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 久しぶりにアイと二人で夕飯の準備に取り掛かった。
 おじさんの家では台所に立つことが許されなかったので、ちょっと浮かれてしまう。幼い頃に母親の手伝いをしたのを思い出す。まだ母が自分と一緒に暮らしていた頃だ。今ではもう、遠い昔のことだけれど。
 久々に触る包丁は重かった。真っ直ぐに下ろしたつもりが、斜めにスライスされていく。久しぶりだからと気に止めずにいたのが悪かったのか、二度ほど手を切りそうになった。
 そんなスウをアイはハラハラしながら見守っていたが、すぐに自分がやった方が早いと気付いたらしい。三度目に手を切りそうになった時点で包丁を奪われてしまった。
 アイの手は高速で野菜を切り刻んでいく。スウには一生真似できない芸当だ。
「ほんとにもう。砂糖と塩は間違える、小麦粉とも間違える、トーストを焼けばパンを燃やし、電子レンジを爆発させる……」
 スウの失敗をぶつぶつと並べ立てるアイ。
「修行の成果、ないじゃない!」
 きっとこちらを見据えられて、スウは一歩退く。顔が勝手に笑みを作った。ずいぶんと引きつってしまった。
 頭の中で三回修行という言葉を繰り返し、やっとその意味を掴む。
「修行? それってこの半年間、私が居なかった理由?」
 スウはこの数ヶ月間、自分がどこにいたのかアイに教えていない。電話越しで事情を伝えるのも難しかったのもあるが、絶対に信じてもらえないという自信があった。もし自分が異世界に居たなどと言い出したら、彼女はきっと季節外れのインフルエンザを心配するだろう。
 スウもいずれは真実を話さなければと思っていた。アイはスウの失踪を知っている。ヴィセが学校関係に話した、おじさんの家に居たという説明では納得しないだろう。
 なぜ突然行ってしまったのか、一言教えてくれなかったのか、どうしていつまでも連絡をくれなかったのか、何を思っていなくなったのか……。ヒステリックな質問攻めに合うのは目に見えていた。
 けれどまだ、あのことはスウの中でも整理がついていない。
 あの時のことを思い出そうとすると勝手に涙がこみ上げてきて、一言も喋れなくなる。何か大切なものが頭の中でぐるぐると回って、考えがまとまらない。何も考えられなくなる。この現象はおじさんを閉口させ、黙ってあの家に留まることを許可させたが、アイには見せたくなかった。
 それでも、このままではいられない。いずれ自分の中で決着をつけなければならないことだ。しかしそれにはもっと時間が必要だった。
 それにしても修行とはまた、とんでもない理由をでっち上げられたものだ。
 ぽかんとしたまま動かないスウへ向かって、アイは自信満々にウインクした。長いまつげが機敏に動く。
「ただの修行じゃないわ。ユーラシア大陸料理修行の旅よ」
「……え」
 スウはそのまま、更にたっぷり十秒停止した。
 その間にアイは必要な野菜を全てきり終える。
「ヴィセさん、そんな説明してた?」
 言いながらそれはありえないと思った。ヴィセはこの数ヶ月、スウへ自分からその話を持ち出そうとしていない。愛娘にも同じ態度のはずだ。
「ううん。お父さんはなんにも教えてくれないから、あたしが勝手に決めたの。世界中のレアな香辛料を求めて、この半年間、スウは野を越え山を越え、日本海をポーンと越えてきたわけよ」
 けろりと持論を押し付けられた。実際飛んだのは海ではなく、時空だったが。
 アイはしばしば自分の勝手な発想で物事を済ましてしまう癖があるが、これもその類なのだろうか。
 それとも、ここは暗に深く追求しないと言ってくれているのか。
 スウは三回瞬きを繰り返してから、アイの真意を計るべく首を傾げる。
「……私にそんなことができると思う?」
 言いながら、じっとアイの瞳の奥を見詰める。
 一瞬の間を置いて、アイはにんまりと自信満々の笑みを浮かべた。大きな瞳が自信に溢れて、きらきらと輝いている。
 視線を交わして意思疎通。
「まっさか!!」
 背中をバンと叩かれた。
「だよね」
 二人は同時に声をあげて笑う。軽やかな少女達の笑い声が響いた。
 声が収まった頃、玄関の戸が開く音がした。
「チーッス」
 慣れた男性の声がして、誰かがこちらへ向かう足音がする。スリッパを擦るやる気のない歩き方に、なんとなく聞き覚えがあった。
 スウが思い出す前に、長身の青年がひょいと台所へ顔を覗かせた。黒いワイシャツに黒いスラックス、黒髪を無造作に散らしてあちこちへハネさせている。全身黒一色だ。
 一瞬、誰か分からなくてうろたえたが、その整った顔立ちとキツめの目元には見覚えがあった。
「……真彦さん?」
 数回、目をしばたたかせる。
 間違いない。咲坂の友人、真彦だ。ヴィセの立ち上げたブランド『ヴィクトリアン・ローズ』の専属モデルでもある。ちょっと見ない間に髪形が変わっていたので、ぱっと見で誰だか分からなかった。
 彼はスウに目を止めると、整った眉を軽く上げた。すぐにへらっと笑いかけて、手を振る。
「お、崇ちゃんだ。久しぶり〜」
 なんという無邪気な反応。
 どう考えてもここは大げさに驚いて、一気に質問攻めへなだれ込む場所だろう。この気軽さは、せいぜい一週間ほど会っていない相手へ示すもの。それも何の変化もない、普通の相手に、だ。
 予想外の反応にどう接するべきか計りかねたスウは、とりあえず小さく笑いかけた。
 その間へアイが割って入る。なぜか包丁を持ったまま。
「また来たわね、偏食魔王・真彦。またの名をヒモ」
 低く牽制を含んだ声。伝わってくるうんざり感と、油断できないという緊張感。
 子連れの猫のようなアイの後ろで、スウは密かに首を傾げた。
 確かに、人懐っこいけれど時々危険なところのある相手だが……。ヒモというと、あの?
「やー、今月厳しくてさあ」
「いつもでしょ。隣だからってウチにタカってないで、大好きなオネエさん達に奢ってもらいなさい」
 この家の財布とも言える少女に冷たくあしらわれて、真彦は軽く頬をかく。考え込むように視線を外した振りをした。思い直すつもりなどこれっぽっちもないくせに。
「んー、いつもはそうしてるんだけどさ。土日は皆、家族サービスに回っちゃうわけよ。ほら、休みの日ぐらい旦那と子供さんに譲ってあげないと」
 年上好みで有名な彼は、未だに悪い癖が抜けていないようだ。
「黙らっしゃい。アンタ、作ったモンに文句言うから嫌いなのよ。好き嫌いは多いし」
「まあ、俺って正直者だからぁ?」
「わー、コイツ、ムカつくぅー。もう恵んでやーらなーい」
 笑みを引きつらせて、アイが意地悪な声を出した。子供っぽく作られた声は童顔な彼女に良く似合っている。憎らしいほど可愛らしく決まった反面、最強にイヤミだ。
 一気に硬化したアイの態度に、慌てたのは真彦。あっさりと手の平を返した。
「わわっ、ちょっと待って」
「却下」
「すんません、アイちゃん最高! 天才! 美少女! ねえ、俺ってちょっとお茶目なの」
 こういう場合によくあるように、アイは聞こえるのに聞こえない振りをした。腕を組んでそっぽを向き、取り合おうとしない。
 それでも両手を合わせて腰低く頼み込む真彦。まるで浮気がばれた夫が平謝りしているみたいだ。ただ違うのは、彼がとんでもなく顔が良いということ。
 スウが知る中で、真彦は最も目鼻立ちが整っている。もちろんモデルに相応しく、プロポーションも完璧に維持されていた。もし彼の顔を知らなかったら、きっと紳士モードの第一王位継承者に篭絡されていたのだろうと思う。
「そこをなんとか、ね? 給料日来週なわけ」
 そんな美形が甘えるようにじっと見詰めるのだ。言っている内容はともかくとして。
「しょうがないヤツ。……ったく、何に使い込んでるんだか」
 このきらびやかな懐柔策に、さすがのアイも折れた。もっとも、彼女は相手の顔に騙されたわけではない。この男がそう簡単に諦めるはずがないということを、良く知っている。
 これ以上関わるのは時間の無駄とばかり、アイはぷいと踵を返してまな板へ向かう。
 スウもその後に続こうとして、真彦にひょいと引っ張られた。
 肩を掴まれて、くるりと体の方向を変えられる。
 予想より近くに、彼の端正な顔が待ち構えていた。
 切れ長の目元は少しキツめで野生的。正面から見ると左右のつくりが完全に等しいことが分かる。なにより、彼の持つ自信がその魅力をいっそう引き立てている。
 じっと瞳の奥を見据えられて、不覚にも内心焦る。前々からカッコイイ人だとは知っていたが、会わないうちにいっそう精悍になった気がする。
 覗き込む瞳はそのままに、真彦は口の端をにっと吊り上げる。不敵で大胆な笑い方をする。
「いいね、その髪色」
「そう?」
 視線を外して、スウは意図的に平静を装った。
「ああ。大人っぽくなったよ」
「…………」
 つまり、老け込んだと言いたいわけか。呆れとむっとした気分が混ざって、スウは複雑な無表情になる。
 その顎を彼の骨ばった指が掴む。爪の先まで丁寧に整えられているのは仕事柄。
「でもさ」
 指先が頬のラインをゆっりとなぞる。
 慣れた指使いに体が硬直した。
 そんな彼女が面白くてたまらないと、真彦はいたずらじみて瞳をきらめかせる。普段は見せない加虐者の笑み。
「顔の産毛を脱色するのは、おススメしないかな」
 ぱっと手を払った。
 とっさに一歩下がって、相手から距離を取る。
 気を強く持ち直して、自分を落ち着かせた。息をついて、きつく相手を見据える。
 この男は、スウの髪が脱色でないことを見抜いている。
 今の自分は眉もまつげも完璧に描かれている。これならばぱっと見、若気の至りでちょっと脱色しすぎちゃった日本人だ。
 にもかかわらず、言葉の裏へ『気付いてるよ』と添えられた。
 スウは軽い憤りに敵意寸前の視線を向ける。
「……これからは、気をつけます」
「ちょっとバカ彦ナニやってんの!」
 搾り出した声よりも、被せられたアイの怒声の方が強かった。
 アイはスウを守るように立ちふさがり、ぶんぶんと腕を振って真彦に突きつけている。その手には握り締められた出刃包丁。左手にはアイスピック。さっきよりも装備品が強化されている。というか、何を作っていたのか。
 さすがに危険を感じたらしく、真彦が半笑いでそろそろと下がった。
「や、ちょっとふざけただけじゃん? 久々のご挨拶ですヨ」
 両手を胸の前で掲げて、青年は小さく降伏のポーズ。
「アンタみたいなヤツに触らせるスウはないのよ。覚えときなさい!」
「いえっさ」
 真彦は息巻くアイを軽く流して、スウへ焦点を合わせた。意地の悪い笑みとわずかに細められた目元が、一瞬でスウを捉える。
「……ところでアイ、崇ちゃんちょっと変わったことね?」
「はあ? 今更何言ってんの」
 アイが頭に血を昇らせたまま、鼻で笑う。見れば分かるというように。
 けれど、真彦はそれでもめげずにけろりと告げる。
「痩せたじゃん。特に、こ・の・へ・ん」
「死ね! エロ彦!」
 わざわざ手で示す彼へ、アイのアイスピックが飛ぶ。
「わーっ、アイやめてー!」
 出刃包丁まで投げようとしているアイをなんとか羽交い絞めにしながら、スウは本日何度目かの溜息をついた。
 そうだった。
 こっちでは、毎日がこんな風だった。
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