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食事を終え、アイがこれで真彦を追い出せると思った矢先、玄関の開く音が聞こえてヴィセが帰ってきた。 彼はリビングに入ってくるなり、いきなり真彦を指差して素っ頓狂な声を出す。 「うわ真彦、何その顔! まるでお石さんだねえ」 「岩な、岩。惜しいけど」 冷静に訂正する真彦。単品でみると突き抜けている彼も、ヴィセと並ぶと比較的まともに見える一瞬がある。 ヴィセは一通り事情を聞きだすと、納得したのか感心したのか分からないような頷き方をして、 「それじゃあ明日の撮影は無理だねぇ。代役頼もうか」 さらりと裁きを下した。ただし意図的なのか天然なのかは判断が付かない。 「なぬ!? それ困るんだけど。収入が! 予定が! 計算が!」 「自業自得でしょう。うーん、代役、誰に頼もうかなぁ。咲君じゃイメージに合わないし……」 「うーわー最悪ー。資金繰りが間に合わねぇ。延期しようぜ、延期!」 「だめ」 言葉にならない声を叫んで、真彦が頭を抱える。 それをにこにこしながら見ているヴィセ。 いつものことながら不思議に仲の良い二人を見ていると、アイはむくむくと嫉妬心がかきたてられてくるのを感じた。娘の自分を差し置いて、真彦が構ってもらえているのが許せない。こいつはただの半居候なんだから。 かといってヴィセの前で見苦しく攻撃もできない。 仕方なく、アイはヴィセのそばへ行って、その腰にぴったりとくっつくことにした。そうするとヴィセは改めてアイに気付いたように、その頭に手を置く。慈しむように髪を撫でてくれる。 アイは満足げに父の服にうずめた顔から真彦を盗み見ると、奴は何か微妙なものを見るような目でこちらを見ていた。 バッチリと目が合う。 「何よ」 「いや別に」 「言いやがれこのXXX野郎」 「ちょ、それちょっとひどくね!?」 とんでもなく顔を歪められた。まるで自分のしたことよりも、アイの発言のほうが酷いと言いたげだ。この男にそんな顔をされるとは不名誉極まりない。 そこへいきなり、二人のやり取りをおっとりと見ていたヴィセが、妙に鋭げなことを言う。 「さてはまーくん、妬いてるな?」 「どっちに」 思わず日頃思っていることが口をついた。 「勘弁。てかまーくん言うな」 けれど真彦はアイの突っ込みを無視して、面倒くさげに頭を振った。さも、嫌なものを耳から振り落とそうとするように。 ヴィセは二人の反応を無視して、一人で遠い目をすると、いきなりわしゃわしゃとアイの頭を撫でた。 「ああもう。アイは可愛いから、お父さん心配だよ」 「んな、心配するような物体じゃないって。むしろコレが可愛いって、ヴィセさん目ん玉腐ってんじゃね……ってイターイ!」 アイがヴィセの死角から投げたモノに見事当たり、真彦がうやむやに口を閉じる。 「もう、お父さんったら冗談やめてよ。あたし、タバコ臭い男と腹筋割れてる男って、大っ嫌いなんだから!」 「なっ、ほどよい割れ具合だろ!?」 「うらやましいねぇ」 「出すな変態!」 もう一度何かを投げつけられて、真彦が腹を抑えて悶絶した。 みぞおちに入ったらしい。 ……明かりを点けるのを忘れていた。 部屋に戻ってスウが一番に気付いたのは、そのことだった。 夕日はとうに落ちて、部屋の中は真っ暗だ。光といえば、窓から差し込む車のヘッドライトがチカチカと目を刺すくらい。この暗さで明かりを点けるのを忘れていたなんて、ずいぶんと間の抜けたことをしている。 そういえばいつの間に日が暮れたのか覚えていない。ずっとこの部屋の床に座り込んで、お腹が空いたから台所へ行こうとした。その途中でアイと真彦の会話を盗み聞きして、ごまかして戻ってきた。その前の記憶がない。 そんなことを考えつつ、部屋の入り口でぼんやりと立っていると、不意に肩を叩かれた。 「ヴィセさん」 振り向き様に目を見開く。いつの間に帰っていたのか、ヴィセが後ろに立っていた。 「しー」 彼は微笑んで口元に人差し指を当てる。 一瞬、名を呼んでしまったせいかと思ったが、そういうわけではないらしい。彼は黒い瞳をちらりと輝かせて、手招きした。 「ついておいで。いいものを見せてあげよう」 ヴィセの部屋は相変わらず散らかりきっていた。色々な素材や色の布があちこちに落ちたり、引っ掛けられたりしている。電気を点けると、床や机の下で何かがチカチカと光る。絶対、針が落ちている。他にも床にはレースや糸屑、ハサミや千枚通しまで落ちているので、足元には気をつけなければならない。危険なだけではなく、うっかり踏んだぼろぼろのレースがアンティークの一品物だった時など、目も当てられないからだ。 それでも、スウはヴィセの部屋が好きだった。無心に好きなことをしている人の部屋。ここに入るといつも、彼だけの宝箱をそっと覗かせてもらった気分になる。 その危険な中を、ヴィセはスタスタと歩いていく。かといって足元に注意を払っていないわけではない。大体の物の配置を覚えているために、それほど気をつかわなくても足がちゃんと避けてくれるらしい。対するスウは慎重に後を追っても三回何かを踏んで、一回つまずいた。 ヴィセは机の引き出しの奥をガサゴソと漁り、そっと小石をつまみ出した。 薄く青緑がかった、透明な小石。何枚もの薄い欠片を重ねた、薔薇の花のような形をしている。かつては青い光を纏っていたけれど、今は時々、青白い粒子が石の中をふっとよぎる程度だ。 彼は手のひらにそれをころりと乗せると、スウへと差し出した。 「この世界にも少しだけ魔力があるんだよ。月光にさらして数ヶ月。ほんのちょっとだけど、銀のショウビ石に魔力が溜まったからね。フィリアと連絡をとろうと思って。といっても、どうせ言葉は通じないんだけど」 微笑みと一緒に、諦めのようなものが彼の顔によぎる。 「私ではヒアリングに自信がなくてね。……一緒に聞いてくれるかな」 窺うような問いには、配慮と心配が隠れている。スウの心を乱さぬように、そっと周りから囲いこむような聞き方だった。 頷くことにためらいはなかった。 ヴィセはそれを確かめると、小石を握り締めて何事かを囁きかけた。耳慣れないその言葉は、スウの知らないもの。異世界の言葉だ。 刹那、すっと刺すように指の間から光がこぼれ始める。 青く透明な光は、以前のものよりもこころなしか濃く、鋭いように思えた。少なくとも以前のような、淡く茫洋とした印象は抱かない。 光は刻々と強くなる。途中からスウは耐え切れなくなって、目を細めると額に手をかざした。瞳の奥が痛い。目を閉じても残像がチカチカする。 しかし、ヴィセは食い入るように己の手の内を見詰めている。その視線には、何かを待つ者特有の集中がみられた。 『...Wda? Vise?』 凛、とよく通る声が鳴った。異国の言語で彩られてもなお、冴えやかな硬質さは失われない。魔力の媒介を持たない言葉はただの音となり、彼女の意思は伝わらないが、それでもその声色が、発声が、確かに女王その人だった。 女王フィルフレイア。ヴィセの妻であり、宿詞なき王国をたった一人で支える異国の女傑。輝く銀の髪を持ち、ヴィセとの連絡手段である銀の飛翔炎をその身に宿している。常に正面から相手を見据え、決して甘えを許さない人物だ。 その音を聞いて、ぱっとヴィセの表情が和らいだ。経年からうっすらと積もった疲労感が全て取り除かれる。そうすると、もともと若い顔つきがいっそう子供っぽくなった。 「ふぃりあ〜!」 『Sid ub, z fooolzing!』 叫ぶようにヴィセが応えた瞬間、びしりと女性が檄を飛ばした。スウには何を言ったのか分からないが、この海底まで突き落とすような、大気圏外まで突き飛ばすような声色から、フィルフレイアが暴言を吐いたことは確かだ。 『Wby diz’nt juh lebord aarliyure? Juh’r olveyz zelvizb』 「いー、むおてゅとつよとこれせぃばとたふせえにぃ」 ヴィセが気おされがちに、鼻にかけるような発音で答えた。音の雰囲気は日本語に良く似ているのに、全く意味が取れないことから、アーゼンの言葉と思われる。 『Aa? Bold jur tangee. Jur du’nt bav rivzd do zpiige. Vegaaze et’z juh, et’z zeryaz. Deuno bav dgon oud ub z danbre』 「ひ? にんぢとたけくあにえ」 『Et bav dgon oud do dlavber lugmg vor z gaara. Et’z Dlavber!』 女王が最後の言葉を力強く言い放った時、ふっと電源が切れたように青い光が途絶えた。 一段、部屋が暗くなる。 唐突に訪れた静寂が、胸の奥に諦めとしこりのようなものを残した。 ヴィセからは無邪気な笑みが消え、寂しげな、どこか落胆を承知する穏やかなものへと変わった。若々しい顔つきに達観した表情。この矛盾する二つが合わさって、やっとスウの知るヴィセになる。一目で年齢の分からない、若く老成した男性に。 力の抜けた溜息と共に、彼は石へ落とされた視線を空へ向ける。 「ふぃりあ……」 放心したような呼び声。 その横顔は寂しげで、スウは一瞬、いたたまれない気持ちになった。 ヴィセはスウの存在を忘れたかのように、なお届かぬ妻へ語りかける。 「……ほとんど分からなかったよ」 なぜか日本語だった。 女王はヴィセから聞いた古アーゼン語を自分の話す南グルディン語へ翻訳することができるため、彼女の前では全て古アーゼン語にしていたようだったが、一応スウが居ることも覚えていて、もう女王には聞こえないのだからと配慮してくれた……らしい。 もっとも、そこだけ教えてくれたところでスウには全然分からない。彼女が分かったのは唯一つ。 Deuno――デュノという言葉だけ。 まるで耳が雑音を切り取ったかのように、そこだけははっきりと聞き取ることができたのだ。音が自分の中に飛び込んできたと言ってもいい。すとんと彼女の中に入り込んで……まだ胸の奥で燻っている。 ヴィセは顎に手を添えて、ひとり首を傾げた。 「なんとなく罵倒されてたのは分かったんだけど……肝心のところがなぁ。特に最後のドラバーって何だろう。どこかで覚えがあるんだけどなあ」 「うーん、私にはドゥラヴェーアと聞こえたんですけど……」 聞こえたままに言ったつもりが、ちょっと英語っぽい発音になりすぎて恥ずかしくなる。英語で自己紹介したときに、思いっきり自分の名前まで英語的発音をしてしまった時と同じ感覚だ。 「あー! dlavberね。確か『旅』って意味だったな。そうか、それでdgon、『出る』って単語の変則過去完了形が出てきて……あとdanbreが『神殿』を指すはずだから……」 えーっと、とヴィセは一度、言葉を濁そうとした。 「デュノ、出た、神殿」 シンプルな言葉の羅列だ。それなのにスウは最初、その意味が分からなかった。いや、文章の意味は分かった。しかし、そのことが意味する一つの事実まで考えが及ぶのに、数秒かかってしまった。 「…………え?」 分かってからも、まだ信じられない。 あの少年が、あの魔力の使えない子供が、神殿を出ていった。自分の膨大な魔力を抜き取り、生き長らえさせるための装置を、捨てて。 硬直する彼女に対して、ヴィセはおっとりと頷きながら納得している。スウから見ると不思議なほど、彼の反応はのん気に思えた。 「なるほどー、それでlugmg vor、『探す』って単語が」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 珍しく大声が出た。そのことにもまた動揺する。 ヴィセは凍りついたように動かない。それが自分の声のせいだと気付くのに、更に時間を要した。 「あ、ごめんなさい……」 大きく深呼吸してから、ヴィセはなんでもないというようにへらりと笑う。 「大丈夫大丈夫。それよりも、デュノは君を探して旅に出たようだよ」 酷なことを告げる人だと、他人事のようにスウは思った。 冷静な思考とは裏腹に、彼女の心も体もてんでばらばらな動きをしていた。心は萎縮して身動きできず、体はおろおろと情報を求めて辺りを見回すばかり。 共通点は一つ。戸惑っていた。 「そんな……だってあの子、あんなに小さいのに」 そこまで言って、スウは言葉を紡げなくなる。初めの混乱が収まりつつある中で、本来ならデュノの魔力を抜き取る儀式は毎晩でなくても良かったということを思い出したからだ。もしかすると一ヶ月や二ヶ月なら健康を害することはないのかもしれない。 だとしても、そう長くはもつまい。 狼狽するスウとは違い、ヴィセはのんびりと首を巡らした。スウの発言に納得がいかないというように、声色に訂正の色が混じる。 「うーん、確かにデュノは魔法が使えないから、旅をするのは大変なことだろうけど……」 その反応は、スウからしてみればあまりにのん気すぎた。 どう考えてもあの子供に旅は無理だ。まずあの子は体力がない。世間も知らない。危険が何かも分かっていない。魔法が使えないことはこの世界も同じだとしても、いずれ彼自身の魔力が自由を許さなくなるだろう。少しでもあの子に接したことがあるのなら、言葉にするまでもなく分かることだった。 ヴィセさんは長くデュノと会っていないから、とスウが否定的なことを口走ろうとした時。 彼がすっとこちらを向いた。 「でも、あの子ももう十八だし、無理はしないでしょう」 「え!?」 驚きというより、虚を衝かれた。あまりに予測から離れすぎて、すぐに対応しきれなかった。 「十八……歳?」 自分の動きがひどく緩慢になっていることを、スウは自覚していた。はたから見ればただただぽかんとしているようにしか見えなかっただろう。 けれど頭では、ヴィセが間違えているのだと理解していた。 それはレゼの話だ。彼は混同している。デュノのことをレゼだと思って話しているのだ。レゼであれば、十八歳でもおかしくない。 そう分かっていたのに、スウの体はそこまで表現するに至らない。いつもそう。思考だけが流暢で、体が止まってしまっている。 けれど、スウの解釈をヴィセはあっさりと覆した。 「あれ、知らなかったかい? デュノとレゼは双子でね。丁度、君たちと同い年なんだよ」 双子。同い年。 二つの言葉が頭の中で何度も反響した。 あの、幼くて小さな子供が、十八歳。小柄な骨格やあどけない表情、無邪気な言葉のどれをとっても、とても十八年も生きているとは思えない。体の発達が未熟なことを除いたとしても、無理だ。子供らしい仕草や疑いを知らない瞳のどこにも、十八もの年月が積もっていないのだから。 でも。 レゼとは本当に良く似ているのだ。兄弟だからというレベルではなく、まるで同一人物の少年時代と青年時代の写真を並べたかのように――……。 スウの心のうちなど知らないのだろう。ヴィセはうんざりするように頭をかいてぼやいた。 「しかしそうなると、今ごろ姉上はまたブチ切れてるかもしれないなぁ。あの人、逃げられるの大嫌いだし……」 誰に聞かせるともない呟き。けれどそれが、スウの記憶を全く違う形で構成し直した。 当時、スウは聖女がデュノに執着する理由が分からなかった。それは今でも分からないし、分かっている範囲でも予測の域を出ない。結局のところ、彼女の心の問題なのだから。けれどスウを排斥しようとした理由だけは、今、明確になった。 レゼだってそうだ。彼は一度、体裁のためにスウを城へ移そうとした。あの頃は何を大げさな、王子とは本当に面倒な職業だと呆れていたものだが……あの時、自分は何をしていた? 言葉が通じないからと、四六時中デュノと行動を共にしていた。 いや、でもやましいことは何もしていない……はずだ。でも一応デュノは十八で。当時は十七歳で……。確かに年頃の男女がそんな行動をとれば、噂の一つや二つではすまないだろう。囲うだなんだとも言いたくなるかもしれない。 ましてや、結界のせいで魔力を奪われないと分かってからは、毎晩、一緒に……。 カッと、意味もなく顔が熱くなった。 正体不明の熱はすぐに頬から耳まで伝わり、全身に広がった。煮え湯を飲まされたようにじんじんする。自分の熱で自分が燃えてしまいそうだ。その熱源である心臓は、そこだけまるで別のものが取り付けられているように脈打って、嫌でもここに在るのだと意識させられる。 思わず頬を両手で覆ったスウへ、ヴィセが心配そうに覗き込んだ。 「大丈夫かい?」 応えようとしたが、音にならなかった。 頬へ手を添えたまま、ぶんぶんと強く頷く。 もう、わけが分からない。 |
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