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「サラダってナニ。ねえちょっと、肉は!?」
 手持ち無沙汰に任せてテーブルを覗き込んだ真彦が抗議の声をあげた。綺麗な顔がだらしなく歪んでいる。何もしなければ本当に良い顔をしているのに、どうしてそういう無駄な加工を加えるのか。
 スウと一緒に小皿を運んでいたアイが、呆れたように鼻を鳴らした。
「いい年して何言ってんの。ホント好き嫌い激しいんだから」
 テーブルの上には色鮮やかに盛り付けられた品々が並べられている。具沢山のホワイトシチューが各自の席で湯気を上げ、カリッとトーストされたフランスパンが籠から溢れんばかり。中央を飾るのは大きなサラダボウルだ。新鮮な野菜は冷蔵庫で冷やされ、パリッと張りがある。冷蔵庫には季節の果物を使ったフルーツポンチが冷やされていた。
 アイの采配で、どれもスウの好物ばかりが用意されている。本当はこれにお味噌汁が欲しかったけれど、さすがに合わないので諦めた。おじさんの家でおいしい田舎味噌を堪能してきたのだからと自分を慰める。
 真彦は心底情けない顔をして、一足早く席に着いた。
「俺が野菜食べれないって知ってて、なんでサラダかなー。泣くよ?」
「野菜だけじゃないくせに。アンタ、肉とコーラ以外食べないじゃない」
「んなことねぇしー。ビールも飲むし、炭水化物も摂ってるしー」
 口を尖らせて文句を言う真彦へ、アイが信じられないと眉根を寄せた。
「よく言うわよ。お米食べないくせに」
 咎めるようなアイの口調を聞くやいなや、真彦は薄めの唇を機嫌良く歪めて胸を張った。
「マックポテトは俺の恋人さっ」
「…………」
「ほんと、死ぬわよ?」
 武士の情けとばかり、アイが呆れたツッコミをいれる。それからぽかんと立ち尽くすスウから小皿を奪い取り、素早くテーブルへ並べた。一つ足りないのに気付くと小走りで取りに戻り、スウが後を追う頃には一緒に持ってきたワインのボトルを真彦に開けさせている。
 その素早いこと。小さなアイがテーブルの周りをちょろちょろと動き回る様は、小動物じみて可愛いらしい。
「スウ、スプーン出して」
「あ、うん」
 ようやく自分がろくに動けていないことを自覚して、スウは小走りで駆け出した。食器棚の引き出しからスプーンを四つ掴んで、急いで戻る。それから今度はグラスを取りに行く。一度に四つ持とうとして、アイにお盆を使うようたしなめられた。
 そのやりとりを真彦が頬杖をついたまま目で追っていた。珍しく静かだ。夕食がお気に召さなかったので、ちょっとテンションが下がったらしい。その視線はスウへ向けて『要領悪いね』と語っている。
 そこへ、ヴィセが自室から出てきた。
「いい匂いだね、おいしそうだなぁ」
 スウはちらりと彼を見遣り、その顔色が先程よりも良くなっているのを確認する。ほっと胸をなだめて、それからきゅっと口を結んだ。不用意なことは漏らすまい。
「おや、真彦来てたのかい。今日は英会話の日じゃなかったと思ったけど」
 真彦の隣へ腰掛けながら、ヴィセが暢気に話しかけた。
「臨時営業。ヴィセさん特別授業やらない? 安いよ、一分百円」
「そうだねぇ。……ん? それじゃあ一時間六千円ってことじゃないかい?」
「ちっ、バレたか」
 慣れた言い合いに花を咲かせる男性陣。真彦が早速缶ビールを開け始め、ヴィセは機嫌よくワインをグラスへ注いでいる。
 最後のトーストを取り出しながら、スウは二人の話に耳を傾けていた。仲良きことは良きことかなと微笑ましく思っていたのだが、アイにはそれが面白くないらしい。
 小さな友人は無言でスウの隣へやってきて、手伝いを始めた。不満げに口を尖らせていたかと思うと、彼女だけに聞こえるよう、ぼそりと呟く。
「お父さんってば、いきなり英会話なんか習いだしちゃって。前はいくら仕事で使うって言われても、絶対嫌だって言ってたのに」
「へぇー」
 ヴィセは仕事の関係で海外にもよく行っていた。今は以前ほどではないが、仕事柄外国人相手に苦労することも多いのだろう。
 なんにしろ、向上心があることは良いことだ。
 その点はアイも同感らしかったが、一つ気に入らないことがあると言う。
「最悪なのは、真彦に教えてもらってるってこと。我が物顔で入り浸られて、いい迷惑なんだから」
 旦那の接待に疲れた主婦のようなアイの言い分に、スウは小さく微笑みを浮かべる。
「真彦さんって英語できるんだね。意外」
 真彦だけでなくヴィセにも聞こえないよう、細心の注意を払ってささやき返した。少し外した返事を返したのは、アイの不満がそれ以上零れてこないようにするためだ。
「そりゃそうよ。アイツ、お父さんが前に仕事でロスに行った時に絡んできたのがきっかけで、モデルやってるんだもん。元は通訳を頼んでたらしいんだけど、ほら、顔が顔でしょ」
「なるほど」
「胡散臭いヤツよね。家出人って話だけど……」
 その言葉にスウは小さく驚きを示した。
 けれどアイはそれ以上言わず、溜息をつくと父親の不満へ移る。
「お父さんってば、ほんと気軽に人とか拾ってくるんだから。あいつ、地震の関係で女の人の所から追い出されたんだけど、その時泣きつかれて、お父さんったら隣の部屋を貸しちゃったの。もともとあそこってお父さんが物置にしてたじゃない? 布とか溜め込んで」
 デザイナーという仕事のせいか、それとも単なる趣味なのか、ヴィセは珍しい布地や配色の布を集めている。隣の部屋というのは、それらを置くためだけにヴィセが買った部屋のことだろう。あの時はデザイナーとはそういうものかと思っていたが、ヴィセの本来の地位を知った今、単なる王様イズムの延長なのではと思い至る。普通の人は趣味にそこまでしない。
 結果的に人の役に立っているのだから文句を言うこともないが、アイにはその相手が問題らしい。忌々しげに真彦を睨んだ。
「全くもう、信じらんない。本当なら、スウの部屋にできたのに」
「あ……」
 あまりにもアイらしい発想に、目が開いた心地がした。どうやらこの友人は、真彦が隣に来たことではなく、スウよりも彼が優先されたことが気に食わないらしい。
「そっか、ごめんね」
「なんでスウが謝るのよ」
「だって、これからアイの部屋に居候することになるし。狭いよね」
 異世界では少年のもとに。この間まではおじさんの所で、今度はアイ。なんだかんだと自分は居候ばかりしている。
 アイはきっと睨みつけるように、スウを見上げた。
「スウが泊まりにくるのなんて、いつものことじゃない。あたしはラッキーだけど、スウが可哀想よねって言ってんの!」
 きつい語調と相反する言葉。
 意味が拾えなくて、スウは目をしばたたかせた。
「ラッキー?」
「そ。一人で寝なくていいんだもん」
「……あー……」
 アイは極度の寂しがり屋だ。スウがアイの家によく泊まるようになったのも、ヴィセが家を開ける時に娘が寂しくないようにと頼まれたからだった。過保護だなぁと思いつつ、アイの寂しがり方が尋常ではないので、スウはよく一緒のベットで添い寝をしてあげていた。中学を出る頃には一人で寝られるようになったが、まだ完治したとは言えないらしい。
「だぁら、どうしてそうなるかなー」
 不意に真彦の良く通る声が届いた。その声色は呆れたというより、飽きてきたかんじだ。
「あ、アイゴー…えーっと、私、行く、駅だから……アイゴーステイション」
「……そういう発想してるうちは喋れそうもねぇなぁ」
 ぶつくさと見切りを付けかけた彼へ、甲高いアイの注意が飛ぶ。
「真彦ー! お父さんをいじめないの!」
「へーい」
 軽くあしらって、居住まいを正す真彦。アイの前では美形も形無しだ。
 スウはにっこりと笑みを浮かべる。
「ヴィセさんは努力家だから、きっと英語もすぐに覚えちゃうと思うよ」
 彼の日本語はスウ仕込みだ。こちらへ着た当初日本語が話せなかった彼へ、スウが先生になって色々なことを教えた。
 当時八歳だったスウは、ヴィセは外人だという認識しか持たなかった。この世界以外の世界があるなんて思いもしなかったし、他の外国人と彼が違うと判断するには知識が少なすぎた。おじさんなどは思うところがあったのかもしれないが、彼はただ黙ってヴィセへ居場所を提供した。そういうところがある人だった。
 ヴィセの繰る古アーゼン語と日本語は基本が似ているらしく、彼は一度コツを掴むと見る間に成長していった。一年も経たず、ほとんど違和感がないほど日本語が上手くなった。もちろん今でも時々発音がおかしくなることはあるが、どこかの方言だと思われる程度だ。
 そんな彼女のささやきを拾って、真彦が意地悪く口元を歪める。
「やー? 年が年だから、結構かかるんじゃね? ヴィセさん、ほっんとカタコトだもんなー」
「ひどいなぁ、これでも頑張ってるんだよ」
 いびられているのが分かっていないのか、それとも気にしていないのか。ヴィセはのほほんと苦笑いしている。
 アイがパンの籠をテーブルにドンと置きながら、真彦をじろりとねめつけた。
「バカ彦ー。今、さり気なくお父さんが若くないって言ったでしょ」
「言ってませーん。ヴィセさんは永遠の二十代でーす」
「あっはっは」
 ヴィセの気楽な笑い声が皆の笑いを誘って、場の空気が軽く穏やかなものになる。
「――ってわけで」
 それを引き締めるように、真彦が一つ手を叩いた。
 それから一人台所で佇んでいたスウへ向けて、指先でちょいちょいと手招きする。
「早いとこ食べない? ビールって温くなるとまずいじゃん」
 ビールしか飲まないつもりでいる彼へ、アイの平手が飛んだ。気持ちのいい音だった。



 久々のアイの手料理は本当においしくて、スウは感動すらした。
 歯ごたえの良いサラダは自家製のレモンドレッシングが最高だ。強い酸味と甘み。さっぱりとしていながら、濃厚なオイルが味に深みを出している。ホワイトシチューも具がとろけるほど煮込まれていて、鶏肉が口の中でほろほろと崩れた。甘みのきいた味がジャガイモの芯まで沁み込んでいる。
「おいしい……」
 カリカリのフランスパンを齧りながら、スウは何度も呟く。ヴィセさんの手前、あまり無駄なことは言わないように努めていたが、アイの手料理を食べて黙っていられるはずがない。
 スウの素直な賛美に、アイは機嫌を良くして調子に乗る。
「さすがアイちゃんでしょ。褒めよ称えよ崇めよ畏れよ〜」
「はいはい」
 それを呆れ半分でなだめるスウ。
 慎重にシチューの鶏肉を探し当てていた真彦が手を止めて、意地悪く笑う。
「恐れよってのは正解だな」
「真彦あとで覚悟なさい」
 アイの声色は、真彦を相手にするときだけクールだ。
「?」
 一人意味が分からなさそうに微笑んでいるヴィセ。彼はこういった言葉遊びが苦手だった。それに気付いたスウが助け舟を出そうとして口を開き、我に返ってまたつぐんだ。
 その不自然な動きが、殺伐とじゃれ合っていた二人の目に止まる。
 不思議そうな二つの視線を向けられたが、スウはあいまいに笑って済ませた。ヴィセもただ静かに笑みを浮かべている。
 わずかに不満そうな顔をして、アイが黙り込んだ。不意におとなしくなって、自分の皿をつつき出す。
 真彦はそれでもなお不思議そうに様子を窺っていたが、肩をすくめるとビールを一口含み、テレビのチャンネルをつける。
 テレビの中では若手のお笑い芸人が漫才をしていた。早口すぎて意味が分からない。まるで外国語だ。
 しばらく見ていると、CMに変わった。
 途端にチャンネルが変えられ、今度は歌謡番組に変わる。
 見ると、真彦が片手にテレビのリモコンを持ったまま、忙しなく番組を変えていた。お気に召すものがないのか、初めから内容など見ていないのか、CMのたびに素早くボタンを押す。
 結局、抑揚のないキャスターが出ている国営放送にされた。
 彼はそれで満足したらしく、チャンネルを放るように置くとシチューをかき回していた手を止め、タバコを吸い始めた。
 アイが嫌そうに顔をしかめる。
 けれど真彦は虚ろな視線を皿の上に注ぐばかり。何かを考えている。
 いっそ、スウから話しかけようとした時だ。
 ふっと白い煙を吐いて、真彦が唐突に話を振った。
「咲は元気にしてるよ。今、色々と忙しいみたいだけど」
「……ん」
 自分に向けられたものだと気付くのに、少しかかった。
 視界の端で、アイの顔からゆっくりと表情が消えた。ヴィセさんが心配げな視線を送る。真彦は視線を上げず指先でシガレットを弄んでいる。
 スウがこちらへ戻ってきて、数ヶ月が経っている。その間、咲坂とは一度として連絡を取っていない。
 でも、話は聞いていた。
「あ、そ。スウ、デザートのお代わりあるよ。持ってきてあげる」
「ん、ありがと」
 アイが冷ややかに言い放ち、席を立った。
 気を使わせてしまった。
 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 でも、この場の空気を打破する気力がなかった。自分を包んで放さない疲労感が、何かを言おうとするのを妨げる。
 彼女は真彦へ弱く微笑みを返す。
 スウが帰ってきたとき、咲坂は婚約していた。
 相手は同じモデルの女性。スウも面識がある、とても綺麗で素敵な人。自分などよりも、とってもお似合い。

 ……子供が出来たのも、喜ばしいことだ。
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