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意識を集中して、呼吸を整える。 落ち着け。落ち着きさえすれば、きっとうまくいく。 数回深呼吸を繰り返し、十分気分を落ち着かせたところで、スウは恐る恐る声帯を震わせた。 「ド」 パン、と正面に座る男性が手を叩いた。 「違う。声色を変えるんじゃなくて、拍を変えるんだ」 ヴィセの声は珍しく厳しい。わずかに眉間を寄せた表情も――おそらく頭痛がするのだろうが――彼女を狼狽させるのに十分だった。 慌てて態勢を立て直すも、一度乱れた集中はそう簡単に戻らない。それでも彼女はその音を吐き出した。 「ド、ドレミ」 「だめ」 「ド、レ、ミ」 「違う。そうじゃない」 容赦なく駄目出しを繰り出され、スウの表情が自然と落ち込んだ。それでも諦めず、何度も繰り返す。意味を持たない音の羅列。 連日続く訓練だが、一度として彼女が成功したことはない。毎日同じことの繰り返しで、いいかげんスウも空しくなってきた。どれだけ努力しても成長が見られない自分が恥ずかしい。 そんな中で唯一の救いだったのは、どれだけ失敗してもヴィセが決して呆れたり失望したりしなかったことだ。駄目出しは厳しいが、見切りをつけることは一度もなかった。もし彼にそんな素振りをされていたら、スウはここまで耐えることができなかっただろう。 今もヴィセは根気よく手本を示して、手ほどきをしてくれている。しかし悲しいことに、スウには彼の言う理論がさっぱり分からない。説明自体がひどく感覚的なので、魔法に馴染みのないスウには、理解はおろか共感すらできなかった。 実際にヴィセが宿詞を使ってみせると、自分の中の何かがざわめく。けれど普段の声には全くその気配がない。その違いは明瞭に感じたが、何をどう発声したら宿詞になって、どうすれば宿詞にならないのか、肝心のプロセスが全く見えなかった。 そのことを目で訴えると、ヴィセは困った顔をするばかり。 「一度コツを掴めばそれまでなんだけどね。そうだなぁ、ちょうど自転車の乗り方を覚えるようなもので……感覚で覚えてもらうしかないんだ」 とにかく失敗して、自分でコツを見付けろということか。 やっぱり近道はないんだと自覚して、スウはしゅんと下を向く。ついでにぼそっと、口に慣れた音階を並べた。 「ドレミファソ」 「あ!」 ヴィセが椅子を倒して立ち上がる。 「今、できてたよ。ファとソだけ!」 「本当ですか!?」 ぱっと出た一言で、彼の動きが凍りついた。 「……あ」 今更口を押さえても、遅い。 ヴィセは両手でこめかみを押さえてから、カキ氷で頭がキーンと痛くなった人のように額をとんとんと叩いた。なんとか微笑みを作ると、『大丈夫だから』と念を押す。 「ちょっとだけだったけどね。もう一度やってみてごらん」 言われずとも、期待されているのが分かった。 けれど一度できたからといって、次もできるとは限らない。特にさっきは油断していたので、どの辺りに力を入れて、どの辺りの力を抜いたのか、皆目見当がつかなかった。 スウは先程とは違った緊張を感じて、震える声で音を紡ぐ。 「ド……ドレミ」 「ああ」 落胆の響き。 「ダメだね。戻ってる」 この駄目出しは効いた。 スウは俯いて、溜息にも満たない吐息を吐き出した。 どれだけやっても手ごたえが感じられない。この先もずっとこのままなのではないかという不安が膨らむ。 あからさまに落ち込んだ彼女を哀れに思ったのか、ヴィセは椅子へ座りなおすと、明るい声で慰めを試みた。 「まあ、私も宿詞には手間取ったから、気長に……」 しかし、不毛な言葉は途中でぴたりと止んだ。扉の開く音と一緒に、風呂上りのアイが顔を覗かせたからだ。 「何してるのー?」 湯上りで頬を上気させたアイは無邪気な問いかけとあいまって、妖精のように可愛らしい。彼女の濡れた髪から漂うシャンプーの香りと湿った空気が、スウの鼻先をくすぐった。 警戒心なく問いかけられて、スウは答えに窮する。何をといえば、アイが風呂に入っている間に宿詞解除の方法を習っていたのだが、素直に言うわけにもいかない。 ヴィセの家で世話になっているのだから、いつでも稽古をつけてもらえると思いがちだが、実際はそうでもない。アイの目をかいくぐってヴィセと接触するのはなかなか難しいのだ。だからこうして、アイが長風呂を堪能しているうちにちょこっとだけみてもらっている。アイが寝た後にという手もあるが、ヴィセも仕事があるのだし、スウも学校に遅刻するわけにはいかないので、あまり夜更かしはしないようにしていた。 困るだけのスウに代わって、ヴィセが平静に応えた。 「ちょっと、お話をね」 明らかに言葉を濁しつつも、態度だけは悠然としている。けれど答えにはなっていない。曖昧な声と合わない視線が説明を与えるつもりがないことを示して、柔らかくアイを押しやった。 その気配を敏感に感じ取ったのだろう。アイは不服を一瞬だけ瞳に浮かべて、口元を真一文字に結んだ。 フォローもできないスウはその様子をおろおろと見守るばかり。アイに何かを伝えたくても、ヴィセの前では自分の宿詞が邪魔をして何も言えない。そもそもなんと言ったらいいのやら。下手なフォローほど相手を深く傷つけることを、スウはよく知っている。 アイは何かを飲み込むようにして、「ま、いいけど」と言葉を落とした。それからスウへお風呂に入るよう促して、自分は立ち去ろうとする。 しかし扉を閉める前に、その手が止まった。 改めてまじまじと二人の様子を見遣り、アイはどちらへともなく呟く。 「……お父さんとスウって、仲良いの? 悪いの?」 「え、何でだい?」 初めてヴィセが顔を引きつらせた。 「だって、こんな風に二人でこそこそしてるくせに、スウってばお父さんの前だといきなり喋らなくなるじゃない。元々口数少ないけど、さすがに分かるし。……反抗期?」 いぶかしげに問いかけるアイへ、スウは張り付いたような微笑みしか返せない。なんとか首を振って見せたものの、その動きは不自然そのものだ。 ヴィセもまた、乾いた声で同意する。 「気のせいじゃないかなあ。私たちの仲はとても良好だよ、あっはっは」 そして、そのままでは不味いと判断したのだろう。いきなり話題を転換した。 「そうそう、二人も行くでしょう?」 「?」 文脈も何もない、唐突な問いかけ。 スウですら意味がとれず、アイと二人で不思議な顔をする。 「あれ、真彦から聞いてないんだ。咲君の件」 「はあ?」 アイがいきなりつっけんどんな声になる。 いきなり咲坂の名が出て、スウは思いのほか動揺した。じわじわと心臓が自己主張を始める。嫌な予感がした。 「結婚式、来週だってさ」 ヴィセは無神経なくらい、あっさりと言い放った。 なんという選択ミスだろう。 よりによって今、その話題を振らなくていいのに。 反射的にヴィセを恨んで、スウは自分にうんざりする。彼に悪気はない。とっさに不快になったのは、自分がその話題から逃げていたからだ。 スウとて、いつかはこの話が来るだろうと思っていた。が、こんなに早いとは思っていなかった。もう、式まで一週間もない。伝えられるのがこんなに遅いなんて。 情報が遅れた理由――ヴィセが、二人が結婚式のことを知らないはずがないと思っていた理由は、真彦の存在によるだろう。彼なら誰よりも早く情報を得て、伝えることができたはずだ。 けれど、それをしなかった彼を責めるのはお門違いだった。思えば何度か、真彦は伝えようとしたと思う。けれど彼はそこまで無神経ではなかったし、少なくともヴィセよりは社会というものを把握している。だからあえて言わなかったのだ。新郎の気持ちが不安定なまま、その元恋人を呼ぶようなことは。 沈黙の中で、部屋の温度が五度は下がった気がした。 動転しても何も言えないスウに代わって、アイがきっぱりとした調子で答えた。 「あたし、行かない」 それから信じられないものを見るような目で、父親へと問いかける。 「お父さん、まさか、行くの?」 その声には嫌悪すら滲む。 予想外の反応だったのだろう。ヴィセは虚を突かれて自分を指差した。 「え? 私かい?」 「行くわけ?」 誤魔化しを認めない、畳み掛ける質問。 ヴィセは考え込むように数秒うろたえてから、腹をくくって前を向いた。 「そりゃあ、私は二人とも知り合いだし、行かないわけにはいかないねぇ」 「あっそ」 けろりとした声色でアイはヴィセから視線を外し、床へ落とす。 それからキッと顔を上げる。 「ふーんだ、お父さんのバーカ! いいもん、あたしたち二人でショッピング行くもん。高級ホテルでランチしてきてやるー!」 「えええっ、どうしてそうなるんだい?」 「知らないわようわーん!」 アイは父親を責め立てると、大げさに泣いた振りをして走っていった。 娘がどうしてそんな態度に出るのか分からず、ヴィセはひたすらオロオロするばかりだ。 スウにはどちらの立場もよく見えた。きっとアイは少しだけ、裏切られた気がしたのだろう。けれど彼には彼の立場があって、そういうわけにはいかないのだ。 彼は混乱したまま、スウへ向けて確認する視線を向けた。 「い、いいの? スウちゃん」 確認の意味がいまいちとれず、スウは首を傾げながら頷いた。咲坂に会わない方が良いことは彼女にも薄々感じられる。自分がひょこひょこで向けば、祝いの席に水を差すことは間違いない。 なのに、ヴィセは何を思って二人が会った方が良いと考えるのだろう。 「うーん……。まあ、それもいいのかな」 「いいに決まってるでしょ!」 いつの間に戻っていたのか、アイがぎゅっと腕に抱きついてきた。 今回ばかりは、彼女も父親に賛成しかねるようだ。 |
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