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 昼食を食べ終わるなり、「ちょっと待ってて」の一言を残して、アイは出かけてしまった。財布一つで出て行ったため、最寄りのコンビニでも行ったかと思っていたのだが、かれこれ一時間経っても戻ってこない。さすがに心配になってメールを送ったものの、気付いていないのか返信もなかった。
 心配になって、スウはリビングと玄関を行ったり来たり。玄関から外をちらりと覗いてはソファーへ戻ってくる。
 何かあったのだろうか。事故や事件にまきこまれたのでは。
 まさか……誘拐?
 安直な考えを一瞬で振り払う。大丈夫、こちらではそうそうにないことだ。こんなことを思い付いてしまったのは、思考回路にあの出来事が根付いてしまったからだろう。
 けれど、ともう一度スウは考え込む。
 小柄なアイは童顔なことも手伝って、しばしば小学生に間違えられる。
 日頃は制服を着て歩いているので、面と向かって『お嬢ちゃん、いくつ?』と言われることも減ったが、今日みたいに私服でうろうろしていたら、危ないオジサンに手を引かれるかもしれない。
 嫌な想像にそわそわと玄関に向かったスウへ、背後から真彦がけろりと声をかけた。
「だいじょーぶだって」
 彼は先程からゲームに夢中だ。銃に見立てたコントローラーで画面へ狙いをつけながら、
「あの凶悪ロリっ子に声をかけようとする、奇特な変質者はいないから。百歩譲って見た目に騙されたとしても、キン蹴り食らって悶絶死だね」
見てきたようなことを言う。
 けれど彼の言うことも一理ある。そうやって何人もの犠牲者を出してきた恐るべき美少女が、佐藤アイだ。
 納得すると同時に、自分もまた『悶絶』の辺りに笑えないものを感じて、スウは引きつる口元を無理やり引っ張りあげた。リビングのソファーに座ると、ゲームを眺めることにする。
 真彦がしているのは、廃墟と化した都市で正気を失った人間や獣が襲いかかってくるという、いわゆるシューティングゲームだった。画面そのものが視野を模しており、死角から飛び掛る敵を銃で迎え撃つ。パンパンという音と一緒に画面の上で赤いものが飛び散った。
 なんとなく画面を直視できなくて、スウは彼の広い背中を眺める。
「真彦さん、ゲーム上手ですね」
 二人でいるのに黙っているのも気が引けて、意味のないことを言う。
「あー、まあ、コレ系は子供の頃からやってるし、慣れてるから」
「へぇ」
 そう答えながら、真彦は的確に画面上の人間を撃っていく。的確に頭部や胸を狙い、一発で仕留める。銃声に似せた効果音が鳴るたびに、標的は悲鳴や呻きをあげて倒れた。
 スウは無意識に眉をひそめる。嫌にリアルなCGが不快感を煽った。せめて人型じゃなければと、詮無いことを思う。
 彼女の嫌悪を察知したのか、真彦が唐突にゲームの電源を切った。
「でもやっぱコレじゃつまんね。ねぇね、テレビ見るー?」
 手の内でくるりと銃のおもちゃを回して、真彦が振り向いた。
 言われるより早く、スウはチャンネルを渡す。
「ほんと、テレビ好きですね」
「うん、俺テレビっ子。テレビがないと生きてけない。あと電子レンジとコンビニとケータイとパソコンと車と」
 チャンネルを変えるたびに文明の利器を言い募る真彦。
「……あはは、そうですね。でも、なくても結構平気ですよ」
 応えながら、スウは田舎のおじさんを思い出していた。
 偏屈な彼は若くして都会を嫌い、代々住み慣らしてきた田舎町へ戻った。機械が嫌いなためテレビもほとんど点けないし、米を土鍋で炊くような生活をしているけれど、あれはあれで豊かな生活の仕方だと思う。
 生きていけないと思うのは、実際に無しで過ごしたことがないからだ。
 遠縁の小父のことを教えると、真彦はうえっと口元を歪めた。
「スローライフかよ。それって聞こえの良いサバイバルだよな」
「あはは」
「俺には無理。三日で干乾びて死んじゃうね。つーか、そのおっさんみたいに田舎に住んでるならまだしも、都市部でエコっぽく生きようするなんて、逆に非経済的じゃんか。電気類使ったほうがよっぽど安上がりだぜ?」
 他意なく非合理的だと言い切る彼へ、スウはただ笑って済ませた。この世界では、この生き方が一番効率が良いことは、彼女自身よく分かっている。
 だからあえて反論はしない。ただ、その笑顔の裏で、森に閉じ込められていた頃を思う。
 あの頃は毎日がサバイバルだった。もちろん物理的なものではない。あの場所は人が生きられるよう整っていたし、おじさんの家でそういったことには触れてきたから、なんとか対応できていた。庭先で野菜を育てたり、山菜を採ったり、お隣さんからお裾分けを頂いたり。幼い頃に触れた生活が、自分の糧となっていたのだろう。
 けれど、その経験では補えなかったものがある。
 森での生活は確かに不便だった。不自由でもあった。けれど挫けそうになったのは、そんな物が原因ではなかった。
 もっと、ずっと大切なものを感じられずにいたからだ。
 その証拠に、森を出てからの日々を辛いと思わなかった。言葉を失い、不自由さで言えばあの頃が一番だったはずなのに、あそこにあった温もりは確かに自分を生かしてくれた。今となっては、その思い出こそが痛みだったけれど。
 遠い記憶に埋もれた彼女へ、真彦がちょっとしたフェイントをかけた。
「崇ちゃん今どこ見てる?」
「え。テレビ、かな」
 はっと我に返り、視線の先を認識する。
 なんの飾り気もない表面。壁だった。
 慌てて首を動かし、テレビの方角へ向けると、画面越しに目が合った。黒い画面に呆れ顔の真彦が映っている。
「……や、嘘つかなくても」
 しみじみと説得されて、恐縮してしまう。
「違うんです、ちょっとボーっとしていただけで」
「こういうのを浮世離れって言うのかねぇ……」
 慌てて弁解する彼女へ肩をすくめてみせ、真彦が溜息をつく。
 返す言葉が見つからなくて、スウはソファーにうずくまる。とっさに口をついてしまっただけなのに、自分が手酷い裏切りを働いたように思えた。なにより、そういうことが無意識にできたことがショックだった。
 そこへ、扉の開く音と一緒にけたたましい足音が入り込んできた。どさりと荷物を置いた音がしたと思うと、アイがリビングへ顔を出した。
「ただいまー。スウ、真彦に何かされなかった?」
 開口一番、ろくでもない質問が飛ぶ。
「うわ即それかよ信用ねぇー」
「あるわけないでしょ。アンタ、スウにヘンなことしなかったでしょね? セクハラとかセクハラとかセクシュアルハラスメントとか」
 きゃいきゃいと妙に甲高い音を混ぜて、アイが真彦に突っかかる。アイに悪気は半分ぐらいしかないが、これでは彼女の方がセクハラだ。選択肢が一つしかない時点で、疑問ではなく尋問である。
「アイったら。何もなかったよ」
 今回は珍しくね、と言葉の裏に付け足して、スウはアイをたしなめた。そこまで心配なら、始めから置いていかなければいいのに。
 不可解な友の行動に首を捻るものの、答えはなんとなく分かっている。アイも口で言うほど真彦を信用していないわけではないのだ。
 その理由を自覚している真彦は、懲りた様子もなく軽口を叩いた。
「ひでぇよなー。俺のシュミ知ってるクセに」
「年上の働く人妻でしょ」
「美人のな。だからお子様にゃキョーミないの」
 ニヤニヤ笑いで言い放ち、真彦はしっしとアイを手の甲で払った。
 真彦は年上の、それも主に結婚している女性に近づくことが多い。本人は「人様のものって燃えるからー」と適当なことをのたまっているが、初めから責任を負う気がないのがバレバレだ。その証拠に少しでも事態がこじれると、彼はあっさり手を引いて逃げ出している。
 こういう男とは係わり合いになりたくないと思う一方で、相手の好みから外れているという安心が、彼との付き合いを気楽なものにしてくれていた。互いに眼中にないため、変に気を遣う必要がないのだ。実際、真彦は二人をからかうだけで、コナをかけるような真似はしなかった。
 しかし、スウには前から気になっていることがある。
「でも、そのわりに真彦さん、アイとは仲いいよね」
 年上好きなはずの真彦が、なぜかアイには自分から構ってくるのだ。特にスウが戻ってからは頻度が増したように思う。
 スウの少し遅れた発言に、睨みを利かせて談笑していた二人がぽかんとこちらを向いた。どちらも素の顔で口を半開きにしている。
「よく二人でじゃれてるし……もしかして、光源氏計画?」
 幼い女の子を自分好みの女性に育て上げた古典のプレイボーイ。彼になぞらえ、年下の女の子の成長を待つ男性をいう。
 しかし、ふと思いついたから言ってはみたものの、スウも真彦にそういった意味での下心があるとは思えない。本当にその気があったなら、のんびりと待つようなことはしないだろう。
 軽い冗談。そのつもりで呟いた言葉だった。
 けれど二人はそう思ってくれなかったらしい。アイと真彦は同時に、呆れ果てた表情で思い切り眉間にシワを寄せた。真面目なわりに間の抜けている顔は、思いっきり引いている証拠。
 いやいやいやいや。
 まてまてまてまて。
 そんな心の声まで聞こえてくる。
 どうフォローしようか困っていると、微妙な沈黙を破って、真彦が大笑いした。
「あ、ありえねーっ! あはははははがはっげぇっ!」
 咽るほどにか。
 腹を抱えて笑い転げる真彦を呆れ顔で見遣り、アイがスウへ向けて勢いよく首を振る。
「ふざけないでよスウ! どう見たって、あたしがこのエロガッパにお慈悲を恵んであげてる立場じゃない!」
「てかアイじゃいつまで待っても育たないって。見ろよこの童顔! まあ、胸なら多少期待できそうだけど……」
「見るな変態!」
「あはは、やべぇマジ笑える! やっぱ崇ちゃん天然?」
 笑い続ける真彦に、今にも彼を引っ掻かんとしているアイ。
 異口同音に否定され、さすがのスウも慌てる。
「ごめんごめん、ちょっと思っただけ。だからアイ落ち着こう、ね?」
 アイだけでも抑えようと、思わずくるくると巻かれた黒髪を掴んでしまい、怒られた。慌てるといつもろくなことをしない。
 少しだけ凹んだスウへ、一通り笑い収めた真彦が子供の相手をするような声を出す。
「てかさー」
 笑いで言葉を区切り、目元を拭いた。泣き笑いまでしているらしい。
「俺、児童ポルノってダメな人なわけ。萎えちゃうんだよねー」
 へらっと言い切られた一言に、二人の少女が数秒間、停止する。
 真彦の過激な発言には慣れていた。慣れていたつもりだったが、十八になったばかりの少女たちが相手では、空気が冷えるのも仕方がない。
 スウは引きつった微笑みで友へアイコンタクトを求めた。アイなら大騒ぎをして場を和ませてくれるだろうと予想していたからだ。けれど、これが妙におとなしい。半眼で真彦をじーっと睨んだまま、不気味に微笑んでいる。
「ふふふ……」
 低く押し殺した声も、普段の愛らしいソプラノとは別人だ。
「……そこまで言うか。そこまで言うかぁああ!!」
「ぎゃー! ギブギブギブギブ!!」
 美少女面をかなぐり捨てて、アイが頭二つ分ほども大きな相手へ飛びかかる。本で読んだと言うわりには、上手く人体急所に決まっていた。
 ここから先は見ないほうがいいと、スウは視線を逸らした。被害者の断末魔を聞きながら、そそくさとリビングを出る。こういうときは我関せず。自分が火種だと思ってはいけない。
 廊下を出たところで、玄関にアイが買ってきたと思われる荷物に気付いた。大きな花束が二つ、無造作に置かれている。
 淡いピンクの薔薇とチューリップ、桜の枝まで添えられた豪華な花束。スイートピーのひらひらとした花びらが間を敷きつめ、カスミソウがレースのように周りを縁取っている。薄紙を重ねた巻紙の上からビニールが巻かれており、触れるとかさりと音を立てた。
 両手に抱えると腕の中が花でいっぱいになる。いろんな香りが交じり合った芳香。花粉が鼻先をくすぐる。これだけの物ならかなりの値段だろう。贈答用だとしても、二つも送る相手が思いつかなかった。
「アイ、この花束なに?」
 心持ち弾んだ声色で問いかけたスウを一瞥し、アイは締め上げていた真彦を手放した。
「ああ、それ」
 アイの表情がふっと沈みこみ、声色が真面目なものとなる。彼女は顔を背けるように視線を逸らして、声だけで答えた。
「そろそろ、行ってあげなよ」
 その一言で理解する。
 父母に会いに行かなければ。



 陽は暖かかったが、風はまだ肌寒かった。
 一つ残った花束を地へ置き、スウは巻紙を外した。きつく縛られた輪ゴムを切り、枝を切り詰める。左右二つへ同じくらいの割合で仕分けし終えたとき、アイがバケツに水を汲んで持ってきた。
「綺麗でしょう、お母さん。アイが買ってきたの。……ここには似合わないかな」
 墓前に花を手向け、小さく笑いかける。
 先の地震で父母は死んだ。
 どちらも倒壊した家屋に挟まれ、発見されたときは手遅れだったという。
 老朽化した父の家と違い、母の住んでいたアパートは新しく、耐震設計をうたっていて、倒壊などありえなかった。
 地盤が弱かったのだ、震源地の場所が悪かった、結局はついていなかったのだろう。
 慰めと諦めの言葉なら百は聞いた。
 けれどスウは知っている。
 これは報復だ。
 白の飛翔炎をこの世界へ持ち去り、あの世界から宿詞を消したスウへの。自分の意思を裏切って世界の壁を維持した、彼女へ下された処罰。
 ――お前には失望した。
 頭の中で繰り返される地響きの声。あの日、彼女へ向けられた明らかな敵意。
 会いたいと望まなければ、震災は起こらなかったのか。父母は助かっていたのか。自分は、帰ってこなければ良かったのか。
 何度も自問した。
 答えは、未だ出ない。
 無言で立ち続ける彼女の代わりに、アイがしゃがみこんで雑草を抜いた。
「綺麗な人だったよね。あの花束、スウのお母さんに似合うと思ったの。好きな花とか、知らなかったから」
「そっか」
「一つ選ぶのに時間かかっちゃって。スウのお父さんのも同じのにしてもらったんだけど、あのおじさんのことだから、今ごろ常識がないって呆れてるね」
「かもしれないね」
 スウは生真面目だった父を思い出し、自然と微笑んだ。
 アイの選んだ花はとても墓前に添えるようなものではなく、先に参った父の墓前ではひどく浮いた印象を受けたのだけれど、不思議とこちらでは違和感を覚えなかった。母の持っていた独特な雰囲気が辺りに残っているのかもしれない。
 不意にアイが草の芽を抜き取っていた手を止め、墓石の傍らを見詰めた。どこから種がこぼれたのか、小さなリンドウが一本、寄り添うように花を咲かせている。
 アイはその一株を残して立ち上がり、スウへ向き直る。
「帰ろっか」
 頷いて、スウは墓地を見渡した。整然と並ぶ墓石は都市の高層ビルにも似て、寂しく群れている。
「うん」
 生前に離婚した父母は、同じ街の違う墓所へ入った。
 もう二度と、二人が会うことはないのだろう。
 風が吹いて、季節はずれのリンドウが揺れた。
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