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一章   遅すぎた帰還



 貴方の言葉が 思いが 存在が
 私の腕を絡め取り 私の足を引き掴む
 けれど手は届かず 小さな傷を刻むだけ

 確かに花は咲いた
 私は手折り 口元に月を浮かべてみせる
 それは嘘 貴方は気付いていたけれど

 歩む道は二重螺旋 巡り巡る二人の影
 差し伸べられた手を 伏し目がちに否定したのは誰
 手折られた花は 花びらを散らせて逃げていった

 心の奥へ







 縁側でうたた寝をしていた佳川 崇は、唐突な電話のベルに起こされた。
 目を開くと、ぼやけた視界の焦点が合う。
 緑の草原に、伸びすぎた野菜の生えた畝。葱の葉がぐったりと頭を下げている。日差しは温かく、小さな蝶が羽根を細かくひらめかせていた。
 ……どこだっけ。
 自分の家ではない。向かいにそびえる山脈は、彼女の育った街ではお目にかかれない代物だ。もちろん、あの場所でも。
 おっとりと首を巡らせると、意識が覚醒し始めた。景色が鮮明になり、涼やかな風が肌へ触れる。新緑と、朝霧の残り香を混ぜ込んだ空気。昇りきらない太陽に目が眩んだ。
 そうだった。
 手をかざして空を見上げる。
 ここは、田舎のおじさんの家。


 あれから。
 スウは親戚のおじさんの家へ滞在していた。
 山中にひっそりと佇むこの家は、十年前と何も変わっていない。世間の喧騒からぽっかりと外れて、のどかな毎日を繰り返すだけ。日が昇り、霧が晴れ、木々がざわめき、風が吹き抜け日が暮れる。ゆったりと流れる時間は決して彼女を焦らせず、寄り添うように癒してくれた。
 けれど、それはここだけの話。
 テレビが伝える世の中の状況は、混迷の一途を辿っていた。
 あの日。スウが帰ってきた瞬間に起こった地震は、凄まじい規模のものだった。
 震度が、被害がという話ではない。もちろん被害は甚大だったが、それには理由がある。
 世界中のあらゆる国、あらゆる地域で――理論上、地震など起こるはずのない場所でも――大地震が起きたのだ。
 アメリカ、アフリカ、ユーラシア、オーストラリア、南極の五大大陸のみならず、海中までもを震源として、地球全体が激震した。それはまるで、誰かが設置したまま忘れていた爆弾を、スイッチ一つで起爆したような有様だった。「地球が二つになるかと思った」と言って、どこかの市長が非難されたほどだ。
 そして、連日連夜報道される、壊滅した都市。
 見慣れた高層ビルが倒れ、隣のビルに突き刺さっている。横倒れになった高速道路。ひっくり返ったトラック。避難所生活を続ける被災者。政府の不備を訴える人々。厳しい顔が板についてしまった各国首脳。斜めに傾いだタワーの映像は、この地震を象徴するものとなった。
 それから数ヶ月、今では地震そのものの被害は大方復旧されてきた。けれど、それで終わりではない。地震から起こった津波、地割れ、土砂崩れ、浸水、治安悪化、感染症……。二次、三次的被害が、世界中で今なお続いている。
 それらを見るたびに、彼女は震えが止まらなくなる。
 目の前で瓦礫の山と化しているのは全て、自分が求め、選んだ故郷だ。
『お前には、失望した』
 思い出される、地響きを含んだ低い声。
 この場所へ戻った彼女へ言い渡された、死刑宣告にも似た言葉。
 自分の帰還は、誰かに対する裏切り行為だったのだろうか。
 あれから声は一度としてない。まるで、スウへの興味を失ってしまったかのように。



 いつものごとく物思いにとり憑かれた彼女へ、傍らの猫が呆れたように鳴いた。
 我に返ると、ベルの不快な音が耳へ飛び込んでくる。
 そうだ、電話。
 けたたましい金属音が彼女を急かした。おじさんの家では昔ながらの黒電話を使っている。縁側の床をとたとたと鳴らし、受話器を取ってやかましい音を黙らせた。
「はい、佳川です」
 言ってしまってから失敗に気付く。ここは自分の家じゃない。おじさんの家なのだから、おじさんの名を名乗らねば。
 けれど、受話器の向こうの相手はそんなことを気にしなかった。
「あ、スウちゃん? 元気にしてたかい?」
 温かく、どこか無邪気な話し声。年のわりに若々しい相手は、懐かしいフレーズを耳へ届ける。
「ヴィセさん……」
 幼なじみの父親、ヴィセだ。
 一応、佐藤小太郎という名前を持っているが、誰も呼ばない。みんな、彼の運営するブランド『ヴィクトリアンローズ(Victorian Rose)』の始めと終わりを取って、「ヴィセ(Vise)」と呼ぶ。でもスウは、彼がこちらで仕事を始める前からその名で呼んでいた。
「久しぶり。あれからどう? 変わったことはない?」
「はい、何も」
 地震の瞬間に傍らに居た彼は、とうに街へ戻っている。
 この家に残ったスウと違い、ヴィセは翌日にこの場所を発った。愛娘の無事が心配だと苦笑した横顔をよく覚えている。彼は何かを振り切るようにして、一度も振り向かずに去っていった。
 後でおじさんから、街まではほとんどが徒歩だと聞いた。バスも電車も止まってしまっている中、それでも街へ向かったのは、娘への想いと、この場所へ留まることそれ自体を良しとしない彼の意思の現れだろう。
 スウ自身、気付いている。
 この場所は重すぎる。
「こっちはもう、ほとんど前と変わりないよ。アイも元気に学校へ行っているし」
 ヴィセは温かな声で娘の近況を告げた。耳元に届く穏やかな声色から、彼がいつも通りのとぼけたような笑顔でいることが分かる。
「アイ……そっか、学校」
 アイとはヴィセの愛娘の名前だ。氏名は佐藤 アイ。スウを親友だと豪語する、勝気で料理の上手な女の子。小さな女の子らしい容姿と、容赦ない毒舌の持ち主だ。最大の欠点は、極度のファザコンということ。
 幼なじみの記憶に引きずられて、スウは自分の立場を思い出した。
 あそこに居た頃も合わせると、彼女が無断欠席を続けてかなりの時が経っていた。地震で休校になったと聞いたが、そろそろ解かれているはずだ。
「うん。もともとあの高校は大した被害を受けてなかったけどね。耐震設計もバッチリだったから。開校して三ヶ月になるかな」
「わあ、もしかして私、もう三年生になってる?」
 壁にかけられた日めくりカレンダーを見て、飛び上がる。とっくに新学期が始まっていた。
 不思議なことに、本来なら出席日数が足りなくなっているはずの自分も、災害のごたごたに紛れて進級できてしまった。地震で後半の欠席がカウントされなかったからだそうだ。
 けれど、スウはそれだけでないことも知っている。おそらく、ヴィセさんに学校の理事と繋がりがあったことが関係しているのだ。
 私大付属の高校は某有名企業を母体としている。そこの上層部とヴィセさんは親しい。仕事上の付き合いがあるというだけでなく、私生活でもちょこちょこやりとりをしていた。
 直接彼が何かを言ってきたことはなかったが、スウはなんとなくヴィセのおかげだと思っている。
 ふと気付くと、おじさんの飼い猫が足元でちょこんと座り込み、こちらを見上げていた。ひょいと抱えあげて、喉元を撫でてやる。猫はごろごろと気持ちよさそうに目を細めた。
「ヴィセさんもお仕事は順調ですか」
 何気なく話題を変えると、彼は受話器の向こうで軽く苦笑した。
「うん、まあね。以前ほどがむしゃらに無茶をしなくても、なんとかやっていけるようになったかな」
 彼は身一つでブランドを立ち上げた、実力派デザイナーだ。アジアのテイストを生かしたデザインもさることながら、その色彩感覚がずば抜けている。全体を調和させた上でポイントを生かすアーゼン人独特のセンスが、この世界でも受けたらしい。
 そう、彼はこの世界の住人ではない。
 スウが知るもう一つの世界、不思議な髪色の人間が魔法を使う世界の人間だ。
 しかも、能天気な彼からは想像もつかないが、アーゼンという国の国王陛下だった。
 代々アーゼンの国王は『宿詞』という特別な魔法の使い手で、異世界では最大の脅威として畏れ敬われている。
 宿詞は言葉を発するだけで全ての物事をその通りにさせてしまう魔法で、他のどんな魔法もかなわない、最強の力だ。彼の言葉一つで何百という人間の生死が左右され、天候すらも言うがままになるという。
 知らなかったとはいえ、そんな相手と失礼なほど親しくしてきたスウは、事実を知るや内心冷や汗をかいたものだ。ヴィセが温和な性格で本当に良かった。
 彼はスウの考えなどいざ知らず、受話器の向こうでからりと笑い声をあげた。
「いやー、でもこの前ちょっとしたミスをやっちゃって、ずいぶん叱られちゃってねぇ。なかなか上手くいかないものだよ、あっはっは」
 あちらでは絶対の力を持つ宿詞も、こちらではただの声。ヴィセもまた、ただの人。
 スウは相手には見えないにもかかわらず、笑みを浮かべて受話器を肩と頭で挟んだ。両手で猫を抱え直す。
 だから、危うく受話器を落とすところだった。
「ねえ、スウちゃん」
 相手が一段と低く、声を下げたからだ。
「……そろそろ、離れてみないかな」
 声は足踏みするようなためらいを含んでいた。けれど、唐突な問いかけだった。
「え?」
 とっさに聞き返しながら、頭の中では察しがついていた。
 ヴィセもそれを分かっていたのだろう。続ける。
「そこに留まって、あちらの傍に居るのも良いかもしれない。けれど、この世界の流れは速い。君が居なかった間にも、刻々と変化を続けている。もちろん、君自身もね」
「…………」
 かつて、ヴィセが初めてこの世界に現れたとき、彼を見つけて、この家に連れてきたのはスウだった。当時、両親の離婚問題でこの家に預けられていたスウは、言葉の通じない彼を匿い、言葉を教えて過ごした。八歳の頃だった。
 十年前、ヴィセはこの場所に現れた。
 そして自分もまた。
 ならばこの土地は、あの世界と繋がっているのかもしれない。
 そう思えて仕方がなくて、彼女は今でも裏の森を訪れる。閑散とした森は浅く、どこにも不審な点はない。
 何度訪れても変わらぬ有様に、スウはいつも肩を落として溜息をつく。そしていつも自嘲する。
 たとえこの場所が繋がっていたとして、自分は何がしたいのか。
 必死に引き止めるあの子を引き剥がしたのは自分だ。もう、逢ってはならない。逢わない。合わせる顔などない。
 なのにどうして、自分はこの場所に留まっている?
 現状を無視して。
「ねえ、スウちゃん」
 ヴィセはためらいを含んだ優しい声で彼女を促した。
「君には、果たすべき課題があるんじゃないかな」
 知っている。
 自分にはしなければならないことがある。
 喉元をこみ上げる何かに、目を閉じる。
 耳元で、宥めるように猫が鳴いた。



 猫を抱えたまま、片手で障子を開ける。
 おじさんは色あせた藍染の着流しで、畳の上に胡坐をかいていた。机に向かっているのは、仕事をしているから。
 スウが入ってきたことに気付いて、彼は視線のみこちらへ向ける。
「……どうした」
 静かな物言いはいつもの調子。
 黙って微笑みを向け、スウは少し離れた隣に正座する。猫がおとなしく膝の上に丸まった。
 彼女は視線を外さず、口元に少し笑みを含む。
 出来るだけ感情を乗せず、それでも事務的にならないように、肩の力を抜く。自然と流れた声色は、さっぱりと安定していた。
「私、街へ帰ることにしました」
 おじさんは手を止めて、けだるげな視線で彼女を見つめ返した。顔がこちらを向く。
 地震でスウの家は全壊した。帰る家などない。
 それを知っているおじさんは、彼女の真意を測るように瞳の奥を見据える。彼自身は何も考えていないような、どこか茫洋とした視線。
 スウは黙って微笑みを返すだけ。
 ふっと彼の視線が外され、どこかをうろつく。何かを考えるときの、おじさんの癖だ。
 温かい風がゆるりと入りこみ、二人の前髪を揺らして去っていった。
 スウの手だけが静かに猫を撫で続けている。
 長い逡巡を経て、彼の視線が再び彼女へ向けられた。
「……そうか」
 わずかに顎が動いて、おじさんは頷いた。投げやりにも聞こえる低い声。けれどその奥深くには、確かな理解と受容が潜んでいる。
「はい」
 自然と、スウの笑みがもう一段階、深くなった。
 問い詰めることなく許してくれたのは、自分を信頼してくれているから。
 今も、昔も。
 この人はいつも、何も言わなくても、全部受け入れてくれる。
 この場所があるから、自分は大丈夫だと思った。
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