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三章   異界の影


 明るい日差しを照り返して、アスファルトが冴えた紺になる。高校からの道のりはそう遠くないものの、住宅街で高い建物がないせいで日陰も少ない。五月の初めとはいえ、紫外線には要注意だ。
 スウは目を細めて浅葱色の空を仰いだ。
 雲ひとつないのにどこか霞んだ空は、記憶の中のそれと重なりそうで重ならない。視界の端を走る黒いライン、電線があるから。
 隣を歩くアイに重い体を気付かせないよう、彼女はゆったりと歩いた。
 学校へ通い始めてから二週間が経つ。
 ヴィセの特訓を受けながらの通学は、思った以上に負担がかかった。日常生活を送りながら宿詞を使わないようにするのが目的なので、こうして普通に歩いている間も呼吸に気をつけなければならない。意識すればするほど呼気は狂い、浅くなる。酸素が足りなくて頭がふらふらする。体の疲れも溜まっていく一方だった。
「ねえスウ、さっきのマツ先の顔見た? パカッと口開いたままポケーッとしちゃってさ」
 くししと妙な笑い方をして、アイが腕にくっついてくる。
 よろけないよう細心の注意を払いつつ、穏やかに応えた。
「松本先生とはずっと顔を合わせてなかったからね。髪がこうなる前は、結構お話してたんだけど……」
 苦笑して、自分の白い長髪を梳く。
 校長の松本先生は堅物なところもあるけれど、親しみやすいおじさんだ。今日は偶然廊下ですれ違って、びっくりした顔で呼び止められてしまった。スウの通う高校は毛染めを禁止していないものの、さすがにこの色は風紀を乱すと思われたようだ。
 けれど、校長はスウの名前を聞くや、急に訳知り顔で解放してくれた。彼が廊下で不良に延々説教をするのは有名なので、珍しいことだ。アイが言うには、ヴィセから理事の方に掛け合ってあるので、上からの圧力がかかっているらしい。その話の真偽はともかく、校長の長ったらしいお説教から逃げられたのだから、彼とお上には感謝しよう。
「スウもそれ、さっさと染め直しちゃえばいいのに。あたしがやってあげるよ、白髪染めでいいよね?」
「うーん……」
 好意からの提案と分かっていながら、スウは言葉を濁す。
 この髪色については、何度か言われてきている。
 色が色だけに、どうしようもなく周りから浮いてしまうのだ。知り合いやクラスメイトなどはスウの性格を知っているせいか、予想外に静かな反応だったものの、知らない人にはかなり心証に悪い。いや、クラスメイトでも、大人しかった子がいきなりこんな反抗的なことを始めたのだから、『遅く来た反抗期だ』『キレたら何をやるか分からないぞ』と寄らず触らずにいるだけなのかもしれない。両親が知ったら、さぞや嘆くことだろう。
 髪を染めるくらい簡単だ。毛染め液なんて、今どきコンビニでも売っているのだから。黒髪まで行かずとも軽く茶髪にするだけで、全ての煩わしさから解放される。それは良く分かっている。
 それでもまだ、もう少しだけ……。
 どこか煮え切らない思いがあった。
 その思いに名を与えるなら、未練ではなく追悼だろう。答えはとうにある。にもかかわらず、甘んじて後ろ髪を引かせることで、自分を慰めている。
 かといって彼女自身、決着をつけずにいられるとは思っていない。だからこそ逆に、その時を先延ばししているとも言えた。いつかは切らねばならないと知りつつも、切れずにいる。今はまだ。
 いつものようにマンションのエレベーターに乗り、最上階へ昇る。両開きの扉が開くと、目の前に壮大なモニュメントが広がった。遠く立ち並ぶ高層ビル群。駅から少し離れたこのマンションは、最上階から人工の絶景を眺めることができる。
 ぼんやりと佇むスウを放って、アイが部屋の鍵を開けた。
 慣れた手つきでドアを押す、が、開かない。
「ええ?」
 アイが慌ててもう一度鍵を試し、ノブを回した。今度はすんなりと開く。同時に内側からさあっと冷たい風が吹いてきた。
「やば、鍵開けっ放しだった?」
 そんなはずはない。出掛ける時も二人で確認したのだから。近所で空き巣があったばかりで、いつもの二倍は気をつけていた。
 なのに鍵が開いていたということは、誰かが家の中に居るということ。
 この部屋の鍵を持っているのはアイとヴィセだけ。順当に考えて、ヴィセだろう。だが、彼は今日、仕事で首都へ出かけた。日帰りなので、今頃は新幹線に乗っているはずだ。
 スウの脳裏にちらりと、空き巣という言葉がよぎる。
「さては」
 しかし、アイはそう思わなかったらしい。いきなり無用心にも走り出した。ダカダカと廊下を走っていく音と、ついで聞こえる怒鳴り声。
「アンタ、そこで何やってんの!」
 やはり強盗か?
 恐る恐るリビングを覗いた彼女は、思わず溜息をつきそうになるくらい呆れ返った。
「よおー」
 部屋の中央で真彦がソファーに寝そべっていた。こちらに気付くと、携帯電話をいじりながら片手を挙げてみせる。彼は黒い服を着ていることが多いが、今日も黒ずくめだ。長身の美男子が長い足をソファーから放り出して寝転がる姿は、頬に治りかけの痣さえなかったら、映画のワンシーンと見違えたことだろう。いや、逆にそのせいでギャング物の若手俳優にも見えた。
「何やってんのって言ってんの」
「ヴィセさん待ってんの。今日レッスンの日だろ? いつもみたく遅刻しないよう、お早く出向いてみました。あー涼しー」
「嘘つけ。クーラーが目的でしょ。大体、鍵開けなんてどこで覚えてきたのよ!」
 言い切って、アイがびしりと真彦の鼻先に指を突きつけた。
 彼女の言う通り、室内はひんやりと冷え込んでいて、快適だ。五月とはいえ今日は蒸し暑く、スウでも冷房が恋しいが……だからといって他人の家に上がりこむのはどうなのか。
「どこだっけなぁー、LA? NY? もっと前だっけ?」
 彼は艶のある黒髪をガシガシとかいて、携帯を胸ポケットにしまった。そのやる気のない態度がそら恐ろしい。
 彼とは知り合って五年になるが、まだまだ理解できないことばかりだ。始めから常識の場所がスウとは違うようなので、もしかしたら一生理解できないかもしれない。
 どうしてそこまで言うのかというと、このマンションの鍵がカード式だからだ。その辺のヘアピン一つで開けられるような構造とは違うし、対処法のよく知られているオートロック式とも違う、最先端の技術。それを壊すこともなく開けてしまうなんて、一体どういう能力を持っているのか。
 けれどあえてそこには触れず、アイが静かに脅しをかける。
「……電気代請求するわよ?」
「俺ひ弱なのね。クーラー無いと干からびちゃうの」
 真彦は的外れな返事をして、紐で縛ったうなぎのようにスルッと逃げた。それから悠々と伸びをして、ずるりとソファーから頭を落とす。床すれすれのラインを黒い髪が揺れた。
「干されろダメ男」
 ドスの効いた声で、アイがソファーへ足を振り上げる。踵落としだ。
 必然的に真彦が逆さで見上げる形になる。
「あ、水玉」
「!!」
「嘘ウソ、冗談だって。あ、図星だっ――てホントに嘘ですごめんなさいマジで」
 始めは片目をつむってふざけていた真彦だったが、アイが冗談にならない素振りを始めたので、両手を合わせて謝り倒すことになった。いつもこの光景を見ている気がする。
 彼がこういうことをする度に思うが、せっかく人が羨むくらいの見た目を持っているのに、中身がその辺のワルガキと変わらないなんて、本当にもったいない。一種の資源の無駄使いだ。
 真彦は落ちた上半身をソファーの上に戻すと、うつ伏せで頬杖を付いて横目を向けてきた。すると切れ長の目元が強調されて、視線が鋭いものになる。鼻筋から喉元までのラインが美しい。
「つーかそれ、スカート違うんね。残念だわぁ〜」
 その美貌でとんでもない事を言い出すのだから、堪らない。
 ああ……と妙な脱力を感じつつ、スウは自然と一歩下がる。視線の意味を悟ったから。
 一見ミニスカートに見えるが、アイの制服はキュロットだった。二人の学校は制服の組み合わせが比較的自由で、女子はスカートとキュロット、女子用ズボンの三種類から好きなものを選べる。今スウはスカートをはいているけれど、これはキュロットよりも丈が長いから安心、のはず。
「可愛いでしょ。お父さんがデザインしたの」
 ふふんと、アイが自慢げに胸を張った。
「ハイハイ可愛い可愛いね〜」
 けれど真彦には全く響かない。専属モデルの彼からすれば、この制服がヴィクトリアン・ローズのものだなどとは一目瞭然なのだろう。日頃から着慣れているヴィセのデザインを、モデルの彼が見抜けないはずがない。
 真彦は興味薄げにタバコを取り出しながら、顎でアイを示した。
「てか前々から不思議だったんだけど、それドコの制服?」
「総学」
「まじで」
 咥えていた火をつける前のタバコが落ちる。タバコはころころと床を転がって、ソファーの下に入っていった。指先でそれを追うものの、届かなかったらしい。真彦は諦めてソファーに寝転がり直した。タバコの煙が苦手なスウには喜ばしい展開だ。彼のタバコはいつも気まぐれに変わって、良い匂いの時もあれば、喉がおかしくなる時もある。
「知らなかったの? 本気で?」
 アイが不服げになじった。アイにしてみれば、ヴィセデザインの制服を知らないなんて侮辱に等しいのだろう。それ以前に、この地区で一番大きくて近い学校がそこなので、近辺に住んでいれば嫌でも同じダークグレーの制服が目に入るはずなのだが。
 真彦は関心とも呆れともつかない溜息をついて仰向けになると、天井を見詰めて足を組んだ。
「時代は変わるものだねぇ、俺の頃はめちゃめちゃダサいブレザーだったんだけど」
 その一言でぴんとくる。
「頃って……。真彦さん、もしかして総学だったんですか?」
「高一までね」
 珍しく投げやりに告げられる。答えるというよりも封じる言い方だ。都合の悪いところだけを巧妙に隠すような。
 スウは内心首を傾げた。何か都合でも悪いのだろうか。彼は十五歳でアメリカへ渡ったというから、計算は合うが……。
 一人考え込み始めた彼女を置いて、アイが全く違う方向から突っかかる。
「アンタに総学に入れる頭があったなんて、おっどろき」
 嫌味満々の声色で、オーバーリアクション気味に肩をすくめた。
「はん、エスカレーターなんざバカばっかだぜ」
 大げさに自慢するかと思ったが、真彦は小馬鹿にしたように鼻で笑い、手首を振るだけだった。
 その内容にはスウも一理ある。家が近かったので小学校から今の学校に通っているが、高校から入学してきた生徒の方が、確かに競争力がある気がした。彼女の学校はこの地区ではそこそこ有名な私立だが、付属の大学へ苦も無く入れてしまうので、全体的に倦怠な空気が漂っている。最近は制服なども手伝って人気が上昇しているが、元々ものすごい進学校というわけでもない。地元で最大の設備を備えているというだけで、なんとかレベルを維持しているのが現状だ。
「それはその通りだけど」
 アイは中学からの入学なので、より実感があるらしい。言外に納得の色があった。
 幼等部、小等部、中等部、高等部とある中で、真彦がどこからの入学かは分からない。口ぶりから、少なくとも小等部からはいたようにも感じるが……だとしたら、スウともどこかですれ違っていたかもしれない。真彦という名に心当たりはないけれど。
「でも真彦さんって本当に英語上手ですよね、ネイティブみたい。昔から英語が得意だったんですか?」
「別にィ。ま、俺って天才だからぁ」
「変態の間違いでしょ」
 アイの鋭い突っ込みには反論せず、真彦はケカカカカと鳥じみた笑い方をした。
 けれどスウの論旨は乱れない。
「何年ぐらいアメリカにいたら、このぐらい上手になるんですか?」
「人によるんじゃね? 俺は大して長居しなかったな。三年ってとこか」
「へぇー……ということは」
 ふっと、スウの考え込む癖が発動した。
 彼は十五歳で家出し、三年アメリカに滞在したという、しかも今年で日本に戻ってから五年目ということは。
 そこで一旦眉間にしわを寄せ、彼女は真彦の整った顔をまじまじと見詰める。その話だとどこかに齟齬……というか、違和感がある。
「真彦さん。今、いくつなんですか?」
「今年で二十三だけど」
「ウッソォォオ!」
 飛び上がって叫んだのは、スウではない。
 アイが小さな両手を口元に押し当ててバタバタしていた。
「十代だと思ってた! 知り合ったとき既に十八って知ってたけど。知ってたけども!」
 スウも五年前に十八歳だという紹介を受けた覚えがあった。けれどそのときから全く印象が変わらないせいで、今でも十八歳のままに思える。曖昧な記憶と比べると、確かに今の方がずっと精悍で、体つきもたくましくなっているが……それでも二十歳を越えているとは思えない。
 十八歳になったばかりのスウには、十代と二十代ではイメージに大きな差があった。二十三といえばもっとこう、大人の余裕と貫禄が備わってくるものではないのか。例えるならばそう、丁度フェイのような。
 現実なんてこんなものかと言葉にならないスウに代わって、アイが変な病気がうつるとでも言いたげに身を引いた。
「何者?」
「失礼な。まあ、美人は年取らないってゆーしね」
 エヘッと、その笑顔の効果を知る男が子供じみた顔を作る。すると本当に同年代にしか見えないから不思議だ。五つも年上だなんて思えない。それでも良く見れば、身体的には年相応だということが分かる。なのになぜこうも若く、いや幼く見えるのだろう。
「精神年齢が出てんのよ」
 吐き捨てるように言われて、さすがにむっとしたのか、真彦が上目使いで口を尖らせた。
「そういうアイこそ、詐欺じゃね?」
 ……確かに。
 アイもまた、どう見ても中学生以上には思えない女子高生だ。小柄で童顔、声も子供っぽく高い。未だに電車やバスは子供料金で通しているくらいなのだから。
 けれど賢明にも、スウは同意をこぼさなかった。
 無駄に年上に見られるスウには羨ましいことだが、アイは子供に見られることを快く思っていない。うっかりその件を口にした相手には即刻――
 間髪要れず、踵落としが決まった。
 腹部を押さえて、真彦がソファーの上で蓑虫のように丸まる。踏まれた蛙を引きずり回したら、きっとこんな声で鳴く。そんな音だった。
「なんぞ仰いまして? 真彦さん?」
 長い睫毛をバシャバシャとしばたたかせて、アイが猫なで声を作った。そこだけ見れば天使のように可愛らしいのけれど、こういう時のアイが一番危険だ。
「ちょっ、落ちる落ちちゃう落ちます落ちっ……!」
「だーいじょーぶよおー。ソファーから落ちたぐらいじゃ死なないからぁー」
「ちがっ、意識が……ッ!」
 ぎゅうーと真彦の首を絞めながら、アイが暗くほくそ笑む。おそらく本気ではない。と、思う。
 スウは十分な距離を置いて、曖昧に微笑みながら二人のやり取りを見詰めた。さり気なく、かつ絶対に巻き込まれないようにして。
 やかましく騒ぐ二人はやっぱり年相応に見えない。アイは見た目が、真彦は行動が幼いからだ。
 けれど、それはこちらの受け取り方の問題なんだろう。どれだけ若く見えても、今ではもう、真彦が十代には見えなくなっていた。ほんの一分前までそう思い込んでいたのに。
 人は見たいものを見るという。案外、見た目は当てにならないものかもしれない。
 その考えはひどく彼女を納得させ、また安心させた。
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