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 スウはゆっくりと、あの数ヶ月、自分がどこで何をしていたのかを語った。
 淡々と語りながら、彼女の中でその時の様々な感情が蘇り、同時にそれらが今の自分から切り取られていくのを感じた。記憶をたどり、語ることで、あのことについて客観的に見詰め、もう一度別の形で理解することができるようになっていった。
 全てを語り終えると、スウはそれ以上語るべき言葉が無いことに戸惑い、口を閉ざした。もっと膨大なものだった気がした。けれどそれは彼女が語る端から零れ落ち、そこにあったさまざまな感情が欠落した、ただの情報になってしまった。
 そういう場所に居た。それだけの話。
 長い話だった。ありにままに語った。けれど、二つだけ秘密にしたことがある。
 一つはヴィセのことだ。先程の発言から、アイはヴィセの秘密に心当たりがあるとは分かっていた。けれどアイはスウにそうだったように、ヴィセに対しても内容を問うたことはない。それはアイの寛大さと同時に、あえて秘密を問わぬように彼女を育ててきたヴィセの努力の結果でもある。二人がそういった微妙なバランスに成り立つ関係である以上、自分が事実を告げてしまうのは安易な気がした。
 もう一つは、この話が実際に彼女の身に起こったことであるということ。全ては夢の中の出来事と言ってある。夢の話を数ヶ月行方をくらましていた理由として答えるのは、明らかに矛盾している。でも、アイを相手に嘘をつきたくなかったし、つけるとも思えなかった。それに意図しての行動ではなかったが、夢として語ることで、彼女は自分の中の手のつけようがない部分をうまく丸め込むことにも成功していた。
 ふうと息をついて、肩の力を抜く。まるで石ころを吐き出したように、胸の辺りが軽くなっていた。
 けれど全てはこれからだ。
 スウが語る間、アイは一度も口を挟まなかった。クラシックの演奏を聴くように黙りこんだまま、身動き一つせずに彼女の言葉を聴いていた。そのことを感謝するのと同時に恐ろしかった。
 ここで否定されれば。
 夢の話などしてもしょうがないと詰め寄られたら、スウはもう一度大切なものを失うかもしれない。
 でも、と不意に笑みがこぼれた。
 アイだったら、あっさりありえないと言い切ってくれるかもしれない。ばかばかしいことを言ってと、怒ってくれるかもしれない。幻想の入り込む隙間など、完膚なきまでに叩き潰してくれるかもしれない。
 けれど、友人の反応はスウが思っているよりずっと真面目で、真摯なものだった。
「それで……スウはどうするの」
 虚を突かれて、一瞬口をつぐむ。
 以前、別の場所でも問われた言葉。そして、その時は答えられなかった問い。
 しかし今、答えは自然と決まっていた。
「忘れるわ。……いずれ、必ず」

 思いは、自分で殺すものだ。



「はぁっ!?」
 端正な口元をぱかっと開いて、真彦が素っ頓狂な声を出した。同時に手にした箸から肉を落としてみせる。たいした芸人根性だが、箸の持ち方が間違っているので大減点。
「ちょ、待て。ちょっと待ってよアイちゃ〜ん」
「キモイ」
 ずばりと言い放ち、アイは冷めた目で正面に座る相手を無視する。たくわんを一切れ口へ放り込み、ぽりぽりと租借した。
 一体何故、自分はこんなダメ野郎と二人で夕飯を食べているのだろう。
 何度目かの自問を繰り返してから、アイは相手の油断した頬をつねってみた。
「イタイイタイイタイって!」
 真彦は大げさに騒いで顔をひっこめた。友人に右ストレートを食らったその場所は、見事に赤く腫れあがっている。明日になれば紫色になるだろう。仮にもモデルが仲間の顔を殴ったのだから、咲坂は相当頭にきていたようだ。
 おそらく、この男の自業自得だろうが。
 そう結論を下して、アイは口元に人差し指を立てる。ちらりと視線で辺りを確認。
「静かになさい。スウが聞いてるかも」
 その一言で、真彦はぴたりと黙り込む。もっとも、その顔に反省の色はない。ああそういえばそうだったと思いついて、黙った。それだけの動きだ。
 あの後スウは部屋に閉じこもってしまった。見慣れぬ咲坂の暴挙に、彼女なりに思うところがあったんだろう。こうなってはもう、そっとしておくしかない。スウが天の岩宿へ引き篭ったが最後、外から何をしても無駄なのだ。その上、放っておいても一人で立ち直るので、心配するだけ阿呆らしい思いをする。塞ぎ込んではいきなり復活する親友の行動パターンを、アイはよく知っていた。
 今日は父が仕事で遅いから自分一人で茶漬けでもと、休日の主婦気分を出したアイのところへ、狙ったようなタイミングで真彦が現れた。それはもう、見るのもうんざりするぐらいのキラキラした笑顔で。
 餌をせびりに来たのである。
 アイがこの男に殺意を覚えるのはこういう時だ。こちらの都合などお構いなしに、自分の主張を貫き通す。うざい時には非常にうざい。
 ついさっきのやり取りを思い返して溜息をついたアイへ、真彦がはっきりした声で話を続けた。その声量は、彼女の繊細な配慮など軽やかに蹴り飛ばしている。
「あのな? 気付いたら森で、出られなかったっつーのは分かった。でもな?」
 相手の言葉で何の話をしていたのか思い出す。スウが語った不思議な話を、この男に教えてやっていたのだ。
 真彦は頭の中を整理するように眉をしかめて考え込んだ後、
「……魔法ってナニ?」
きょとーんと、困った犬のような顔で問いかけた。
「あたしに聞くな」
「え〜、だって信じらんねぇんだもん。ってかマジかよふぁんたぢぃ〜」
 嫌味な声色でくねくね動く真彦。ノリノリだ。こうも楽しそうにバカにされると、箸で目潰しがしたくなる。
 しかし彼女が行動するより早く、真彦は話を促した。
「で、子供に助けられて?」
「なんでか、喋れなくなって……」
 そこでアイは少し口ごもった。この次の流れを話した時の相手の反応が読めたからだ。かといって省略するのも難しい。仕方がないので、あえてさらっと流すことにする。
「行く宛てもないから、その子の所でお世話になって――」
 ぴたり、と真彦の動きが止まった。
「え。同棲?」
 一瞬、撲殺したくなる。
「あのねぇ。子供相手だってのに、なんてこと言うのよ」
「でも男だろ。野郎だろ? あー、もう崇ちゃん危なっかしいなぁ。男ってのはな、物心ついたときからケダモノなんですよ?」
「アンタだけだわ、喋る下半身!」
「あっれぇ、アイちゃん潔癖症ー? ……ってストップストップ! 頼むからそこまで、そこまでで!!」
 調子に乗ってこちらまで茶化しかけた真彦だったが、途中から焦った顔で仰け反ることになる。アイが思わず掴んだ何かを振り上げたからだ。
 必死の懇願でその何かを下ろしてやると、アイは溜息と共に苦々しい思いを吐き出した。
「……まあね。正直あたしも警戒心なさすぎとは思ったけどね」
「だよなー。けどまあ、その場合状況が状況だしなぁ」
 詳しい状況を知らない真彦はのんきだ。
 そののんきさが、隠していようと押さえ込んでいたアイの苛立ちを逆撫でした。
「でも危機感なさすぎ。特に添い寝とか添い寝とか添い寝とか! スウってば、子供相手だからって笑ってたけど……あたしを相手にしてんじゃないのよ!」
 むしろ自分がこうだからスウも抵抗がなかったんじゃないかと思ったが、この際それは無視する。
 しかしその程度のことは何でもないのか、それを聞いてなお、真彦は平然としている。
「へぇー、崇ちゃん積極的。てゆーかアイ、自覚あったんだ?」
「ええありますともよ。文句あるッ?」
 ギロリと睨みつけると、真彦は降参のポーズで答えた。
「ないっす」
 それを確認し、アイは盛大に溜息をついてから話を続けた。いちいち茶化す相手の反応に、真面目に話すのも面倒くさくなって、勝手に要約する。
「で、まあいろいろあったんだけど、喋る時計のおかげで帰ってきたんだって」
 喋る時計。
 言ったは良いものの、あまりの説得力の無さに場が白けた。言った本人ですら、なんてバカバカしい話だと思ったくらいだから、聞いた方はそれ以上だろう。
 案の定、真彦は明後日の方を向いて、半目でふっと笑い、
「……シュール」
誰にともなく呟いた。
 それから彼は余裕ありげに微笑んで、子供をあやすような視線をアイへ向ける。
「で、俺に夢の話を聞かせて、どうしようってわけ?」
 信じる気など、ノミの産毛ほどもない言い草だ。
 アイはそれを見て密かに安心し、同時に鼻で笑った。
 この男は、ハナから何も信じちゃいない。
 目に見える範囲でしか納得せず、頭で考えられる範囲でしか受け入れることのできない男。そういう種類の人種だと知っているからこそ、アイはこの男に話してみせたのだ。この男の好奇心は底を知らない。下手に隠せば嗅ぎ回られることは分かっている。だからいっそ、始めに話して関心をなくしてやった。こういった類の話をこの男が好まないのは経験上予測がついたから。
 もちろんアイだって、スウの話の全てを信じているわけではない。冷静に考えて、この話は何かの例えや比喩だと思うのが正しい読み取り方だろう。けれどスウの淡々とした話し声や、諦めたような微笑みが頭の隅をちらついて、安易に断言させてくれない。信じてくれなくていい。嘘と思ってくれればいい。そう言いたげな微笑みが、瞼の裏で曖昧に笑う父親の姿と重なる。
 隠された心、その気配がした。
 アイはいつもそれの気配だけを感じ、その前で口を閉ざしてきた。目の前の男はそれすら見ようともしないが。
 ちらりと睨むような視線を送ると、真彦は何の痛みも感じていないような顔をしていた。
「てゆーかさ、俺が聞きたかったのは今まで崇ちゃんが何やってたかなんだけど。分かってる?」
 ケロリと言われて腹が立つ。夢の話など聞いてはいないということか。
「分かってるわよ。大体ねー」
 文句をふっかけてやろうとした瞬間、パッと顔の前に手のひらを突き出された。
 驚いて口を閉じる。いきなりのこととはいえ驚いた自分に腹が立って、罵詈雑言を浴びせ掛けてやろうとしたとき。真彦が自分の後ろを見ていることに気付いた。
 視線で促され、振り向く。
「あ……スウ」
 薄く開いた扉の先に、パジャマ姿のスウが立っていた。白い髪が闇にぼんやりと浮かび上がり、よく目立つ。
 彼女は戸惑うようにこちらへ微笑みかけ、居心地悪げに二人へ交互に視線を送った。
 目が合って、アイは思わず視線を逸らす。彼女の秘密を、聞いた端からバラしていると知られてしまった。アイがスウの立場なら、相手を見損なうだろう。
 けれど、立ち聞きしているのを知られた彼女もまた、引けめを感じているらしい。おずおずと、わずかに媚びるような微笑みを浮かべる。
「ちょっと、お腹空いちゃって」
「何か作ろっか?」
「ううん、菓子パンもらってくね」
 自然なやり取り。その底にある作り物めいた嘘くささを感じていながら、誰も打ち消そうとはしない。
 けれど、去り際に一瞬、彼女が真面目な顔になる。
「あの、ほんと……夢の話だから。信じないで」
 添えられた弱い微笑み。それは痛みを噛み殺す仕草。
 真彦に向けられた言葉だった。
「…………」
 彼は何も答えず、彼女の消えた扉の向こうをじっと見ていた。この男には珍しく、表情のない顔をしている。そうすると改めて端正な造形が浮き彫りになり、ビスクドールのように冷たい顔つきになる。しかし、その瞳は真剣な意思を持って、己に真偽を問うていた。
 彼女の話は偽りなのか。ならば彼女の行為は真か嘘か。
 判断を下しかねるように、黒い瞳はじっと前を見据える。
 アイはそれを見ると、あきれにも似た疲労感がこみ上げてきた。
「……スウのバカ」
 アイには分かる。この男の前では、彼女はあんな態度をとってはいけなかった。ふざけた虚言で終わらせるべきだった。
 あんなふうに、否定してはいけなかったのに。
「ホント、嘘が下手なんだから」
 溜息交じりに呟いて、アイは視線を落とした。
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