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スウが完全に立ち去ってもなお真彦がそちらを見ているので、アイは箸で相手の手の甲をつついた。 「で? 今度はアンタの番よ。もちろん言うんでしょうね?」 声色は若干の戦闘態勢。攻めの構えで上目遣いに睨みあげる。 「何のことでしょう?」 予想通り、相手はそらとぼけた。綺麗な顔の威力を満遍なく使った、極上の笑み。死ねばいいと思う。 言葉なき殺気を感じとったのか、真彦は口を尖らせて軽い態度をとる。頬に手を添え、シナを作って一言。 「だって、言うとまた俺の株が下がっちゃうしィ」 これ以上どう下げろというのか。 イラッとくるものを押さえ込んで、アイはにっこりと笑う。 「言・え」 「イ・ヤ」 大の男に、今にも「キャハッ」と言い出しそうな声を出されると、はらわたが煮えくり返りそうになる。視線で圧力を加えても、相手は甘えた素振りで目を合わせようともしない。空気中に何かキラキラした物質がばら撒かれていそうな、それは見事なふざけっぷりである。 いつもならもうちょっと付き合ってやるアイだったが、今は機嫌が悪かった。 「へぇー。あー、そーぉ」 嫌みったらしく頷いて、テレビのチャンネルへ手を伸ばす。電源を入れると、奴のせいか国営放送に設定されていた。即行で切り替える。 丁度ニュースが終わり、CMが始まった。車のCMが流れる。 途端に真彦の顔つきが険しくなった。 「やめてよなー……」 あきれから不用意に伸ばしてきた手を、容赦なく叩き落とす。それに合わせたかのように、お菓子のCMが始まった。 「ちょお、チャンネルちょうだいよ」 「イ・ヤ」 仕返しとばかり、最高の笑顔で対応してやる。 睨み合ううちに、また違うCMが流れだした。“あなたの街のS.S.……” するといいかげん痺れを切らしたのか、真彦があからさまな渋面を作った。 「ちょーだい」 不機嫌そうな声は、思わずドスを利かせようとしたのを無理やり抑えたらしく、途中から不自然に色を変えた。 だが、その程度でアイは怯まない。しいて余裕を見せて、会話を無理やり自分の意図した方へ向ける。 「咲ちゃんの件、アンタが一枚噛んでるんでしょ?」 「くれ」 「言うなら」 鋭い舌打ちが聞こえて、手の中のチャンネルをひったくられた。 “……つのSは信頼の証” ブチッとノイズが響いて、テレビの電源が切られる。それから真彦はアイの知らない外国の言葉で忌々しげに悪態をついた。黒い画面に移りこんだ男の顔は、嫌悪感で歪んでいる。 けれど真彦が肩をすくめてこちらを向いた時には、その苛立ちは跡形もなく消え去っていた。 「てかさー。一枚も何も」 ケロリとした顔で彼は言う。 「咲に千尋ちゃんを紹介したのは俺だし、咲が遊ぶように後押ししたのも俺」 「……ああ?」 思わずヤンキーのような声が出た。 一瞬で目が据わったアイに構うことなく、真彦は悠然とした態度で話し続ける。 「崇ちゃんが居なくなってから、咲のテンションが低くてさぁ。いきなりだったろ? あの子が居なくなったの。親戚の家に行ったとか言われたけど、恋人の咲に一言も言わず、デート拒否ってそれっきり。そんなことされて、あの繊細な咲が凹まないはずがないでしょ」 言われて、アイも返事に詰まる。 スウは知らないだろうが、スウが居なくなったと知った咲坂の打ちひしがれ方は、見ているこちらの胃に穴が開きそうなくらい気の毒なものだった。その頃の彼は四六時中気がそぞろで、作業効率は悪く注意力は散漫。一日のうちに何度も目上の人に叱られていた。 しかもその状態の理由が誰にも明らかなだけに、遠距離恋愛がなんだ、ほんのちょっとの間じゃないかと文句を言われ陰口を叩かれ、見る間に彼の評価は下がった。 けれど彼がそこまで言われた主な原因が自分の父親のせいであることを、アイだけが知っている。 ヴィセは周りの人間、それもスウの父親にまで、彼女は急な病気で田舎のおじさんの家で療養することになったと言い張った。 普通なら、娘の友人の親が何と言ったところで、そんな話が通じるはずがない。 けれどスウは以前から自分の家よりもアイの家に入り浸ることが多く、ヴィセは実の父親以上に彼女から信頼を受けていた。そのことは周りも重々承知している。だからこそ、実の親ですら彼を信用して、法的処置をとらなかった。 スウの父親は娘のとの関わりが薄かった。普通、思春期の娘は父親を避けるものだが、それとは違う。アイが見る限り、二人の仲は険悪というほどのものではなかったけれど、まるで別々のテリトリーを持つ猫のように、互いに一歩引いた距離を保っていた。 だからスウの父親は、他人であるはずのヴィセに言われたことを全て鵜呑みにし、その件から一切手を引いた。スウの母方の血縁である田舎のおじさんがヴィセに口添えしたせいもあるが、もし二人の関係がもっと温かなものだったら、こうはならなかっただろう。 しかし、ヴィセの話はもちろん嘘である。 アイは彼女がいなくなる寸前まで一緒にいたのに、そんな話は一言も聞いていなかった。スウの態度からもそんな素振りは見られなかったし、ヴィセの反応だって辻褄が合わない。 けれど、疑うアイにさえも、ヴィセは一貫して説明を変えなかった。 いつもそうなのだ。こんなに疑わしいのに、父は笑ってはぐらかすか、黙り込むか、適当な作り話をするか。平気な顔で容赦なく娘をカヤの外にぽいっと放り投げるのだ。 父の回りにはいつも秘密が潜んでいる。その気配は常に感じている。なのに、アイはいつもそれを追及できない。明らかに嘘をつかれていると分かっているのに、気付いていない振りをして許してしまう。 アイ自身、どうしてそうなのかは分からない。 強いて言うなら、父の秘密が全てを壊してしまいそうで、怖気づく癖がついているからだろう。寝た子を起こすな。誰に言われたわけでもなく、アイは感じ取っている。 そんな彼女の代わりにヴィセを糾弾したのは、咲坂だった。 『彼女は黙って行ってしまうような子じゃない。今すぐ、電話をさせてください』 何度も頼み、断られてもなお食い下がる様には、アイも感心していた。そこまでスウをおもってくれていたとは、と。 それなのに、咲坂は彼女を裏切った。 これが真彦だったなら、アイはここまで激昂しなかっただろう。いっそ、親友に付いた悪い虫が払えたと喜んだぐらいだ。 咲坂の本性が優しく誠実だったからこそ、許せない。 知らないうちに眉間にしわを寄せていたアイだったが、カチリというライターの音で我に返った。 真彦はタバコに火をつけながら口の端で笑う。赤い炎がその顔を照らした。 「だから気晴らしに、俺サマが女遊びの手ほどきを、ね?」 「余計なことすんな変態」 「だって、あの年であの純情クンはやばいでしょー」 タバコを噛んだまま、彼は器用にカラカラと笑う。それから険悪な顔つきで睨みつけるアイへ向かって、ふざけるようにタバコの煙を吹きかけた。 紫煙が肌を撫でた気がして、アイは身を引く。その煙に強烈なヤニ臭を想像していたのだが、意外にもココナッツの香りがした。濃厚な甘い香りが、その他全ての香りを押しのけて辺りを占領する。 アイは顔をしかめて、彼の手元を指差す。 「やめなさい。じゃないと、止められなくなるわよ?」 忠告するように低く脅す。 「そんなバカな真似、しないさ」 さらりとかわされた。 真彦は異様ににやにやした顔でタバコを噛みながら、秘密を打ち明ける子供のような瞳に、策士の光を乗せる。 「アイさぁ、俺が咲だけじゃなくて千尋ちゃんとも仲良いって知ってた?」 「そりゃね。周りは千尋さんのこと、咲ちゃんよりもアンタと噂してたもの」 「はん、ありえねぇ」 千尋とは咲坂の婚約者だ。チラッとみただけでもスタイルの良さが目に付く、綺麗な人。咲坂と同じモデル事務所に所属しているが、あいにく『ヴィクトリアンローズ』との関わりはない。 二人と違って、真彦は事務所を通していない。彼は直接ヴィセから依頼されて、『ヴィクトリアンローズ』でのみ、モデル活動をしている。 一見何の関わりもないように見えるのに、真彦は千尋と親しかった。一時はそれを噂にされたこともあったが、真彦は相変わらず真彦で、年上の女性ばかりを狙って飛び回っていたため、その話はすぐに消えたのだ。 真彦はトリックのタネを披露するような笑みで、タバコの灰を落とした。 「千尋ちゃんは最初っから咲狙いだよ」 その声には、どこか意地悪げな愉快さが含まれていた。 「俺が咲と千尋ちゃんを引き合わせたのは、前々から千尋ちゃんに頼まれてたからだ。まあ、スウちゃんが居なくなってからは特に急かされてたんだが、まさか咲が初っ端からミスるとはさぁー」 さすがの俺様も予想外ですと言いたげに、真彦は肩をすくめた。その態度には罪悪感も反省も、欠片も存在しない。 ここまできて、アイは怒りよりも疲れが全身を支配するのを感じた。盛大な溜息をこぼし、頭を抱えるようにテーブルへ伏せる。 「……アンタ、そんだけのことやってて、なんで未だにここをウロチョロしてるわけ?」 辛うじて搾り出した言葉にはあきれ返った疲労感と一緒に、強烈な忍耐がにじみ出ていた。自分はこの男の言い分を聞いてやっている。そういう意味の忍耐だ。もしこの忍耐がなかったら、彼女は今すぐ目の前から消えやがれと叫んで、テーブルの一つや二つ、投げつけていたに違いない。 そんな配慮を踏みにじるように、真彦はさも自分が正しいような顔をした。 「ほら、咲って気が弱いっつーか、優柔不断なトコあるだろ? 子供を盾に言われるがまま婚約とかしちゃうし。結果的に崇ちゃん、捨てられちゃってさぁ。かわいそーだなーって」 嘘だ。この男はスウを哀れんでなんかいない。自分が引き起こした事態がどんな反応を見せるのか、それを確認したいだけ。 今だって、スウがどの程度傷ついているのかを確認しに来て、その反応の不確かさに興味を覚えただけのこと。自分という名の触媒が、他者へどう働きかけるのか。それを知るためだけに、無情も矛盾も厭わない。 好奇心。それがこの男の本質だ。 「まあ俺も、千尋ちゃんがここぞとばかりに『手っ取り早く手に入れたい』とか言ってたからさ。面倒くさくなっちゃって、『いっそ穴でも開けとけば?』とか言っちゃったし。さすがに責任感じてさー」 真彦は軽く申し訳なさそうな顔をして、それから引きつった半笑いを作った。 「いや、マジでやるとは思わなかった」 アイはもう、何のリアクションもしなかった。 ただ、上から下まで目の前の男をまじまじと見遣る。 「……滅べばいいのに」 「女って怖いねぇ。俺も気をつけないと、いつか寝首をかかれるかも」 「…………」 「で、ガキできたって聞いたときに、うっかり咲の前で『結局あのテ使っちゃったんだ』とか言っちゃって――」 「右ストレート、と」 棒読みで先を続けると、真彦は腫れた頬を痛々しげに押さえて、 「ヒドイだろ?」 お前がだ。 無言のセリフを読んだのか、真彦はわざと口を尖らせる。 「むー。ちょっとした親切心ですよー。ま、期待しなかったわけじゃないけどね」 今の態度が嘘のようにケロリと言い放つと、口の端ににっと自信ありげな笑みを添える。いたずらが成功した子供が仲間に自慢する時の顔だった。 「アンタ、葬式に人が来ないタイプね」 呆れすぎて、アイはもう皮肉ぐらいしか出なかった。 そのちょっとした攻撃を、意外にも真彦は真顔で受け止める。 「ああ、それは遺伝かな」 ぼんやりと呟いて、彼はもう一度テレビの電源を入れた。 |
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