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「はぁあああ?」
 ねじりあげるような声で、アイが顔を歪めた。
「人魂に追いかけられたあ?」
 声に含まれる反応は『信じられなーい』が三割、『何言ってんの』が二割、『嘘も大概にせぇよワレ』が五割と、なかなか手厳しい。
 それらを全部受け止めたうえで、真彦が神妙に頷いた。それはそれは、近年稀に見る真面目さで。
「なに、アンタついに脳ミソ……」
「ちげーし。本当に人魂がこう、死体からスルーって出てきてさ。崇ちゃんも見たんだ、間違いない」
 真彦が身振り手振りで説明するも、アイは怪訝な顔を緩ませない。
「スウも、ねぇ……」
 うろんな視線を向けられて、スウは対応に困り果てる。
 アイにはもちろん、真彦が不審者を殺してしまったことを言っていない。更に以前の話で飛翔炎のことは簡単に済ませてしまったから、ここで異世界がどうこうと言うわけにもいかない。自分でも嘘は苦手と自覚しているゆえに、迂闊に反応することは避けたかった。
 いつも通りぴたりと停止したスウへ、アイが更に追随の手を伸ばそうとしたとき、真彦が盛大な溜息をついた。
「なぁ、人魂ってあれだろ。空気中のリンや気化可燃物やら、そういうのでできた化学反応だろ? なのに角を曲がってもついて来るって何? そもそも色が有り得んし、しかも……あーもーダメだ! 俺、こういうのダメ。非科学的なもんって信じてないから。つか信じねぇから。うーけーつーけーまーせーんーー」
 妙に理系なことを言いながら、彼は床にごろりと伸びて大きなぬいぐるみを抱えると、その場でゴロゴロ転がった。そうするうちにだんだんどうでも良くなってきたのか、はたまた脳内で変な物質が生成され始めたのか、うふふふあはははとお花畑へ旅立ちだす。
 そんな彼の様子をしみじみと見て、
「……なんか、可哀想なことになってるわね」
「う、うん」
乙女二人は仲良くドン引き。
「とにかく、ウザイから!」
「うヴぉあ!」
 アイの一蹴りで回転は止まった。
 真彦はそのまましばらく停止していたが、今度はぬいぐるみを枕にしてふてくされ始める。
「……俺だって現実逃避したいときぐらいあるんですうー」
 この男がついさっき、方法はどうあれ自分を助けてくれたのだと思うと、スウはとても複雑な気分になる。
 それに。
 こうして寝転がって遊んでいる彼の胸元には、まだあの拳銃が入っているのだ。
「大の男が情けないわよ。たかだか火の玉に追いかけられたくらいで」
 呆れ果てたアイの後ろから、とんとんと肩を叩く者がいた。
「ぎゃ」
「その話、詳しく教えてくれるかい?」
 いつの間にか帰っていたヴィセが、アイとスウの間からひょいと顔を覗かせた。



 受話器で口元を覆うようにして、スウは無意識に声をひそませた。
「飛翔炎……だと、思いますか?」
 この言葉を使う度、彼女の中で重い水銀のようなものが揺らめく。
 きっと、自分は恐れている。あの世界ともう一度関わることを。
 彼女の忌避など思いもよらないのだろう。受話器の向こうのヴィセは気楽に答えた。
「おそらくね。飛翔炎は魔力の濃度が低くても、生物から抜け出すときと宿るときは可視状態になるから。追いかけて来たというからには、憑依対象を失って、何でもいいから近くの生物に反応したのかな? まあ、滅多に適合することはないから、途中で悟ってどこかへ行っちゃったんだと思うけど」
「はあ……」
 分かるような、分からないような。
 思えばスウは飛翔炎について多くを知らない。人に宿ること、宿られれば魔法が使えるようになること、炎のような形で、空を飛んでいること。普段は見えないこと。体の中で不思議な石を作り出すこと。そのぐらいだ。
「それより問題は、その飛翔炎がどこから現れたか、だね」
 問題の核心を捉えようとするように、相手の声が明瞭さを強めた。
 どきりと心臓が反応してから、その意味の重さに気付く。
「結界が、綻んでいるんでしょうか」
 だとしたら、その一因は自分。そしてヴィセ自身だ。
 半ば覚悟した問いかけを、ヴィセはやんわりと押し止める。
「どうだろう。有り得ないことではないけれど、一概には言えないよ。この国にも火の玉や人魂という概念があるくらいだし、海外にはウィル・オ・ウィスプなんて物もある。実際、私もこの世界にもわずかながら魔力が在ることを確認しているし……もしかしたら、元々こちらにも多少は飛翔炎が存在しているのかもしれない」
 大抵は真彦の言っていた通りの現象だろうけど、そう付け加えて相手は苦笑した。
 そうだったらいい。
 本気でそう思っている自分がいることに気付いて、彼女は自嘲した。悲しいことに、ヴィセの理論は彼自身全く信じる気はないだろう。そして、自分も信じることはない。そうでなくてはならない。
 話題を変えるため、スウは自ら動いた。
「飛翔炎って、人間を凶暴化させるんですか?」
 彼女の脳裏に、昼間の惨事が呼び起こされた。『ヴィクトリアン・ローズ』のスーツに身を包みながら、薄汚れた路地裏で鼠を食らっていた男。彼の怒りに駆られた獣のような目を思い出し、スウは背筋がもう一度凍るのを感じた。
「ああ、それは多分、鬼の子だね」
 物思いにふけるような、遠い声が返ってきた。
 ヴィセには真彦の行動を全て伝えてある。スウの見たところ、警察に知らせるつもりはないようだ。むしろ真彦が銃を携帯していることを知っていたように思える節すらあった。
「鬼の子?」
 耳慣れない単語に、知らず聞き返していた。
「うん、私の言葉を直訳するとそうなるね。本来は人に宿らないはずの飛翔炎が、何かの手違いで宿ってしまうことだよ。多くは生まれてくることができないのだけれど、あの場合は後から宿ったからね。……理性が飛んでしまったのかな」
 ぼそりと付け加えるように呟かれた、残酷な摂理。
「そんなことが……あるんですか……」
 自分もまた後から飛翔炎が宿った者の一人であることを思い出し、スウは言葉を失った。
 もし、彼女が現れたのが不入の森ではなかったら。もし、森に結界が存在しなかったら。もし、自分が白の飛翔炎と相性が合わなかったら。――今の彼女は無かったかもしれない。
「とにかく飛翔炎の出現については原因が分からないから、今後も気を付けておいたほうがいいね。もしかしたらスウちゃんの宿詞が役に立つかもしれない」
「そう、でしょうか」
「分からないけどね。なんにせよ、まずは制御ができないと」
 くすりと笑みをこぼした相手に、スウは現実を思い出してぐったりとした気分になる。
「……はぁい」
 訓練をつけてもらって数ヶ月。
 最近は成功率も上がってきたものの、まだまだ先は長そうだ。



 明るい喧騒の部屋を出て、空っぽの自室へ帰れば、迎えてくれるのは静寂と闇ばかり。
 照明のスイッチを押す気力すらなくて、彼は冷たい扉に背中を押し付けた。そのままずるずるとしゃがみこむ。壁越しに聞こえる隣の部屋の明るいやり取りが、いっそう孤独感を強めてくれた。
 自分自身を抱くようにして、きつく両手で腕を掴んだ。そうでもしないと、この激しい震えが全身に広がってしまいそうだった。
 人を殺した。
 それは今回が初めてのことではない。USに居た頃に体験していた。自分が手を下さなくても、人が死に行く様を見たことは何度もある。その経験と、手放せずにいた小銃が役に立ったことは事実だ。
 だが。
 歯が鳴るのを無理やり笑い声にした。笑い飛ばさなきゃやってられなかった。
 あの暗い人魂は、どこかへ飛び去ってなんかいない。
「嘘だろぉ……」
 あの瞬間、この胸に喰らい付き、自分の中に潜り込んだのだ。
 今も感じる異物。どうしようもない不快感。
「信じねぇっつーの」
 体が震える。
 寒い。
 笑える。
 耐え切れない。



 それ以降、スウは真彦の姿を見なくなった。
 きっと殺人事件の足がつかないように、どこかへ身を潜めたのだろう。
 ずっと、そう思っていた。
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