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「……じゃあ」
 レゼが感嘆に合わせて喉を鳴らす。
「異世界では、魔法無しで空が飛べるっていうのか?」
 彼はほとんど身を乗り出している。先程の警戒が嘘のような澄んだ瞳。
 スウの語る異世界の話は三人を心底驚嘆せしめたが、その中でも最も素直に関心を示したのが、このアーゼン王位第一継承者だ。途中まで話半分といった風情を取り繕っていた彼だったが、スウの世界で言う科学がこの世界の魔法以上に有用だと分かった瞬間、ころりと落ちた。
 スウは彼に気付かれないよう笑みを噛み殺した。こうしてみるとやっぱりレゼも年相応というか、デュノの兄というか。好奇心が旺盛なのだろう。
「いいなーヒコウキ。僕も乗りたい!」
「ああ。魔法みたいに使用する人間の制限がないんだ。軍需面での絶大な飛躍に繋がるな!」
 のん気な感想を口にするデュノの隣で、その兄が怖いことを言う。やっぱり年相応とは言い難かった。
 盛り上がる兄弟とは対照的に、一人静かにメモを取り続けていたフェイが溜息に似た吐息をついて顔を上げる。ひどく真面目な表情だ。
「十数時間で世界の裏側へ行けるとは……。魔法技術を使っても、我々には不可能です。だいぶ文明に差があるようですね」
「不入の森に隠匿したくもなるか?」
 不明瞭な呟きに、間髪入れずレゼの鋭い言葉が突き込まれた。彼は自嘲気味に言葉を続ける。
「森に封じて行動を制限した挙句、万一解かれた場合も口を封じて情報を制限する……完璧な対策だな」
「ええ。私が歴代国王の立場だとしても、同じ手段を取ったでしょう。これだけ高度な知識をむやみやたらに流された場合、危険思想の誘発も予想されます。賢者の言葉を封じておくことは、国の安定を思った場合、とても有利に働くでしょうね。……個人の自由を差し置いて、ですが」
 ぼそりと付け足された発想にスウは驚く。個人の自由を守るという考え方がこの世界にあるとは思わなかった。あくまでスウが見た限りだが、この世界は身分制がはっきりとあるらしいし、デュノやレゼを見ても、その範疇から出ていないように思われていたからだ。
 しかし、彼が別の国からやってきたということを考えれば、自然なことなのかもしれない。彼の祖国では数年前に革命が起こり、王制が廃止されたのだという。丁度、西洋で起こった市民革命と同じ過程だ。似たような思想が生まれていてもおかしくない。
「ただ一つ予想外だったことは、デュノの存在でしょう。彼がいる限り、不完全ながら情報は零れていきます」
 フェイはそこで言葉を止め、寄り添う二人へ目を細める。
「彼が存在する今、あなたが現れたことは……偶然なんでしょうかね」
 問いかけは誰に向けられたわけでもなく、空間へ溶けていく。答えはない。その残り香が完全に消え去るまで、皆静かに口を閉ざした。
 その静寂を、手を叩く音が打ち払った。
「とりあえず現状は分かった。それで、スウはどうしたいんだ?」
 真っ直ぐに見据えられる。迷いを認めぬ物言いに、スウはとっさに返事が出来なかった。
「異世界からやってきた。森に閉じ込められて、脱出した。今はデュノについて神殿にいる。……この先は?」
 レゼは不必要に感情を込めることなく言い切った。極めて建設的な問いだった。常に高みを目指す者が、己自身に問う言葉。
 そして、スウが常に思っていた言葉でもある。このままでいいわけがない、と。
「つまりさ、スウは帰りたいわけ?」
 核心を突かれて無意識に口元が歪んだ。
 家を離れて二ヶ月近い。とうに捜索願を出されていることだろう。
 思い出すのは両親の姿。森にいた頃はショックで頭が回らなかったが、彼らが心配していないはずがなかった。
 不器用な父は母と別れた後、娘に対して距離を置くようになった。それは放任ではなく、直接触れ合うことで起きる摩擦を恐れたからだ。遠回しで繊細な愛情だったと思う。
 時々しか会わなかった母は、離れたがゆえに確固とした言葉でもって愛情を示した。彼女の中で、それは言葉で示せるほど確かなものだったのだろう。しかし露骨な愛情は娘にとって、罪悪感がそう言わしめているようにしか見えなかった。見ようともしなかった。
 どうして忘れていたのだろう。失ってから求めたところで、もう遅い。
 ずきりと心臓が収縮した。痛い。
 森から出て数週間が経過している。絶望という分厚いゴムで覆われていた心は、とうにその無愛想な皮を失った。何事も心に刺さらなかったあの頃が嘘のようだ。生々しい肌には簡単に傷がつく。薄れていたはずの記憶が、現実の重さを持って内側へのしかかってくる。
 帰りたい。平淡な日常の待つあの世界へ、今すぐ逃げ帰ってしまいたい。
 聞かれるまでもないことだった。
 でも。
 細い指先の感覚が手の平をくすぐった。繋がれた手を見下ろす。
 今ここでそれを断言することは、この小さな少年を見捨てることではないか?
 逡巡する彼女の代わりに結論を出したのは、他ならぬ少年の方だった。
「帰りたいに決まってるよ。だって、スウには恋人が待ってるんだもの」
 事実を言い切る時のデュノは、いつも容赦がない。
 言われて初めてその存在を思い出したことに、スウは自ら驚いた。
 確かに自分には咲坂という恋人がいて、おそらく彼はスウを待ってくれている。どうしてそれを最初に思い出さなかったのだろう。
 不思議なことに、こちらへやってきた頃はあんなに会いたかった相手なのに、今はそこまで感情を揺さぶられはしなかった。むしろ、当初はろくに考えもしなかった両親の方が、日に日に思いを増している。
 かつては彼に全てを包み込んでもらいたかった。抱きしめて、安心させて、愛していると言ってもらいたかった。孤独も恐怖も忘れて、どっぷりと甘えきってしまいたかった。それを果たしてくれるのは、彼だけだと信じていた。
 でも、それは本当に恋だったのか。渇望から見た幻ではなかったか。
「……はあ?」
 レゼがあからさまに眉を寄せてしかめっ面になった。威嚇の気配はなく、予想外の言葉に自分の耳が信じられないという顔だ。
「なんだよスウ、恋人がいるのか!」
 気圧されつつ頷くと、灰髪の青年は短く溜息をついて肩を落とし、胡乱な視線を弟へ向けた。その目に宿るのは、同情。
「ったく、お前もつくづく……」
 哀れみを込めた声色に、デュノが口を尖らせる。
「何」
「なんでもございません」
「まあ、聖職者の婚姻は認められていませんし、邪推する方がいけないんでしょう」
 フェイがおっとりと首を巡らせた。さすがに大人だけあって、過剰な反応を示すつもりはないらしい。余裕だ。
「ま、スウにはそれが正しい選択かもな」
「デュノはまだ子供ですから」
「……なんか僕、いじめられてる?」
 ようやく空気が読めてきたらしいデュノが不貞腐れる。
 その姿が可愛くて、笑顔が無意識に零れた。頭を撫でてみせると、彼は途端に表情を和らげて目を細める。手の平に残る現実の感触。
 それを無言で見ていたレゼが、不意に片手で少年の髪をかき混ぜるように撫でまわした。
「ちょっと! 子供扱いしないでってば!」
 途端に目じりを上げて抵抗するデュノ。
 そんな弟をレゼは鼻で笑い、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「お前はほんと、バカだなぁ」



 議論を交わす兄達の傍らで、スウの瞼がゆっくりと落ちていく。表情もどこかぼんやりとして、心が入っていないようだ。
「スウ、眠い?」
 デュノは顔を見上げて様子を覗う。日頃夜を寝て過ごさない彼には、この程度の時間などどうということもなかったが、彼女にはそろそろ辛いかもしれない。
 ――少し、眠いかな。
 目をこすって欠伸をする少女へ、フェイがさっと手を差し伸べた。
「では、そろそろおいとましましょうか。話はまた明日、ゆっくりとすれば良いですから」
 スウは頷き、フェイの手を取った。愛想笑いを浮かべる余裕もないのか、長めの瞬きを繰り返し、導かれるまま彼の後をついていく。
 心なしに放れていく指先を握った。
「また、明日ね」
 手が放される。
 スウは微笑んで何かをささやいた。それがどんな言葉なのか、誰にも分からない。
 二人の姿が扉に消えると、レゼが寝台に腰掛け、彼の方へは顔を向けずに目を閉じた。横顔でも渋面が見て取れる。
 デュノは先程からずっと兄の機嫌が悪いことを自覚していた。言葉の端々に裏側を揶揄する刺が出るときは要注意なのだ。八つ当たりで手酷い批判を向けられかねない。
 そうでなくても、レゼはしばしばデュノに対して苛立ちをあらわにする。それが何に起因するのか、自分にはいつも分からない。
 兄があまりに深く考え込んでいるようなので、デュノは声をかけるべきかためらった。
 無意識に首を傾げて、首筋に重い痛みがかかる。あれからだいぶ経つのに、いつまでも体が回復しない。鈍痛を自覚すればするほど、少年の中で小さな疑問が首をもたげた。
「どうしてスウは自分を大切にしないんだろう……」
 零れ出た呟きを兄の呆れ声が跳ね返す。
「はあ? お前がそれを言うか」
 一瞬何を示されたのか分からなくて、ぽかんと兄を見上げる。
「お前だって火の中へ走っていったじゃないか」
「ああ、それは違うよ。危ないとは思ったけど、僕はいつでも出ていけたんだもの。スウの場合はそれと少し違う気がする。……火事の時にスウ、『もういい』って言ったんだ」
 助ける必要はない。生きている必要などないと。
 デュノには今まで思いつきもできなかったが、その言葉の裏には、彼女が自分の命を極端に軽く見ていることがあるのではないか。それが今回のようにいざという時の原動力になっていたのだとしたら。
 突然異なる世界に飛ばされて、森へ閉じ込められ、頼れるのは自分のような力ない少年だけ。他の誰とも交流できずにいた彼女は、生きることに意味を見出せなくなっていたのかもしれない。それはデュノにも馴染みのある思いだ。
 けれどデュノには、だからこそ生きること以外なかった。
 魔法も使えず、何の役にも立たない自分には、ただ生きていくだけが人生の目的で、その副産物が誰の役に立とうが興味はない。司祭だなんだと祭り上げられていることも、聖女に干渉されることも、生きるために必要だから受け入れているにすぎなかった。
 それを彼女は否定する。そんなことが可能なのだろうか。
「今回はその一瞬、お前の命が自分の命より大切だっただけだろうよ。深い考えがあったわけじゃない。そもそも、あの部屋に入ったら死ぬって知らなかったんじゃないか?」
 レゼはあえてとぼけるような口調で返した。けれど、その声色はうっすらと底冷えする冷たさを含んでいた。
「だが、森の時は違うな。お前と同じだったんだ」
 デュノには言われた意味が理解できなかった。同じ? 火事の時の自分と今回のスウが似ていることは分かるが、火事の時の彼女と自分が同じというのは、どういうことだろう。
 目をしばたたかせて兄を見つめた。
「スウは命を捨てたんじゃないんだよ。選ぶことを拒否したんだ。初めから彼女は留まっていただけで、前に進んじゃいなかったんだろうな。留まっていた場所が燃えたから、結果として死を選んだように見えただけだ」
 兄がこちらを振り向き、デュノの目の前で人差し指を立てた。
「選択はいくらでもあったんだぜ。例えばお前を森から出さずに一緒に暮らすとかな。でもスウは何もしなかった。実際のところ、彼女は帰りたかっただけで、この世界の何者とも関わり合うつもりはなかったんじゃないか」
 容赦のない言葉が少年をひどく不快にさせた。気に入らない結論を思考が導き出す前に、感情がその流れを止めさせる。いつもそう。少年の思考は唐突に中断する。
 けれど今回は片割れがその関を打ち破った。
「それはお前にも言えることだろう?」
 兄の視線が少年を射ぬく。ぞっとするほど鋭い視線。明確な苛立ちの形。
「お前は今まで何を選んだ? 自分を放置して聖女の言いなりになってきたのは、まともに生きるつもりがなかったからじゃないか。生きていればそれでいいと思ってたんだろう」
 肩を掴まれて体が硬直する。
 それでいい? それ以上の何を望めというのだろう。
「お前には命を賭してでも叶えたい望みはないのか。一つも? 死ぬとかそういう問題じゃない。お前は、何もしないつもりか?」
「……レゼは僕の何が不満なの」
 絞り出した声が細い。本当に分からなかった。自分には、はじめからまともな生き方などできないというのに。
 兄の表情が苛立ちを強めた。もはや侮蔑すら滲む。
「俺はお前のそういうところが嫌いだよ」
 レゼはデュノを突き放すように手を離し、腕を組んだ。
「できないことと、しないことはまったくの別物だ。望まずにいれば挫折することはない。だが、そんな生き方をして楽しいか? ……どうしてその先を望まないんだ。お前はもう、見付けたんだろう?」
「何を」
「己を超えて優先すべきものだよ」
 答えは一瞬で浮かんだ。
 控えめな笑顔が、柔らかな指先が、心地の良い言葉が足早に脳裏を掠めていく。大切な、そう大切な人。
 今、気付いた。レゼの言葉は常にたった一つの選択を示し続けていた。
 『自分を抱え込んで震えているだけなら、何もできはしない。お前には彼女を守るつもりがあるか。己を捨てることが、できるのか』
 ずっと自分だけを守ってきた。不愉快な外界を心から遮断し、たいした感慨も持たずにいることで不満も痛みも感じないようにしてきた。考えなければ気付かなければ、闇に染まることはない。
 でも、それで守れるのは自分だけ。小さな自分の心だけ。
 今、自分が望むのはその先だ。
 そしてそれを成すには抗わなくてはならない。今のまま膝を折っていれば、そう遠くない未来、彼女はデュノのもとを去っていく。屠られる。
 そんなのは嫌だ。
「……僕にスウが守れるかな」
「そうじゃないだろ」
 うつむきがちな言葉は軽く否定される。それは同時に促しだった。
 顔を上げて兄の顔を見据えた。同じ色の視線が真っ直ぐに重なる。
「スウを、守りたい」
 上擦った声。まるで初めて言葉を発した子供のようだ。
 不思議なことに少しの迷いも感じなかった。自分にとってそれだけが、ただ一つ確かなことだったから。
 一瞬の静寂。
「よく言った」
 兄は表情を崩し、にやりと機嫌のよい笑みを浮かべた。
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