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 ……どうしよう。
 薄暗い路地の片隅で、スウは途方に暮れていた。
 咲坂から逃げてがむしゃらに走り続けた結果、見知らぬ場所に迷い込んでしまったらしい。方角すら失って、彼女は呆然と立ち尽くす。
 また、やってしまった。
 さめざめと自分の失態を嘆いて、スウは辺りを見回した。
 それほど狭い道ではない。ビルとビルの隙間を走る、よくある小道だ。大通りからもそれほど離れていないはずだから、すぐに知っている道へ出られるだろう。恐れることは何もない。はずだった。
 けれど、辺りに漂う異様な静けさが、それを許さない。
 通路は昼間にも関わらず、人ひとりいなかった。アスファルトに転がるのは潰れた空き缶と、ぶちまけられた生ゴミの袋。店の裏口と思われる付近には、空のダンボールが放置されている。下水の匂いがわずかに鼻を掠めた。
 物音一つなかった。
 無音に等しい中で、自分の呼吸と足音がいやにうるさく感じられた。周りの全てが必死に息を潜めているなかで、自分ひとりが無防備にうろつき回っている。そんな錯覚に襲われる。
 閑散が孤独を、孤独が不安を呼ぶ。
 いてもたってもいられなくなって、スウは早足で路地を突っ切った。突き当りまで真っ直ぐに進む。
 考えも無くT字路を右へ曲がろうとしたとき、薄い霧の中に顔を突っ込んだように、空中にわずかな不純物を感じた。淀んだ空気に混じる幽かな異物。それがごく薄い密度で辺りに漂っている。
「……?」
 香りは無い。もちろん感触も。なぜそれを感じ取れたのかもわからないまま、スウはそこから先へ進めなくなる。
 彼女はただ、訝しげに視線を通路の先へ向けた。
 そこで、何かが動いた。
 路地の片隅に見知らぬ男性がうずくまっている。見たこともない男だ。しばらく風呂に入っていないのか、全身が薄汚れて汚い。ズボンの膝など、擦り切れてぼろぼろだった。
 彼は縮こまるようにして地面に伏せ、こちらを窺っている。その瞳は乾き、ギラギラと異様な力を感じさせた。袖で口元を隠しているが、もごもごとした動きと時折聞こえるぴちゃりという音から、食事中のようだった。
 浮浪者か……と、目を合わせないようにしようとして、気付く。
 スーツを着た浮浪者?
 よく考えれば、今の時代そうおかしな事でもなかったのかもしれない。昨日までなんともなかった会社が、次の日に倒産していることなどよくあることだ。積もり積もった疲労感や突然の虚脱感に、絶望する人も多いと聞く。まして今は、先の災害の名残もやっと消えたか否かというところ。彼のような境遇の者がいたとして、何も特別な事ではない。
 けれど、一度覚えた違和感が拭いきれず、スウはそらしたはずの視線を戻した。
 やはり、どこかおかしい。
 違和感の元を見つけられずにいる彼女だったが、男が中腰の状態へと立ちあがったとき、それに気付いた。
 彼の着ているスーツ。その細身のシルエットや、一種独特な襟元の形などから、ヴィセがデザインする『ヴィクトリアン・ローズ』のものだと分かった。近年人気が出てきたとはいえ、まだまだ量産性に劣るので、価格はあまり良心的ではない。
 この人も以前はそれなりにエリートの部類にいたのだろうか、などと、ぼんやりと考えていた時。
 男の握った拳の端から、ずるりと細い物が垂れた。
 鼠の尾。
 瞬間的に合点がいく。同時にさっと血の気が抜けた。
 鼠を、食べている。
 眩暈に似た感覚に襲われ、スウは体の重心が揺らいだ。
 その姿は相当油断して見えたのだろう。
 突然、男が飛びかかった。
 十分な距離があったはずにもかかわらず、動物じみた動きと脚力で一気に飛び越えてくる。気付いた時には肩を押さえ込まれる感覚と、目の前に迫る歯を向いた顔。
 人とは思えなかった。
――や」
 声になるかならないか、そのぎりぎりのところで搾り出された音。半分悲鳴になりかけたそれは、自分のものにしては奇妙に高い。
 掴まれた肩に爪が食い込む。容赦のない男の力に、突き飛ばされた形でバランスを崩して後ろへ倒れこむ。背中の右半分を壁に打ちつけて、とっさに短い悲鳴をあげた。
 すると食い込んでいた手の力が、いきなり緩まった。
 その隙を逃さず、スウは自分を抱くようにして身を引く。
「や、やめて下さい!」
 パニックで立つ事もままならなかったが、せめて気丈に見せようと、きつく言い放つ。
 その声が相手の頬を殴ったかのように、突然、相手が苦しみ始めた。言葉とも思えないうめき声をあげ、背を丸めてうずくまる。頭をかきむしり、何かに苦しむように激しく首を振った。
「ぐ、うぉ……ぁあ」
 その呻きには理性と呼べるものはない。左右の手足がバラバラに動き、痙攣する。動こうとする力とそれを止めようとする力がせめぎあい、男はその場に膝をつく。
 あらためて相手の異常性を目の当たりにし、スウは硬直した。いつもの黙考状態とは違って、頭の中が真っ白だった。細かな迷路が入っているはずの部分が、すこんと抜け落ちてしまったかのように、ただただ見たものをそのまま脳へ運ぶことしかできない。
 やがて、男が這いつくばるようにして荒い息を整え、彼女の方へ首を持ち上げた。
 ギラギラと光る瞳が極限まで見開かれ、彼女へ焦点を合わせる。
 その形相が見ていられなくて、スウはぎゅっと目を閉じた。
 誰か。
 声にならない言葉を心の中で叫んだ時。
「やめとけおっさん。俺の勘が正しけりゃ、そのお嬢ちゃんは大して上手くもないぞ」
 ゆるい制止の声がかかる。
 聞き覚えのありすぎる声に、スウは目を見開いてそちらを見つめた。
 黒いスーツをだらしなく着崩した男が緊張感無く立っている。整髪料で無理やり固めた髪をぐしゃぐしゃと崩しながら、一回り近く年上の男へ向かって、諭すように話しかけていた。
「真彦さん……?」
「若い子狙うんならその辺のギャルにしな。そっちのがよっぽど手慣れてるからさ」
 胡散臭い忠告までする始末。相手の顔を見もしない余裕っぷりが、彼らしい。
 男は警戒心を剥き出しにして、身を潜めるように低く重心を下げたまま、ぴくりとも動かなかった。
「だから今日のところは――」
 ひと通り髪をいじり倒してから、やっと真彦が男の方を見た。一目で相手の異常性を感じ取ったのか、すっと瞼が半分落とされる。それでもまだ警戒と余裕が半々といったところだから、スウとは経験値が違う。
「……何コイツ。キメてんの? それともイカレてんの?」
 真彦は男と距離を取るよう、半円を描くようにしてスウの元へ近づく。
 真彦が一歩近づくにつれ、男が低い威嚇の呻きを鳴らす。
 スウの3歩手前、男と真彦の距離が一番近くなった瞬間、男が彼へ飛び掛った。
 鍵爪のように曲げられた指が真彦に届く寸前、彼の長い足が横からひょいと伸びて、回し蹴りの形で綺麗に決まった。
「うわ真性? っとに、勘弁なー」
 両手を上着の外ポケットに入れたまま身を引いて、真彦は嫌なものを見るような目で顔を歪める。それでもどこかゆるい感じがするのは、独特の反応のせいだろうか。
 真彦は顔色を変えず、もう一度男へ蹴りを入れた。四つんばいになりながらもなお襲いかかろうとした相手の脇腹を、痛烈に蹴り上げたのだ。
 男は横向きに倒れこみ、今度は痛みに呻く。腹を折り曲げた状態から起き上がってこない様子から、相当なダメージを受けたらしい。
 真彦がひょいとスウを振り返る。けろりとした顔はきっと、男を蹴った時と全く同じものだろう。
「ダイジョーブ? まさかもうヤられちゃったとか?」
「は……? ち、違います!」
「ははは、分かってるって。ほんと面白いな崇ちゃんは」
 悪びれなく笑う姿がそら恐ろしい。
 屈託のない真彦の態度に、安堵と呆れと、それから少しだけ恐れに似た感情が湧きあがり、スウは口を尖らせた。
「ナニそのアイみたいな顔。俺の知ってる崇ちゃんはもっと素直で可愛いかったハズですけど〜?」
「……危ないところをお助けいただき、ありがとうございました」
「時代劇の娘さんっすか」
 スウはなんとなく、アイが真彦につっけんどんな理由が分かった気がした。決して嫌いではないし、親しみやすいのだけど……どこか心許せないところがある。
 いつもの自分にあるまじき態度に、スウ自身胸の奥がもやっとする。このままじゃいけないと、改めてお礼を言い直そうとした時。
 近くで地面を蹴る音がした。
 真彦の後ろ、首筋を狙って、男が歯を剥いて飛び掛っていた。
 振り向きざま、真彦がチッと舌を鳴らす。
 数回、爆竹の爆ぜるような軽く、大きな音がした。
 同時に男が背中の中心を糸で引っ張られたように、重心を後ろへ大きくさげた。それでも態勢を立て直そうと二、三度前後へよろめいて、それから唐突に膝がカクンと折れる。
 膝立ちの状態で目を見開いたまま――ゆっくりと後ろへ倒れた。
 彼のよれよれのワイシャツの下からじわりと浮かぶ黒い液体。体の下からも湧き出して、アスファルトの上を這う。やがて薄暗い路地の中、わずかな光を照り返して紅く輝いた。
「なに……が……」
 呆然と、うわ言のように呟かれる彼女の声。
 それと重なるように吐き出される、うんざりとした青年の声。
「あーあ。また使っちゃったよ、めんどくせ。どうしよっかな、コレ」
 溜息混じりに頭をかいて、真彦が右手に持った物を見下ろす。
 つられるように視線を追って、スウは小さく息を止めた。
「真彦さん、何を持って……?」
 するりと伸びる白煙。
 始め、タバコのものだと思った。
「何でもいいじゃん。大したもんじゃないよ」
 手の中に隠れるほどの、小振りな拳銃。
 口先だけで彼女を煙に巻いて、青年はさっとそれを懐へ仕舞う。その際に左手で覆い隠しながら、密かに銃口の熱を探るのも忘れない。トントン、と服の上から軽く左の胸を叩く癖で、その場所を確かめる。その扱いは、彼女には余りに手馴れて見えた。
「そんな、だって、人、倒れて……」
「しー。さ、お嬢さんは早いとこお帰んなさい。後は俺がうまくやっとくから」
 人差し指を口に当て、秘密交じりの微笑みでウィンク。
 よく見知った彼の顔が、全く知らない他人のものに見えた。
「でも……」
 確かに恐怖を感じながら、スウがその美しい顔を見上げた時。
 彼が見ていたのは、こちらではなかった。
「なんだ、あれ」
 珍しく真面目な呟きに、彼女は別の意味で虚を衝かれる。
「オイオイオイオイ。冗談はやめてくれよ」
 すぐにふざけた調子を取り戻すものの、動揺は隠せていない。真彦はその整った眉間に嫌悪すら示して、自分の感性に抵抗する。
 床に倒れたままの男。わずかな胸の上下すらない様子から、彼の息がないことは明白だった。
 けれど二人が見ていたのは、そんなものではない。
 動かない男。その周りをゆったりと優雅に旋回する、黒い闇。
 ゆらりゆらりと姿を変える様は、あり得るはずがない、漆黒の炎のように見えた。
「……こんな街中で、人魂だって?」
「……飛翔炎……!」
 目の前の映像がスウの中の記憶のそれと重なる。銀時計から開放された飛翔炎。青い炎の尾を引きながら、高く高く天へ還っていった。
 一瞬、あの時に引き戻されたかのような錯覚が彼女を襲う。
 だが、目の前の黒い炎は迷うように宙を泳いだのち、おもむろにこちらへ向かって進み始めた。
「なあ、何でこっちに来……」
 狼狽した声を、真彦は途中で打ち消した。
 代わりにぐっとスウの腕を掴む。
「逃げるぞ、早く!」
「あ、はいっ」
 そのまま彼女を引きずるようにして走りだした。
 元々、真彦はこの辺りの地理に詳しいらしい。複雑な路地を迷いなく駆け抜け、より有利な道を選んでいく。何度も何度も複雑に道を変え、素早い相手を地の利で引き離した。もしも相手が人間だったら、とっくの昔に追跡を諦めていただろう。
 何より彼は冷静だった。一度、無用心に大通りへ出ようとしたスウを引き止め、「近すぎる。まだ人に見られたくない」と囁いたことがある。こんな状況にあっても、自分のしたことを忘れていなかった。
「このまま突っ切れ。大通りに出て、人込みに紛れるんだ」
 スウには全く分からなかったが、現場から十分に離れたらしい。
 大通りまであと二十メートル。振り返れば、炎はすぐそこまで迫っていた。
 何も考えず、真彦の命令に従う。
 あと五メートル。
 三メートル。
 一メートル。
 そこで唐突に、真彦が足を止めた。
「? どうしたんですか?」
 真彦は問いかけに答えず、そのまま棒立ちで後ろを見ていたが、ふっと諦めたように振り返った。
「いや、なんでもない」
 彼の後ろに続くうら寂れた路地。遠くから夕日が差し込んで、薄い朱に染まり始めている。
「消えた……?」
 そこにはただ、現実の確かさだけがあった。
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