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 言葉少なにマンションへ戻った二人は、エレベーターの扉が開いた瞬間、目の前の光景に絶句した。
 部屋の前で、二人の男が口論をしている。
 黒髪を派手にハネさせている長身の男は真彦だろう。彼は口元に不可解な笑みを浮かべたまま、静かに佇んでいた。
 もう一人もまたスウの知る男性だ。けれど彼の鋭い怒声や苛立たしげな表情が、判別を一瞬遅らせた。今まで彼がそんな顔をするなんて知らなかった。穏やかな話し声や優しげな微笑みしか見たことがなかったから。
 咲坂。言葉でこそ告げていないものの、別れたも同じ恋人。
 その彼が見たこともないような険しい表情で真彦を睨みつけ、詰め寄っている。
 どうして彼がここにと、慌てて駆け寄ったとき。
 咲坂の左手が真彦の襟首を掴んで引き寄せ、拳で頬を殴りつけた。
 骨が当たる嫌な音がして、真彦がわずかに揺らぐ。
「もとはお前が……!」
 なおも襟を揺さぶり、険しい表情で激昂する咲坂へ、真彦が冷静に呟いた。
「ふーん、俺のせいにするんだ。結局、決めたのはお前なのに」
 からかいすら含んだ、軽い声。
 その一言がどこに触れたのだろう。
 ぎっと襟を持つ手に力が篭り、咲坂がもう一度腕を振り上げた。
「いいのか?」
 冷たい声が、振り下ろされかけた拳を引き止める。
 真彦が泰然と相手を見据え、口元をわずかに引き上げた。浮かべかけた酷薄な笑みをあえて控えることで作られた、緩やかなあざけり。それは整った顔立ちと相まって、こちらの感情すら停止させる力を持つ。
「それ以上やるなら、相応に返させてもらうぞ?」
 真彦は拳の裏で自分の胸元を叩き、口元だけを友好的にほころばせた。その視線は挑発とわずかな期待をひそめて、危険な針を忍ばせている。あと一歩、あと一歩で獲物が射程距離へ入る、その一瞬を待つ捕食者の瞳。
「……っ」
 咲坂は相手の視線に絡め取られたように真彦を見詰めていたが、やがて何かを悟ると、ゆるゆると手を下ろした。その顔に畏怖すら滲ませ、半歩後ろへ身を引く。
「ちぇ。つまんねぇの」
 真彦は大げさに肩をすくめてみせ、溜息をついた。それだけでいつもの掴みどころのない雰囲気へと戻ってしまう。
 もうお前には飽きたよと言わんばかりに首を鳴らすと、真彦はこちらにちらりと目を向けた。
 その視線を追って、咲坂が目を見開く。
「佳川さん……」
 名前を呼ばれた瞬間、思いもがけず心臓が痛んだ。とっさに俯いて視線を外す。宣告を受けた咎人のような視線を、これ以上見られなかった。
「違うんだ、僕は君に」
 うろたえた声を遮るように、早足で二人の前を通り過ぎる。すれ違い様に頭を下げたのを見とめてくれただろうか。
「ごめんなさい、今は、ちょっと……」
 その先を何と続けようとしたのか、自分でも分からない。
 触れられたくなくて、遮るように玄関の扉を閉めた。
 今はただ、そこまで関わる余裕がなかった。



 弱く、控えめな扉の閉まる音に、残された三人が動けなくなった。
 自然と生まれた沈黙の中で、咲坂がノブを掴む。強く握った後で一瞬、ためらうように手を止めた。溜息のような吐息をついて、勢いよくノブを回す。
 厚い戸が数センチ動いた瞬間、バシンという強い音と共に逆の力が働いて、扉が閉まった。
 彼は一瞬ぽかんとして、ノブから離れた自分の手を見ていた。そして、すぐ隣に押し付けられたままの、小さな靴に気づく。
 アイが扉にぎりぎりと蹴りをいれた体勢のまま、咲坂を睨みあげている。腰より高く上げられた足は、見るほうから見ればスカートの中身が丸見えだ。
 彼女は自分のはしたない格好など意に介さず、眼光以外は能面のような無表情で鋭く舌を打ち、
「邪魔」
 重圧を込めて言い放った。
 思わず咲坂が道を譲ると、アイは悠然と扉の内へ入り込んだ。念押しにぎろりと睨みつけることも忘れない。
 凶暴な音がして、厚い扉が力いっぱい閉め切られた。
 黙って立ち尽くす咲坂の耳へ、ヒュウと高い口笛の音が届く。
「アイちゃん、かぁっこいー」
 真彦がふざけた調子で笑う。

 本物の悪魔はこういう人種なんだろう。
 漠然と悟って、扉の向こうの少女は男にも同じ苛立ちを覚えた。



 暗い部屋に大窓から真紅の夕陽が差し込み、リビングは朱く照らされている。
 荒い足取りで部屋に踏み込んだアイは、部屋と同じく朱に染まったスウを見つけ、途端に苛立った気持ちが失せてしまった。スウは窓辺のカーテンに身を寄せるようにして、遠いビルの街並みを見ている。白い髪が明るいオレンジの光を反射して、眩しい。
 静かに佇むスウの後ろ姿は、まるで置物のよう。
 前を見なくとも、アイにはスウの表情が手に取るように分かった。
 どうせまた、泣いているんだろう。
 こういう時、彼女は必ず後ろを向く。こちらの視線から逃げるようにして、声も無く、静かに涙を流す。両親が離婚した時、大切にしていたペットが死んだ時……。いつもそう、
昔から変わらない親友の癖。
「泣き虫スウ」
 おどけるように、アイはわざと軽く責めた声を出した。スウに背を向けて、彼女の足元に体育座りをする。正面を見ると、赤い部屋に自分と彼女の影が重なって、長く伸びていた。
 吐息のような笑みが聞こえて、影が縮んだ。背中にとんと熱が伝わる。スウも背中を向けたまま座り込んだらしい。後頭部にコツンと頭をぶつけられた。
「泣いてないよ」
 上向きのまま弱く笑う声はしなやかで、意外にも涙を含んでいなかった。
「ちょっとね、色んなことがありすぎて、一杯になっちゃっただけ。逃げるつもりなんてなかったのに。咲坂さんに悪いことしちゃったね」
「いいのよあんなヤツ。あんな程度じゃ甘すぎるくらいだわ」
 勝手に口元が笑った。胸に驚きを隠して、アイはうまく話を合わせる。内心舌を巻いていたことは絶対に秘密だ。お天道様が許しても、自分のプライドが許さない。
「そうかな。でもあんな対応したら、余計心配かけちゃうんじゃ」
「あ! それ今更あたしに言うわけ!?」
「今更……?」
 そのまま考えに沈むように、スウはぱたりと口を閉ざした。じっと動かないのは、考え事をするときの彼女の癖。大抵は相手の顔をぼーっと見ているので、慣れない人には間の悪い思いをさせる癖だ。アイには慣れた反応だが、実は密かにとんでもないことを考えているんじゃないかと、いつも内心ひやひやする。
「ええと」
 スウが控えめに声を出すのに合わせて、今度はアイがゴツンと後頭部をぶつけた。
 続ける言葉を失って頭を押さえるスウ。
 今のはちょっと痛かった。それでも痛かろうが痒かろうが、嘘くさい言い訳を聞かされるよりはマシだ。彼女が嘘が下手なことは十二分に承知している。分かった上で聞く嘘ほど辛いものはない。それが聞きたくなくて、アイは今までスウに何も問わずにいたのだから。
 だが、それもいい加減、限界がある。
「……あたしだって、心配なんだからね」
 ふてくされた風情を装って呟いた。
「だって、スウったら何も話してくれないじゃない。全部自分で抱え込んじゃってさ。欲張りすぎ」
「欲張り、かな」
「そ。人一人が抱え込める量なんて、たかが知れてるんだからね。今回で分かったでしょ、一杯になってからじゃ遅いってこと」
「……うん」
 頷く声は、まるで空き缶のようにペコッと凹んでいる。これはそう簡単に立ち直らないぞと腹の中で呟きながら、アイは溜息をついた。
「ほんとにもう。お父さんといいスウといい、嘘が下手なくせに隠そうとするんだから。いつも、あたしはのけ者」
 ぽそりと付け加えた一言に、スウが息を飲む。珍しく早い反応。
「あのね、そんなつもりじゃないんだよ。アイのことは好きだし」
「知ってるってば」
 だからこそ、黙って付き合ってあげているのだ。
 アイの切り捨てる一言に、スウはまたもや黙り込む。何かを考えていることは、全く動かない気配からよく分かった。
 彼女が黙り込んでいる間、アイは何度か口を開いては閉じた。言ってしまえばいいのにと思う気持ちと、言わせないほうがいいのかも知れないという気持ちがせめぎあって、最後の一言がいえない。教えなさいよ、と軽く言ってしまえば楽になるのに。
 最後に居辛い沈黙を破ったのはスウだった。
「でも……そうだね」
 不思議とすっきりとした声。
 次に告げられた言葉は、何らかの決断を芯に秘めていた。
「夢の話をしようか」
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