かなもので、すぐに桃の花の強いピンクに紛れてしまう。 その枝が寂しくなる頃には、いよいよ風が強くなる。 風の勢いは日を追うごとに増していき、ほころび始めた桜の花を咲いた端から散らしていく。潔い桜の花は、風の要求にあっさりと花びらを手放してしまうのだ。 ほんの少しも名残を惜しまずに。 こうして、スウがこの世界に帰ってから、二度目の春が来た。 桜の花びらがいっぱいに散る中で、彼女は付属の大学へ入学した。 付属とはいえ、本当は大学へ進むつもりはなかった。高三の秋口、クラスメイトたちが続々と付属大学へ推薦を決めていくなかで、彼女は一人、出席数を理由に進学を諦めていた。戸籍上唯一の親籍である父を失った彼女は、彼のわずかばかりの遺産を潰してまで大学へ行く価値が自分にあるのか分からなかった。けれど同じく出席数が理由で、就職もまた難しいことも自覚していた。 戸惑う彼女を後押ししたのは、ヴィセと田舎のおじさんだった。 まず最初に動いたのはアイだった。なんとかしてスウと一緒に大学へ行きたいと考えた彼女は、ヴィセだけでなく、田舎のおじさんにまで連絡して、二人にスウを説得させたのだ。普段通りおっとりと「社会に出る前にもう少しゆっくりしてみたら」と言うヴィセに対し、おじさんもまたいつも通り黙っているだけだった。ただ、時々スウへ電話をかけてきて近況を聞きだし「そうか」と短い応えを返した。 けれど推薦の申し込みが迫ったある日、おじさんが珍しく口を開いた。 「ろくな援助もできない俺が言って良いのか分からないが……」 声色には、珍しくためらいの色が表れていた。 「お前さんにはまだ早い。大学へ行け。……それでいい」 不思議と力のある言葉だった。 翌日、担任へ進学の話をしたスウは、理事から震災の関係で欠席した者には特別な処置が下されていることを知った。そしてそれが、震災前であったはずの彼女の失踪期まで適用されるということも。不自然な話に首を傾けたスウだったが、その話を聞いたヴィセはただにっこりと微笑むだけで、「良かったね」以外の何も言わなかった。 入試を前に、スウは背中まであった長い髪をばっさりと切った。白い髪を染めようとしてなにげなく入った美容院で、若いのにと散々嘆かれた挙句、これからも染め続けるのだったら短い方が都合が良いと勧められたのがきっかけだった。ショートカットと言っても差し支えない短さに、幼い頃から彼女のロングヘアーしか見たことのない面々は、それはそれは驚いて、残念がった。特にアイの嘆き様はひどかった。 不自然なほど黒く、短い髪。美容院で初めてその姿を見たとき、スウはどれが本当の自分なのか自信が持てなくなった。黒髪こそが、自分の生まれ持った姿だったというのに。 その髪も今や伸びて、肩の上で風に揺られている。光の加減で茶色に見えるのは、少し日に焼けてしまったから。 大学からの帰り道、気を抜くとすぐ桜吹雪に見とれる彼女を、アイがしっかりと掴んで誘導する。 「欲しいCDがあるの」 大学生になっても少女としか思えないアイは、目的に目を輝かせたまま、ずんずんと大股で歩いていく。 「『Rya-sya』のセカンドアルバムよ。今日発売なんだ」 リャーシャ。聞き覚えのある名前に、スウは記憶の糸を手繰った。確か、二年ほど前にデビューした女性シンガーだ。丁度スウが異世界へ飛ばされる前にCMで使われた曲が大ヒットして、よく聞いていた。曲名は忘れてしまったが、あの孤独な森の中で寂しさを紛らわすために、しばしば口ずさんでいた覚えがある。 その後たいしたヒットも聞かないが、アルバムが出るということは細々とでも売れ続けているのだろう。 時の流れの速さを自覚して、スウは少し寂しいような、どこか穏やかな心持ちになった。 大学と付属の高校は同じ敷地内にあるので、帰り道は高校の頃と変わらない。二人は慣れた道を抜けて、近くの大きな本屋へ入った。CDやDVDも売っているお店だ。 けれど自動ドアを抜けてすぐ、アイは目的を忘れてラックに挿してある週刊誌を手に取った。ふん、と気のない振りをして、パラパラと記事に目を通していく。 その手がぴたりと止まった。 「ハムスターに角が生えたあ?」 不適切なくらい素っ頓狂な声で、アイが雑誌を取り落とした。 すかさずスウが拾い、該当箇所を開く。するとそこには確かにハムスターにちょこんと枝分かれした鹿の角が生えている写真が写っていた。狭いゲージの中で、必死にひまわりの種を食べている。 「かわいい……」 「か、かわいいの? これ」 記事によると、ある家で生まれたハムスターのうち一頭に牡鹿の角と思われる突起物が生えてきたらしい。それも子供の頃にはなく、丁度大人になった頃から生えてきたという。 次のページには外国で雪男が見つかったと載っていた。イエティとどこが違うのか、専門家の見解が詳しく述べられている。 なにげなく目に入った隣の記事を、スウが読み上げた。 「『アルマゲドンはもうすぐ来る……新興宗教開祖が語るノストラダムスの真実』」 「どんだけ遅いのノストラダムス」 ここまでくると、なにもかもが胡散臭い。 その次のページには、火の玉が発見されてまたUFO騒ぎになったという記事が小さく載っていた。火の玉の証拠写真がいくつもあげられている。どうやら、ここのところ頻発しているようだ。 スウの記憶に一瞬、闇の凝り固まったかのような、あの飛翔炎の姿が浮かんだ。 今、世界中で不穏な事件が頻発していた。 突然発狂し、車で二百人の歩行者をひき殺した男。子供の生き血を啜らねば死ぬという妄執に囚われた女。学校の屋上から集団で飛び降りた子供たち。加速する失踪。凶悪犯罪、奇形、オカルト、怪異……。 はたしてこれは、震災の傷跡の深い世界で人々の不安がもたらした幻覚なのだろうか。 不安に駆られるスウとは反対に、アイはぽいっと雑誌を投げ捨てた。慌ててスウが元のラックへ戻す。 「あほらし。真彦がお縄になってないか知りたいだけなのに、こんなことばっかり」 「あれ? アイ、いつから知ってたの?」 「あのねぇ。誰もがスウみたいにぼけらーっと生きてるわけじゃないのよ? よく見、よく聞きよく考える。わざわざ聞かなくても答えは出るわ。じゃ、CD見てくるね!」 明るく言い放つと、アイは素早い動きでCDショップの方へ走っていった。 「ぼけらー、か……そう見えるのかなぁ」 これでも自分としては必死で頭を働かせているつもりなのだけれど。 残されたスウは溜息混じりに呟いて、ふらりと書店の奥へ歩き出した。 そろえなければならない参考書があるのだ。 早々と参考書を見つけたスウは、アイと合流するのも気まずい気がして、しばらく本屋の中をふらついた。 書店の奥、実用書が並ぶ一角を、背表紙を眺めながら通り過ぎようとした時、見覚えのある壮年の男性が目に入った。 「あ、松本先生」 高校の校長を務めている松本先生だった。彼は真剣なまなざしで書棚を眺めていたが、スウがうっかり名前を呼んでしまったため、気付いてこちらをまじまじと見つめた。黒髪のせいで、スウが誰なのかすぐに思い至らなかったらしい。 「君は……もしかして、佳川君か」 「はい。お久しぶりです、松本校長先生。在学中は色々とお世話をおかけしました。こうして無事大学へ入れたのも、先生方の寛大な処置のおかげです」 「いや、なに。あれは上から言われた通りにしただけで、実際は私の権限なんてないんだ」 松本は口元に苦味のある笑みを乗せ、否定的に手を振った。 校長の上というと、理事だろうか。この学校の理事が運営に大きな権限を持っていることは知っていたが、どうして理事がそこまでしてくれるのだろう。やはり、ヴィセの知り合いだからだろうか。それともヴィセと理事は何か取引でもしているのか。 「こうして更正してくれたならなによりだ。おばあさんみたいな髪で現れたときは、どうしようかと思ったものだよ」 にっこりと笑うと、彼の目元にいくつもの皺が寄った。 「あはは……すみません」 愛想笑いでごまかしながら、スウは密かにそれが自分の非であることを自覚していた。こちらへ戻ってすぐに今のように髪を染めていれば、先生に無駄な心配をさせなくても済んだのだから。 うっかり話しかけてしまったものの、スウはあまり松本と親しくない。すぐに話題の糸口が消えてしまったが、かといってここで終わるのも不自然で、スウはどうしたものかと頭を悩ませた。 「八年……ほど、前だと思うんですけど」 考えながら、言葉が口をついて出た。 「真彦という名前の生徒をご存じないですか? 一年生で中途退学したらしくて。たぶん、相当目立つ人だったと思うんですが」 「真彦?」 松本がはて、思い出せんぞという調子で顎に手を添えた。 あの美形だから先生もきっと覚えているだろうと気楽に言ってみたのだが、どうやらそうではなかったようだ。 「失礼だが、苗字は分からないのかい?」 「あ、はい。すみません」 スウも言い出してから気付いたが、真彦の苗字を聞いたことがなかった。どんな場面でも彼は『真彦』とだけ名乗ったし、ヴィセもアイもそうとしか呼ばないので、そう深い知り合いではない彼女には又聞きする機会すらなかったのだ。なあなあのまま済ましてきたことが、こんなところで痛手になるとは思いもしなかった。 今度会ったら聞いてみようと心の中でメモしたとき、松本が遠いところを見ながらぼそりと呟いた。 「……八年前、か」 思い出を懐かしむにしては、いささか感慨が深すぎた。 「そうか……苗字が分からないとなると、難しいかもしれないな。その年は丁度、うちの生徒がたくさん辞めていってしまった年だから」 「そうなんですか?」 思い出せないのはせいぜい年のせいだろうと踏んでいたスウは、思いがけない方向から来た返答に、少しだけ声のトーンを上げた。 「君たちはまだ小学生だったから覚えていないかもしれないが、うちの経営会社がこの地区有数のライバル社を合併吸収した年なんだ」 「あ、知ってます。それ」 スウの学校はこの地区で最も、いや、この国のみならず国際的な規模で大きな会社が経営している。現在の社長がたった一人で起業し、いくつもの他社を吸収してこの二十数年で急激に成長したものだ。文字通りの新興企業で歴史はないが、とにかく金がある。学校経営にはそれほど熱心ではないけれど、それでも設備や投資は他校に比べれば格段に良い。更に寄付金などがなく、授業料が良心的なため、名も無い中堅校にしては人気があった。 その頃スウは付属小学校の五年生だったが、テレビやニュースで敵対的買収だ交渉決裂だと大騒ぎしていた覚えがある。にもかかわらず合併はあっさりと決まり、ついた文句は電撃合併。今でも時折使われる名フレーズになっている。 「君も知っての通り、うちの経営は超合理主義で有名だろう。合併後の再編纂で、容赦なくリストラを出してなぁ……。その煽りを食らった学生がたくさんいたんだ」 合併先はそこまでの大企業ではなかったとはいえ地域では有名で、古くから続く信頼のある企業だった。生徒の父兄にも勤めていた者が多かったのだろう。 スウのクラスから転校生が出た覚えはないが、その後小学校を卒業する際に付属の中学ではなく公立へ進学した同級生が少なからずいた。おかげで卒業式には随分寂しい思いをしたが、それもアイのように中学から入学してきた生徒たちと仲良くなるにつれ、記憶から薄れていった。思えば彼らがそうだったのかもしれない。 松本は記憶を噛みしめるように、しみじみとした口調で何度も小さく頷いた。 「まったく悪夢のような年だったよ。事情がバレてマスコミは押し寄せるし、嫌がらせの電話は絶えないし。その時の混乱で、当時うちに通っていた理事の息子さんまでいられなくなってしまってね。先代の校長は責任を負って辞任されてしまった。おかげで教頭止まりだと思っていた私にまでこんな大役が回ってきてくれたんだが……いかんせん、大変すぎた。いや、学生にこんな事を言ってはいけないな。今のは忘れてくれ」 溜まっていたものを一気に言い終えると、松本は自嘲して大きく首を振った。その姿は大きな心労を抱え続けた末の、疲れ果てたものだった。 「そうだったんですか……」 言うべき言葉が見つからなくて、スウはただ言葉を濁す。 松本はもう一度だけ首を振ると、いつもの教育者らしい声色を取り戻した。 「だから、その子が誰にしろ、元気にしていてくれたなら私は嬉しいよ。よろしく伝えておいておくれ」 「は、はい。今度会ったら伝えておきます。校長先生が心配してたって」 真彦に今度会えるのはいつだろうと考えつつ、スウは不確かな心持ちで約束を口にする。 だが、それを聞いた松本は急に十歳も老けたように覇気をなくした。 「校長先生、か……」 心ここにあらずといった雰囲気で、正面の本棚へ視線を移す。 つられて眺めた一面の背表紙をなにげなく目で追って、スウはその本がどれも病気にまつわるものであることに気付く。この一角全体が、医療関係の本を集めたものだった。 「それも、今期までのことだがね」 「どこかお体の調子でも……?」 「ああ、少し心臓をね。胃が痛くて医者に通ったら、『どう見ても心臓だ』と言われてしまったよ」 ははは、と快活な笑いが響く。暗い内容を少しでも軽くしようと努めたものだった。 けれどその笑いもすぐに萎んで、松本は低い声で独り言のように後を続ける。 「原因はストレスだそうだ。八年前も辛かったが、去年はもっと大変だった。もちろん苦労したのは皆一緒だったんだが……」 唐突にその言葉の意味を理解して、スウは暗闇で光を刺されたかのように身動きが取れなくなった。刃を突きつけられた、といった方が詳しいかもしれない。わずかな呼吸すら胸を苦しめて、彼女はきつく目を閉じた。 自分のせいだ。 あの、震災の傷跡。 こんなところにまで、未だ深く根付いている。 「そんな顔をしないでくれ。何も今すぐどうこうというわけじゃないんだから」 申し訳なさそうな声をかけられて、スウははっと目を開いた。 寂しげな壮年の男性の、優しい瞳がそこにあった。 「はい、すみません……」 口の中で謝罪が絡まって、ろくな音にならなかった。 硬直した頬を緩ませる事ができないまま、スウは松本と別れた。 去っていく彼の背中は、やはり寂しく見えた。 出入り口付近できょろきょろと自分を探すアイを見つけたとき、スウは指先がすっとほぐれるのを感じた。灯りがともったかのように、冷えた体に血が通う。 「アイ聞いて。今、松本先生と会ったんだよ」 「マツ先と? えーっ、見たかったあ!」 地団太を踏むアイに、未だ残る動揺を気付かせないようにして、スウは小さく笑う。 「先生に真彦さんのことを聞いてみたんだけど、知らないって言われちゃった」 あれだけ目立つ人だから知っててもよさそうなのにね、と続けようとするスウより早く、アイがさもありなんと頷いた。 「そりゃそうよ。だって『真彦』って芸名だもん」 「え」 言われてみれば至極もっともな答えだ。 真彦がアイの隣へやってくるまで、彼とはヴィセの仕事場でたまに会うことしかなかった。ならば何度聞こうと、その場で名乗るのは芸名だろう。それだけの接触で勝手に本名だと思い込んだスウが悪い。 けれど、と彼女は思いつきでその場を取り繕う。 「でも、ほにゃらら真彦って名前かなーって」 「あー。下の名前ってこと? それはありえるわね。よし、この際苗字もアイちゃんが決めちゃうわ。あいつは今日から、御手洗 真彦よっ!」 とても恨みが篭った命名だ。 「アイってばまた勝手に決めつけて。知らないよ?」 お得意の決め付け癖技が出たと、スウは呆れた声を出す。 しれっと答えるアイは慣れたもの。 「いいじゃないの、とりあえずよ。暫定よっ」 暫定だ仮定だと言いつつ、いつの間にか本気でそう思い込んでいる友人の悪癖を知り尽くしているスウは、深い深い溜息をついた。 けれど、彼女のこの癖にはスウ自身、何度も助けられている。 |
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