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二章   彼女のいる場所


 明るい光に、うっすらと目を開いた。淡いピンクのカーテンを透かして、朝日が差し込んでいる。
 スウは重い瞼をもう一度閉じ、布団へ潜り込んだ。頭の中では朝だと分かっていたけれど、ふかふかの布団から出ていくのは至難の技だった。膝を丸めて、つま先が出ないようにする。
 頭の片隅で起きなければと思っていた矢先、とんとんと軽い子供の足音が近づいてきた。
「スウ」
 布団へ小さな手が添えられる気配。そっとめくられて、顔を覗きこまれる。
 いけない。あの子が来たということは、とっくにお昼を過ぎているということ。
「でゅ……」
 彼女はもぞもぞと身動ぎし、手を伸ばす。
 布団を奪った相手の、小さな手を取ろうとしたとき。
「スウ! いいかげんに起きなさい!」
 とろけた意識へ、少女の高らかな命令が突き抜けた。
 ぱっと目を開ける。
 目と鼻の先に、眉を吊り上げたアイの顔があった。腰に手を当て仁王立ち。ふんぞり返ってこちらを見下ろしている。
「寝過ぎ。日曜だからって、もう十時近いんだからね。スウってば、昔は早起き得意だったじゃないの」
「アイ。……ああ、そうだっけ。うん、そうだね」
「もー。寝ぼけてるしィ」
 半眼で言い当てられ、スウは困ったように笑った。
 異世界で少年と過ごしていた時は、眠らない夜が続いていた。朝日が魔法の戒めを解くまで彼の手を取って、硬く握り締めていた。あの子の苦しみが少しでも和らぐこと、それだけを祈って。
 その頃に夜型体質になってから、無理に生活を矯正せず、のんびりと昼ごろに起きてはのんびりとブランチを摂る毎日だった。スウが帰ってきて以来、田舎のおじさんは以前にも増して彼女に甘い。もともと、あまり人に干渉するのが好きなタイプではなかったけれど。
 どれだけおじさんの好意に甘えていたかを噛み締めながら布団を抜け出し、スリッパを履いた。
「あんまり遅いと朝ごはん抜きよ? あ、それから」
 アイは跳ねるような足取りで部屋を出て行き、扉を閉める前に一度振り向く。
「先に着替えてきてね」
 言い置いて、パタンと扉が閉められた。
 スウは一度伸びをしてから、クローゼットを開ける。以前からよく泊まりに来ていたので、アイの家にはスウの持ち物がたくさん置いてある。歯ブラシ、パジャマ、枕。洋服もその一つだった。ただ、この家にはスウが買った物よりも、佐藤家の二人が与えた物の方が多い。
 ヴィセデザインの奇抜なものから、アイ好みな女の子らしい洋服が並ぶ中で、一番シンプルな服装を選ぶ。アイと一緒にショッピングへ行ったときに自分で選んだものだった。
 一通り着替え終わった頃、電話の子機が鳴りだした。微妙に高い着信音は内線の印。
「はい……?」
 不思議に思いつつ取ると、穏やかな男性の声。
「おはよう。眠そうだね、時差ボケかな?」
 ヴィセだ。含み笑いにからかいが混じっている。
 その意味を拾いあげ、スウは頭の中で否定した。あれから三ヶ月近く経っている。時差ボケならとっくに治っている頃だ。きっと、心の持ちようなんだろう。
「おはようございます。ええと、どうして内線を?」
 忌避するように声を抑える。自分が話してしまって良いのか分からなかった。
「ああ、ちょっと話がしたくて。電話を通してなら大丈夫だから」
 何が大丈夫なのかは告げず、彼はためらいの分だけ言葉を止めた。
 それから紡がれた声は、暗く真摯な色を帯びていた。
「ごめんね……。君の声は少し、私には強い」
 ぐっと、喉の奥で息が詰まった。
 強い、などという程度のものではないのだろう。それはただの配慮であって、事実と大きく違うはずだ。でも、スウにはそれを確かめる術がない。
 彼女は受話器を耳に当てたまま目を閉じる。瞳を外気に当てたくなかった。電話線を通しても、潤んだ声は伝わってしまうだろうから。
 十分落ち着くまで待って、慎重に問いかけた。
「宿詞……ですか」
「……うん。でも心配しないで。この世界の空気に魔力は満たされていないから、何も起こらないよ。こっちの人には影響もないし。もちろんアイにもね。ただ、私には飛翔炎があるから……。あ、でも私にも多少の耐性はあるんだよ? 宿詞を扱うのに、自分の宿詞にかかってちゃダメだからって、レオナルド――ええと、君の前の白の賢者とマンツーマンで話したりしているし」
 ヴィセは慌てて宥めるようなことを言う。受話器の向こうでうろたえているのが透けて見えるような言い方だ。
「本当に大丈夫なんだ。ただ、電話なら秘密の話がしやすいかなって」
「そうだったんですか」
 これ以上言い訳に苦労させるわけにもいかなくて、スウは言葉を遮った。言いながら扉を横目で見遣る。きちんと閉まっている。アイが聞いている様子はない。
「ねえヴィセさん。ヴィセさんはそれでいいかもしれないけれど、私は嫌なんです。この声……もう二度と、元には戻らないんでしょうか」
 真剣な問いかけが、論点をはぐらかせないようにしっかりと捕らえる。
 長い吐息の後に、相手は密やかな提案を下した。
「私一人のことだけど……気になるようなら、訓練してみるかい?」
「訓練?」
 軽い提案に、スウは首を傾げる。訓練で宿詞が治るのだろうか。
「そう。宿詞を覚えるのと同じ要領で訓練すれば、私とも普通に話せるようになると思う」
「でも時間がかかるんじゃ……」
「宿詞みたいに、ある一定の声質に合わせる必要はないから。むしろそこから外すだけだし、すぐに覚えられると思うよ」
 理論はよく分からないが、彼の言い分を聞く限りでは簡単そうだ。
「そうだなぁ、一年もすれば出来るようになるんじゃないかな?」
 意外と長い。
 でも、宿詞を覚えるには数年かかるというのだから、これでも短い方なんだろう。
「なら、やってみようかな」
 そのすべを覚えておけば、もう誰も宿詞に晒さないで済む。それが例えこの世界でたった一人のためだとしても、やる価値はあるはずだ。なにより自分自身の心のために。
 彼女の決心とヴィセが腹をくくったのはほぼ同時だったらしく、彼は思いのほかはっきりとした口調で切り出した。
「じゃあ、まず呼吸のリズムを変えようか」
「はぁ……」
「武道も気孔もヨガも、一番重要なのは呼吸だよね。宿詞だってそうだよ。とりあえずリラックスして、深呼吸をしてごらん」
 そんな風に言われても、武道もヨガもやったことのないスウには、いまいちピンとこない。言われるままに数回深呼吸を繰り返す。朝の空気をいっぱいに吸い込んで、頭の中が冴えてくる。
「それが君のリズム。速めても遅くしても変わらない、諸器官の連動作用だよ。口呼吸でも鼻呼吸でも同じ。呼吸は血流や魔力の流れとも密接に関わりがあるからね。ここから変えないといけないんだ。スウちゃんの場合はその一瞬だけってわけじゃないから、結構大変だと思うよ。しばらくは体調不良になるかもしれない」
 具体的にどんな問題が、と聞こうとしたところで、痺れを切らせたアイの大声に止められた。
「スーウー! 起きて来なさい、二度寝厳禁なんだからね!」



 食卓へ顔を出したスウは、爽やかな笑顔に出迎えられ、入り口でぽかんと立ち尽くした。
「おそよーさん」
「……おはようございます、真彦さん」
 相手は長い足を軽く組み、さも当たり前のように挨拶してくる。にこにこと隣の椅子を引かれ、スウは否応なくそこへ収まることとなった。
 真彦の前には茹でたウインナーとベーコンエッグ、皮付きのフライドポテトが置かれている。アイが作ったとは思えないほど手抜きのプレートは、逆の意味でスウを感嘆せしめた。これで生きているなんて、彼は本当に人間なんだろうか。
 言葉を無くしているスウへ、アイがお盆に朝食を載せて運んできた。白いご飯と味噌汁、焼き魚と芋の煮物にインゲンの白和えという、純和風の品々だ。
「聞いてよスウ。朝起きてきたら、真彦がソファーを陣取ってたの。最悪の目覚めだわ」
 思わず蹴飛ばしたけど、と呟くアイ。呆れた視線の先には、ご機嫌でウインナーを齧る真彦がいる。なるほど、それで着替えてから来るように言っていたのか。
「昨日の夜、ヴィセさんと盛り上がっちゃってさー」
 そこまで言うと、彼は妙にしおらしい声色でしなを作った。
「ヴィセさん、昨日は情熱的だったわぁ。俺、いろんなモノを解放しちゃった」
「人の記憶がないからって適当なこと言うの、止めようね」
 最後に現れたヴィセが平然と青年を牽制。とっくに朝食を済ませたらしい彼は、珍しくスーツ姿だった。日曜日にもかかわらず、真面目な仕事があるようだ。
 ネクタイが苦手なヴィセは、前かがみになってアイに結んでもらっている。こうしていると、まだ二十代で通せると錯覚してしまうほど、彼は若く見えた。
「嫌だわヴィセさん照れちゃって〜」
 相手にされていないのにも一向に構わず、真彦はなおもふざける。酒に弱いヴィセを若手がからかうのは社交辞令のようなもの。周りも慣れた対応で無視している。
 スウも彼のおふざけはいつものことだと受け流し、朝食へ取り掛かった。
 薄味で上品に仕上げた煮物も、胡麻の風味がきいた白和えも、白いご飯とよく合う。出汁のきいた味噌汁は、細やかに散らされた浅葱の香りが良い。数種類の味噌をうまくブレンドした、アイだけの味だ。
 一人静かに幸せを噛みしめるスウ。
 そんな彼女を真彦は物珍しげに見遣り、視線が合うと何事もないように逸らした。
 一通り準備を済ませたヴィセが、鞄を掴みながら真彦へ声をかける。
「私はもう行くよ。真彦は確かオフだったね。夜は空いているかい?」
「今日は一日ヴィセさんちにいる予定だから、イングリッシュならいつでもどうぞ。あ、プレステ借りていい?」
 朝食を平らげ、真彦はちらりと舌で口の端のケチャップを舐め取った。
「それを聞くならアイにどうぞ。それから、私の家を君の友達の溜まり場にしないでくれよ。若い女の子が二人もいるんだから」
「ハイハイ、その辺は抜かりないっすよ」
 真彦は片手をぶらぶらと振ってみせる。そのジェスチャーは了解という意味なのだろうが、軽く流して済ませたようにも見えた。
 ヴィセは両方の意味を受け取り、肩をすくめて片手を振る。
「じゃあ、行ってくるから」
「行ってらっしゃい、お父さん」
 スウは椅子に座ったまま、黙って茶をすする。視線でヴィセを追い、彼が出かけたのを確認して、口元を緩めた。ほうと零れた吐息を、濃いめの緑茶に癒されたからだと見せかける。
 アイはヴィセが居なくなるやいなや、真彦の皿を重ね始めた。
「ちょっとアンタ、居座る気満々なわけ? 食べ終わったんならさっさと帰りなさいよ」
 明らかに混じる迷惑げな口調。
「俺、低血圧だから朝動くの辛くってー。てか帰るの面倒」
「隣の部屋なんだからすぐ戻れるでしょ。てか今すぐ出てけ」
「いいじゃんかケチっ子〜」
「お泊りついでに朝飯まで世話んなってる、ふてえ野郎に言われたかないわ。顔だけ男のくせに」
 とどめとばかりに言い放ち、アイは皿を引いて流しへ向かう。
 絶対零度まで下がった声に、真彦は限界を見たらしい。くるりとスウを振り向く、悲壮感漂う端正な顔。確かに顔だけは本物だ。
「ちょっと今のひどくね? 傷ついた! 崇ちゃん慰めて〜」
「アイ、お茶のお代わりある?」
 半泣きで抱きつこうとする彼を無視し、スウは湯飲みを片手に席を立つ。どさくさに紛れて肩を抱こうとした手が、空中で空しく停止した。
 流しで洗い物をするアイを後ろから覗き込み、スウは控えめに声をかける。
「……手伝おうか?」
 強く申し出ないのは、これまでもそうやって何十枚とお皿を割ってきたから。
「スウはおとなしくしててね。お茶はそこにあるから」
 案の定、さらっと拒否された。心なしか凹む。
 急須を持って席へ戻ると、真彦がやっぱり物珍しげにこちらを見ていた。興味深く窺う視線は、動物園で昼寝中のライオンを見詰める子供に似ている。
「なんつーか」
 手元のチャンネルを掴み、彼は感慨深げに呟く。
「崇ちゃんとアイって、友達ってカンジじゃないよなぁ」
 朝のニュースを報道していたテレビがCMになった途端、番組を切り替えた。
 スウはそれを視線で追いながら、
「そう? 確かにアイは幼馴染みたいなものだけど……どっちかっていうと、妹かな」
「俺にもそう見える。しっかり物の妹と、おっとりさんの姉っていうか」
「バカね」
 割り込んできた鋭い声に、二人の視線がアイへ向かう。いつの間にこっちへ来たのか、アイはスウの腕を掴んでしっかりと抱きしめていた。
「スウはあたしの親友よ。それ以外の何者でもないの」
 お人形さんのような愛らしい顔で、心の底からバカにしたように鼻で笑うのだから恐ろしい。
「ハイハイ、二人は仲良しなんですねー」
 作り物の声で真彦が曖昧な笑い方をした。
 言いたいことを言わない嫌味を察知し、アイがあかんべぇで対抗する。それからパッとスウから離れ、洗い物へと戻る。去り際に一言付け加えて。
「真彦にはわかんないもん」
「ハイハイそうですねー」
 もう分かったよと受け流し、真彦がパッとチャンネルを戻した。瞬時に映った画面では、今まさにCMが終わったばかり。そのタイミングたるや、隣で見ていたスウが瞬きを五回も繰り返すほどだった。時間配分を完璧に把握しきっている。神業とも言える所業だ。
「そういえばさ」
 真彦はテレビへ顔を向けたまま、ふと思い出したとでも言わんばかりの平淡な声色で、スウへささやいた。
「昨日言えなかったんだけど、咲からの伝言があるんだ。聞く?」
 二秒半の沈黙に、相手がちらりと視線を送ってくる。楽しんでいるようには見えないが、こちらの反応を窺っていることは分かる。
「はい」
 一瞬迷ったことを隠して、スウは平素の声を出す。
 また飽きたのか、真彦がテレビのチャンネルを変えた。頬杖をついた端正な横顔が、画面の光を映して淡く染まっている。
「『ごめん』ってさ」
 その部分だけ神妙な声で伝える。自分には関係ないというように、語尾が必要以上に軽い。
 スウは身動き一つしないで、テレビの画面を見詰め続けていた。映像が瞳の表面を滑っていく。
「……そうですか」
 どう応えるべきなのか分からず、適当な言葉を選ぶ。意外なほど淡白な声が出た。自分でも、テレビに気をとられているように聞こえる。
 スウの生返事をどう思ったのか、真彦が軽い関心を示した。視界の端にあったまま気付かずにいたものを改めて見直すような仕草で、わずかに顎をこちらへ向ける。黒い瞳には面白がっている気配。
「意外と元気なんだ」
 一歩踏み込む、分析の言葉。
 スウは顔を彼へ向けて、口元で微笑む。
 肯定のつもりだったのに、彼にはそう見えなかったらしい。真彦は本質を見極めようとするように、ついと目を細めた。しかし、やはりただの傷心した少女にしか見えなかったのだろう。肩をすくめて力を抜く。
「……ってわけでもない、か」
「私のことは気にしないでください。あ、もしかして真彦さん、それで……」
 言葉の先を読んで、真彦があえておちゃらけた笑顔を作る。
「目が多い方が安心でしょ。あとはタダの野次馬根性」
 一つ感心し、スウは改めて彼を上から下まで見直した。余裕をまとった青年は、自分の発言に潜む不遜な響きを肯定している。
 この人は、スウがまたどこかへ消えてしまうかもしれないと思っているのだろうか。そんな風に、自分は見えているのか。
 よぎる疑問を押し潰して、スウは微笑む。
「大丈夫。私はもう、どこにも行きませんから」
 けれど、その笑みは疲れたものにしかならず、彼女の真意を半分も伝えはしなかった。
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