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 ショーウィンドウの中には、カントリー調の小物が可愛らしく並んでいた。熊のぬいぐるみが小さなTシャツを着て、木の椅子にちょこんと座っている。その足元には小さなキノコのおもちゃとアクセサリーが散りばめられていて、ブリキのバケツいっぱいにキャンディーが詰まっていた。
「……かわいい」
 ぼうっとそれらを眺めているスウを、アイがチョイチョイと引っ張った。
「入ろ入ろ。今日はもう、アイちゃん奮発しちゃうんだから! 服でも靴でも好きなだけ買うわよ!」
 アイはバーゲンセールへ挑む主婦のように息巻いて、店のドアを押し開けた。
 日曜日。二人はヴィセに宣言したように、ショッピングに出かけていた。元々アイの家は街の中心から程近く、少し出ればデパートや個人店が並ぶ繁華街に出ることができる。
 朝早くからアイに叩き起こされて、スウはいつもより少しだけおめかしをした。
 淡い水色のシフォンのワンピースは彼女のお気に入りで、お出かけの時にしか着ない。白いレースのカーディガンと合わせるのが一押しのコーディネイトだ。可愛いガラスのアクセサリーを添えて、新しいミュールを履いた。お化粧も、アイに指南を受けたから完璧なはず。いつもよりもちょっとだけ自信の持てる自分になれたと思う。
 けれどそれも、華やかなアイと並ぶとくすんでしまう。フリルいっぱいのチュニックと、膝丈のデニムが子供らしい愛らしさと活発さに良く似合っている。無造作におろしたくるくるのウェービーヘアーも、乙女らしい甘やかさを強調していた。
 けれど、とスウはアイの小さな後ろ姿を見送る。
「ねぇアイ……これ以上、何を買うの?」
 アイの腕には大量の紙袋がたわわに実っていた。これ以上増えたら、彼女の小さな腕がぽろっともげてしまいそうだ。スウが半分持ってこれなのだから、アイ一人だったらどうなっていたのだろう。
 呆れるスウとは対照的に、アイはどこまでも乗り気だった。
「まだスウの物、全然買ってないじゃない。気にしなくていいのよ? 支払いはぜーんぶお父さんのカードなんだから」
 だからこそ、気にしているのだ。
 内心溜息をつくスウをアイは全く気にしない。アレが可愛いコレも欲しいと店内を飛び回っている。やがて等身大のテディ・ベアに目をつけたらしく、きゃあきゃあ言いながら抱きついていた。
 木目調の店内はフレンチテイストの小物や洋服が所狭しと展示されている。小枝でできた写真立てや、シンプルな陶器のカップ。籐で編まれたバッグに、手編みのぬいぐるみ。店内はどことなく甘い匂いが漂っていて、頭の奥がぼんやりとした。
 何気なくアクセサリーの掛けてあるクリップボードを見たスウは、胸の重み感じて、息を浅く吐いた。溜息よりも軽く嘆きよりも薄く、ああと小さな声がこぼれる。
 銀色の鎖に手をかけると、心地良い冷たさが指先に伝わった。手のひらに乗せたそれは、彼女が想像したよりもずっと軽い。
 古めかしいアンティークの懐中時計。その、レプリカだった。
 チープな偽者。とはいえ、アクセサリーとして身に付けるなら申し分はない。パカリと蓋を開けると、スウにも分かるローマ数字が円を描いていた。文字盤に添えられた時計メーカーの表記がどこか間抜け。
 似ても似つかない安っぽさに、彼女は微笑ましさと苦々しさを同時に感じた。
 アーゼンで触れた銀時計はもっと精密で美しかった。そしてもっとずっと重かった。おそらく本物の銀で作られていたのだろう。
 スウはその重さと質感を思いだし、その記憶に引きずられるように少年の姿が目に浮かんだ。
 硬めでさらりと手触りの良い灰色の髪。白い肌。重そうな装束に包まれた小さな肩。細く、子供にしては骨の目立つ手。伏し目がちな影のある表情。細い首を傾げた不思議そうな顔。無防備な寝顔。時折見せる笑顔。そして、打ちひしがれて俯く、傷ついた姿。
 その全てが悲しくて、重い。
 今でも思う。
 どうしてあの時、振り返ってしまったのだろう。決して振り返ってはいけなかった。容赦なく、少しも縋らせることなく、切り捨てるべきだったのに。
 あの時、あの子の手が届いた気がした。
 思わず振り返り、目が合った瞬間、自分が失敗したことを悟った。
 あの瞳は、止めを刺された者のものではない。
「スウ、楽しくない?」
「え……?」
 唐突なアイの言葉に引き戻され、スウは振り返る。一瞬なんのことだか分からなくて、彼女はただ目をしばたたかせた。
「そんなこと、ないよ」
 言葉と共に現実が沁み込んでくる気がして、スウはうっすらと苦笑した。
 せっかくアイがショッピングに連れ出してくれたのに、自分は何をしているのだろう。こんなことを聞かれるくらいだ、きっと酷い顔をしていたに違いない。
 気を取り直そうと自分で自分の顔をつねった時、商品を物色しながらアイがさらりと告げた。
「あんなヤツのこと、さっさと忘れるべきよ」
 心を読まれたような言葉に、図星を突かれて黙り込む。
 そう。彼女の言うように、忘れるべきなのだ。事実、自分は今、忘れようとしている。
 忘れなくては。
 そう思うたびに、何度も封じた疑問が立ち上がる。
 どうしてあの時自分は、あの子に一言『忘れて』と言えなかったのだろう。
 自分の言葉は全て宿詞だった。そう知っていた。たとえ少年に宿詞が効かなくとも、自分は言うべきだった。言わなければいけなかった。
 それで全ては終わったのに。
 言えなかった時点で、彼女の失敗は決まっていたのかもしれない。
 その後悔が記憶の質量を増幅させて、忘れることを許さなかった。
「……大丈夫、忘れるよ」
 吹っ切るように、はっきりと声を出す。勝算があるわけでもないけれど、口に出すだけでできるような気がするから。
 はあーっと、アイが盛大に溜息をついた。睨み上げるような視線は、全部お見通しとでも言いたげだ。
「相変わらず嘘が下手ね」
 言うが早いか、アイがスウの腕を掴んだ。走り出しそうな勢いで店を出て行く。
「? アイ?」
「あーもう! そんなに気になるなら、行くわよ!!」
「え、ちょっと……アイ?」
 スウの問いかけすら封じて、アイは早足で進んだ。



 どうしよう。
 ものすごい勢いで手を引かれながらも、スウはアイの誤解に薄々気付いていた。アイの剣幕が尋常でなく恐ろしかったので、黙ってついてきたのが……それがそもそもの間違いだった。
 スウはただただ閉口して、目の前の建物を見上げる。
 教会。
 咲坂が結婚式を挙げている、まさにその場所だった。
 丁度式が終わったところらしく、教会の前で出席者たちが集って騒ぎあっている。この中にヴィセや真彦もいるのだろう。
 迫りくる居心地の悪さに、スウは思わず身じろいだ。
 半年以上前のこととはいえ、彼と付き合っていた自分がこの場所にいるということは。
 まずい、修羅場の気配がする。
 思わずアイに抗議の視線を送ると、彼女は見当違いにもぐっと親指を立ててみせた。裏切った男にビンタの一つでも送ってやれということらしいが、スウにそんな気は毛頭ない。
 困り果てながらもアイに帰るよう促そうとした時、聞き覚えのある声が届いた。
「佳川さん……?」
 遅かった。気付いた時には、正装した咲坂が駆け寄ってきていた。
 優しそうな目元をまぶしげに細めて、咲坂がスウの前に立つ。
「久しぶりだね」
「あ、はい。ええと、ご結婚おめでとうございます」
 なんと言うべきなのか分からなかった。ありきたりな社交辞令で頭を下げる。
 おそるおそる顔を上げると、咲坂は曖昧な笑みを浮かべていた。
「……逢えて良かった。まさか今日来てくれるとは思ってなかったけど」
 実際、来る予定はなかったのだけれど、と背後に控える友人を思う。
「よければ少し……」
「悠也」
 不安げな、かすかに制止する色を含んで、女性の声が投げかけられた。
 遠くで純白のドレスに身を包んだ美しい花嫁が、話し相手を制して彼に手を挙げている。
 あえて自分を見ない花嫁に、居心地の悪さが増した。
「たまたま寄っただけなので……それでは」
 そそくさと逃げ腰で立ち去ろうとした時。
 咲坂が慌てて彼女の手を握った。
「待ってくれ!」
 全く違う力強い感触に、思わず振り払う。
「あ……ごめんなさ」
 反射的とはいえ、どうしてそんなことをしてしまったのか分からず、うろたえる。不快にさせただろうかと顔色を窺って、不覚にもその表情を見てしまった。
 眉間に走る縦皺。悲しさと苦みを合わせたような、深く沈んだ面持ち。
「君の事は……!」
 強い語気に、直感が何かに気付く。
 駄目だ。この先を言わせてはいけない。
 瞬間的に背を向け、走り出した。
 必死に逃げながら、自分が自分を誤解していたことに気づいて、彼女は今更狼狽する。
 裏切られたのは自分だ。だから、彼と向き合えば傷つくのは自分だと信じていた。
 なのに、どうしてこんなにも……平気でいられるのだろう。
 今でさえ、頭をよぎるのは優しかった青年ではない。

 ――スウ。

 気付いてしまった。
 自分はとうに彼を裏切っていた。
 残酷な事実から逃げるかのように、彼女は前も見ず走り続けた。



 咲坂は少女の消えた先を寂しげに見詰めたまま立ち尽くす。
 拒絶されるのは予想していた。
 もっとはっきり示されるとすら思っていた。だから彼女があっさりと祝福を口にして頭を下げた時、初めて悟った。自分たちの間にはもう、何もないのだ、と。
 それを惜しむ感情がこんなにも強くあったことに、自分でも深く驚いた。彼女が絡むと柄にもなく取り乱すのは、やはり。
 思考の途中で、とん、と肩に手を置かれた。タバコの香りと煙が漂う。
「ご愁傷様」
 いつの間に来ていたのか、先程まで花嫁と話していた真彦が背後に立っていた。
 珍しく黒髪を後ろへ撫で付けた男は、黒いスーツをだらしなく着崩している。こうしているとヤクザの若頭にしか見えないが、その顔は男ですら色気を感じるほど整っていた。
「言っただろ? お前の出る幕じゃない」
 真彦は目を細めて、瞳孔が分からないほど黒い瞳を隠す。そうしてもその目に宿る不敵な色は深まるばかりだ。
「花嫁さん、睨んでるぞ」
 流し目で花嫁を指し、口の端に意味ありげな笑みを浮かべる。見れば花嫁は親戚たちと話しながらも、視線でこちらを確認している。
「そうだな」
 その姿を愛らしいとも思うのだ。彼女に対するものとは違っているけれど。
 彼が微笑んでいるのに気付くと、真彦はガシガシと派手に頭をかいた。せっかく整えた髪形を崩し、タイを緩める。それからひょいと彼を越え、去っていく。
「もう行くのか」
「俺、つまんない事って嫌いなんだよね」
 主催者に向かってそんな事を堂々と述べる度胸が、今だけ羨ましく思えた。
「千尋ちゃんにおめでとうって伝えといてくれ。『お幸せに』ってさ」
 男はいつもの癖で左胸をトントンと叩き、振り向きもせずに片手を振ると、悠然と歩き去っていった。



BGM “君ヲ想フ” by 元ちとせ
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